躍進期② テスラの試走
2006年(平成18年)8月
奈良県吉野郡西吉野村 柚野山 頂上
自宅のそばにそびえる柚野山の頂上に、テスラモーターズの開発研究所はあった。ここは山上とは思えないほど広い用地が確保され、しかも自宅からは専用トンネルで直結されている。これによって天候に左右されずに行き来できるうえ、防諜面でも優れた立地条件で、研究開発拠点としては理想的な環境だった。
そして同時に、自宅から五條市中心部へ向かうトンネルも完成した。そのため通勤時間がほとんど気にならなくなったのは大きな変化で、同じ集落に住む他の住人にも開放しているから大いに感謝されてもいる。
研究所では朝からエンジニアのマーティン・エガーバードと、マーク・ペータニングを中心としたチームが最終点検を行っていた。それを見つめるイーロンの表情は張り詰めたものとなっていて、今日がいかに彼らにとって大切な日なのかを物語っていた。
記念すべきプロトタイプが完成し、関係者を集めたお披露目を行うのだ。
もちろん、まだ派手なセレモニーやメディアを集めた記者会見を行う段階ではないが、まずはこのプロトタイプを徹底的に悪環境に晒して問題点を抽出し、次の段階へと進む、いわばたたき台にしなくてはいけないのだった。
点検が終了し、イーロンと私が乗り込んだ。ハンドルを握るのは私で、ヘルメット姿のイーロンは無言で助手席に収まった。
室内は狭い。様々な計測機器に囲まれているからで、当然だが快適には程遠い環境だった。
私はパワースイッチをONにし、ブレーキを踏みながら前進モードへと切り替える。
「よし、では行くぞ」
私が声を掛けると彼は頷いたが、その声には若干の緊張がにじんでいた。
「わかった。ゆっくり始めてくれ」
周囲にはテスラモーターズの関係者が100人以上集まっている。
私たちは彼らに向かって手を振り、クルマを発進させた。ゆっくりと、全体の調子を確かめるような動きに見えたかもしれないが、それは私自身が緊張していたせいでもある。
研究所を出ると、一旦は山の中腹まで伸びているつづら折りの道を下っていき、お寺の横からは向かいの山まで繋がっている橋を渡る。
長さ500m、幅10m以上の巨大な橋だ。視界が遮られるせいか高さからくる恐怖は感じないが、今日は横風を強く感じる。
やがて橋を渡って向かい側の山に到着し、本格的なテストコースが始まった。
まずは尾根沿いのワインディングコースが設定されていて、そこを過ぎるとトンネルを利用した直線区間が始まる。そのトンネルの距離は約1000m。ここで加速して100km/hまで速度を上げる。
車両そのものに不安は感じられない。
風切り音の奥で、タイヤのパターンノイズがトンネルの壁面に反響し、乾いた残響となって追いかけてくる。
やがて光が差し込み、出口の先には短い橋。谷を超えると今度は登りのワインディングが続く。ステアリング操作に応じて車体は素直に向きを変え、登り坂では電動モーターの厚みあるトルクが力強く車体を押し上げる。その加速は静かで、しかし確かに胸を高鳴らせる。
そしてまたトンネル。下って、登って、さらに下る。紀伊山地の複雑な地形をそのまま写し取ったような、起伏に富むコースだ。
そのままスタート地点から西に向かって行き、立川渡の集落からは進路を南へ変えて十津川方面へと向かう。ここから先は、かつて夢半ばで消えた「五新鉄道」の遺構を利用する区間だ。放棄されたトンネルを抜けながら、クルマは紀伊山地の奥深くへと進んでいく。
五條市と新宮市を結ぶ鉄道として計画され、着工されたものの、残念ながら死産となってしまった悲劇の鉄道路線。それが五新鉄道だ。
この地に住むきっかけとなった、「萌の朱雀」という映画のメインテーマでもあった。鉄道計画の中止と過疎化。それらが表裏一体となった、切なくも美しい物語だった。
私はそれらの見捨てられた構造物に再び命を与えた。このトンネルは単純な直線ではない。列車が急勾配を無理なく上り下りできるよう、山の内部で大きく円を描くループ線として設計されているのだ。
その真上にあるのが、以前にも触れた難所・天辻峠だ。
トンネルを抜けると大塔村阪本地区に出る。ここから猿谷ダムの人工湖を超え、再び急坂を駆け上がる。
モーターが低く唸り、テスト車両は滑るように進んだ。
最大の見せ場は、5kmにわたり9%の下り勾配が続く長大トンネル区間。ここで回生ブレーキが生み出す電力の飽和と、その制御の限界を試す。
外気温は30℃。負荷の掛かる急坂を登り切った直後の熱を抱えたまま、車両はそのままトンネル内へと吸い込まれていく。
アクセルを戻すと、回生ブレーキが即座に最大出力で立ち上がる。だがバッテリー残量は90%を超え、高温下で冷却も余裕がない。
やがてメーターの表示が切り替わる。
「回生出力制限」。
減速の感触がわずかに薄れ、制動は機械式ブレーキに頼ることになる。無風のトンネル内で熱は滞留し、車体は重力に導かれるまま速度を上げようとする。
5kmの下りは、まだ終わらない。
やがて勾配が緩み、ようやくトンネルを出た。
十津川村中心部の手前で、このテストコースは一区切りとなる。本当はさらに南へ足を伸ばしたい。だが、まだ建設途中だ。未完の区間を残したまま今回のテスト走行はここで幕を下ろす。
終点で一旦クルマを止め、ブレーキの状態、タイヤの温度など車両全体の調子を確認する。
作業をしながら私はイーロンに話しかけた。
「イーロン、ここは十津川村という場所でね。北方領土を除けば、日本で最も面積の広い村なんだ。奈良県全体の2割近くを占めている」
「そんなに広いのか?だが、見渡す限り山ばかりじゃないか?」
「その通りだ。地理的に隔絶されていたからこそ独自の文化が育まれたし、歴史的にも朝廷の求めに応じて、たびたび兵を送り出してきた土地でもある。しかも古くから租税を免除されていて、村人たちは皆、武士としての気概を持って暮らしていたんだ」
余計なことかもしれないが、この村の歴史を彼に伝えておこうか。
「この村が登場する書物は数多い。古事記、日本書紀、保元物語、吾妻鏡、太平記……枚挙にいとまがないんだ。十津川という地名は、遠い川が転訛したものと言われている。特に弓兵の精強さでは定評があった」
「……こんな山の中に住む人たちが、時勢に即した動きをするには情報が欠かせないと思うが、どうやって中央の情報を得たのだ?」
私は遠い山を指差して言った。
「それこそが修験道の力による。ここからは見えないが、あの山の向こうにあるのが2000年の歴史を持つといわれる世界遺産・玉置神社だ。修験者たちはその神社を参拝すると同時に、奈良や京都の情報をここへもたらしたんだ」
「2000年!……そうか……理解の外だが、つまりは誇り高い地域なのだな?」
「そうだ。だが、100年以上前に大水害に襲われて、多くの村人が北海道への集団移住を余儀なくされた。ここが水害に襲われたのだから、下流がどうなったのか想像がつくだろう?」
「……確かにな。具体的にはどんな被害が出たんだ?」
「熊野本宮大社という由緒ある神社があるんだが、水害によって大きな被害を受けてしまった。現在の場所へ移転されたのはそれが原因なんだ」
「日本の災害といえば地震と台風が有名だが、同時に水害も要注意なのだな?」
だからこそ2011年の紀伊半島豪雨の被害は最小限に抑えたい。
「そうだ。いつ災害に襲われるか分からないからこそ、電気自動車が役に立つ場合だってあるだろう?」
「なるほどな。最後の社会インフラとして役立つな」
私たちはしばらく無言で周囲を眺めていた。
ところで、このプロトタイプはいわゆる「ロードスター」と呼ばれる種類のオープンタイプのスポーツカーだ。乗車定員は2名で、日常用途では実用性に制約があるが、このモデルによって高級車としてのイメージを付ける戦略だ。ただし、このタイプでは災害に対して力を発揮できないだろうな。
「それにしても……」とイーロンが言った。
「山の上は涼しいが、川の近くまで降りてくると暑いな……君の言った通りだ」
彼はヘルメットが邪魔だとばかりに外すと、汗を拭きながら言った。
「そうだな。だが、この温度差は絶好のテスト環境だと思うだろ?」
「まったくだ。特に冬は絶好のテスト環境になるな。おまけに、橋の上や日陰は凍結するだろうし。このコースは路面状況の変化に伴うパワー配分が難しそうだ」
そんな話をしながら空を見上げると、先ほどまでとは打って変わって、南側の空が雲に覆われ始めているのが見えた。
「大雨にも要注意だぞ。……イーロン。何だか空模様が怪しいな?」
紀伊半島の気象条件は変わりやすい。最近の彼は順応しつつあるが、最初の頃は戸惑っていたのを覚えている。
「本当だ。さっきまであんなに晴れていたのに、夕立が来そうだ」
「ロードスターにとって雨対策は欠かせない。だが、そのテストをするには今日はまだ少し早いな。雨が降らないうちに帰るとするか」
私たちは研究所への帰路についた。
帰りは速度を上げて走ってみたが、やはり加速がすさまじいと感じた。0-100km/hは約4秒を目指しているし、中間加速の鋭さはガソリン車では不可能なのではないだろうか。
速く走ったおかげで、何とか雨が降り出す前に研究所に到着したが、慌てて運転したせいで悪路区間でトラクションを失い、谷底に転落しかけた時には焦った。幸い車両は壊れなかったし、どこにもぶつけずに済んだが、イーロンに冷ややかな目で見られたのは堪えた。
なんとか研究所に戻ると、待ち構えていたエンジニアたちが一斉に駆け寄ってきた。マーティンが真っ先に声を掛けてくる。表情には期待と不安が入り混じっていた。
「どうだった?問題はあったか?」
「全体的には想定以上に良いと思う。ただ、いくつか気になった点を話し合おう」
私はヘルメットを脱いでマーティンに手渡しながら答えた。イーロンも助手席から降り立ち、ヘルメットを近くの作業台へ置いた。そして上着の裾で額の汗を拭いながら合流した。
「加速性能については文句のつけようがないし、特に0-100km/hの感覚は申し分ない。だが、横風への対応はまだ改善の余地がある。特に橋の上では車体が若干流されるような感覚があった」
「それと……」とイーロンが続けた。
「バッテリーの熱管理だ。山を下りて気温が上がったとき、わずかだがパフォーマンスに変化を感じた。データを確認してくれ」
マーティンはすぐさまタブレットを取り出し、テスト車両のログデータを呼び出した。数人のエンジニアが周囲に集まって覗き込む。
「確かに。川沿いの低地部分でバッテリー温度が2℃ほど上昇している。冷却システムのフローを見直す必要があるかもしれない」
「冬に向けての問題もある」
と私は言った。
「あのワインディングコースが凍結したときのことを想定しなくてはいけない。トラクションコントロールの精度をもう一段上げることを検討してくれ」
これは誇張だ。
さっき未舗装区間で横滑りして、危うく転落しかけたのを誤魔化す言葉で、イーロンはそんな私を冷ややかな目で見ていた。
「わかった。早速取り掛かろう」
そんなことは知らないマーティンがエンジニアたちに目配せをすると、彼らはすでに各自の持ち場へと動き始めていた。こういう場合、このチームの動きの速さにはいつも感心する。
窓の外ではとうとう雨が降り出していた。
ぽつぽつと、やがて本格的な夕立へと変わっていくその雨粒が、研究所のガラス窓を叩き始めた。
「ギリギリだったな」
私がそう言うと、イーロンが窓の外を眺めながら静かに言った。
「ああ。トイチロウに壊されずに済んでよかった。だが、これも良いタイミングかもしれない。次は雨の中でのテストを組み込んでみよう」
「了解した」
イーロンは短く笑い、それからまた真剣な表情に戻った。彼がこういう顔をするとき、頭の中ではすでに次のステップが動き始めているのだと、私にはわかっていた。
研究所の照明が白く灯り、ガラス一面に雨が打ちつける中でチームの作業は続くことになった。
「電気自動車とガソリン車を作るのは全く別物なのだと知ってはいたが、予想より大変だな」
正直に私がそのような感想を漏らすと、イーロンが頷きつつ言った。
「そう。その通りなんだ。エンジンが不要だから参入障壁は低いと思われているが、実はそれは既存の自動車メーカーの傲慢さの現れじゃないかと考えているんだ」
「バッテリーの性能についてだな?」
そう問い掛けると、彼は首を横に振った。
「もちろんそれもあるが、一番難しいのがソフトウェアだ」
「なるほど。要するにマネジメント技術だな?」
イーロンはエンジニアたちと共に作業していたマーティンを手招きした。
「例のデータを出してくれ」
マーティンは抱えていたノートPCをテーブルの上に置くと、慣れた手つきでキーボードを叩いた。
画面の中に銀色のロードスターが三次元モデルとして浮かび上がり、その周囲には無数の数値やグラフ、走行ログが次々と表示されていった。
「従来の車は、独立した部品の集合体だ。ブレーキはブレーキ、エンジンはエンジン。だが我々が作っているのは、『タイヤの付いた巨大なコンピュータ』なんだよ」
マーティンが指摘したのは、ハードウェアの制御を司るファームウェアの統合という難題だった。
シートの背後に鎮座するバッテリーパックには、我々が買収した三洋電機製の「18650」リチウムイオン電池が数千個詰め込まれている。三洋の化学技術は世界一だ。エネルギー密度において右に出るものはいない。しかし、それを「クルマ」として動かすには、ソフトウェアによる過酷な管理が必要だった。
「三洋のセルは優秀だが、6000個以上のセルを同時に、かつ均一に充放電させるのは至難の業だ。1個でも温度が上がりすぎれば、パック全体が熱暴走を起こす。Googleのサーバー監視アルゴリズムを応用して、ミリ秒単位で全セルの電圧と温度をスキャンし、冷却水の流量をリアルタイムで可変させているが……まだバグがある」
「Googleからは検索エンジンの予測インフラを構築したエンジニアを数人引き抜いた。彼らには、ドライバーのアクセル開度から『次の1秒間に必要な電流』を予測するコードを書かせている。これがズレると、あの鋭い加速は生まれない」
さらに、運転席のコンソールにはAppleのインダストリアルデザインチームが協力したタッチパネルが埋め込まれていた。
「Appleの連中は、ユーザーインターフェースに妥協しない。車内の温度調節からオーディオ、走行モードの切り替えまで、すべてを一元管理するOSを構築中だ。だが、物理スイッチを廃止してソフトウェアに統合するということは、ソフトのフリーズが『死』を意味するということだ。航空機レベルの冗長性を持たせたバックアップ系をコードに持たせなければならない」
窓の外では雨脚がさらに強まり、東京ではまず聞くことのない鋭い雷鳴が炸裂した。
低く響きわたるのではない。空気を切り裂くような「パーン」という衝撃音だ。鼓膜ではなく、内臓を打つ音だった。
私は一度モニターから目を離し、窓の外へ視線を向けた。
気づけば、紀伊山地特有の濃い霧が研究所をのみ込み、視界は白く閉ざされている。
目の前の山に建設中の仲村さんの先端科学研究所も、霧に遮られてまったく見えない。
再び稲妻とほぼ同時に雷鳴が轟き、私は一瞬、恐怖に身震いしつつ話を続けた。
「ガソリン車なら、エンジン調整で済む話だ。しかし我々は、トラクションコントロールという自動車メーカーなら常識となりつつある作業だけ見ても、数万行のC++コードを書き換えなきゃならない。路面が濡れた瞬間、モーターのトルクをどう絞るか。三洋のバッテリーからどれだけの電力を引き出すか。その判断を、すべてソフトウェアが下すんだ」
私はモニターを見つめた。そこには、Googleのマップデータと連動し、紀伊半島の勾配を先読みしてエネルギー回生効率を最適化しようとする、野心的なプログラムの試行錯誤が映し出されていた。
「三洋のハード、Googleの知能、Appleの感性……。これだけのカードが揃っていても、まだ足りないか」
私が呟くと、それまで黙ってデータを凝視していたイーロンが顔を上げた。
「足りないのは時間だ。だが、この山岳地帯の雨と霧が、シミュレーションでは再現できない最高のデバッグデータを与えてくれる。マーティン、今夜中にトラクション制御のカーネルを書き直せ。明日の朝、雨のワインディングでその『答え』を確かめる」
彼は再びヘルメットを手に取り、まだ熱を帯びたままのプロトタイプのカーボンボディを愛おしそうに撫でた。そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で「壊さないように大切にしなくてはな」と呟いた。
それは、明らかに私に対する当てつけだった。
運転が下手で悪かったな!




