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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ  作者: 織田雪村
第七章

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躍進期⑦ リーマンショック 起

2008年(平成20年)1月


奈良県五條市 仮本社


正月気分も抜け、本格的に業務が始まっている。


盆地の冬の朝は寒い。

それがこの土地の唯一の欠点かなとは思うが、市内各所では、2年後の豊臣グループの本拠地竣工に向けての工事が佳境を迎えていた。


五條市の周辺も含めて、将来の計画人口に相応しいインフラの工事が進んでおり、街の様相は一変しつつある。

山林の造成、地下鉄工事、上下水道と都市ガスの充実、電線の地中化、区画整理、道路の拡幅と新規道路の建設、大規模集合住宅の建設、病院や学校の建設など、人口規模が50万人になることを想定した街づくりが行われているのだ。


もっとも、建物だけでは都市は完成しない。

人が住み、働き、学び、遊び、そして税を納めて初めて街になる。


そのため商業施設やホテル、物流拠点の整備も急ピッチで進められており、生活に必要な機能はほぼ揃いつつあった。


とはいえ、本社が完成していないから、豊臣グループ各社の拠点の多くは西新宿に残したままで、五條の仮本社に移ってきている社員はそれほど多くはない。


だが、それもあと2年だ。


2年後、この街が完成した時、世間からなんと呼ばれるようになるだろうか?


「新・平城京」か、それとも「大和の都」だろうか。



ともかく、2008年になった。

新年を迎えて、今年の目標はたった一つだ。


それは「ブラックマンデーを超える、世界的な経済危機を逆に利用して、もう一段上に行く」というものだ。


あの時、21年前の1987年10月。

アメリカを襲ったブラックマンデーのあおりを受けて東京市場が恐怖に包まれ、混乱の最中で投げ売られた株を拾い集めた結果、私は資産を一気に膨らませて市場関係者から一目置かれる存在になった。その後はバブルの波に乗って融資枠をさらに増やし、最終的には巨万の富を得るに至った。


あの成功体験をもう一度だ。


今回も同じ匂いがする。するどころか、その規模と期間は比べものにならない。狙い目となる企業も盛りだくさんで目移りしてしまうほどだ。


例えばアメリカ株でいうならば、DVDレンタルから配信へと舵を切りつつあるNetflixは、まだ市場から過小評価されている。この会社が本格的な成長を始める前に、弱気になった株を大量に仕込んで将来に備えるというのは美味しい話だろう。

VisaやMasterといった金融関係も外せない。


私は資料をテーブルに広げながら、ペン先で軽く叩いた。


「決済インフラは、最後に必ず勝つ」


信用が収縮する局面では、銀行は傷つく。だが、決済そのものは止まらない。むしろ現金からカードへ、カードからデジタルへと流れは加速する。だからこそ、VisaやMasterのような“通行料ビジネス”は、恐慌の底で買う価値がある。


それだけではない。

私の本業とは縁がないが、フランスのLVMHも悪くない。あの高級バッグの代名詞、ルイ・ヴィトンを抱えているが、景気後退局面では高級ブランド需要の減退が避けられず、株価は大きく下落する。

このような耐久力のある企業ほど、混乱時には取得のチャンスが転がるのだ。


日本株も例外ではない。

キーエンス、トヨタ自動車、東京エレクトロン……。

本来なら簡単に手放されるはずのない株が、恐怖の中で無差別に売り叩かれる。


以上は一例を挙げただけだが、このように世界各国の有力株が軒並み下がってしまう大事件が起きる。

今年の9月に起きるその大事件の名は、もちろん『リーマンショック』だ。


アメリカを代表する投資銀行の一角、リーマン・ブラザーズの破綻が引き金となり、世界中の金融市場が連鎖的に凍りつく。


原因は、サブプライムローンと呼ばれるアメリカの低所得者向け住宅ローンが焦げ付くことだ。

それらは複雑に証券化され、リスクの所在が不透明なまま世界中の投資家に販売された。誰もが「いつか爆発する爆弾」を抱えている自覚はあったが、その時期と場所を読み誤った。


結果として、救済の網から漏れ、その巨大なババを引く形となったのがリーマン・ブラザーズだったのだ。


その影響は日本にも襲い掛かった。日経平均株価は、2008年秋に7000円台前半という歴史的な水準まで下落する。後に振り返れば、それは長い低迷期を経た日本市場の象徴的な底となった。


株価だけではない。業績が急激に悪化した企業は人員削減に踏み切り、「派遣切り」が社会問題となる。とりわけ自動車産業への打撃は大きく、多くの非正規労働者が雇い止めの対象となった。


企業にとっては生き残りを懸けた苦渋の決断だったのかもしれない。しかし職を失った人々にとっては、突然生活基盤を奪われる深刻な危機だった。影響は幅広い業種に及び、日本社会は大きな不安に包まれていく。


だが私から見たら、そんな恐怖が最高潮に達したときこそ、最大のチャンスが転がっている。問題はただ一つ。その瞬間まで、冷静でいられるかどうかだ。

ブラックマンデーの時は成功したが、今回の相手は世界最大の金融危機だ。

さて、どんな手を打つか。


私は五條の仮本社内の執務室に一人で閉じこもり、株価の推移を見守りながら銘柄を選ぶ日々だったが、ある日、特別秘書の織田雪村が私が呼んだわけでもないのにふらりとやってきた。


基本的に彼は自由だ。

秘書室内の寧音の横のデスクが彼の持ち場だが、滅多にそこにはいないし出社もしていない。

実のところ、普段の彼がどうやって過ごしているのか私もよく知らない。


用事があるときにお互いがお互いを利用し合う。そう表現するのが実態を表すのに最も適切な言葉だろうか。実際、彼と顔を合わせることはほとんどない。そんな彼が突然現れ、私の目論んでいる内容と同じことを言った。


「今年は例の、あの会社が突然死して世界中が大騒ぎになりまんな。いや大騒ぎどころやあらへん。世界恐慌並みの大寒波に襲われますな。少なくとも金融業界は軒並みパニックになりまっせ」


やはりこの男は未来を知っている。


おそらくは私と同じ転生者だというのは、この発言で確定したようなものだ。私が考えているように、底値で買って資産を膨らませようというのだろう。それでも、カマを掛けられている恐れもあるから、ここは惚けておいたほうがいいだろう。


私は可能な限り冷静さを保ちつつ言った。


「そうなんですか?そんな情報をどこから仕入れたんです?」


織田は私の言葉が聞こえなかったかのように、私の質問に答えずに続けた。


「藤一郎はんがお好きな、絶好の買い場が迫ってきておりまんな。まぁ底値で買うのは悪い判断ちゃいますやろ。せやけど、もっとええ考えがおまっせ?」


「………」


もう織田は未来は決定しているんだと言わんばかりの態度だ。


「……仮にそんな事態になったとして……どうすれば良いというのです?」


「あんさんがリーマン・ブラザーズを潰れる前に買うんですわ。バークレイズの代わりに」


……こうもはっきり言われると、清々しささえ感じてしまうな。

それにしても、この男は自分の正体を隠すつもりがないみたいだ。だからといって、私まで正体を白状する必要はないだろう。


確かにリーマン・ブラザーズは破綻する寸前に、イギリスの大手銀行であるバークレイズと買収交渉を秘かに進めていたのは事実で、前世の私は、その情報をリーマンが破綻した後で知ったのだった。


「仮に、リーマン・ブラザーズが経営危機に陥ったとしましょう。そしてバークレイズと交渉をするとして、問題は多いですよ。そもそも買収なんてアメリカ政府が認めないでしょう。そんなリスクをバークレイズが取りますかね?もちろん私だってそんなリスクを負いたくはないですね」


いや。私が動けば日米問題に発展することを恐れた日本政府のほうが先に動き、私を封じ込めようとする可能性すらある。経済産業省の官僚たちと政治家が一緒になって、私を叩く絶好の機会として利用する可能性は捨てきれないのだ。


そんな事態は真っ平ごめんで、だったら世界中の有力企業株を底値で買うほうが簡単に儲けることができるのに、なぜそんな危険なことをわざわざする必要がある?


そう思っていたら彼は呆れたような顔で言い放った。


「リスク、リスクって……。総帥ともあろうお人が、何を小粒なこと言うてはりますのや」


「総帥」か。都合のいい時にだけ総帥と呼ぶのはやめてほしい。

そもそも、秘密結社のリーダーみたいな呼び方に聞こえるから私は好きではないのだ。


織田は私のデスクの前まで歩いてくると、勝手に来客用の椅子へ腰を下ろした。

その態度を見て私は一瞬眉をひそめたかもしれないが、気を取り直して確認してみた。


「織田さんはそう言うが、リスク管理は基本中の基本でしょう?」


それに対する織田の返答は、またもや私の質問に正面から答えるものではなかった。


「ええですか。ただの株買いは『後出しジャンケン』や。そら簡単に儲かりますわな。数年待てば資産は数倍。オプション市場でプット取引したんなら天井知らずや。けど、それは単なる金持ちの道楽ですわ。世界中の投資家が同じことを考えまっしゃろ」


織田は身を乗り出し、獲物を狙う鷹のような鋭い眼光を私に向けた。


「そうやのうてリーマンを買収し、その『毒』を食らって、なおかつ生き残ってみせなはれ。そうすれば、あんたは単なる日本の金持ちから、世界のルールを作る側に回れるんですわ。アメリカ政府に貸しを作る。ウォール街のど真ん中に牙城を築く。これ以上のレバレッジがありまっか?」


私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

確かに、リーマンの破綻がリーマンショックを決定的なものにした。もし、あの時どこかがリーマンを救済していれば、負の連鎖は食い止められ、世界と日本の歴史は変わっていたはずだ。


「それにや……」と、織田は少し表情を変え、私を諭すように言った。


「世界恐慌並みの大混乱を止めることは、正義の力の発露っちゅうもんや。藤一郎はん。自分が儲けることだけ考えたらあかん。リーマン問題を軟着陸させ、急激な景気後退を防ぐのは国民を守ることにつながるんや。まさに正義の味方でっしゃろ?

上手くいけば……世間の総帥に対する誤解も、ある程度は穏やかなものになりまっしゃろ」


世間の見方は変わるだろうか?だが、言っていることは理解できるし、この場で否定するのはちょっと違う気がする。


「そう言われると反論の余地がないですね……しかし」


それでも、リスクが大きすぎる。この男はどのような勝ち筋を見出しているのか。

私は未来知識で把握している最終的なリーマンの負債額を匂わせてみた。


「織田さん……あなたは正気か。あそこが抱えている不良債権は、底が見えない沼ですよ。それを丸ごと飲み込めば、私の築き上げた帝国もろとも沈没しかねない」


「沈みまへんよ。総帥が『いつ、どこでどんな爆弾が爆発するか』を知っているならね」


リーマン・ブラザーズの不良債権か……主なものなら記憶にあるが。

そうか。織田は全部飲み込むのではなく、やばい案件だけ見極めて対処しろと言っているのか。


織田はニヤリと笑い、懐から古びた手帖を取り出し、ページをめくりながら言った。

彼が使っているのを何度か見たことがある黒皮の手帖だが、かなり使い込まれており、あちこち擦り切れてボロボロになりかけていた。


「バークレイズが二の足を踏んだんは、法的リスクと資産査定の時間のなさや。せやけど、うちらには時間がある。1月の今から動けば、腐ったリンゴを切り捨てて、中身の黄金だけを掬い取るスキームを組める。アメリカの財務長官ボールマンを、逆にこっちが呼びつけるんですわ」


今更だがその手帖はいったい、いつの物なのだ?いつからそれを所持している?そもそも、この男はどこまで歴史を知っているのか?


様々な疑問が改めて沸き起こるが、それ以上に織田の言葉は熱を帯びた毒のように私の思考を侵食していく。リーマン・ブラザーズが持つ世界的なネットワーク、優秀な人材、そして金融工学の粋を集めたシステム。それが手に入る。しかも、アメリカ政府が「泣いて喜ぶ」という特大の貸しを作った上でだ。


「……織田さん、あんた。それをやって、その後に何を見るつもりですか?」


私は、自分でも驚くほど低い声で尋ねた。


「何って、決まってますやんか」


織田は窓の外、冬の澄んだ空気の向こうに広がる五條の街並みを見下ろした。


「この先、ITと金融が溶け合う時代が来ます。その時、総帥は単なる投資家としてではなく、プラットフォームの所有者として君臨するんですわ。世界の覇権企業を完全に跪かせるために、この『死にかけの巨人』の心臓が必要なんですわ」


私は椅子に深く背を預け、目を閉じた。 21年前のブラックマンデーでは、私はただ勝ち馬に乗っただけだった。だが、今回は違う。織田の言う通りなら、私は歴史の濁流をせき止めるダムになり、その貯水力を利用して新たな世界を照らす発電機になることができる。


私自身の奥底に潜んでいた、名誉欲という野心が静かに目覚めたような気がした。その一方で皆澤禅師の言葉も同時に聞こえた気がした。


ともかく、確認しておかねばならないことは他にもある。


「そもそもの話。リーマン・ブラザーズは何で『突然死』してしまうんです?問題が表面化しても、アメリカ政府が見殺しにするとは思えないんだが?」


織田はニヤリとして言った。


「大きな理由は二つですわ。今年の3月にはベア・スターンズが破綻しまんねんけど、アメリカ政府がそれに助け舟を出したことが失敗の一つですわ」


……確かにそうだった。なんで民間の、しかも投資会社の危機を国民の税金を使って救わねばならないんだという声が大きくなってしまったのは事実だった。だからこそ半年後のリーマン危機に際しては、政府が動けなかったのだ。


「もう一つがリーマンのCEOリチャード・フォイトと、財務長官のボールマンとの個人的な関係ですな。長年の仇敵であったことは大きな要因でっしゃろ」


これも後になって言われるようになったことだ。

なるほど……私は腹を括り、織田を真っ直ぐに見据えた。


「わかりました。アメリカに渡って動向を探りつつ、豊臣グループに有益な活動をしてください」


「合点承知。ええ返事ですわ、総帥」


織田は部屋を出て行った。一人残された私は、PCの画面に映る株価チャートを見つめた。そこにはまだ、平穏を装った嵐の前の静けさが漂っている。


リーマン・ブラザーズ。 その巨大な死骸を喰らい、化け物に進化するか。

それとも、共倒れして歴史の塵になるか。


2008年。私の、そしてこの世界の「運命の1年」が本格的に動き出した。


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