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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ  作者: 織田雪村
第七章

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躍進期⑤ 接続の時代

2006年(平成18年)9月18日 サンフランシスコ


マークとの話し合いを終えた私たちは、その足で久しぶりにApple本社に立ち寄り、アメリカに戻っていたスティーブと合流した。

歴史的な日に立ち会うのが目的だった。


発表会場は満員だった。カメラのフラッシュが白く瞬く。

スティーブはステージ中央に立ち、ゆっくりと語り始めた。


「今日、三つの革新的な製品を紹介します。ワイドスクリーンのiPod。革新的な携帯電話。画期的なインターネットコミュニケーター」


観客がざわめく。


「これらは三つの製品ではありません。一つです」


スクリーンに浮かび上がった名称。

その名は『iPhone』。


拍手が起きる。しかし私はその先を見ていた。これは製品発表ではない。接続方式の変更だ。ポケットの中に常時接続の神経終末を持つ人間が増えれば、社会の構造そのものが変わる。広告、政治、経済、戦争。すべてがリアルタイム化し、情報速度に逆らえる国家も企業も存在しなくなるだろう。そしてYouTubeやFacebookが本領を発揮し始めるのだ。


あれは今から1年半前のことだ。



2005年2月 


奈良県五條市


仮本社の窓ガラスに映る冷たい光の下、目には見えない情報の奔流が音もなく加速し続けていた。

ガラス張りの会議室から吉野川を見下ろしながら、私は静かに口を開いた。


「世界を変える神経端末を、世に問う瞬間がやってきた」


スティーブを含むテーブルの向こうに座る幹部たちが、一瞬息を呑んだ。Appleはすでに「美しい器を作る企業」としての地位を確立していた。だが私とスティーブが宿らせようとしていたのは、その器に「常時接続された意識」だった。


電話ではない。ポケットに収まるネットワーク。人間の思考そのものの延長だ。

それまでは誰もが携帯電話を「通話装置」だと信じていた。Motorolaは薄さを競い、Nokiaは堅牢さを誇り、BlackBerryは企業メールの世界を支配していた。


どの端末も、世界の情報に直接触れるための道具ではなかった。それらはどこまでいっても、電話であり、メール機器であり、ツールであり続けていた。


「これまでの世界的常識を全部ひっくり返してみせる」


西吉野村の自宅にビルを招いて話し合ったあの日、スティーブは私にそう宣言した。


「この端末が1台あればすべてが事足りる。そう思えるような革命的製品に仕上げるつもりだ。特に地図ソフトを最優先で導入しよう。自分がどこにいるのか、それが瞬時にわかるというのは画期的だ」


スティーブの目は、獲物を狙う猛禽類のような鋭さと、少年のあどけない熱狂を同時に宿していた。彼はテーブルの上に置かれたプロトタイプを愛おしそうに指でなぞった。それはまだ荒削りで、背面に無数の配線が這い出している代物だった。

スティーブが参考としたのは、間違いなくシャープの「ザウルス」だろう。目の付け所は良かったのだ。


「地図だけじゃない」と、私は言葉を継いだ。


「Googleのラリーとセルゲイには、すでに指示を出しているが、検索窓を指先一つで叩けるようにする。だが、一番のポイントはそこじゃない。スティーブ、私たちが作っているのは『孤独を消し去る機械』だ」


会議室に沈黙が流れた。

当時のモバイル業界の王者はNokiaだった。彼らがボタンの配置やバッテリーの持ちを1%改善することに血道を上げている間に、私たちは「人間の五感の拡張」という全く別の次元にダイブしようとしていた。


「スクロールだ」


スティーブが唐突に言った。


「スタイラスペンなんてゴミは捨てて、神が人間に与えてくれた10本のスティックを使う。指で画面に触れ、慣性の法則に従ってリストが流れる。指を離しても、画面はすぐには止まらない。物理法則がデジタルの中に存在するんだ。ユーザーは、自分がガラスの板を触っていることを忘れるだろう」


私は彼の言葉を聞きながら、吉野川の川面を飛ぶ鴨の群れを眺めた。

2005年のこの時点では、世界中の人々がまだプラスチックのキーボードを叩き、モノクロの小さな画面で文字を追っていた。数年後、この街を歩く人々が全員、下を向いて魔法の板を撫で回す光景を想像できる者は、この部屋の中にしかいない。


「しかし、通信会社が黙っちゃいないでしょう」


末席に座っていた若手幹部が、恐る恐る口を開いた。


「彼らは自分たちのポータルサイトを経由させ、着メロや壁紙を売りたい。デバイスの主導権をメーカーに渡すほど、彼らは甘くない」


スティーブが冷笑を浮かべた。


「だからこそ、これは『電話』だと嘘をつくのさ。彼らが愛してやまない古い概念の名前を借りる。だが中身は、ポケットに入るMacintoshだ。彼らが気づいた時には、音楽も、地図も、インターネットも、すべてが我々の手のひらの上で完結している」


私は手元の資料を閉じ、一同を見回した。


「来年の9月だ。シリコンバレーの発表会場で、私たちは歴史の針を無理やり進めることになる」


運命の発表まで、あと1年半を切っていた。

iPhone開発で生まれた技術は、後にiPod touchへ受け継がれることになる。

前世では日本で初代iPhoneが発売されなかったため、多くの人は逆だと思い込んでいたが。


「全面ガラス。物理キーは排除する。指で触れる。それだけでいい」


デザインチームの若いエンジニアが不安そうに口を開いた。


「物理キーがなければ、入力効率が落ちる可能性があります」


「効率ではない。体験だ」


私は即座に返した。


「人はキーボードを打ちたいわけじゃない。情報に触れたいんだ」


しばらくの沈黙のあと、誰かがゆっくりと頷いた。

本当の問題は端末ではなかった。通信だ。AT&Tとの通信網契約は、単なる販売戦略ではない。回線そのものを最適化する契約だった。帯域の優先制御、データ定額の設計、トラフィック解析による混雑回避。ユーザーは理由を知らなくていい。ただ「速い」と感じればいい。公平と最適は違う。そこに勝機があった。


前世とは違って、製造拠点も日本だし、部品もほとんど日本製だから価格は高く設定した。


699ドルで売り出すと決めた。


記者たちはきっと驚くことだろう。しかし安売りはしない。最初に手にするのは経営者、金融マン、テック層といった世界を実際に動かしている人間たちだ。革命は、いつも少数から始まる。


日本と西海岸ではGoogleが、検索という名の思考装置を拡張し続けていた。彼らのサービスはこの端末と結びついた瞬間、常時接続の知性へと変貌するだろう。そしてグラフィック処理の裏側では、NVIDIAのチップが静かに進化を続けていた。小さな筐体の中で計算を加速させる、見えない筋肉だ。脳、神経、筋肉、そして器。それらが初めて一つの身体へと統合される。



2006年9月17日 発表前夜


発表会のリハーサル。暗転したステージに巨大スクリーンが浮かび上がる。スティーブは原稿を閉じた。


「いろいろ考えてみたが、これは電話ではない、と言おうと思う」


予想はしていたのだが、一応確認してみた。


「では何と説明するつもりなんだ?」


「人間の延長というつもりだ」


それならば通信会社も極端な反応はしないはずだ。

照明が点灯する。ガラスの板が、ゆっくりと手の中で光る。指を滑らせると写真が拡大する。地図が動く。ウェブページが自在に応答する。誰も見たことのない操作感だ。しかし私はその光景の裏に、別の層があることを知っていた。


端末が増えるほどトラフィックは増大する。増大したデータは解析され、整理され、最適化される。世界中の人間の行動パターンが、アルゴリズムへと静かに吸収されていく。利便性と引き換えに、人類は自らの動線を可視化していく。その選択を、彼らは自らの意志で行うことになる。誰かに強いられるわけでもなく、ただ「便利だから」という理由だけで。



Appleの発表会場でスティーブがiPhoneを発表して間もなく、五條市の仮本社ではYGNの社長を務める孫勝利が日本でのお披露目を行う予定だ。


「常識を壊すつもりです」。


電話口の彼の言葉は簡潔だった。日本市場は特殊だ。NTTドコモは巨大で、KDDIも盤石だ。いわゆるガラケーは、ある意味で完成の域に達していた。防水、絵文字、電子マネー。ワンセグチューナー。世界とは切り離された独自進化の極地。欧米から見れば奇妙に映るかもしれないが、日本のユーザーにとってはそれで十分だった。


だからこそ、私は決めた。孫社長が通信料という価格で揺さぶり、私は世界標準を持ち込む。電話越しに彼は笑った。「お約束通り下流は任せてください」と。

日本市場において、iPhoneを販売できる権利を有するのは、孫社長と私の合弁企業、YGNだけだ。ただしそれはiPhoneの市場占有率が30%に達するまでとした。


そこまで普及すれば、もはや単なる商品ではなく社会インフラの一部になる。他社を閉め出したままでは、通信そのものの発展を阻害しかねない。他社が黙っていないし、独禁法に抵触していると訴える可能性があるからだ。

だから30%を超えたら他社にも販売を始める予定だ。



2006年9月18日 発表当日、その夜


拍手の余韻が残るホテルの部屋で、私は窓から街を見下ろした。

光の粒が道路を流れ、信号が点滅する。あらゆる動きがデータへと変わる未来を、私は静かに想像した。便利さは止められない。人はより速く、より簡単に、より深く繋がることを望む。その欲求に終わりはなく、一度体験した者は決して後戻りしない。

グラスを傾けながら、私は静かに呟いた。


「これは始まりにすぎない」


電話の時代が終わり、接続の時代が始まる。やがて人々は、この小さな板なしでは一日も生きられなくなるだろう。通勤電車の中で、食事の前に、眠りにつく直前に、目覚めた瞬間に……彼らは無意識にガラスの板へ手を伸ばすようになる。


世界はまだ気づいていない。

自らの神経を、誰の手に委ねたのかを。



社内では私のことを「会長」「社長」「代表」「最高経営責任者」などと様々な呼称で読んでいたのだが、どうも「総帥」で統一することにしたらしい。


「総帥」か。何だかとんでもなく遠い場所まで来てしまった気もするが、ここまで来たらもはや引き返すことなどできるはずがない。

私は寧音に向かって笑いかけた。


「さあ。これからが本当に新しい世界の幕開けだ」


やらねばならないことは山積している。本社の完成まであと4年。それまでに世界の方向性を決めてしまおう。


特に2年後には歴史に残る経済的大事件が発生するから、それを利用して更なる高みを目指そう。

だが、以前に皆澤禅師から言われた「身軽になるべきだ」という言葉がずっと頭に残っていた。


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