躍進期⑥ 未来への布石
2007年(平成19年)3月18日
奈良県五條市野原町 リニア新幹線五條駅前 『新・平城京』建設予定地
春先らしい柔らかな陽光が降り注ぎ、その日の五條市は雲ひとつない穏やかな青空に包まれていた。
この場所の北側には吉野川の清流が光を受けてきらめき、その先には金剛山系の雄大な稜線が静かに連なっている。南側に目を移せば、そこは紀伊山地。
最初はなだらかに、だがすぐに険しい峰々が続く圧倒的な大自然が横たわっていた。
建設中の豊臣グループ本社ビルと、その南側で工事が進むリニア五條駅。その間には巨大な遊水地が広がり、中央には幕に覆われた謎の巨大建造物が建設中だ。周囲には白いテントが幾重にも並び、招待された国内外のメディア関係者や経済界の重鎮、自動車業界の要人ら500人以上が開会を待っていた。
YGNの記者発表の時もそうだったが、東京や大阪だけでなく、海外からやって来た招待客も多い。彼らは五條という聞き慣れない地名に首を傾げながらも、目の前に広がる巨大な工事現場と急ごしらえの会場、その圧倒的な活気に少なからず驚いている様子だった。
中には、会場にたどり着くまで一苦労した招待客もいたらしい。
というのも、現時点でこの街の玄関口となっているのは、ここから北へ1kmほどの場所にある「JR和歌山線・五条駅」だ。しかし、市名の「五條」と表記が異なるうえ、京都市内にも同名の駅が存在する。そのため、誤って現時点では名の通っている京都の五条駅へ向かってしまった人が少なからずいたと、後になって聞いた。
今は無名に近いし、仕方ないと思う。だが、この『新・平城京』とも言える大和の都が完成すれば、そのような誤認は過去のものとなるだろう。
特に本社ビルは日本一の高さ、400mとなる予定だし、それ以外にも複数の高層ビルが建設中だ。
災害対策もぬかりない。
水害対策として太平洋まで続く導水トンネルを始め、駅前には四か所の遊水池が建設中だった。
それぞれの中央部にある、幕に覆われた謎の建物もその一部というわけだが、これが完成したら大きな驚きをもって世の中に知れ渡ることになるはずだ。
それは楽しみでもあり、同時に怖くもあるのだが、今日はテスラモーターズの新車発表会をこの場所で行うのだ。シリコンバレーでもデトロイトでもない。奈良の山あいの小都市を、イーロン率いるテスラモーターズが発表の舞台に選んだ。それ自体がすでに、ひとつのメッセージだった。
ステージに立ったイーロンは、自信に満ちた穏やかな表情を見せていた。
緊張がないわけではないだろう。だが、西吉野の研究所で何百時間もかけて向き合ってきたあの車両が、今日ここで初めて世界に姿を見せる。その事実が、彼に独特の静けさを与えているように見えた。
「我々が作ったのは、速い車ではありません」
イーロンはゆっくりと、しかし明確に話し始めた。
「電気で動く、美しいスポーツカーです。そしてそれは、同時に証明でもあります。
何の証明なのか?電気自動車は妥協の産物ではない。ガソリン車が到達できなかった領域へ、人類を連れて行くことができるという、その事実に対してです」
一瞬の静寂の後、白いカバーが引かれた。
ロードスターが姿を現した瞬間、会場のあちこちでシャッター音が弾け、続いて拍手が起きた。低く構えたボディ、滑らかに流れるフォルム、普通の自動車ならあるべきフロントグリルやエアダクトというものが存在していない。そしてどこにも排気管がないリアエンド。春の光を受けて、深いブルーのボディが静かに輝いていた。
記者からは「ロータス・エリーゼがベースなのか?」というような感想が聞こえてきたが、確かに少し似ているかもしれない。
流麗なデザインに対して賞賛の言葉が漏れるなかで、イーロンは胸を張って言葉を紡いだ。
「この電気自動車は、皆さんが想像しているような弱い存在ではありません。心臓部のバッテリーにとって、苦手とする三つの要素を軽々とクリアしているのです。すなわち、高温・低温・湿度に対する耐久性を高めるため、日本の過酷な環境にあえて晒し続けたのです。その結果、どんな厳しい環境下でも走り続けることができる高い耐久性能を実現したと自負しています」
発表後のデモ走行は、駅前から吉野川沿いの道を使って行われた。
イーロンが自らハンドルを握り、ロードスターを発進させると、その加速の鋭さに沿道の記者たちから思わず声が漏れた。エンジン音はない。タイヤが路面を蹴る音、そしてモーターの低くうなる音だけが響いた。
一周して戻ってきた彼が車を降りると、取材陣が待ってましたとばかりに一斉に取り囲んだ。質問が飛び交う中、私は少し離れた位置から眺めていた。
やがて囲みが落ち着いた頃合いを見計らって、イーロンは広報担当者へ業務を引き継いだ。彼は私のもとへ歩み寄り、隣に並んだ。彼は吉野川の方を向いて、静かに深呼吸をしていた。
「うまくいったな」
私が言うと、彼は小さく笑った。
「ああ。でも、これは始まりに過ぎない」
しばらく二人で川を眺めた。会場の喧騒が、少し遠くなるような気がした。
「トイチロウ、一つ話していいか?また資金のかかる話だ」
この後の展開は当然予想できるが、一応、驚く用意をしておこうか。
「うん。聞こうじゃないか。言ってくれ」
私は故意に声のトーンを落としたが、彼は私が警戒していると受け取っただろう。慎重な態度になって言った。
「このクルマが売れたとして、次の段階で一番大切になるのは何だと思う?」
私はすぐには答えなかった。
彼はもう次の段階で何をすべきか考えているからだ。そして予想通りの言葉を発した。
「私は自動運転だと考えているんだ」と、彼は言ったのだ。
「そうか。そうだな。気づかなかった」
私は驚いたふりをして頷いた。そんな私を見て、ここぞとばかりに彼は力を込めて言った。私を説得できると感じ取ったのだろう。
「電動化は手段だ。本当のゴールは、クルマが自分で判断して走ることだと私は思っている。ドライバーの負担をゼロにするだけじゃない。事故をなくす。渋滞をなくす。人間が運転するより、はるかに安全で効率的な交通を実現できる」
そうイーロンは言い、それから川面に視線を落とした。
私は言葉の代わりに頷いて見せた。
「だが、トイチロウ。道のりは遠いだろう。
だからこそ、今から考えておかなければならないことがある」
そうだなと私は応じた。ここは彼に指針を示すべきだと感じた。
「イーロン。自動運転は、クルマ単体でも成立しなければならない。センサーと演算だけで、安全に走り、必要なら安全に止まれること。それが最低条件だ。だが……それだけでは足りないはずだ。本当に交通を変えるのは、その先だ。クルマ同士が互いの動きを共有し、インフラと連携し、道路全体を一つのシステムとして最適化する。リアルタイムで会話する交通が理想なんだ」
イーロンが大きく頷いた。やはり彼にも方向性は見えているのだ。私は彼をある方向へと誘導した。
「そのためには通信が重要なんだ。地上の基地局だけに依存した通信では、山間部や農村部、あるいは海の上ではどうしても穴ができる。圏外でもクルマは止まることなく走り続けるだろう。だが電波が途切れた瞬間、社会全体としての最適化も同じく途切れる。渋滞は戻り、事故のリスクは上がり、効率は人間の運転に近づいていく。
だからこそ、どこにいても繋がる通信が必要になるんだ」
イーロンが私の方を向いた。その目に、静かな光が宿るのがわかった。
「だから通信衛星が必要だろう?すでに方法は考えている。だが、資金が続くかどうかわからない」
彼の口から遂に出たのは通信衛星の話だった。何度も失敗を繰り返しながらも、文字通り、事業を軌道に乗せるだろう。
「イーロン。やろうじゃないか。資金は私が出すしロケット発射場の場所もこの近くに提供する。衛星は絶対に必要なものだと思う」
私は吉野川の上流、紀伊山地の稜線を指で示すように視線を向けた。
「見てみろ。あの山の向こうに研究所がある。地上の通信インフラは今も、あの山一つ越えるだけで途切れる。だが衛星ならば、地形を問わない。どこにいても、同じ品質で繋ぐことができるんだ」
「となれば高高度の静止衛星じゃない。低軌道衛星だな」
そうイーロンは呟いた。独り言のような声だったが、私にははっきり聞こえた。
「高度を下げれば遅延が減る。数を増やせばカバーできるエリアが広がる。一方で寿命は短くなってしまう。コストさえ解決できれば……」
「コストの問題は、ロケットを自分で作れば解決できるんじゃないのか?しかも使い捨てではないタイプならどうだ?」
私が静かに言うと、イーロンはしばらく黙った。
川の音だけが続いた。
「再利用できるロケットか!」
と彼はやがて言った。もはや私への返答ではなく、自分自身に言い聞かせているような口ぶりだった。
「一度使って捨てるから高くなる。何度も使えるようにすれば、コストは桁違いに安くなる。スペースシャトルと同じ発想だな?」
「その通りだ」
「自動運転の車が、自社の衛星ネットワークと繋がって走るか……」
彼はゆっくりと、その絵を頭の中に描くように言葉を繋いだ。
「地上のどこにいても、クラウドとリアルタイムで会話しながら走る車。地図データも、気象情報も、周囲の車の動きも、すべてが繋がっている」
「それが完成したとき、クルマは移動手段ではなくなるな?」
私は言った。
「間違いなく空間になるだろう」
イーロンが私の方を向いた。確信めいた表情だが、水を差すようで申し訳ないと思いつつ、私は現実の問題点を教えた。
「ただしイーロン。問題点もある。衛星で世界中を繋ぐのは素晴らしい。だが、日本では、その先の地上通信網が大きな壁になるんだ」
「……それはどういう意味だ?」
「自動運転や通信インフラが本格化すれば、より多くの電波資源が必要になる。だが、日本では利用価値の高い周波数帯の多くを既存の放送局が占有しているんだ」
イーロンは少し考え込んだ。
「つまり技術の問題ではなく、政治の問題か?」
「そういうことだ。電波は国民共有の資産だが、一度割り当てられた権益は簡単には動かない。将来、自動運転や次世代通信を普及させようとすれば、必ず彼らの大きな抵抗に直面するだろう」
せめて、空いている周波数帯を自ら返上してくれたらいいのだが。
しばらく二人とも黙った。
私としては、自動運転や物流網、農業の自動化といった未来の産業に電波資源を振り向けるべきだと思っている。だが既得権を動かすには政治的な決断が必要となる。
「面倒な話だな」
「ああ。だが避けては通れない。いずれ世界中で同じ議論が始まるはずだ」
「とりあえず紀伊半島の特区を利用してやろうじゃないか。電波法も宇宙航空法も回避できるし、漁業法も無効化できる場所だからな」
既に紀伊山地全域にわたって、ケーブルテレビのネットワークで視聴されているから、地上波が届かなくても一部を除き問題にならない体制は構築できている。
会場の方から、また記者たちの声が聞こえてきた。誰かがロードスターの航続距離について質問しているらしかった。
「急がなければならないな」
彼が静かに言った。それはロードスターの話ではないことが、私にはわかっていた。
「ああ。だが、順番がある。まずこのクルマを世界に認めさせろ。次の話はそのあとだ。それから次のモデルだが、災害時にも使いやすいミニバンかSUVタイプが欲しいな」
東日本大震災と紀伊半島豪雨の際に、被災者保護に力を発揮するだろう。
イーロンは頷き、それから踵を返して取材陣の方へと歩いていった。
特区の特性を最大限使ってロケット発射基地を整備しなくてはならない。場所は、令和でも「カイロス」が運用されていた和歌山県最南端、串本町が最適だな。当然だがロケットは日本製だ。東京都大田区や大阪府東大阪市の中小企業に声を掛けて「下町のロケット」を実現させよう。
私はそんなことを考えながら、もう少しだけ川を眺めていた。
吉野川は変わらず、ゆったりと流れていた。
太陽が西に傾き、会場前の遊水池に建設中の構造物を覆う幕に光が差し込み、その内側の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。それを見た何人かの記者がお互いの顔を見合わせた。
反応したのは外国人ではなく、主に日本人だった。
「……何だろうな」
「このビルの形、どこかで見たことがあるような気がするが、思い出せない」
「内部はコンサートホールみたいだし、あれじゃないか?東京国際フォーラムのガラス棟だ」
「有楽町駅前の?そう言われるとそう見えるが、これはガラスに覆われているのか?」
「わからんな……だが、あっちのビルは防災拠点で、その向こうにある建物はスタジアムになるらしい」
「なんだか用途がバラバラだな」
「大きさもな。一番向こうだけなんだか妙に小さいし」
そんな声があちこちから聞こえてきた。
まあそんな感想になるだろうなとは予想していたが、思った通りの反応だった。
この四つの施設の中で一番大きいのは西から三番目に建設中のスタジアムで、規模は東西230メートル、南北250メートル。サッカーやラグビーの国際試合にも対応できる大きさと収容人数に基づいて設計されていた。
その夜、五條市内の柿の葉寿司店の2階宴会場で、マーティン・エバーハードがグラスを掲げた。
「ロードスターのために」
「「「「「ロードスターのために!」」」」」
乾杯の声が重なった。
私はグラスを口に運びながら、イーロンの横顔を見ていた。彼はさっきから柿の葉寿司を黙々と食べているが、視線だけは遠くを見ていた。ここではないどこか、あるいは今ではない、いつかを。
「イーロン。美味いか?」
「あ?ああ。サバがこんなに美味いなんて知らなかった。まだまだ知らないことがたくさんある……人生は長いようで短いな」
海から遠く離れたこの地域に古くから伝わる郷土料理、それが柿の葉寿司だ。
酒の勢いもあって、私は彼に柿の葉寿司の歴史やなぜ柿の葉で巻くのかなど細かく教えた。
「俺たちが世界を繋ごうとしているのと同じで、柿の葉寿司もまた、人と地域を繋いできた技術だったんだ」
私がそう締めくくると、彼は自分の手の中の柿の葉寿司をじっと見つめ、ポツリと言った。
「そうか。こんなに小さくても立派なテクノロジーだな」と。
お読みいただきありがとうございます。
次回から5回にわたり、2008年秋に発生したリーマンショックを取り扱います。
世界中の金融機関が深刻な打撃を受け、日本でも日経平均株価は9月下旬の12,115円から10月下旬には7,163円まで下落しました。わずか約1か月で4,952円、率にして約41%もの暴落となり、世界恐慌の再来が現実味を帯びた歴史的大事件でした。
日本の一般庶民にとっても無縁ではなく、その影響は雇用不安や将来不安という形で現れました。「派遣切り」「年越し派遣村」が大きなニュースとなり、ボーナスの減額や昇給の凍結によって景気も大きく落ち込む事態となりました。
当時は「100年に一度の不況」という言葉が頻繁に使われていたのです。
この物語では、そんな未曽有の危機を前に、変人・織田が大活躍します。




