躍進期① 夢の都の設計図
ここから新章で、20話構成です。
2004年(平成16年)3月
とうとう、日本国民の生活に直結する規制緩和が行われてしまった。
通常であれば、規制緩和というものはポジティブな印象を持って国民に受け入れられることが多いかもしれない。だが、今回の規制緩和は労働者にとってはネガティブな結果に繋がった。
それが横須賀政権による「製造業への労働者派遣の解禁」だった。
突然すべての業種が解禁されたわけではない。徐々に段階を経て解禁されていったから、横須賀総理にだけ責任があるわけでもない。
ただ……これを強力に後押ししたのが、選挙で選ばれた政治家ではなく、経済学者出身の大臣だったから話がややこしい。
後年、この人物は「日本から正社員をなくせばいい」とまで言い放つ。そして本人は人材派遣会社の役員に就いていたのだから、開いた口が塞がらない。労働者の立場から見れば、利益相反を疑われても仕方のない話だろう。
ともかく、日本人の活力を低下させ、失われた10年が20年へと延びた直接原因だと、私は前世の政治家時代に断罪していた施策だ。多くの企業は、この制度を使って過剰なコストカットへと走り、必要以上の利益を確保しようとしたが、労働者側から見たら当然ながら見える景色が全く違う。
就職氷河期はさらに期間が伸びるだろうし、それどころか「超氷河期」へと突入している。
つまり、正社員になれない若者が大量に発生してしまっているのだ。
しかし成立してしまったからにはもう引き返せない。私はささやかな抵抗ながら、豊臣グループの傘下企業に対しては、派遣社員や契約社員待遇での採用は原則禁止という通達を出した。
ただでさえ、これから莫大な利益を上げ続ける企業ばかりで構成されているのだ。少しでも社会に還元するという姿勢を見せておかないと危険だからという裏の理由もある。
だが、最大の理由は「人件費はコストではなく国力だ」という信念を持っているからで、技術者や労働者を使い捨てる企業は、目先はともかく、最終的には滅びるしかなくなるのだ。
確かに日本社会全体で終身雇用を維持し続けるには、少し厳しい状況であることは認めよう。だが終身雇用そのものではなく、長期育成の視点を捨てたことが問題なのだ。
だが、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、メディアでは相変わらず私の評判は芳しくない。
「ポーズを取っているだけだ」、「平成の吸血鬼が偉そうにするな」。まあこれが最大公約数的評価だろうか。気が滅入るが、今は耐えるしかない。今は。
行政面では、数年前から始まった「平成の大合併」によって、全国の自治体の数が急速に少なくなってきている。
本来の目的は、地方自治体の権限を強化し、地域の自立を促進するために行われたと称されている。多くの小規模自治体が財政的に厳しい状況にあり、合併によって経済的な基盤を強化し、行政サービスの効率化を図ることが求められた。
つまり、合併によって財政力の弱い自治体が救済されることを目指したわけだ。
また、日本全体で収入減少に端を発した少子化と、寿命が延びることでの高齢化が進行しており、人口減少に対応するために、より効率的な行政運営が必要とされたことも要因だ。合併によって地域の活力を維持し、住民サービスを向上させることが期待された。
以上は普通の自治体の話で、もしも潤沢な資金源や資産があれば、何もどこかと合併する必要なんてないのも事実だった。
そしてそれは私の住む西吉野村においても同じことが言えた。
この村には豊臣グループの中枢とも言える研究所が存在しており、私やスティーブ、ジェンスンたちが住んでいるため、納められる税金は莫大なものだった。
また、雇用面での効果も著しいものがある。
東京はもちろん、大阪での就職博は大成功を収めた。
今年の募集枠はあっという間に定員に達し、今は全国各地から若者が紀伊山地の各集落へ移住している真っ最中だ。
今後は6年かけて紀伊山地全体で10万人の若者を集める計画で、しかも目標男女比は女子のほうが若干多く設定している。
社員たちの仕事は多岐にわたる。
まずは林業従事者としての仕事だった。
この地域は林業によって支えられていたが、昭和40年代以降は外材にその地位を奪われていった。
かつては「吉野杉」のブランドで知られていたし、質の高い檜も育っていた。それは朝晩の寒暖差、多雨地帯という特性を活かした土地活用といえるものだったが、いつしか林業従事者は高齢化し、過疎化がそれに追い打ちをかけていった。
若者が仕事を得るために都会へ流出し、人口が急速に減っていったのだ。
それに伴って山全体が放置され、手入れがなされない地域が増えていった。
私はこうした土地の手入れをする目的で株式会社ヤタガラスを通じ、国有地以外の山を買い続けているが、従業員たちはまず、林道を作り、木質バイオマス発電に使用する木材の伐採を行う。
同時に植林を進めて山の保水力を維持・向上させる。
杉のような常緑針葉樹の保水力は高くない。落葉広葉樹のほうが腐葉土の存在を含めて保水力は高いのだ。
里山では現金収入に繋がる樹木の栽培もおこない、収穫作業も同じ会社の社員が行う。
それ以外にも山は魅力的な産物の宝庫で、仕事は無限にあると言ってもいいだろう。
太陽熱温水事業も忘れてはいけない。
山間部の僅かな空き地や放棄された斜面の畑などを利用して、集落の近くに太陽熱温水器を並べる予定だ。当然だがそれらの機器の維持管理も重要な仕事となる。
軽視されがちな重要な仕事としては、各地に分散配置されている小規模水力発電所の維持管理が挙げられるだろう。大雨でゴミが詰まったりすれば発電機能が維持されないから、これは必要不可欠な仕事でもあり、これを林業と同時に行う。
もちろん、仕事は林業や発電設備の維持管理だけではない。
山で生産された木材や農産物を加工し、商品として販売するための工場も必要になる。木工品や家具、食品加工品の製造、品質管理、出荷業務などは女性でも十分に活躍できる分野だ。
また、紀伊山地には豊かな自然や温泉、熊野古道をはじめとする歴史的資産が存在する。観光事業の拡大に伴い、ホテルや旅館、飲食店の運営、観光案内、旅行商品の企画などの仕事も増えていく。
さらに、過疎地の再生には地域コミュニティの維持も欠かせない。医療、介護、保育、教育といった生活を支える職種も積極的に整備していく予定だ。
そして意外に重要なのが事務職である。山林管理、発電事業、観光事業、農業法人などを運営するためには経理、人事、総務、広報といった業務が必要となる。現場で働く人間以上に、組織を支える人材が求められることになるだろう。
加えて、私は大学や研究機関とも連携し、森林保全技術や新エネルギー技術の研究拠点を整備するつもりでいる。研究者や技術者として紀伊山地に定住する若者も少しずつ増えていくはずだ。
ハード面では、災害対策を目的とした大型の導水管の建設も進んでいる。
主なものが2本。
まずは十津川(熊野川)水系の洪水対策としての導水管だ。
この川は山上ケ岳を源流としており、新宮に至る長い川だが、紀伊半島豪雨では水害が発生して壊滅的損害を受けた。
いや、既に明治の初めに大水害が発生して熊野本宮大社が被災。現在の小高い場所へと移転せざるを得なくなるという被害を受けた。この辺りまでは河口からの土砂の浚渫も併せて行っているから効果が出るだろう。
しかもこの導水管については、高規格道路や五新鉄道と並行して作っているから、費用は思ったほどはかからないのが利点だ。
次は吉野川(紀ノ川)水系の洪水対策として、五條市の上流側から太平洋へと排水する導水管を工事中だ。
こちらも国道168号と並行してセットで作っているから、単体で作るよりも、コストがかからないのが素晴らしい。
それと、この川の水害対策としては、建設中の豊臣グループ本社ビルとリニア五條駅の間に大きな地下空間を作り、緊急時の遊水地として利用するプランを実行中だ。
もっとも……これを知った小二郎が、もっといいプランがあると言ってきた。
「兄さん。遊水地は地下空間にするらしいけど、それは変更しませんか?僕にもっといいアイデアがあるんだ」
そう言ってキラキラした目で具体的な内容を話し始めた。この目はかつて彼が軍艦のプラモデルを作っていた時の目だと思ったが、内容は私の予想をはるかに超える提案で、正直な感想として最初に聞いた時には呆れてしまったほどだ。
「地下空間なら誰でも思いつくけど、これはなかなかないアイデアでしょう?普段は水を抜いた公園として運用し、洪水時だけ一時的に水を流し込む構造にする。そして中央部の高台に建物を建てるんだ」
地下神殿ではなく、ため池的な運用か。うーん。新横浜の日産スタジアムみたいな発想なのかな。
小二郎がさらに続けて言った。こういった場合、彼を止めるのは私でも難しい。
「せっかくの駅前に作るものを、遊水地だけに限定するなんて勿体ないでしょう?多くの人が集まる場所に相応しい施設を併設すべきです。例えばコンサートホール、講堂、スタジアム、それからグルメ施設なんかがいいんじゃない?」
「……そうか。内部をどう使うかは自由だものな。うん。悪くはないと思う」
洪水時に池の中で浮かぶように見える建造物。一瞬、厳島神社の荘厳な社殿やタージマハルの白亜の宮殿を思い浮かべた。確かに面白いとは思った。ただし、実際に作るとなるとハードルは高い。それも技術的な意味におけるハードルではないことがむしろ厄介だった。
「だが、AMATERAでも命名に気を使ったくらいなんだ。幸いにして大きなクレームは来ていないが、小二郎の案を採用したら、狂ったように非難の声を上げる人間は多いんじゃないのか?」
ヤタガラスやYGNもそれに近いものがあるが。
「だからこそだよ兄さん。いつまでも避けていたのでは、この先も含めてなんの解決にもならない。誰かが、いつかやらなきゃいけないんだよ」
「言いたいことは分かる。だが、それは我々みたいな民間人ではなくて、政治家がやるべきことなんじゃないのか?」
「政治家が正面から取り上げるメリットなんかないし、下手をしたら政治生命が終わってしまうから誰も言い出さないよ。だけど豊臣グループのシンボルとして相応しいと思わない?」
そう言われて、しばらく考えた末に小二郎の案を受け入れた。
そもそも、この地への本社移転プランを考えたのは彼なのだから、もしかしたら最初から狙っていたのかもしれないが。
ただ受け入れたわけではない。遊水地は合計四か所作るが、建物はそれぞれ特色を活かすものとして計画を進めた。
駅に最も近い場所にはコンサートホール。続いてその東側に体育館。さらにその東隣には国際試合を開催可能なサッカーやラグビー場としてのスタジアム。
最も東側の建物は四か所中、最も小規模な建物だがレストランとして利用する。
このレストランだが、国内の個人営業のレストランの分店を募集することにした。家賃は永年無料。ただし、人気のない店舗から順次入れ替えるという募集内容とした。営利が目的ではなく、人集めが目的だからこれでいい。ラーメン店の誘致も面白いし、B級グルメの店舗でもいいかもしれない。
三階建ての構造になりそうで、上層になるほど高級店を募集してもいいかな。
ただし、他の三つの建物とは違って、この建物だけは長さはともかく、奥行きが10mちょっとと狭いから、大規模店の出店は無理だ。
屋上部には銀座の高級クラブの支店を勧誘するつもりだ。ここも広い店じゃないから予約制になるだろう。
データセンターも山中に作ることにした。
場所は大塔村。紀伊半島豪雨の結果、深層崩壊を起こして多くの死者を出すことになる山の頂上部に建設することにした。
このデータセンターの形状も独特なものとなる予定だ。
さて、季節はようやく春の気配が見え始めた頃だった。
西吉野村の斜面に建つ古い住宅を改装した自宅の周辺は、まだ冬の気配を色濃く残していた。裏山の竹林が風に鳴り、わずかに春の匂いが漂ってくるように思えた。
そんな中で居間の掘りごたつに座って地方再生の計画を整理していると、今度は世界戦略の報告が舞い込んだ。
近所に住んでいるジェンスンがやってきたのだ。
彼はいつもの黒いレザージャケットを脱ぎ、脇に丁寧に畳んで置いた。異国の戦士が鎧を外すような所作だった。寧音に差し出された湯呑みを受け取り、ゆっくりと熱い茶を啜る。その瞳は静かな炎を宿している。
「トイチロウ、ネクサスの経営は順調だ」
低く、確信に満ちた声だった。
「日立やNECから来た古参エンジニアたちは、最初は私のやり方に戸惑っていた。かつての彼らのやり方は会議は長く決断は遅くなり、責任の所在は曖昧だった。だが今は違う。彼らは気づいたんだ。自分たちが欲しかったのは、慎重な合意ではなく、勝てる設計図だったとね」
ネクサス、またの名をNSMC。かつて世界を席巻した日本のDRAM技術の残り火。史実ならばエルピーダメモリとして再生し、そして滅びた企業。それを私は買い上げ、再編して彼に託した。目的は延命ではなく再征服だ。
ジェンスンは身を乗り出す。
「だが、まだ足りない。DRAMというメモリだけでは世界に勝てない。他の分野でも日本国内で統合を急ぐべきだ。マイコンとGPUとDRAMが別々に動いているのは愚かだ。システム全体を設計しなければ、IntelにもSamsungにも勝てない」
私は黙って茶を啜り、しばらく考えた末に言った。
「ジェンスン。まだ秘密だが、私は2004年度中にルネサステクノロジとNECエレクトロニクスの経営権を握るつもりで動いている。豊臣が51%を出資。ネクサスへと統合させる。それが完成したら、君はNVIDIAと新たなネクサスCEOを兼務してほしい」
空気が一瞬、張り詰めた。
「事業の統合と強化か」
ジェンスンは静かに笑う。
「いい言葉の響きだ。それで、何を作る?」
私は懐から数枚の図面を取り出した。まだこの世に存在しない未来の覇権の設計概念図。中央にSoC、その周囲にメモリ、通信、電源管理。すべてが一つの思想で結ばれている。
「いずれスティーブは魔法の板ともいえる製品を世に出す。エリックはそれに対抗するOSを構築して表面的には対抗する。だが、その心臓部は君が設計するんだ」
ジェンスンの目が細くなる。
「ルネサスのモバイル技術と、君のNVIDIAが作り出すGPUを融合する。横にはネクサスの最速DRAM。豊臣内部で完結するSoCだ。もちろん設計はARMが担う。設計から製造まで、すべて我々の手の内に置く」
「AppleもGoogleも、チップなしでは何もできない」
彼は呟いた。
「そうだ。どれだけ優れたソフトを書こうと、演算装置がなければただの幻想だ。彼らの夢は、奈良の山奥で刻まれるシリコンの上に成り立つ」
足元を暖める掘りごたつは偉大だ。ジェンスンも自宅では掘りごたつを使っているらしい。椅子とテーブルに慣れた外国人でも受け入れやすいのだろう。私はさらに言葉を重ねた。
「日本の半導体が負けたのは技術ではない。決断の遅さだ。合議、前例、保身……。それが命取りになった。だから私は劇薬を入れる。君という存在だ」
ジェンスンは湯呑みをこたつの上に置いた。
「面白い。シリコンバレーの連中は思いもしないだろう。私が日本企業を率い、自分たちの市場を奪いに来るとは」
谷を隔てた向かい側のお寺の鐘が鳴る。夕暮れが近い。
私は戦略メモを思い浮かべる。
ネクサスは2005年までに世界シェア40%を奪還する予定だ。価格競争には乗らない。GPUと組み合わせた高付加価値メモリで差別化する。
ルネサスはSHプロセッサを改造し、ARMライセンスを取得、日本独自の設計思想と融合させる。車載マイコンで築いた信頼を武器に、やがて来る電気自動車の時代を支配する。
設計から製造まで垂直統合。価格決定権を握って供給をコントロールする。部品供給者ではなく、覇権の源泉になる。
急激すぎる決断。それは狂気と呼ばれるかもしれない。だが私は知っている。
SamsungとHynixが設備投資で世界を塗り替える前に動かなければならない。AMATERAの技術を高め、技術の梯子を外す。iPhoneが登場する前が最後の猶予だった。
逆算すれば、今この瞬間しかない。
「スティーブやイーロンは、2007年が勝負の年だと思っている」
私は静かに言った。
「だが本当の勝負は、すでに始まっている。これまでの日本が失ったのは技術ではない。時間だ。私はそれを買い取る」
この静かな山中で、世界の演算装置の運命が書き換えられようとしている。
シリコンの上に刻まれる無数の回路。その一つ一つに、「豊臣」の刻印が押される日が来る。
ジェンスンは立ち上がり、再びレザージャケットに袖を通した。
「では始めよう。日本半導体連合による戦争を」
外はすでに薄闇に包まれていた。
だが私には見えている。
この夜が明けたとき、日本の半導体はもはや守る側ではない。
世界を包囲する側に回っていることを。
そんなことを考えていると、ジェンスンと入れ違いにスティーブ夫妻がやってきた。
そうだった。寧音が料理を振る舞うために呼んだのだった。
ではささやかながら宴会とするか。




