躍進期⑧ リーマンショック 承
2008年(平成20年)2月
不思議な噂が、アメリカ政府関係者やウォール街の一部で囁かれるようになってきているらしい。
そんな話が私の耳にも飛び込んできた。
内容はベア・スターンズの破綻をピンポイントで予測するものらしく、「この会社は3月中旬に潰れる」と、妙な日本の老人が流暢な英語で触れ回っているというのだ。
なるほど、織田だ。彼の仕業だ。それはすぐに分かったのだが、彼が英語を話せるとは知らなかった。
あの人は本当に謎だらけで、完全に信用していいのか今でも判断に悩む時がある。
ともかく、織田の狙いは明確に理解できた。この段階でベア・スターンズの破綻を事前に把握したという実績を作って、9月のリーマン・ブラザーズの危機に備えようという腹積もりなのは疑いない。
前世におけるリーマン・ブラザーズの破綻は、様々な要因が重なってバークレイズが買収できなかったからだ。まずはバークレイズ側の株主承認が得られないという問題を抱えていたし、アメリカ政府も及び腰で政府保証が得られなかった。なぜ民間企業を助けるのだと批判を浴びるからで、リーマンの破綻直前にベア・スターンズに対して、政府保証を付けるという形で救済していたのが『痛恨の一撃』となった。
あれさえなければ、アメリカ政府は救済した可能性が高いだろう。
何よりもバークレイズによる資産査定の時間が足りなかった。よって法的リスクが不明確であり、リーマン買収に至らなかったのだ。
一方で私には未来知識によって、リーマン・ブラザーズが破綻することを知っているし、査定時間もたっぷりある。何より豊富な資金力を持っているのだ。
だがしかし!ここで大きな問題が出てくる。
私が「腐ったリンゴを切り捨てる」ためには、リーマンの資産を精査する必要がある。その精査をするにはリーマン側の協力が必須となる。
ところが、現時点のリーマンは、まだ自分たちが破綻するなんて思っていない。実情を把握しているのは経営陣の一部で、多くの社員はむしろ絶好調だと思っている。
だからこそ、この時点で私が「おたくの会社、9月に潰れますから今のうちに資産を見せてください」なんて言っても、門前払いが関の山だ。
だからこそ織田はベア・スターンズで実績を作り、名前を売っているのだろう。
私もリーマンの不良債権の全てを知っているわけではないが、代表的な物件は覚えているから、いざとなったらCEOのフォイトに突きつけて揺さぶってみよう。
そして3月中旬。
アメリカ第5位の投資銀行(証券会社)ベア・スターンズの経営危機が突然表面化した。サブプライムローン問題が原因で経営が急速に悪化したのだ。慌てたニューヨーク連邦準備銀行が緊急融資を行い、救済先の検討に入った。
このままだとJPモルガン・チェースに救済買収されることになるだろうが、当然ながら事前にこれを予想した日本の老人のことは、ウォール街では公然の秘密として語られるようになった。
そしてここが肝心な部分だが、米政府は破綻に瀕したベア・スターンズをJPモルガンに買収させる際、約300億ドルの政府保証を付ける。これが先ほどふれたように「公的資金を使って金持ちの投資銀行を救うのか!」という、猛烈な世論の反発を招く。
その結果、ボールマン財務長官は「もう二度とどこも救済はしない」という強い態度を取らざるを得なくなって、9月の騒動でリーマンを見捨てる判断に繋がるのだ。
満足げな笑みを浮かべ、久しぶりに織田が私の前に姿を現したのは、ベア・スターンズの救済処理が一応完了した5月のGW明けの朝だった。
「総帥。事前の仕掛けは問題なく打てましたわ。ワシの噂はどんな内容で広まってまっしゃろか?」
「予言者が現れたという噂でもちきりらしいですね。それで……次はいよいよリーマンのCEOに接触するんですか?」
「その前に『次はリーマン・ブラザーズが危ない』という噂を撒き散らしてきましたから、効き目が出るまで様子見ですわ」
「なるほど『予言者』に名指しされたら平静ではいられないでしょうね。ましてや身に覚えがあればね」
「そうですわ。さすがによくお分かりで……機が熟すのを見計らってリーマンのリチャード・フォイトCEOに会うて、『9月には破綻する』と告げたろと考えてますわ」
なるほど、やはりな。
「フォイトは最初は笑い飛ばすでしょうね。しかし織田さんが具体的な数字を出したらどうなるかな?『あんたとこのサブプライム関連の損失は、28億ドル。それも第二四半期だけの話で、この物件とこの物件が特にヤバい』なんて言ったら、フォイトは青ざめるでしょう。なぜなら、その数字は社内でも一部の人間しか知らない機密情報だからです」
織田は会心の笑みを浮かべて言った。
「さすがでんな。その通りですわ。そこでワシは救済ではのうて、取引として持ちかけるつもりでんねん。『あんたとこに融資する条件として、健全な部門と人材をこっちによこせ』そう言うたるつもりですわ」
もはやお互いが転生者であることを隠そうともしない会話。なのに互いに自分の正体を告白しないという不思議な空間だった。
「つまり、リーマンを救うのではなく、リーマンを解体して良い部分だけを奪うつもりですね?
そこまでは良いが、財務長官は納得するでしょうかね?」
「ボールマンやったら問題おまへんわ。なぜなら彼は元ゴールドマン・サックスのCEOや。せやから彼は金融市場の安定を何より優先させるはずですわ。それに、リーマンのフォイトCEOは、ライバル関係にあるゴールドマン出身のボールマンを激しく嫌ってまんねん」
なるほど。織田が財務長官に持ちかけるのは、「リーマンを潰したら連鎖破綻が起きる。でも、うちが買えば最小限の被害で済む」という取引か。
ボールマンにとって、それは「ベストではないがベター」な選択肢となる。
「悪くない判断です。だが……最後はやっぱり日本政府が問題となりますね。
『日本企業がアメリカの金融危機に首を突っ込むな』と言ってくる可能性が極めて高い」
「それやったら豊臣グループではなく、別の人間が作った投資会社が買収したという建て付けにすれば、日本政府も表立って止められまへん」
うん……そうだな……
「わかりました。ちょっと考えてみますので時間をください」
小二郎と寧音に相談してみよう。
私はその日の午後、小二郎と寧音を呼んだ。
「二人に頼みたいことがあるんだ」
そう言うと、二人は少し表情を引き締めた。
「新しい投資会社を作る。名義は小二郎か寧音を考えているんだが」
「投資会社?」
寧音が首を傾げた。
「詳細はまだ言えない。ただ、アメリカ企業への大型投資案件だ」
二人は顔を見合わせたが、寧音が先に口を開いた。
「私は遠慮しておくわ。秘書の仕事だけで十分忙しいもの」
「そうか」
すると小二郎が肩をすくめた。
「じゃあ僕がやりますよ」
だが私はすぐには頷かなかった。
「一つだけ覚悟しておいてくれ」
「覚悟?」
「成功した場合、お前の名前は世界中に知られるかもしれない」
小二郎は目を丸くした。
「そんな大げさな」
「いや大げさじゃない」
私は真顔で言った。
「だからこそ、今は詳しい説明ができない。だが信じてほしい。お前に不利益が出ることはないようにする」
しばらく考えた後、小二郎は笑った。
「兄さんがそこまで言うならやりますよ」
私は静かに頷いた。
すまない、小二郎。今はまだ説明できない。
だが、いずれ全てを話そう。
翌日、私は出社してきた織田を呼んで提案した。
「新しい投資会社の代表は小二郎に任せることにしました。しかし、この案件の交渉過程を彼に知られたくないので、私自身が動くつもりです。それに、あなたが単独でニューヨークに乗り込んでも信憑性は薄いでしょう?私と一緒に行きましょう」
織田は満面の笑みを浮かべて言った。
「そうくると思ってましたわ!ほな、一緒に歴史を変えに行こうやおまへんか」
織田に全部任せるわけにはいかない。万が一の裏切りに備えなくてはならないと思った。
2008年(平成20年)5月末 ニューヨーク
マンハッタンの摩天楼が、陽光を浴びて輝いている。だが、その光の下で、金融街は静かに揺れ始めていた。ベア・スターンズの破綻。そして、300億ドルの政府保証。
ウォール街の住人たちは、誰もが次はどこなのか疑心暗鬼になりつつあった。
私と織田は、リーマン・ブラザーズ本社ビルの前に立っていた。
住所は745 Seventh Avenue。タイムズスクエアにほど近い、このガラス張りの巨大なビルが、リーマンの心臓部だ。
「総帥。ここからが本番ですわ。気ぃ引き締めていきまひょ」
織田が低い声で言った。
私は頷いた。
エレベーターで最上階へ。応接室に通されると、ほどなくして一人の男が姿を現した。
リチャード・フォイト。リーマン・ブラザーズのCEOで、ウォール街では「ゴリラ」と呼ばれる男だ。
その異名の通り、彼は巨躯で、鋭い眼光を持っていた。
「ミスター・オダ、そして……」
フォイトは私を一瞥し、そしてその表情が驚愕に歪んだ。
「ミスター・キノシタ……あなたが彼の後ろにいたのか……」
この瞬間。彼は警戒レベルが一段、上がったのではないだろうか。
ベア・スターンズの破綻を事前に予言した男が訪ねてきた。一緒に来たのは世界を経済面で操ろうとしていると評価されている私だったのだ。
「……これは驚いた。あなたたちが繋がっていたとはね。わざわざ日本から来ていただいて恐縮だが、私は忙しい。用件を手短に願いたい」
すでに警戒感が最高潮に達しているらしい。織田が口を開こうとした瞬間、私がそれを制した。
ここは、私が話したほうが効果があるだろう。
「ミスター・フォイト。あなたの会社は、9月に破綻する」
部屋の空気が凍りついたように感じた。それに合わせるかのように、フォイトの表情が一瞬だけ硬直した。だが、すぐに怒りの表情に変わった。
「我が社の第一四半期の業績を見たのか?純利益は4億8900万ドルだ。破綻?馬鹿げている。……ああそうか。最近妙な噂が出回っているが、お前たちがバラまいていたのか!?」
「噂をバラまいた?正確に表現したほうがいいのではないかな。私たちはリーマン・ブラザーズ破綻の予測はした。ともかく4月から6月の第二四半期の損失は、28億ドルになるね」
怒りに震えていたフォイトの表情が変わった。
「……何だと?」
「28億ドルと言った。それも、氷山の一角でね」
「第二四半期はまだ終わっていないのに、なぜそんな予測を断言できるんだ?」
それを無視して私は一拍置いた。
「中身について具体的に言ったほうがいいかな?カリフォルニア州の住宅開発案件。ネバダ州の商業用不動産。フロリダ州のコンドミニアム物件。これらが特に深刻で、想定通りには売れなくなる」
私は辛うじて記憶に残っていた物件名を羅列した。
これらはリーマンが破綻した後に知られるようになった不良債権で、特に損失金額が大きかったはずだ。
ただし、これで反応しなかったら打つ手がなくなるのだが。
そんな私の心配は杞憂だった。フォイトの顔色が明らかに変わった。
「……どこから、その情報を?」
フォイトの声が、わずかに震えた。
ここで織田が、ゆっくりと口を開いた。
「どこから、やのうて。ワシらは『いつ爆発するか』を知っとるんですわ」
「馬鹿な」
フォイトは吐き捨てるように言った。
「我が社のリスク管理部門は世界最高だ。そんな甘い見通しで経営しているわけがない」
「世界最高のリスク管理?」
私は首を傾げた。
「あなた方のリスクモデルは、住宅価格が下落し続けるシナリオを想定しているのか?」
「……それは」
「想定していない。なぜなら、過去30年間、アメリカの住宅価格は下がったことがないからだ。だから、あなた方のモデルは『最悪でも横ばい』を前提にしている」
冷静に考えてみると、この辺りの事情は日本の土地神話の崩壊と変わらない。
私は意識的に一拍置き、続けた。
「その前提が、間もなく崩れる」
部屋が、静まり返った。
フォイトは、何も言えなかった。なぜなら、私の言っていることが正しいと、彼自身が分かっているからだ。
長い沈黙の後、フォイトがゆっくりと口を開いた。
「……仮に、仮にだ。あなたの言う通りだとしよう。それで、何が言いたい?」
織田が身を乗り出した。
「うちが、あんたの会社に融資をします」
「な、何?」
「代わりに、健全な部門と人材をこっちに寄越してもらう。これは救済やおまへん。取引ですわ」
フォイトの表情が怒りに震え始めた。
「ふざけるな。我がリーマン・ブラザーズを解体しろというのか?」
「解体やのうて、再編ですわ」
織田は、にやりと笑った。
「このまま突き進めば、あんたとこは9月に破綻する。政府は助けまへん。ベア・スターンズで300億ドル使うてもうたから、世論が許しまへんのや」
「それは……」
「せやけど、うちが買えば話は別や。民間の取引なら、政府も世論も文句は言わへん。リーマンの名前も残せる。ウォール街での地位も守れる」
フォイトは黙り込んだ。織田の言葉の真偽を彼は考えている。
そして、自分の会社の運命を。
ここで私は、この場を誘導する目的で静かに言った。
「ミスター・フォイト。ベア・スターンズの破綻を、私たちは事前に予測した。その噂は、もうウォール街中に広がっている」
フォイトが、私を見た。
「次はあなたの番だ。ただし、ベア・スターンズと違って、あなたには選択肢がある」
私は一拍置いた。
「私たちと取引するか。それとも、9月に破産法の適用を受けるか」
部屋の空気が、さらに重くなった。フォイトは、長い沈黙の後、ゆっくり口を開いた。
「私は忙しいんだ。占いみたいな話をまともに相手にしようとは思わない。帰ってくれ」
私たちは顔を見合わせた。
ここは一旦引くべきだな。次に来た時にフォイトがどんな顔をするか楽しみにしておこう。
私たちは一旦帰国し、7月になるのを待った。
そして4月から6月末の第二四半期の損失額が確定した頃合いを見計らって、改めて具体的な交渉に臨むつもりだ。
7月初旬
私と織田は改めてリーマン・ブラザーズの本社を訪れていた。
私たちの顔を見たフォイトCEOはかなり疲れているように見えた。
「第二四半期の大まかな数字は出たね?損失額はいくらになった?」
私がそう問いかけると彼は目を逸らした。28億ドルの損失を認めたわけだ。
フォイトは私たちに向き直ると呟くように言った。
「……具体的な条件を聞かせてもらおう」
織田が、懐から一枚の書類を取り出した。
「まずは、これを見てもらいまひょか」
フォイトがその書類に目を通すが、数秒後、彼の表情が歪んだ。
「これは……」
「公表されているリーマンの保有資産リスト。そして、うちが引き取る部門と、引き取らへん部門の仕分けですわ」
織田は淡々と続けた。
「未公表の物も含めて、不動産関連部門は全部切り離す。サブプライム関連も全部や。それ以外の、投資銀行業務、資産運用部門、人材。これはうちが引き取る」
「馬鹿な!それでは会社の半分以上が……」
「半分?いいえ、おそらくやが3分の2に達しますわ」
織田は冷たく言い放った。
「せやけど、残りの3分の1は確実に救えるんや。あんたが選ぶべきは、3分の1を守るか、全部失うかやで」
フォイトは、歯を食いしばった。彼の拳が、震えている。
これは怒りか、それとも恐怖か。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「今日の話は、ここまでにしておこう。考える時間が必要だろうからね」
フォイトが、鋭く言った。
「待て。一つ聞かせてくれ」
「何か?」
「なぜ、あなたたちはそこまで正確に未来が分かるんだ?」
私は、微笑んだ。
「それは、もちろん企業秘密だよ」
そう言い残して、私たちは部屋を出た。
ビルを出てから織田が小声で言った。
「総帥。フォイトは乗ってきますわ」
「そう思いますか?」
「ええ。あいつの目を見れば分かる。もう逃げ場がないことを、あいつ自身が一番よう分かっとる」
「よし。では次はあそこに行きましょう」
「そうでんな」
私は空を見上げた。青く澄んだ空。だが、その向こうには、巨大な嵐が近づいている。
それから間もなく、リーマン・ブラザーズの経営状態を不安視する声が市場を中心に出始め、リーマン側は対応に苦慮し始めることになる。




