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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ  作者: 織田雪村
第六章

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日本復活⑬ 病と生還

2003年(平成15年)2月下旬


西吉野村 自宅にて


ここ最近の私の最大の関心事は、スティーブの健康問題だった。

彼は2011年10月に亡くなってしまうのだが、原因は癌だった。


私の記憶によれば、医師によって膵臓癌の一種と診断されたはずなのだが、それがこれから半年ほど先、今年の秋なのではなかったか。


しかし彼は、自身の病名を知りながらも「身体にメスを入れたくない」という理由で、外科的治療を拒んだことが結局のところ命取りになったはずなのだ。

食事療法や禅で腫瘍が消えるほど、現実は甘くない。それを彼にどう伝えるかが問題だった。

私はまだスティーブの手腕を必要としているし、せっかくの未来知識なのだ。こんな時に使わずにどうするのか。

私は、青木教授を失ったことを生涯悔やみ続けるだろう。だからこそ、二度と同じ間違いを犯してはならない。


ただし問題は多い。


医者嫌いの彼を、どういう口実で病院に連れて行くのか。これが第一関門だ。そして素直に治療を受けてくれるのか。これが第二関門だ。

ここをクリアすれば、もしかしたら根治が可能かもしれない。


とにかく、悩んでいるばかりでは解決するはずもなく、動くしかない。私は自宅から歩いて10分ほどの距離にある彼の家を訪ね、説得を試みることにした。


コンクリートで舗装された道路を歩いていくが、勾配はかなりきつい。

特にカーブ部分は勾配がきつく感じる。アスファルトで舗装していない理由は、冬季の積雪と凍結に備えるためで、故意にギザギザを付けた路面になっているのだ。


上空を航空機が頻繁に通過していくが、このあたりは航路になっているのだろう。

特区の申請をする際に「既存の航路を妨げない」という条件を呑んでいる。

つまり、この周辺でロケット発射場や、航空宇宙関連施設を作るには高いハードルがあるわけだ。やっぱり和歌山のあそこに作るしかなさそうだなと、ぼんやり考えながら登っていく。


スティーブの自宅がある場所は、私の家から直線で200mほど斜め上に位置しており、距離は近いものの勾配を上る関係上、意外に時間はかかる。


そうして辿り着いた彼の家は斜面を切り拓き、石垣で盛り土をされた土地に建てられており、夫妻で住むには広すぎる。まあそれは我が家も同じなのだが。


私が訪ねた時、彼は縁側であぐらをかいて座禅をしていた。気のせいか以前よりも痩せてきたような気がする。


遠くに見える烏帽子のような形をした稲村ヶ岳は、雪をかぶって白く輝いている。その横は2020年代でも厳格な女人禁制が続いていた修験道の聖地、山上ヶ岳だ。

こういった景色を眺めながら、スティーブが瞑想をするには、この家の立地は最適の場所と言っていいだろう。


私が近付くと彼は目を開け、私を見たが穏やかな眼差しで、最初に出会った時に受けた印象とは雲泥の差だ。


「今日はいい天気だな。それにしても山の中にずっといて飽きないのか?」


そう私が声を掛けると彼は穏やかな表情を崩さず言った。


「そんなことはない。禅の真髄は極められないかもしれないが、あの山を見ていると、不思議と心が落ち着くんだ」


「そうか。……見ているだけじゃつまらないだろう?機会を見てあの山に登るか?あそこは日本の山岳信仰の始まりの地で、1300年以上の歴史を持つ聖地だぞ」


私がそう言うと、彼の目が見開かれた。


「……それは調べたから知っているが、大丈夫なのか?君たちにとって、とても神聖な山なんだろう?外国人の私は入山を断られるのではないのか?」


もしかしたら、これは脈ありだろうか?


「それは誤解だ。信仰目的であれば門は開かれている。だが、どうして君はそう思うんだ?」


「山上ヶ岳は日本で唯一、今でも完全な女人禁制が敷かれていると聞いた。しかも物理的なゲートまであるのだろう?年齢も季節も関係なしに、女性の立ち入りが禁じられているなんて……アメリカじゃ絶対に考えられない」


「スティーブ。それは日本人にとって意味があることだからなんだよ。だがそんな議論をするよりもだ。我々は女性ではないから、外国人であろうとも信仰目的であれば受け入れてくれる」


そうだ。以前に言ったことも、この機会だからついでに彼に教えておこうか。


「君が最初に永平寺を訪れた際に、私は禅宗は日本人の思考に合わせて作り変えられた可能性があると教えただろう?それはまさに、あの山を起源とする山岳信仰の影響なんだ」


自然そのものを神霊視し、厳しい山中での身体修行を重んじてきた日本古来の山岳信仰と、後から伝来した禅宗が接触・融合することで、日本の禅は単なる静的な瞑想宗派ではなく、「大自然の中で宇宙と一体化する」という、より実践的で身体的な宗教スタイルへと再解釈されていったと私は評価している。


「……本当か?そうであれば是非とも行きたいな。だが、言葉の壁ばかりはどうにもならない。トイチロウ、近々あの山に連れて行ってくれないか?」


よし……乗ってきた。


「ああ、構わないよ。ただし……あそこは2000m近い高さのある山だし、難所もある。途中で何かあってもいけないから、大きな病院で健康診断を受けてもらう必要がある。これは登山者全員に昔から課されている義務なんだ」


最後の部分は完全に嘘だが、許してもらおう。


「病院か……正直に言って気が向かないが、聖地を体験するためだ。やむを得んな」


やったぞ、第一関門は突破した!



3月上旬


五條市内に最近完成した大きな病院にスティーブを連れて行った。彼は片言以下としか表現できない日本語しか喋ることができないからで、私が付き添い役だ。


表向きは健康診断なのだが、事前に医者には彼の状態を伝えていたから、実態は精密検査となった。


診断結果は、私の記憶通り。膵臓がんの中でも極めて稀で、進行が比較的遅い「膵神経内分泌腫瘍(Islet Cell Carcinoma)」だった。

ステージは1と診断され、医師からは治療を勧められたのだが、ここからが第二関門だ。


彼は医師から「即座の手術が必要だ」と告げられるや否や、激しい拒絶反応を示したのだ。


「自分の身体を切り刻ませるつもりはない。これは不自然だ。食事と精神の力で、この腫瘍を追い出してみせる」


彼は厳格なフルーツ食と、特殊なハーブ、そして針治療に没頭し始めた。

山中の彼の自宅。私は再び、彼と対峙していた。


「スティーブ、聞くんだ。君の選択は、NeXTのOSを使わずにAppleを再建しようとするくらい無謀なことだ」


「君には分からないだろう!」彼は叫んだ。


「身体は神殿だ。そこにメスを入れるのは冒涜だ。私は自浄作用を信じている!」


こうなっては仕方ない。私は、彼が最も信頼を寄せ、同時に恐れている論理を突きつけることにした。


「いいか、スティーブ。君が今やろうとしているのは、バグだらけのコードを『祈り』で直そうとしているのと同じだ。この腫瘍は君のDNAのコピーミスだ。いわばハードウェアの設計ミスなんだよ。ソフトウェア(精神)でどれだけパッチを当てても、物理的な回路がショートしていれば、システムはクラッシュする」


私はデスクの上に、彼がかつて嫌悪した「中身の洗練されていないPC」の写真を置いた。


「今の君の身体は、この中身がぐちゃぐちゃなPCと同じだ。君は生き方を美しく保とうとしているが、中では異物が熱を発し、回路を焼き切ろうとしている。……手術は『破壊』じゃない。君という最高傑作を維持するための『リペア』なんだ。最先端のレーザーと、君の直感が認める最高の外科医による、究極のデバッグだ」


さらに、私は彼が最も愛した禅の解釈をあえて歪めて伝えた。


「執着を捨てると言ったのは誰だ? 君は『自分の肉体に傷をつけたくない』という、ある種の虚栄心に執着している。その執着こそが、君を死に追いやる。

死を受け入れることが禅なら、生を繋ぐための手段を拒まないこともまた、道ではないのか。メスは仏の剣だ。君の中の不浄を切り離すための儀式なんだよ」


スティーブは窓の外をじっと見つめていた。その手はかすかに震えていた。

彼は死を恐れていたのではない。自分のコントロールが及ばない事態を恐れていたのだ。


「……もし、手術を受けたら。私はいつ仕事に戻れる?」


「医者の話だと3ヶ月だ。3ヶ月で、君は再び世界を驚かせる準備ができる。だが、今、その執着を捨てなければ、君の時間はあと数年で終わる。これから君が世に問おうとしている画期的な新製品も、君が夢想しているすべてのデバイスが繋がる未来も、中途半端なまま誰か別の、美学を持たない人間に引き継がれることになる。君はそれを黙って受け入れるというのか?」


運命の分岐点



2003年5月。


史実より1年以上早く、スティーブはウィップル法(膵頭十二指腸切除術)ではない、より低侵襲な、しかし確実な腫瘍切除手術を受けることに同意した。

術後の経過は良好だった。

早期発見、そして何より本人の拒絶期間を数週間に短縮できたことが功を奏した。癌はリンパ節に転移しておらず、肝臓にも異常は見られなかった。


病室で、酸素マスクを外したばかりの彼は、私を見て弱々しく笑った。


「最悪だったよ。身体の中をMacのプロトタイプみたいにいじり回されて……だが、認めるよ。あのままだと、私はもっとひどい状態になっていただろう」


「これからの10年……いや、それ以上の時間を、君は手に入れたんだ。スティーブ」


私は確信していた。

この改変された歴史の中で、iPhoneの登場は早まり、彼が2011年にこの世を去ることもない。


iCloudの完成を見届ける。この地に永住するだろうから、Apple Parkはおそらく建設されないだろう。だがもしかしたら、彼は「死」という最後の壁さえも、テクノロジーと美学で再定義しようとするかもしれない。

私は病室を出て、5月の突き抜けるような青空を見上げた。


2011年のその先。

スティーブが生きている世界。

そこにはどんな「One more thing...」が待っているのだろうか。


この早期発見・早期治療のルートを維持するためには、術後の免疫療法への理解も必要となる。彼が再び「極端な食事療法」に偏りすぎないよう、次は「栄養学を科学的にデザインする」という名目で、専属のシェフと栄養学者をチームに入れる提案をしたい。


世間では次世代のミュージックプレイヤー、iPodの大成功が囁かれ始め、Appleがまさに「再定義」されようとしている熱狂のただ中にある。

しかし、私の頭の中にあるのは、iPodの売上でも、ましてや今秋発表されるであろうiTunes Music Storeの展望でもない。彼の健康を維持し続けることだった。


そうだ。彼との約束を果たさねばならない。大峰山での修験道の体験だ。その次は大峰奥駆け道に挑戦するのもいいだろう。

彼の人生観に与える影響がどんなものなのか。


我々にとってプラスになることを祈ろう。

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― 新着の感想 ―
確かに癌はコピーをしくじった欠損ファイルみたいな物だわな。 しかも自己増殖機能付き
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