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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ。   作者: 織田雪村
第五章

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覇王への道⑩ ARM買収

1998年(平成10年)6月中旬 ケンブリッジ イングランド


イギリスの空は、北米大陸とは別種の重さを持っていた。


シアトルの雨が新興勢力の瑞々しさを孕んでいるとすれば、ケンブリッジのそれは、数世紀にわたる歴史が堆積した重厚な湿り気だ。

霧雨に濡れた石畳、煤けた古い煉瓦の匂い。かつて「陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた栄光の記憶を引きずりながら、緩やかに、しかし確実に衰退を受け入れつつある国特有の、諦念の空気が街全体を覆っていた。


ロンドン中心部から北東へ約80km離れたケンブリッジ近郊。


ARMホールディングス本社の外観は、驚くほど控えめだった。

世界を揺るがすようなテクノロジー企業というよりは、地方都市の設計事務所のような佇まいだ。看板も小さく、通りすがりの誰もが、ここが近い将来において、世界の半導体地図を塗り替える「心臓」になるとは思わないだろう。


「兄さん……正直に言っていいですか?」


会議室に通される直前、廊下の隅で小二郎が小声で囁いた。

彼の顔には、隠しきれない困惑が浮かんでいた。隣に立つ寧音も似たような表情だった。


「シアトルのAmazonでも感じましたけど、シリコンバレーあたりの熱気に比べると、ここはあまりに地味すぎます。CPUの設計図を売るだけの会社ですか?自社工場も持たず、チップ一枚焼かない。しかも上場したばかりで、株価だってまだ落ち着いていない。こんな時期に乗り込んで、どう話をつけるつもりですか?」


私は立ち止まり、曇った窓の向こうを見つめた。

そこには歩く人々の日常がある。彼らが手にしている携帯電話は、まだ分厚く、機能も限定的だ。だが、私はその先の景色を見ている。


「小二郎、派手な者たちが世界を支配するとは限らない。ARMは、戦場そのものを作っているわけじゃない。彼らは『勝者が必ず通らなければならない道』を押さえているんだ。つまり関所だよ。どんな英雄が、どんな豪華な馬車で通りかかろうと、ここを通らなければ先には進めない」


会議室の重い扉が開くと、そこにはARMの経営陣が揃っていた。

彼らの佇まいは、アメリカのテック企業のような攻撃的な自信とは無縁だった。慎重で、礼儀正しく、しかしその奥底には、自分たちが守ってきた技術に対する頑固なまでの自負が潜んでいる。それは、中世の職人が持つ矜持に近い。


CEOが、淹れたての紅茶を一口含んでから、静かに切り出した。


「日本から、しかもこれほどの規模のご提案を持って来られたことには敬意を表する。しかし……正直に申し上げよう。我々は、どこかの傘下に入ることで、我々の『中立性』が失われることを何よりも恐れている。我々は特定のメーカーの走狗ではない。独立性。それがARMの生命線なのだ」


「当然だろうね」


私は、用意していた資料には目もくれず、CEOの眼を真っ直ぐに見据えた。


「私が望んでいるのは支配ではない。安定した筆頭株主として、ここに静かに座ることだ」


CEOの眉がわずかに動いた。「支配」という言葉を待ち構えていたのだろう。その言葉が来なかった。


「上場からまだ二ヶ月も経っていない。市場は今、ARMを値踏みしている。四半期ごとの業績に苛立ち、株価の乱高下に一喜一憂するような株主が、この先どれだけ増えるか、想像してみるといい」


私はテーブルの上に、一枚の殴り書きの図を置いた。

中央にARMがあり、そこから無数の矢印が、携帯電話、PDA、車載機器、家電、そして当時はまだ概念すら希薄だった「スマートデバイス」へと伸びている。


「あなたたちがやろうとしていることは、数年単位では評価できない。人類のあらゆる機器に、あなたたちの設計思想を血液として流し込む仕事だ。そのための研究開発は、四半期ごとの利益計算には馴染まないんだ。だが、そういう時間軸で動けない株主が増えれば、経営判断は少しずつ歪んでいく」


「……おっしゃる意味は、理解できる」


CEOは静かに応じた。


「しかし、安定株主を名乗る者が、後から経営に介入してきた例は枚挙にいとまがない」


「そうだろうね」


私はうなずいた。反論はしなかった。


「だから条件をはっきりさせておきたい。設計思想には触れない。ライセンスモデルも、製造パートナーの選定も、君たちの自由だ。私が株主として望むのは一つだけ、この会社が短期的な市場圧力に屈して針路を曲げないための、時間的な余裕だ」


会議室の空気が、静かに変質した。

数名の技術担当役員が、互いに目を見交わす。彼らが最も恐れていたのは「大株主による技術の私物化」だったが、私はその逆の技術を守るための盾を提示していたからだろう。


「世界は、PCという重い鎖から解き放たれる。しかし、人類は『計算』からは逃げられない。その時、必要とされるのは力ではなく、効率だ。低消費電力でシンプル、そして無限の拡張性。あなたたちの設計思想こそが、地球上のすべての電子機器に染み込む血液になるが、それには、おそらく20年かかるだろう」


「20年」と、CEOは繰り返した。確認というより、その重さを口の中で量るような呟きだった。


「私はその20年を、あなたたちと一緒に待てる。市場にはそれができない。だから私がここにいる意味がある。そう思わないか?」


沈黙が流れた。

それは拒絶ではなく、あまりに長い時間軸を提示された者が、それを飲み込むために必要な沈黙だった。

隣で小二郎が、抑えた声で日本語を用いて割り込んできた。


「兄さん……投資回収まで20年、ということは、つまり……」


「構わないさ」


私は小二郎と同じような声音で、しかし視線はCEOに据えたまま答えた。


「小二郎、金が集まってくる場所を今ここで作っている。先に場所を作れば、金は後からついてくる」


CEOがゆっくりと立ち上がり、机を回って私の前に立った。

彼の眼差しからは、先ほどまでの警戒心が消え、代わりに、長い道のりを共に歩く可能性を検討し始めた男の、慎重な光が宿っていた。


「……具体的な出資比率と、株主間協定の骨格を、文書で提示してもらいたい」


「もちろんだ」


私は内ポケットから、一枚の折り畳まれた紙を取り出した。

弁護士を通さずに書いた、私自身の言葉による覚書だった。


「まずこれを読んでほしい。法的文書はその後でいい。私が何を考えているか、あなた自身の目で確かめてから、判断してくれ」


CEOは紙を受け取り、広げた。

読みながら、その表情が少しずつほぐれていくのが見えた。やがて彼は、小さく息を吐いた。


「……あなたは、我々の株主になりに来たのではない」


彼は静かに言った。


「我々がやろうとしていることの、最初の理解者になりに来たんだね」


「その通りだ」


差し出された手。それを力強く握り返した瞬間、私の脳内には、目に見えない巨大なネットワークの地図が完成していた。

これでピースは揃った。


Googleが、全人類の『思考と記憶』を検索という名で支配する。

Amazonが、物理的な『流通と購買』を支配する。

NVIDIAが、膨大なデータの『演算と視覚』を加速させる。


ならば、ARMは、それらすべての巨人を繋ぎ、情報を運び、末端まで命を吹き込む「毛細血管」になる。彼らがどれほど巨大化しようとも、血管がなければ一歩も動くことはできない。


ロンドンの霧雨は、相変わらず止む気配を見せなかった。

しかし、この街の片隅にある質素な会議室で、21世紀に登場するほぼすべての電子機器の運命が、静かに、そして決定的に書き換えられたことを確信した。


そして、その「支配者」が東洋の小さな島国から来た一人の男であることさえ、歴史が証明するまでには、まだ長い時間が必要となるだろう。


「兄さん、日本に帰りましょう」


小二郎が促す。私は最後にもう一度、ARMの看板を振り返った。

そこには、世界のすべての場所に偏在する、静かなる覇者の胎動が聞こえるようだった。


「そうだな、帰ろうか。次は、この血管に流す『魂』を探しに行く」


魂は日本に存在しなくてはならない。そうでなければ意味がない。

石畳を叩く靴音が、ロンドンの夜に吸い込まれていった。



帰国した我々を待ち受けていたのは、またしても政治家と官僚たちだった。

今回は空港で待ち受け、拉致紛いの強行手段を取るのではなく、日時を決めて出頭せよという半ば命令に近いものだった。


呼び出しには通産省だけでなく、大蔵省も加わっていた。かつて私が在籍していたあの伏魔殿のような場所が絡んできたのだ。


アメリカだけではなく、イギリスにまで触手を伸ばしたのが許せないという話だろうと予想した。

実に下らない。なぜ政治屋や小役人にお伺いを立てる必要があるんだ?話を通したとして、最後まで責任を取ってくれるのか?


だが、彼らの感情は想像できる。要するに自分たちがコントロールできない存在が許せないのだ。

厄介な連中。それが政治家と官僚という権力構造だ。

これに対して、私の背後に控える特別秘書・織田雪村は、影で動いていた。


「藤一郎はん、例の明智と黒田ですが……。あいつら、まだ性懲りもなく裏で糸を引こうとしとりますわ。特に明智は民自党内の自派閥を抱き込んで、豊臣グループの通信事業に『外資規制』の網をかけようとしとる」


「つまり、霞ヶ関への呼び出しもその一環か?」


「おっしゃる通りですわ」


「……やっぱりか。しぶといな、明智は」


「ご安心を。今度は奴らの支持母体である建設業界に、ちょっとした『爆弾』を仕掛けておきましたわ。迂回献金のネタ、うまいこと漏れまっから、藤一郎はんに関わるどころやなくなりまっせ」


ほどなくして、状況はその通りに動いた。

決して事件と呼ばれるような案件ではないにしても、民自党ではよくあるスキャンダルが週刊誌に掲載され、続いて新聞とテレビが続報して明智たちを叩き始め、彼らは火消しで手一杯となった。


私が出頭日時を無視しても何も言ってこなかった。

明智という後ろ盾を失った黒田も、同時に沈黙したらしく、その後は何もリアクションがなかった。

これで当面の間は、後顧の憂いがなくなったというわけだ。


「織田さん。あなたはいったい何者なんだ?」


「まあ、それはお楽しみということで……」


「では、なぜ諸事情に通じているんだ?」


「それもいずれ、おいおいと……せやけど一つだけ言わせてもらうと、ワシは初めてとちゃいまんねん」


何がだ?何が初めてと違うんだ?明智や黒田との関係を言っているのか?

いや、これ以上踏み込んでも、この人は答えないだろう。


ともかく、政治家や官僚たちとの全面衝突は一時的に回避できた。

海外企業の買収もこれでほぼ終わりだから、次からは日本国内の立て直しに本格的に着手しよう。『失われた30年』を何としても防ぐ。だが……


「それにしても本当に疲れたよ。そろそろ本気で静かな環境に身を置いて仕事がしたいね」


私が寧音にそう言うと、彼女は一瞬沈黙した後でこう言った。


「……藤一郎は最近よくそれを言うわね」と。


自分では気付かなかったが、思わず愚痴をこぼすように言ったことが何度もあるらしい。

だがそれは真剣な願いになってきつつあったのは事実で、その理由は、以前に観たカンヌ映画祭で新人賞を受賞した作品の風景が頻繁に夢に出てくるからだった。


あのような山の中に憧れを抱くなんて私は相当疲れているらしいが、荒野の世捨て人になるには時期尚早だとも思った。


だが、ここから私の生活は思いもよらない形で一変していくことになる。



豊臣グループ傘下企業


『株式会社ピクセルジョイトロン』

『株式会社ワイドギャップテクノロジーズ』

『ミノルタカメラ株式会社』

『浜松ホトニクス株式会社』

『株式会社オハラ』

『日亜化学工業株式会社』

『Apple』

『Google』

『NVIDIA』

『株式会社ジャストシステム』

『ARMホールディングス』


資本参加


『Amazon』

『AT&T 通信網・無線通信部門』


次回から新章です。

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