覇王への道⑨ 未来への展望
1998年(平成10年)5月 カリフォルニア
Amazonに対しての一定の影響力を確保した私は、さらなる次の一手を打つことにした。
あのイーロン・タスクと接触し、仲間にすることを目指したのだ。
彼の現在の年齢は26歳。彼は単なるビジネスマンとは格が違う。1995年に物理学を学ぶため、スタンフォード大学の大学院へ進学したという、技術者としても優秀な人物なのだ。
彼の入学目的は、電気自動車用のバッテリーを作るためだったと記憶しているが、時代はインターネットの勃興期だったため、Zip2というスタートアップ企業を立ち上げた。
将来は「スペースX社」や「テスラ」を起業し、世界の覇権企業へと成長していくのだが、現時点であれば提携や資本参加はスムーズに行えるだろう。
なぜなら、Zip2についてだが、ベンチャーキャピタル資金を得たものの、経営権を剥奪されかけているのが現状だからだ。このあたりはスティーブと似ている部分だが、イーロンも技術者気質が強く、自身の思い描く理想に向かって突き進むタイプだ。
それは当然、将来を見据えた長期的な視点であって、短期的な業績を重視する出資者や経営陣から見ると、彼の行動や思考は会社経営に害をなすと考えられても仕方ない部分だった。
これはどっちが正しいかは何とも言えず、敢えて言うならどっちも正しいだろうか。だが、経営陣がイーロンの速度についていけずに不満を持っているのは確かなのだ。
肝心のZip2の事業内容についてだが、地図+検索+地域情報がメインであって、Google・Amazon・AT&Tの通信網と完全にリンク可能だ。狙わないという選択肢がない。
いや、これまで仲間になった人々に比べると、彼は最も弱く、最も追い込まれているという表現がぴったりの立場なのだ。だからこそ買う価値がある。
だが、未来のイーロンがどんな人物に成長するのか知る由もない寧音と小次郎は、もはや何も言わず、ただ呆れた目でこちらを見ている。それが少し堪えた。
そんな孤独に耐えつつ私はイーロンを訪ねて彼に言った。
「君は会社を作りたいのではない。君はインフラを作りたい側の人間なんだろう?」
私は静かに話しかけた。
1998年、シリコンバレーの熱気の中で、26歳のイーロンは私の言葉に一瞬、動きを止めた。
彼の瞳の奥で、膨大な計算が走っているのがわかる。現在の彼はZip2の経営陣との摩擦に疲れ、自分のビジョンが「金儲けの道具」として矮小化されることに苛立っていた。
「……インフラか」
イーロンは短く反芻した。その声には、若さゆえの野心と、誰にも理解されない孤独が混じっていた。
「地図も、決済も。君にとっては、人類という種をアップデートするための『OS』を書き換えたいだけなんだろう? 少なくとも私は、君をただのソフト屋だとは思っていない」
私は机の上に、簡潔にまとめられた提携案の書面を置いた。
「私も完全に君と同じ側の人間なんだ。今回、君に提案するのは、買収による吸収ではない。君のビジョンを具現化するための、日本とアメリカに拠点を併設した「自由研究所型CEO」としての招聘だ」
私が彼に提示した条件は以下の通りだ。
・セーフティネット: 実験的な失敗は「データ」として歓迎する。失敗による解任は一切なし。これは彼の思想に通ずる部分だろう。
・リソース: 緻密な職人気質を持つ日本人技術者を無制限に投入可能。
イーロンは書面に目を落とした。
「日本人技術者を無制限に……。彼らの製造精度と規律があれば、私の設計は物理的な実体を伴う。それは確かに魅力的だ」
視線だけがこちらを測っていた。
「だが、疑問がある。なぜ私なんだ? そして今なんだ?今の私は、ただの『新聞社向けの地図屋』に過ぎないが」
「君の熱意。いや熱狂と言うべきか。その狂気にも似た情熱は、話をすれば伝わってくることだ」
私は笑いながら言った。今の彼には冗談に聞こえるような口調で。
「君はこのままだと、地球は狭いなどと文句を言い始めるんじゃないか?まあ頻繁に日本とアメリカを往復していれば、自然にそう思うようになるだろう。その時、君の隣に並んでいられるのは私だけだ」
「そうは言うが、私には資金がない」
「だからこそだ。資金であれば任せてほしい。しかも余計な口を出すつもりはない。イーロン、資本家に魂を切り売りするのはもうやめろ。私と一緒に、未来のインフラを定義しないか?」
私の誘いに対して彼は即答しなかった。慎重に言葉を選びつつ言った。
「……今すぐ答えは出さない。だが、キノシタの……言葉は頭に残ったのは間違いない。それにしても君は変わった男だな。日本人は皆そうなのか?」
数日後、彼は私のもとに戻ってきた。
再び私が差し出した手を、数秒の沈黙の後に強く握り返した。
「いいだろう。君をボスと呼ぼう。ただし、私のスピードについてこられるなら、だ」
「よく言った。君がどんな事業に手を出そうとも、私は協力を惜しむことはないだろう」
今後の展望について一通りの議論を終え、イーロンは出口へと歩き出した。しかし、ドアノブに手をかける直前でふと足を止め、ゆっくりと振り返る。その視線は、未だ正体の掴めない「私」という存在を値踏みするように、静かに、そして鋭く注がれた。
「キノシタ。君の思想が気になって少し調べてみたが、昔の日本人にはマックス・ヴェーバーを超えるような偉大な思想家や哲学者がたくさんいたらしいな?」
その言葉がとても印象に残った。
こうして彼は私の仲間に加わり、アメリカが生み出す頭脳を手に入れることに成功した。
だが、まだ足りない。人と人が直接繋がる回路を押さえなければ、情報の流れは完成しない。
真に世界を塗り替えるのは、その先だ。人の知能そのものを、どう拡張するか。
そこに手を伸ばすなら、今はまだ誰にも見向きもされていない未完成の頭脳に賭けるしかない。それは以前から希望していた、メディアへの対抗手段としてのSNSを手中に収めることにも繋がる。
メディアの猛攻に一方的に晒される私にとって、SNSの力は大きな武器になり得るからだ。
その対象として思い出したのは二人。どちらもまだ若く、一人は少年と呼ばれる年齢だ。
未来を知る私にとっては、二人ともあまりにも有名すぎる名だったが、同時に、この時点で彼らに手を出すことが、どれほど危険な賭けかも理解していた。
天才は、制御できない。ましてや、傲慢な天才は。
「たぶんカネじゃ無理だな」
私はそう呟いた。彼らは将来、文字通り桁の違う富を生む存在になる。
今の私の資金力など、彼らの好奇心を刺激するには軽すぎる。
では必要なのは何か?これは予想でしかないが、必要なのは遊び場だ。誰にも邪魔されず、誰にも教えられず、自分が世界を書き換えられると錯覚できる場所。
悩んだ私は寧音と小二郎、そしてイーロンを呼び寄せた。
「ちょっとした財団と、テスト用のサイトを作ろうと思う」
三人の視線が集まる。
「目的は教育じゃない。選抜でも育成でもない。逸脱の観測とでも言おうか。
既存の教育システムからはみ出した連中が何を壊し、何を創るのかを見る。イーロン、君なら理解できるだろう?」
イーロンが口角を上げた。
「要するに、放し飼いか」
「そうだ。だが、ちゃんと檻は用意する」
数週間後、イーロンの会社に協力してもらい、『次世代コンピューティング・プログラム』と名付けた実験的プロジェクトが立ち上がった。
応募条件は一つだけ。
年齢・学歴不問。指定サーバーに存在する欠陥を発見し、それを修正した上で、より良い構造を提示せ、というものだ。報酬は一切明示しなかったし、奨学金も、肩書きも、未来の保証もない。
ただ一文だけ、広告に添えた。
「このシステムは未完成だ。だが、もし君がそれに耐えられないなら、最初から触れない方がいい」
故意に挑発的な文言を全米のネットコミュニティに、ささやかなノイズとして流した。
3日後。イーロンが、彼のイメージとは違う強張った表情で、私の滞在しているホテルの一室にやってきた。
「……妙だ」
「妙?何がだ?」
「あのプロジェクトに侵入者がいる。いや、侵入じゃないな。検出されない形で無効化し、ログの整合性まで書き換えてやがる」
彼はログを表示した。イーロンたちが用意したプログラムのセキュリティは強力だったはずなのに、それを易々と突破して、しかも侵入した足跡まで消したことになる。彼は強張った表情のまま続けた。
「この侵入者は、おそらくニューヨークからだ。構造美に異様な執着がある。既存プロトコルを壊さずに、再定義している」
私は、背筋に薄い寒気を覚えた。早すぎる。しかも想定より遥かに深い。
「イーロン。侵入者はアメリカ政府の関係者だと思うか?」
「いや、違うのではないか?
そもそもあのコミュニティーは学生や子供向けで、政府が関心を持つような代物じゃない。だから……おそらく未成年。ただし詳細は不明だ」
それで、確信には十分だった。私は一通の短いメッセージを用意した。
『君の実験にかかるサーバーコストは、こちらで負担する。制限は設けない。ただし、こちらから正解を教えることはない』
それだけだった。誰が引っ掛かってくれたかも不明だった。
寧音が静かに言った。
「……囲うつもり?未成年かもしれないんでしょ?大丈夫?」
「いや、違うんだよ」
私は首を振った。
「未成年であっても、これは賭けなんだ。彼が俺たちの用意した『庭』で遊び続けるか、それとも柵を壊して出ていくか、それを見極めよう」
「出ていったら?」
私は少し考えた。
「その時は、世界がどう壊れるかを観測するつもりだ」
寧音は溜息をついた。
「それって夢予言の延長でしょうけど、ちょっと趣味が悪いんじゃないの?」
私は否定できなかった。
こうして1998年の春。
後に繋がりと知能を巡る時代を定義することになる思考が、まだ名前も知らぬまま、サーバー空間に足を踏み入れた。
彼はまだ知らない。この実験が祝福なのか呪いなのかを。そして私自身もこの賭けが未来を救うのか、それとも制御不能な怪物を解き放つのかを、この時点ではまだ知らなかった。
ともかく、種は撒き終わった。
最後に、これまでの私の動きの集大成となる企業を狙ってみようか。
そこも半導体に関連する企業だが、半導体そのものを作って売る会社ではない。
CPU(コンピュータの頭脳)の設計図を作り、それを他の企業に貸す会社だ。
建築の世界で言えば、半導体メーカーが家を建てる工務店だとすると、その会社は設計士・建築家に当たるだろう。ロンドン証券取引所とNASDAQに上場したばかりだから狙い時だ。
この企業が手中に収まれば、海外企業の買収は完了するはずだ。
5月のサンノゼは、夜になっても空気が乾いて心地よかった。ホテルの部屋のバルコニーから、シリコンバレーの夜景が低く広がっている。寧音はグラスを両手で包むようにしながら、ゆっくりとワインを飲んでいた。
この旅では、イーロンの言葉がきっかけとなって思い出したことがあった。前世で政治家を志した若かりし頃、傾倒していた考え方があったことをだ。
それは、江戸時代のある思想家が儒教を基盤としつつ、仏教や神道の教えを融合させ、商人・職人といった庶民向けに分かりやすく実践的に説いた道徳倫理だ。その神髄は「日常生活を通じた自己改善」であり、商売と道徳の両立を説いた。
「正直」と「倹約」を柱とし、利を得ることを恥とせず、しかし利のみを追うことを戒めたその教えは、若い頃の私には啓示のように響いたのだった。政治とは突き詰めれば人心の問題だと思っていたから、民を動かすのは制度でも法令でもなく、こういう地に足のついた倫理なのではないかと感じていたのだ。
それが政治家になった後は、いつの間にか永田町の理屈に塗り込められていった。そしてそれはこの時代に生まれ変わっても同じだった。このままではいけないと思うようになった。
「寧音、日本人が正直だと言われる理由は、何が要因だと思う?」
バルコニーの手すりに肘をついていた寧音が、こちらを向いた。
「考えたこともないわ。昔からの特質じゃないの?」
「いや、実は江戸中期の思想家たちの功績なんだ。儒教が本来持っていた『労働や商売を卑しむ心』を、彼らが日本流に書き換えた」
「士農工商の考え方ね。金儲けは悪だと教えられていたけれど……」
「そう。当時は『物を運んで利益を得る商人は詐欺師と同じ』とまで言われていた。だが、日本人はそれを乗り越え、仕事に誠実であること自体を徳目としたんだ」
寧音は夜景を背に、少し苦笑した。
「そんな考えのままじゃ、国は発展しないものね」
「その通りだ。この『職分への誇り』こそが、今のビジネス倫理の先駆けであり、強欲なグローバリズム資本主義とも、行き詰まった過去の遺物の共産主義とも違う、第三の道なんだよ」
いつか、際限なく肥大化する豊臣グループのトップたちに、この思想を説かねばならない。制度で縛るのではなく、彼ら自身が自律的に収奪を抑えるために。それが前世で私が夢見た、中間層が復活した社会の姿だった。
しばらく沈黙が続いた。遠くで飛行機の音が消え、再び静寂が訪れる。
「でも、今の日本はその大切なことを忘れちゃってる気がするわ……」
寧音がぽつりと言った。グラスを握る指先に、かすかな力がこもる。
私は答えなかった。忘れたのではなく、バブルのせいで別の価値観に上書きされたんだと口にするには、夜が静かすぎた。
頭の中の構想を現実に落とし込む時が来ると感じていた。それは15年後、『もう一人の私』との出会いを通じて現実のものとなっていくのだが、この時の私には知る由もなかった。




