覇王への道⑦ 謎の男登場
1998年(平成10年)4月
ようやく私たちは世田谷の自宅に戻ることができた。荷物を置き、椅子に座ってため息を吐く。
「ふぅ……。やれやれだ。やっぱり自分の家はいいな」
私は寧音に軽口を言ったが、これは本音でもある。
特に今回の旅は疲れる事態が連発したのだ。アメリカ政府のみならず、日本からも目を付けられてしまうとは。覚悟はしていたが、現実に我が身に降りかかると、疲労の度合いも増してしまう。
いや、アメリカの反応は予想通りだった。自国の誇りとも言える企業に、一部とはいえ資本の注入を許したのだ。今回の彼らの反応は紳士的とさえ言えるだろう。
それに比して日本政府の反応は……まるで、隣家の成功を妬む田舎者の発想ではないか。やつらはこれから本格的に邪魔してくるだろうし、余計なエネルギーを費やされてしまう。
「兄さん、今後の対応を僕のチームで考えてみます。何か対抗策があるはずだ」
そう言って小二郎は帰って行ったが、対抗策なんてあるのだろうか?政治家と官僚が一体になって攻めてきているのだ。かわす方法なんて思いつかないが……
それにしても、前世に続いて、明智やクロテツに連敗を喫してしまうとは腹立たしい。
寧音の目の前では言えないが「畜生め」という言葉が喉まで出かかっている。ここで本社を海外に移すという選択肢もあるにはあるが、それでは逃げるのと同じだし、日本経済のためにもならない。
しかも私は元官僚で、閣僚経験もある政治家だったのだ。逃げるわけにはいかない。
「藤一郎、はいどうぞ。少し落ち着いて考えましょう」
寧音が熱いコーヒーを私に差し出してくれた。この人の気遣いだけが今の私にとって救いだ。
もうどうでもよくなってきたな。寧音と二人で人のいない場所に逃げてしまおうか?
そんな暗い気持ちで溜まった仕事を片付けていると来客があった。
だが、親しい間柄どころか、初めて名を聞く人物だった。部外者が会社ではなく、自宅に突撃してくるとは珍しい。
そもそも、私たちの家の住所は公開していないし、近所付き合いもないから、ここに私たちが住んでいることは世間に知られていないはずなのだ。
どんな人物なのだろう?逆に興味が湧いたのと、気分転換を兼ねて会うことにした。
私の雇っているボディガードに案内されて現れた人物は、引き締まった細身の老年紳士で、スキンヘッドと濃い眉毛が特徴の、やけに目力の強い人物だった。
彼は私と寧音の前に進み出ると恭しく挨拶した。
「初めまして。ワシは織田雪村っちゅうもんですわ。以後お見知りおき下さると嬉しいでんな」
怪しい関西人。それが私の第一印象だった。
この時代に関西弁を隠そうともしないのが羨ましい。前世の私は、かなり遠慮して封印したのだが。
それより、もっと気になったのが、織田と名乗る男は私の顔を見た瞬間、何か安堵したような表情を浮かべたのだ。まるで長年探していた何かを、ようやく見つけたかのように。迷子になっていた犬が、飼い主を見つけた時の目にも見えた。
それと気になったのが寧音に対する視線だ。舐めまわすような、ねっとりとしたものを感じた。
つぎの瞬間。
「……何度目や」
織田が呟いた言葉が、そう聞こえた気がした。
「え? 今、何か?」
「いや、何でもおまへん。独り言ですわ」
年齢は60代後半だろうか?年齢を感じさせない隙のない身のこなし、スポーツでもやっているのか季節に似合わない浅黒い肌。体型にぴったりなスーツに濃い色のネクタイを締め、私をのぞき込む視線が鋭い。
「いや、お忙しい時にすんまへんな。そろそろお困りとちゃうんかと思いましてな。アポなしで申し訳おまへんでしたが、思い切って寄らせてもらいました」
この言葉遣いとイントネーションは、どのあたりの出身だろうか?
私は一般に大阪弁と言われる言葉であっても、北摂と船場言葉、泉州弁、河内弁の違いを聞き分ける自信があるが、何とも言えない混じり方だと思った。
明らかに京都や神戸、奈良、和歌山の言葉ではないのは分かったのだが。
それはともかく……
「お困り?私が何を困るというのです?」
するとこの男はにやりと笑った。この笑いは……明智のような怪しい笑い方ではない。上手く表現できないが、どちらかといえば敵意のない笑い方だと感じた。
「あんさんのグループは急速に勃興しておられるが、内部統制も大変でっしゃろし、規制もキツうなっとるんちゃいまっか?」
……外部の人間が、どうしてここまで正確に状況を把握できるのか?この男は敵か?はたまた?
「規制と仰ると?」
私は敢えて事務的な言葉で確認を取ってみた。
するとこの男は手をヒラヒラさせて言った。
「こう見えても、ワシはいろんな裏事情に通じてまんねん。そろそろあんさんのグループに対して政府が目を付けるんちゃうかなと思いましてな……昔から餅は餅屋にって言いまっしゃろ?ややこしい交渉はワシがやりまっせ?」
なぜかはよく分からないが、この男は信用してもいいのではないか。私の本能が囁きかけた。
だが、私の直感以上に、私の「記憶」が警鐘を鳴らしていた。 この男、織田雪村。 その立ち居振る舞い、鋭すぎる眼光。
この男から漂う空気は、単なる「怪しいフィクサー」のそれではない。圧倒的な強者の余裕と、すべてを見通すような冷徹な知略。それが関西弁という仮面の下に隠されている。
「……織田さん。あなたが何者で、何の目的でここに来たのか、正直に話していただけませんか。私は今、非常に機嫌が悪い。くだらない政治家や役人共の相手で疲れ切っているんです」
私の言葉に、織田は声を立てて笑った。
「はっはっは!政治家や役人共? ああ、明智や黒田のことやったら心配おまへん。あいつらは所詮、古い地図を握りしめて宝探ししとるだけの迷子や。あんさんが見とる日本の将来のことは、まったく理解しとりまへんで」
織田は懐から古い扇子を取り出し、パサリと開いた。そこには「天下布武」……とは書かれておらず、古風な浮世絵が描かれていた。
「あんさんがアメリカでやったこと。AT&Tの回線の一部を押さえ、Googleの脳を手に入れ、NVIDIAの筋肉を買った。しかも日本の半導体産業の再編まで狙うとは……お見事や。戦国時代やったら、主要な街道と関所、それに門前町まで全部ひとりで買い占めたようなもんですわ」
「……そこまで知っているのか」
「知ってまんがな。ワシは、この国が沈むのを黙って見てるのが、退屈で退屈でしゃあない人間なんですわ。せやから、あんさんみたいな歴史の加速装置が現れるのを、ずっと待っとったんです」
織田は身を乗り出し、声を潜めた。
「藤一郎はん。あんさんは表の王や。アメリカの巨大企業を買い、未来の技術を支配し日本を救う。
けどな、この日本という国は、表の理屈だけでは動かん。明智があんさんの邪魔をするんは既得権益が侵されるからや。既にLEDで痛手を受けてますねん。せやから明智みたいな利権に巣食うシロアリ共が、あんさんの足を引っ張り、最後には毒を盛る」
「……毒、ですか」
「せや。奴らは法を変え世論を操り、あんさんを国賊に仕立て上げる。それを防ぐには奴らと同じ、あるいはそれ以上に汚い手を使える味方が必要とちゃいまんのか?」
織田の提案は明確だった。 私が「光」の世界で未来を創るなら、彼は「影」の世界で、私の行く手を阻む泥を掃除する。
「……見返りは何ですか? あなたのような男が、無償で動くとは思えない」
「見返り? 決まってまんがな。ワシを、特等席で見物させてぇな。あんさんが創る新しい帝国が、この腐りきった世界をどう塗り替えるのか。その最前線におらせてくれるだけで、ワシの退屈は紛れまんねん」
私は寧音を見た。こういう時に寧音の直感は頼りになる。
彼女は静かに頷いた。寧音の勘も「この男は使える」と言っているのだ。よし、どうせ打つ手がないのだから乗ってみよう。
「いいでしょう。織田さん。あなたを私の秘書として迎え入れます。第一秘書はここにいる妻ですから、特別秘書という待遇にしましょう。まず最初の仕事ですが……」
私は現時点でもっとも邪魔な存在を挙げた。
「私を脅した民自党の明智政調会長と、通産省の黒田。彼らが二度と私の邪魔をできないよう、適切に『処理』していただきたい」
「心得ました。奴らをいてこましたらよろしいんでんな?」
いてこますって……
「……彼らの命を奪うような野蛮で無粋な真似は不可です。社会的、政治的に、痛手を与えていただければ十分だ」
織田は満足そうに目を細め、扇子を畳んだ。
「明智はんは金に汚いし、黒田はんは女にだらしない。……裏で汚いことをしてけつかるのは同じで、ネタには事欠きまへんわ」
織田はそう快活に笑いながら続けた。
「一週間ほど時間をもろうたら十分です。彼らは自分の身を守るのに精一杯になって、あんさんのことなど忘れるでしょう」
クロテツがドスケベなのはその通りだが、明智は金に汚い。それは私が殺される寸前にも聞いた噂ではある。だが。
「なんでそんな、明智の弱点を知っているんだ?」
「明智の弱点? そんなもん、100年前から把握してまっせ」
「100年前?それはどういう意味です?」
「……あ、いや。大昔から知っとるという意味ですわ」
織田は慌てて言い繕ったが、その表情には一瞬、深い焦りが浮かんでいた。
なんだろうかこの違和感は?何か隠しているのは間違いなさそうだ。
だが、織田雪村という怪しい「影の軍師」を手に入れたことで、国内の雑音は驚くほど静かになった。
本当に翌週の朝刊各紙の報道によって、明智は過去のヤミ献金疑惑が取り沙汰され、党内での立場を失い政調会長を辞任。
黒田は通産省内で引き起こした女性スキャンダルを、これまた週刊誌に書かれたことによって大蔵省に戻された。 すべては、織田がどこからか仕入れてきた過去の記録によるものだった。
「なかなかやるじゃないか」
私はそう言いながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
「まあワシは火を付けただけで、あとは勝手に燃え広がっただけですわ」
織田はそう言ってこともなげに笑うのであった。
だが……早すぎる。あまりにも簡単だった。法も、正論も、国益も必要なかった。
必要だったのは、「知っているかどうか」だけ。
私は気付いてしまった。
これまで私が卑怯だと軽蔑してきたやり方のほうが、正しい努力よりも、はるかに速く世界を動かすという事実に。
その夜、眠りにつくまでに何度も後悔した。
「闇に堕ちた……これは、もう戻れないな」と。
だが同時に、こうも思ってしまった。
それでも、自分のグループを守れたのだと。
とりあえず邪魔者は排除できたが、結局あいつらは復権して私の前に再び立ちはだかるのではないか?それでも私は、ようやく本来の目的に集中できる環境を手に入れた。
ただし彼らもタダでは引き下がらなかった。メディアを通じた私への誹謗中傷の度合いが激しくなってきたのだ。彼らの攻勢は予想よりも速く、そして組織的だった。
最初は経済週刊誌の小さなコラムだった。「豊臣グループの急速な拡大に疑問符」という無署名の記事で、内容は事実誤認と憶測の混合物に過ぎなかった。だが翌週には同様の論調が複数の媒体に広がり、三週目には地上波のワイドショーにまで飛び火した。
論点はいくつかのパターンに纏まりつつあった。
外資との癒着。日本の技術を売り渡す売国奴。大企業の資金を利用した若者による無謀な賭け。そして繰り返し強調されるのが「木下藤一郎、33歳」という年齢だった。若さは経験不足の証拠として提示されていた。
「ずいぶん手が込んできたわね」
朝のダイニングテーブルで、寧音が新聞を読みながら言った。彼女の前には主要五紙が並んでいる。
「同じ情報源だろうね。書き方が違うだけで、骨格がまったく変わらない」
私は各紙を見比べながら答えた。紙面の構造が均一すぎる。これは単なる追従報道ではない。誰かが情報を一元管理して各媒体に配っているのではないのか。いや、誰かというより組織だろう。
おそらくは通産省あたりだろうと推測した。御用記者にガセネタを流しているのだろうが、メディアも面白おかしく書いた方が売れるからな。
「どうするの?反撃の方法を織田さんと考えてみるべきじゃないの?」
「……いや、こっちが反論すれば相手の思うつぼにハマりそうだ。それに、もともとは俺に叩かれる素地はあったんだと思う」
世の中はバブル崩壊後の不況に喘いでいるのに、私だけ儲かっているように見えるだろう。別に犯罪行為をでっち上げられているわけではない。単なるやっかみや妬みを言語化して叩いているだけだ。
「大昔の落首や落書と同じだよ。紙に書いて辻に貼る。作者はもちろん匿名で、これに対して過剰反応すれば燃料になってしまうんだ。豊臣秀吉が『猿関白』と書かれたことに激怒して門番を処罰したんだけど、そんなことをすれば『効いている』と思われただけで、何の得にもなりはしなかったし、世間は余計に秀吉を馬鹿にしたんだ」
寧音は私の言葉を聞くと、黙って新聞紙を畳んだ。
本音で言えば今すぐに反撃を開始したいところだが、私が反論すれば儲かるのはメディアだけという結果になるだろう。SNSが発達すれば対抗手段も増えるが、現時点ではまだ無理だ。……そうかSNSか。
「YouTube」以外の分野にも手を出しておくべきだな。
1週間後。
あれからも連日メディアで叩かれ続け、思い悩んだ私は永平寺の山門を潜っていた。
何か明確な目的があるわけではなく、救いが欲しかったのかもしれない。まずは現状に対する悩みを解放したかった。
いつものように皆澤禅師が迎えてくれたが、その表情は変わらぬ穏やかなもので、私はそれだけで救われたような気分になった。
「ご無沙汰をしております禅師。今日は私の個人的な悩み事があって伺いました」
そう言うと禅師は型通りの挨拶以外には言葉を発せず、ただ修行へと誘ってくれた。
ここで数日間、ひたすら座禅を組んで過ごした。
やはりこの環境は私にとって理想の世界だ。俗世を離れ自分自身を見つめ直す。何か得られるというよりも魂の浄化になる。可能ならば都会よりこういった場所に住みたいと強く思うようになっていた。
そういえば、以前に誰かが似たようなことを言っていなかっただろうか?
そんな安寧の日はあっという間に過ぎ去り、明日は東京へと戻る最後の夜、禅師が私に話しかけてきた。
「悩み事は解決しそうですか?」と。
「……いえ。そんな簡単に解決しそうにありません。ご存知かもしれませんが、世間の私に対する感情というものはそう簡単に変わらないでしょうし」
そう私が思いのたけを口にすると、禅師は穏やかに言った。
「あなたは世界で活躍されている有名人ですからね。人間の数と同じだけの誤解に晒されても不思議ではありません。ただ、少し身軽になる方法を考えてもよろしいかもしれませんね」
身軽になる方法か……
それは私がこの世界に来てから、初めて気付く、いや思い出すきっかけになる言葉だった。




