躍進期⑨ リーマンショック 転
2008年(平成20年)7月中旬 ワシントンD.C.
アメリカ財務省のビルは、真夏の陽光を浴びて白く輝いていた。
その一室で、リーマン・ブラザーズのリチャード・フォイトCEOは、一人の男と向かい合っていた。
相手の名はヘンリー・ボールマン。
アメリカ合衆国財務長官。元ゴールドマン・サックスのCEOにして、ウォール街で最も影響力を持つ男の一人だ。
「久しぶりだなヘンリー……」
フォイトは、財務長官の目を見ずに苦々しい表情で口を開いた。
その口から出た言葉は簡潔を極めた。
「助けてくれ」と一言だけ。
ボールマンは、冷たい視線をフォイトに向けた。
「リチャード。君が私に頭を下げる日が来るとは考えたこともなかったよ」
二人は、長年のライバルだった。ゴールドマン・サックス対リーマン・ブラザーズ。
ウォール街の頂点を争う、二大投資銀行のトップ同士。互いに憎み合い、蹴落とし合ってきた仲だ。
「……日本人が来た」
フォイトは、吐き捨てるように言った。
「トイチロウ・キノシタと、ユキムラ・オダ。聞いたことがあるか?」
ボールマンの表情が、わずかに変わった。
「キノシタは当然知っている。オダは……ベア・スターンズの破綻を予測した男だな」
「そうだ」フォイトは、拳を握りしめた。
「あいつらは、リーマンを解体しようとしている。健全な部門だけを奪い取り、不良資産は切り捨てる。そういう提案をしてきた」
ボールマンは、しばらく黙り込んだ。そして、ゆっくりと口を開いた。
「リチャード。君の会社の第二四半期の損失は、どれくらいだ?」
フォイトは、答えなかった。いや、答えたくなかったと表現するべきだろう。彼は目を逸らした。そんなフォイトに対してボールマンは数字を挙げた。
「28億ドルだろう?それで間違いないな?」
フォイトは弾かれたように財務長官を見た。その目は大きく見開かれていた。
ボールマンは、淡々と続けた。
「カリフォルニアの住宅ローン担保証券。ネバダの商業用不動産。フロリダのコンドミニアム。これらが特に深刻だ」
フォイトの顔が、真っ青になった。
「なぜ……なぜお前がそれを知っているんだ?」
フォイトにすれば青天の霹靂に近い衝撃だっただろう。四半期決算の発表はまだ先だ。それなのに社内の機密情報を先に掴んでいる。財務長官がそれを知っているのは純粋な驚きだった。
それに対してボールマン財務長官は、フォイトを追い込んで満足するのではなく、何かを恐れるような表情で言った。
「……たった今まで半信半疑だったが、君のその顔を見て確信したよ。全ては事実、そうなんだな?」
「どうして……」
「簡単な話だ。日本人から聞いたからだ」
ボールマンは、冷たく言い放った。
「キノシタとオダは、君に会った後で私にも接触してきた」
フォイトは、言葉を失った。
「そして、私に同じ提案をしてきた。『リーマンを潰したら連鎖破綻が起きる。しかし、トヨトミが買えば最小限の被害で済む』とね」
ボールマンは立ち上がり、フォイトに背を向けて窓の外を見た。
「リチャード。私は財務長官として、金融市場の安定を守る責任がある。ベア・スターンズに300億ドルの政府保証を付けたことで、世論は激しく反発した」
彼は振り返り、フォイトを見据えた。
「もう二度と、公的資金で投資銀行を救うことはできないんだ」
「じゃあ、どうしろというんだ!アメリカ合衆国はリーマン・ブラザーズを見殺しにするのか!?」
「日本以外の金融機関にも接触しているのだろう?首尾はどうなんだ?」
フォイトは答えず下を向いた。その沈黙だけで十分だった。
ボールマンはため息をついた。
「韓国開発銀行か?」
フォイトの肩が震え、絞り出すように言った。
「そうだ。先週までは可能性があった。だが……彼らは撤退する」
ボールマンはため息をつきながら机の上の書類をめくった。
「中東は?どうなんだ」
「アブダビも消極的で、交渉がまとまるとは思えない」
「シンガポールは?」
「同じだ。最後の可能性はバークレイズだが、間に合うかどうかわからない」
一つ一つ。逃げ道が塞がれていく。
財務長官は書類を閉じ、再び大きなため息を漏らし天を仰いだ。
「彼らの言った通りか……アメリカ国内の金融機関も及び腰だろうね。これでは財務省としても動きようがない」
「お前はリーマン・ブラザーズを見殺しにするというのか!?歴史にその悪名を載せてもいいのか!」
フォイトが叫んだ。目は血走り、全身は震えている。そんなフォイトに対してボールマンは、冷徹に、突き放すように告げた。
「見殺しにはしない。そのまま日本人に売れ」
「何だと?」
「彼らは君が交渉していた金融機関と違って民間企業だ。政府保証も必要ない。世論も文句を言わない。そして何よりも……」
ボールマンは一拍置いた。
「私は予言者など信じない。だが、ベア・スターンズの破綻を言い当て、リーマンの損失額まで当ててみせた。しかも、君の動きはことごとく連中の言った通りだ。ならば一度は賭けてみる価値がある。そう思わないか?」
フォイトは、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
「……私には、選択肢がないということか」
「あるさ。まだ二つもある」
ボールマンはにやりと笑って冷たく言い放った。
「日本人と取引するか。それとも、破産法の適用を受けるかという選択肢が残されているじゃないか」
部屋が、静まり返った。長い沈黙の後、フォイトがゆっくりと口を開いた。
「……彼らと、会わせてくれ」
「もう手配してある」
ボールマンは、デスクの上の書類を指差した。
「明日、ニューヨークで三者会談をしようじゃないか」
翌日。
ニューヨーク連邦準備銀行のビル。33 Liberty Street。
金融街の中心に位置する、この重厚な石造りのビルが、今日の舞台だった。
私と織田は、会議室で待っていた。ほどなくして、二人の男が姿を現した。
ヘンリー・ボールマン財務長官。そして、リチャード・フォイトCEO。フォイトの表情は、前回の面談時とは明らかに違っていた。
疲弊し、憔悴し、そしてもはや諦めている。そう感じた。
「ミスター・キノシタ、ミスター・オダ」
財務長官が口を開いた。
「時間がない。単刀直入に聞こう。君たちの分析は確かに正しかった。だが……本当にリーマンを救えるのか?」
私は頷いた。
「救える。ただし、条件がある。まず、不良資産の切り離しだ。サブプライム関連、商業用不動産関連、これらは全て別会社に移管する」
フォイトが、苦々しい表情で言った。
「それでは、会社の3分の2が……」
「3分の2が沈むのは確実だ」
私はフォイトの言葉を遮り、冷たく言い放った。
「選択肢は少ない。残りの3分の1を守るか、全部失うかだ」
フォイトは、何も言わなかった。屈辱に満ちた表情で私を見つめるだけだった。
そんな彼を気の毒に思いながらも、心を鬼にして私は続けた。
「不良資産を切り離した後の健全な部門、これを新会社として再編する。投資銀行業務、資産運用部門、優秀な人材。これらは私たちが引き継ぐ。君にはこれまで通りの経営を続けるという選択肢はもうないんだ。であれば、より良い未来を目指すべきじゃないのか?」
ここで財務長官が割って入った。
「買収額は?君たちは新たなリーマンの価値をいくらと見定めているんだ?」
私は織田にちらりと視線を向けた。
「100億ドルですわ」
織田が即座に答えたが、それを聞いたフォイトは感情を爆発させた。
「たったの100億ドルだと!ふざけるな!」
彼は激怒し机を叩いた。
「リーマンは1850年創業だぞ!150年以上の歴史がある!世界中に支店がある!その価値が100億ドルだと!?」
気持ちはわかる。150年の歴史に泥を塗り、自分の手で幕を引かねばならない立場……それは理解できる。だが。
「その考えは違うだろう」
私は敢えて冷たく突き放すように言い、さらに続けた。
「フォイト。君はまだ、昨日までのリーマンを見ている。だが市場は違う。市場は明日のリーマンを見ているんだ。そして明日のリーマンは破綻企業だ。だから100億ドルでも高いくらいなんだよ」
これが現実なんだと理解してもらわねば話が前に進まない。
ここで織田が財務長官に対して条件を突きつけた。
「ただし、不良資産の処理費用は別や。それはアメリカ政府が面倒見てもらわんと困りますわ」
「政府が?それでは結局、公的資金の投入ではないか?」
ボールマンの目が鋭くなった。結局のところ公的資金の注入という、彼の立場では許されざる最悪の手段だと感じたらしい。
「違いますわ」
織田は首を横に振った。
「うちが買うんは健全な部門だけや。不良資産は政府が管理する別会社に移す。これは『救済』やのうて、『不良資産の隔離』ですわ。世論も納得するはずや」
織田の言葉を聞いたボールマン財務長官は、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
彼の脳内では、今まさに超高速の演算が行われている。ゴールドマンのトップとして修羅場をくぐり抜けてきた男の顔に、苦渋と、そして一筋の「計算」が浮かび上がった。
部屋を支配する重苦しい沈黙。窓の外、金融街をせわしなく行き交う人々の喧騒が、この部屋には一切届かない。
ボールマンはゆっくりと視線を動かし、まず隣で肩を震わせているフォイトを見た。150年の歴史を誇る名門の主が、今はただの「敗者」としてそこにいる。次いで、彼は正面に座る私と織田をじっと見据えた。その鋭い眼光は、値踏みするような、同時に畏怖するような複雑な光を帯びている。
「……『隔離』、か」
ボールマンは、その言葉の響きを確かめるように低く呟いた。
「実に巧妙なレトリックだ、ミスター・オダ。だが、実態は同じだ。不良資産を隔離するための別会社を設立し、そこに政府が資金を融通、あるいは保証を与えるとなれば、議会とメディアは一斉に牙を剥く。『なぜ投資銀行のギャンブルのツケを、納税者が払うのか』とね」
彼はデスクの上で両手の指を組み、前傾姿勢になった。
「しかし……」
ボールマンの目が、冷徹な現実主義者のそれに変わる。
「リーマンがそのまま無秩序に破綻した場合、世界中の金融機関がパニックを起こし制御不能になる。その場合の対策コストは、数十億ドルどころでは済まない。下手をすれば、アメリカ経済そのものがマヒする」
彼は一度目を閉じ、深く息を吐き出した。そして、目を開けたときには、すでに「アメリカ合衆国財務長官」としての決断を下していた。
「条件がある、ミスター・キノシタ」
ボールマンは私を指差した。
「政府が不良資産の『隔離』に協力する大前提として、君は新リーマンの100億ドルの買収資金とは別に、その『バッドバンク』の優先株、あるいはシニア債を一部引き受けてもらう。金額にして30億ドルだ」
なるほど。美味しい部分だけを日本人に譲ったと指弾されたくないのだろうな。
財務長官が続けていった。
「つまり、政府が100%リスクを背負うのではない。民間、それも買収側である君たちも痛みを分かち合うという形が必要だ。これがあれば、私は議会に対して『これは救済ではない。民間主導の再生スキームに、政府が激変緩和措置として協力するだけだ』と言い訳が立つ」
100億ドルの買収資金に加えて30億ドルの負担。
彼はフォイトをちらりと見た。
「そしてリチャード。君のプライドはここで終わりだ。新会社の経営権は完全にキノシタに移る。君はCEOを退任し、アドバイザーとしての席だけを残す。これ以上の譲歩は1インチたりとも認めない」
フォイトはガタガタと震えながら、もはや声も出ない様子で小さく頷いた。
ボールマンは再び私と織田に視線を戻し、獰猛とも言える笑みを薄く浮かべた。
「どうだ、ミスター・キノシタ。130億ドルで『世界の金融システムの崩壊を防いだ救世主』の座と、ウォール街の一等地に輝く健全なリーマン・ブラザーズの利権が手に入る。
アメリカ政府を動かしたいなら、君たちも血を流して見せろ。これが私の返答だ。……乗るか、降りるか?乗るのであればニューヨーク連銀の法務部に検討させよう」
さすがは財務長官を務めるだけの男だ。これなら双方にとって悪くない提案だ。よし、乗ろう。
だが、私は油断しなかった。まだ、最大の障害が残っているからだ。
「いいだろう、財務長官。その提案に乗ろうじゃないか」
私は、財務長官を見据えた。
「だが、それに乗るためにはもう一つ、問題がある」
「何だね?まさか条件を吊り上げるのかね?」
「いや、我々には日本政府という大きな障害が残っている」
私は静かに言った。
「彼らは、日本企業がアメリカの金融危機に首を突っ込むことを嫌がる。特に、経済産業省は」
ボールマンの表情が、険しくなった。
「……日本の諺にあったな。『出た杭は叩かれる』だったか?それは……確かに厄介だな」
「せやから」
織田が口を挟んだ。
「買収の主体は新しく作った投資会社ということにしますわ。豊臣グループの名前は表に出さへん」
「それで、日本政府は黙るのか?」
「まさか。黙りまへん」
織田は、にやりと笑った。
「せやけど、表立って止めることはできまへん。なんせ、民間の投資活動やからな。せやから最終的にはこうしてほしいんですわ。できまっか?」
織田は立ち上がり、ボールマンに近づいて何やら耳打ちしていた。
それに対してボールマンは、織田の話を聞いてしばらく考え込んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。その線で行こう。タイミングを合わせてこちらも動く」
会議は、そこで終わった。
私たちがビルを出ると、ニューヨークの夕暮れが街を赤く染めていた。
織田が、満足げに言った。
「総帥。これで外堀は埋まりましたわ」
「ああそうだな。あとは、9月を待つだけというわけだ」
だが、私の胸には、わずかな不安が残っていた。日本政府は、本当に黙っているだろうか。
経済産業省や財務省の官僚たちは、私の動きに気づいているはずだ。彼らが何もしないはずがない。それに、織田を完全に信用していいのだろうか。
「総帥」
織田が、私の考えを読んだかのように言った。
「心配せんでよろしい。日本政府が動くなら、こっちにも手がありますわ」
「どんな手だ?」
「それは……」
織田は、意味深に笑った。
「その時が来たら、お見せしますわ」
それは先ほどボールマンに耳打ちしていたことだろうと理解できたが、私は、それ以上聞かなかった。
この男は、いつも一手先を読んでいる。ならば、任せておけばいいし、彼が裏切らない前提で動くしか手がない。
私たちは、タクシーに乗り込んだ。行き先は、マンハッタンのホテル。
明日からは、小二郎や寧音にも手伝ってもらってリーマンの資産査定を本格的に始める。9月15日まで、気づけばあと2ヶ月しかない。
時間は、刻々と迫っていた。
ホテルに戻ると小二郎と寧音が待っていたが、いつもと何だか様子が違っていた。
「何かあったか?」
すると小二郎が低い声で言った。
「兄さん……兄さんが僕を代表にして作った投資会社ですが、まさかリーマン・ブラザーズを買収するために作ったわけじゃありませんよね?」
私は思わず額に手を当てた。
そういえば詳しい説明をしていなかった。
「……まあ、その通りだ」
「はぁ!?」
小二郎が素っ頓狂な声を上げた。
「正気ですか!?あれはアメリカを代表する投資銀行ですよ!」
「だからこそだ」
私は静かに答えた。
「春先にベア・スターンズが破綻しただろう?あれの延長で今年の秋、リーマンは経営危機に陥ると見ているんだ。その時に備えている」
寧音が眉をひそめた。
「それって根拠はあるの?」
「ある。だから動いているんだよ」
二人は顔を見合わせたが、寧音は私の言葉で察したらしい。「これはきっと夢予言だ」と。
一方の小二郎は納得したわけではないだろう。
だが、私が本気であることだけは伝わったらしい。
やがて小二郎が大きくため息をついた。
「分かりましたよ。どうせ止めてもやるんでしょう?」
「もちろんだ」
「でしょうね」
私は苦笑した。運命の日は確実に近づいていた。




