覇王への道② NVIDIA買収
1998年(平成9年)1月 スタンフォード大学近郊にて
小二郎の言葉を反芻しながら私は答えた。
「ニビデア? ああ、NVIDIAだったな」
確かに、あの世界的に有名なドイツ生まれの保湿クリームに、少しは名前が似ているかもしれないが、作っているものは全く違う。
私は小二郎の読み上げた企業名を訂正しながら、椅子に深く身を沈めた。
1998年現在のNVIDIAは、倒産寸前の崖っぷちに立たされている。
「そこも、学生の遊び場みたいな会社なの?」
寧音が呆れたように言った。
学生の遊び場って……悪意はないにしても、Googleは無価値だと思っている証拠だな。
「いや、彼らは『絵』を描く機械を作っている。だが、いずれその『絵を描く力』が、人類の知能を凌駕する計算機の心臓になる。……ような気がする。それに、ここは日本にとっても、因縁がある会社なんだ」
私は窓の外を眺めながら言った。
前世において、この時期のNVIDIAを救ったのは、セガ(SEGA)の榊原昭一郎社長だった。
次世代機「ドリームキャスト」用のチップ開発に失敗したNVIDIAに対し、セガは契約違反として切り捨てることもできたはずだ。しかし、榊原氏はジェンスン・キンの才能を信じ、500万ドルの追加出資を行って彼らを倒産の危機から救った。
その日本人の温情が、後に世界を支配する巨大企業の命脈を繋いだのだ。
「セガの榊原さんが動いていたはずだ。だが、それだけでは足りない。俺はセガの肩代わり以上の、圧倒的な資本で彼らを『豊臣』の鎖に繋ぐ」
1998年1月 サンタクララ NVIDIA本社
スタンフォード大学からクルマで20分ほど走った場所にNVIDIAはあった。
だが、2020年代の視点では想像できないほど会社は絶望の淵に沈んでおり、技術者たちは何をするでもなく、手持ち無沙汰な実情を外部の私たちに隠そうともしていない。
その表情からは「もう終わりだ」との諦念さえ滲ませていた。
私の後をついてくる寧音と小二郎の表情はといえば、既に引きつっている。ここを買収するなんて彼らからしたら狂気の沙汰なのだろう。
殺風景なオフィスでは台湾系アメリカ人で、創業者のジェンスン・キンが暗い顔で出迎えてくれた。
セガとのプロジェクトが頓挫し、それでも何とかセガからの資金で命脈を保つ算段を付けていた。
そこへ、私が現れた。
「ジェンスン。SEGAの榊原さんの話は知っている。彼は君の技術に賭けたんだろうが私も同感だ」
私は、SEGAが支払う予定だった500万ドルの小切手をデスクに置いた。
それを見た小二郎が慌てて取り上げようとしたが、一歩遅かった。同時に寧音の短いが鋭い悲鳴が、がらんとした室内に反響した。
「なっ……!?」
小切手の金額を見た若き日のジェンスンが目を見開く。
私は気にせず落ち着いた口調で言った。
「条件は一つ。グラフィック以外の演算、つまり汎用計算(GPGPU)の研究を今すぐ加速させることだ。それからNVIDIAの株主として、我が豊臣グループを迎え入れてもらう」
現時点では未上場だから、こうするのが最善だ。
「なぜだ? なぜそこまで……。日本の金融界は火の車だと聞いている。ヤマイチもタクギンも潰れたんだろう?」
「だからこそだ」
「日本が沈もうとしている今、私は新しい浮き輪を探している。君が作っているのはただのビデオカードじゃない。将来、数兆個のデータを瞬時に処理する『デジタル時代の石油掘削機』だ。私はその利権を今のうちに買いに来た」
ジェンスンはしばらく小切手を見つめていたが、やがて顔を上げ、史実で榊原氏に向けたのと同じような、深い敬意の混じった表情で私を見た。
「日本人は……狂っているのか、それとも本当に未来が見えているのか。いいだろう、キノシタ。この資金があれば我々は生き延びることができる」
「よく言った。500万ドルだけじゃ不安だろ?落ち着いたらあと5000万ドル出そう。何かと口うるさい既存株主の支配から脱して、私のグループに入らないか?一緒に夢を見よう」
寧音と小二郎は何も言わなかったが、その表情は驚きに満ちたものだった。
ジェンスンも何も言わなかった。ただ、手元にある小切手を再び見つめていた。
会社を売るか。未来を買うか。
やがて、彼は顔を上げ、ぽつりと言った。
「そうだな。それがいいかもしれない。その時はよろしくお願いしたい」
私たちはがっちりと握手を交わした。ジェンスンという強力な味方を仲間に加えることが可能となったのだ。
そして私は彼に肩書を与えた。
「君には豊臣グループの上席顧問としての肩書を与えよう。そして私が君に依頼したいのは、日本の半導体産業の統合と発展だ。これはNVIDIA製品の底上げにもつながるだろうし、製品の棲み分けも可能だ。ぜひ、日本で腕を振るってほしい」
ジェンスンは今度は呆気にとられていたがニヤリと笑った。
「面白そうじゃないか。完全移住は無理かもしれないが、是非やらせてもらおう」
私も彼に向かって笑いかけた。
「では、その時が来たら改めて呼ぶから、頑張って開発に打ち込んでおいてくれ。ああ私のことはトイチロウと呼んでほしい」
NVIDIAでの商談をまとめ帰路につくと、小二郎はノートパソコンを叩きながら、震える声で私に尋ねた。
「兄さん……Googleの100万ドルはまだしも、NVIDIAへの500万ドルは……。今のレートで6億円ですよ? しかも追加融資で5000万ドル出すなんて……豊臣グループは価値のない企業の集まりだと言われそうで心配です」
「小二郎、いいか。日本人はかつて冷静な感性と眼力を持っていたはずなのに、すべてはバブルという異常事態が狂わせた。ここはもう一度原点に立ち返り、未来志向の戦略を再構築する段階なんだ。それができるのは、日本ではもう俺たちしかいないと考えている。このまま座して見ていたら全部アメリカに持っていかれてしまうんだ」
私は手元の資料を閉じた。
「Googleで『情報』を握り、NVIDIAで『演算』を握る。これでもう、21世紀の覇権は確定したのと同じだと俺は思うんだ。日本国内の不況なんて、この巨大な利益の前では誤差に過ぎない」
「でも、藤一郎。それだけのドルを動かして大丈夫なの?通産省から目を付けられるかもしれない。日本政府を敵に回すようなことはしない方がいいんじゃない?」
寧音が不安そうな目で私を見る。
「そうかもしれないね。だから次は日本の企業も買い集めに行くつもりだ。日経平均株価はどん底だけど、放置されている技術力の塊のような企業は多いんだ。それから日本国内の不動産も買い時だね」
ついでにさっきの話も二人にしておこう。
「日本の半導体企業は苦境に立たされている。政府が主導してそれらを統合しようとするだろうが、俺たちが先に動くつもりだ」
「だからさっき、半導体産業の統合みたいなことを言ったのね?」
「うん。政府の主導は逆効果だ。窮地に追い込まれた者同士が、ただ単に数字の足し算で集まっても意味はない。それどころか、お互いの文化の違いから足の引っ張り合いを始めて、結果は引き算、いやもしかしたら割り算になってしまうだろうね」
これは何も企業の合併に限った話じゃないけれどねと付け加えた。
「そこでさっきのジェンスンが登場するの?」
「そう。だからこそ彼みたいな『外圧』と『黒船』が必要なんだよ」
もう二人とも何も言わなかった。
私は、失われた10年ではなく、最も安値で買えた10年と後世言われるようにするための行動を始めようとしていた。
この時、私は少し浮かれていた。
後日、NVIDIAの未上場株の51%を押さえるため、5000万ドルを動かした。……それが何を招くのかも知らずに。
寧音の警告は、結局すべて正しかった。
1998年(平成10年)1月
私たちは次に、NVIDIAからクルマで10分ほどの距離にあるApple本社を訪ね、復帰したばかりのスティーブと面会した。本当にこの周辺には21世紀の覇権企業が集中しているなと改めて思う。
ともかく、スティーブはかつての古巣に戻り、これから本格的に再建の指揮を執り始めるところだった。
「スティーブ。言い忘れたことがあったんだが、表計算や文書入力ソフトの問題は解決したのかい?」
私がそう尋ねると、彼は顔を歪めて言った。
どうやら痛いところを突いてしまったらしい。
「……いや。自社開発ではもはやどうしようもないほどMicrosoftとの差が開いてしまった。
ここは恥を忍んで、彼らからofficeを購入しなくてはいけないのかと悩んでいたところだ」
やはりそうか。
記憶では莫大な金額をMicrosoftに支払って、officeをAppleに組み込んだはずなのだ。
しかしこの世界では変えて見せる。
「ちょっと待ってくれ。それだったら日本に良いソフトがあるぞ。『一太郎』と『花子』っていうんだが、興味はないか?」
スティーブは椅子から身を乗り出し、細い指を組んで私を凝視した。
「イチタロウ……ハナコ? 何だそれは。日本の伝統芸能の名前か何かか?」
「イチタロウは日本語ワープロソフトの王者だよ。ジャストシステムという会社が作っている」
私はあえて淡々と言った。
記憶ではAppleはMicrosoftから1億5000万ドルの出資を受け、Mac版Officeの5年間提供を約束させることで首の皮一枚繋がったはずだ。
だが、それはAppleがMicrosoftの軍門に降った歴史的瞬間でもあったのだ。
「スティーブ、考えてもみてくれ。君はMicrosoftに頭を下げて、彼らの作ったインターフェイスをMacに載せたいのか? 傲慢の塊のようなビルが差し出す、あの『施し』のようなソフトを」
スティーブの眉間の皺が深くなる。彼にとって、美学を欠いたMicrosoftの製品を、自社端末の標準にするのは屈辱以外の何物でもない。
「それはその通りなんだが……だが、現実問題としてofficeソフトがなければ、Macはただの高級な箱なんだ」
「だから提案している。私はジャストシステムを動かし、彼らの持つ高度な日本語処理能力と、洗練されたインターフェイスを英語圏向けに完全ローカライズさせる。そしてそれを『Apple Office』として、Mac OSに垂直統合させるんだ」
「Apple Office……」
スティーブの瞳にわずかな光が宿った。何より彼は支配を好む。他社のソフトを借りるより、自社の名前を冠した完璧なツールを望んでいるはずだ。
「ジャストシステムの徳川社長は、技術に対しては君と同じくらい妥協のない男だ。
彼らのプログラムはMicrosoftのものより遥かに軽量で、かつ直感的だ。何より、私が出資して開発を加速させてみせよう。君は一銭も払う必要はないんだ」
私はさらに畳み掛けた。
「ビルに頭を下げる必要はない。むしろ彼らがMacから追い出されることを恐れるような、究極のツールを一緒に作らないか?」
スティーブは沈黙した。部屋の隅にあるNeXTのワークステーションが低く唸っている。
やがて、彼はニヤリと笑った。
「キノシタ。いやトイチロウ。君は狂っているが提案は悪くない。しかも私は君の話を聞かざるを得ない立場だ……だが、そのソフトが本当に使い物になるかは別の話だな?」
「それはその通りだ。話をまとめてくるから少し待っていてほしい」
Apple社を後にした私を、小二郎と寧音が慌てて追いかけてきた。
「兄さん! 無茶苦茶ですよ! ジャストシステムは徳島にある日本の地方企業ですよ。それをAppleの標準にするなんて……それに、彼らが経営難に直面しているのを知っていて言ってるんですか?」
「知っているよ。Windows 95の登場以来、彼らはMicrosoftの物量作戦に押され、苦境に立たされているんだ」
私は空港へ向かう車中で、窓の外に広がるシリコンバレーの夜景を見つめた。
「だが、彼らの技術力は本物だ。かつて一太郎が天下を取ったのは、日本語という世界で最も複雑で難解な言語を完璧に処理したからだ。そのアルゴリズムを用いれば、英語や他言語なんて雑作もない。言うなれば世界一美しい文書・計算ソフトが作れるんだ」
寧音も不安そうな表情で言った。
「でも、日本の地方の会社がAppleと組むなんて……役に立てるのかしら?」
「そうじゃないんだよ寧音。日本人が作った素晴らしい技術が、マーケティングの暴力で消えていくのを指をくわえて見ていたのが、これまでの歴史なんだ。それを俺たちが変えてみせようじゃないか」
私は小二郎に指示を出した。
「すぐに徳島へ飛ぶ準備をしてくれ。それから、徳川社長にアポを取っておいてくれ。用件は『豊臣が一太郎を世界標準にするために伺う』と伝えてくれたら彼らは理解してくれるだろう」
日本のニュースでは、相原内閣が景気対策を打ち出すも、市場の冷え込みは止まっておらず、今日もどこかの証券会社が潰れた、銀行が危ないと騒いでいる。
だが、私が手に入れたGoogle、NVIDIA、そしてこれから手中に収めるジャストシステムとAppleの提携。これらが絡み合ったとき、21世紀の知的生産プラットフォームは、完全に「豊臣グループ」の支配下に置かれることになる。
それから前世では倒産してしまったが、日の丸半導体として統合される「エルピーダメモリ」も手に入れる。
「小二郎、面白いことになってきたぞ」
私は笑った。1998年1月末。
かつて豊臣秀吉が成し遂げられなかった世界の果てまでの版図拡大。それを私は武力ではなく、1と0のコードと資本で世界を手に入れる。
……そう、この時の私は本気でそう思っていた。
豊臣グループ傘下企業
『株式会社ピクセルジョイトロン』
『株式会社ワイドギャップテクノロジーズ』
『ミノルタカメラ株式会社』
『浜松ホトニクス株式会社』
『株式会社オハラ』
『日亜化学工業株式会社』
『Apple』
『Google』
『NVIDIA』




