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舞台と王宮庭園

 皆が舞台に注目する劇場なら、客席の自分たちが目立つことはない。それに、これから始まる回を見終わった頃には日も暮れているだろう。アパートに戻るにしても、明るい中を移動するより安心だ。

 そんな説明を、レオが持つチケットに目を奪われたまま聞く。


「まあ、花祭りには関係ない演目だし、嫌なら無理には……ソフィア、聞いてるか?」

「うん! あのね、私、お芝居を観るの初めてなの。嬉しい……!」


 こんな時なのに弾む声が抑えられない。レオはそんなソフィアに一瞬呆気にとられた顔をして、ははっと笑い声を上げる。


「じゃあ、決まりだな」


 差し出された手を迷いなく握って、劇場に向かった。



 ――初めての観劇は素晴らしかった。

 演目は『オフィーリア』。真に迫る俳優の演技や、間近で響く音楽にソフィアはひたすら圧倒された。舞台にのめり込んで憤ったり涙ぐんだりと忙しくしているうちに、コリンヌを見かけた衝撃もすっかり薄れてしまったほど。


 それなりに長時間のはずの上演が終わるのは、あっという間だった。

 幕が下りても心ここにあらずの表情で舞台を見つめ続けるソフィアのことをレオは急かさずに待ってくれ、観客で埋め尽くされた座席がほぼ空になってようやく立ち上がる。


 瞼の裏に舞台の場面が残ってふわふわした気持ちのまま劇場を出れば、外は夕闇に包まれていた。

 明かりが灯された屋台が並ぶ通りは昼間とはまるで様子が違い、どこか異国のようにも見えてますます現実感が薄い。


「素敵だった……」


 ほう、と溜め息を吐くと、素直な一言も一緒に溢れ出る。


「明るい話じゃなかったけどな」

「いいの、それでも」


 ずっとあの家に閉じ込められて、観劇なんて一生できないと思っていた。それがこうして見られたのだ。

 しかも、レオの隣で。


(……お芝居は悲しい結末だったけど)


 初めて好きになった人と初めて芝居を観た。それだけで幸せな思い出になる。

 満足そうなソフィアにレオも安心したようで、ふっと肩の力を抜いて周囲を見回す。


「あいつらはいなそうだな……本当はどこかで夕飯を摂るつもりだったけど、今日は帰るか」

「うん」


 促されるまま、帰り道の屋台でサンドイッチやマフィンなど、食べ物を適当に見繕う。人目を避けるように表通りから細道に入れば、細い川があった。この川に沿って歩くと、アパートへの近道だと聞いている。

 大勢いた観光客は、屋台も店もない裏通りには用はないらしい。遠くに喧噪が聞こえるだけの空間は、ぽつぽつと建つ民家の明かりが水面にきらめいていた。


「わあ……綺麗ね、レオ」

「ん? ああ、そうだな」

「写真を撮る?」

「……今日はいい。それより、ほら、あの辺りだ」

「え?」

「あの晩、あの茂みの奥にソフィアを見つけた」

「あ……」


 レオが指差す川面をソフィアも覗き込む。そういえば、救出時の具体的な話をしてもらったことはなかった。


「最初は布だけが見えていたから、ジャンヌがまた洗濯物を飛ばしたのかと思った。この上流に診療所があるしな。それで、拾おうと近付いたら」

「私だったのね。びっくりしたでしょう?」

「そりゃな。でも、ちょうどクレマンからさっきの芝居のチケットをもらった後で――」


 少し言い淀んで、レオはソフィアの顔を見る。


「オフィーリアと重なった」

「っ、わ、わたし、あんなに美人じゃない」

「そういうことじゃない」


 観たばかりの舞台の印象が強くて、つい売れっ子女優と比べてしまう。ヒロインが嘆きの歌を歌いつつ水底に沈んだクライマックスのシーンは幻想的な演出で感動的に仕上げてあって、悲壮感よりも美しさのほうが際立っていた。


「普段は芝居のチケットなんか渡されないんだ。その日に限って本当にたまたま……なんか、こういうのは滅多に信じないんだが、縁があるのかもな」


 自分だけが納得したように頷いて、レオはあの日の話をお終いにした。止めていた足をまた動かして、自分が沈んでいた川縁から離れる。


(オフィーリアはそのまま亡くなったけど、私は生きてるわ)


 レオが見つけてくれたから。見なかったことにしないで、ジャンヌの診療所にも運んでくれたから。

 縁があった――その言葉が妙にしっくりきて、ソフィアは繋いだ手に力を込める。


「レオ、ありがとう」

「いいって。別に礼を言って欲しくて教えたわけじゃない」

「うん、知ってる。でも私、レオに見つけてもらえて本当によかった」

「……そうかよ」


 まっすぐな感謝に照れたらしい。気まずそうに視線を逸らすレオを覗き込むと、ますます首を向こうに回してしまう。そんなレオが楽しくて、顔を正面から見たくて追いかけたらレオの真ん前に回ってしまった。

 行く手を遮る恰好になったソフィアに、横を向いていたレオの体がぶつかる。


「きゃっ」

「わっ?」


 後ろに倒れそうになったソフィアがぐいと引き寄せられて、レオの胸の中に飛び込む恰好になった。転ばずに済んだが、買ったばかりの夕食が入った紙袋が二人の間で潰れてしまう。

 ハッとなってバランスを整えると、レオから一歩外れた。


「大変、サンドイッチがっ!」

「気にするのそっちかよ……ソフィア、ちゃんと前を見て歩け」

「う、うん」


 咄嗟に庇ってくれたレオはなにも感じてなさそうだが、ソフィアの胸は動悸が激しい。


(レ、レオに抱きついちゃった……!)


 熱を出して抱いて運ばれたり、看病されたりと今以上の接触もあったはずなのに、急に恥ずかしい気がするのは恋心を自覚したからだろうか。

 きっと今明るい場所にいたら、この赤くなった顔もすっかり見られてしまったに違いない。街灯も多くない裏道でよかったと思いながら、ソフィアは繋がれた手だけを見て、足を進めた。



 §



 翌日。昨日の今日で祭り見物はどうしようと思ったのだが、レオは出かける気満々でソフィアに支度をするよう促してくる。


「心配なら帽子を被ればいい。いっぱいあるだろ?」


 レオが言うとおり、ブティックのオーナーがくれた衣類の中には帽子もあった。それも複数。その中でソフィアは、今日のワンピースと揃いの帽子を被る。


「……本当だ。大丈夫そう」


 鏡の前でいろんな角度を試したが、つばが広めのこの帽子を被ると、しっかり覗き込まなければソフィアの顔は見えない。


(私の視界は遮らないのに……なんだかすごい)


「そんなに心配するな。だいたい今日は、貴族はみんな狩り場のほうに行くだろうし」

「えっ、あ……そういえば」


 祭りの期間中は、庶民だけでなく貴族も特別な催しがいくつかある。そのうちの一つ、王家が持つ狩り場で交流会が行われるのだ。

 強制ではないがほとんどの貴族がこぞって参加する会で、上昇志向の強い叔父は毎年、必ず出席していた。


「そのおかげで今日は王城にほとんど貴族はいないから、王宮庭園にでも行くか。祭り、楽しむんだろ?」

「!」


 存分に祭りを満喫する、屋台も王宮庭園も見たい、とソフィアが言っていたのを覚えてくれていたのだ。


(レオってば……)


「……王宮庭園では、お花も摘めたよね」

「俺は遠慮する。ソフィアは好きなだけ摘めばいい」

「ふふっ、ありがと!」


 レオの言葉に大きく頷くと、二人で外に繰り出した。




 特別に開放された王宮庭園は、花盛りだった。いや、この祭りの期間中はどこも花でいっぱいなのだが、壮観度が違った。手前はラベンダーが、その奥にはそれ以外の様々な見頃を迎えた花が、見渡す限りに咲き誇っている。

 丁寧に整備された花の庭園は普通の庭とは一線を画しており、さすが王の膝元と感嘆の溜め息が出る。


「わあ、綺麗!」

「そうだな」


 大きく目を見開くソフィアの横で、レオも驚いた顔をしている。ソフィアは首を傾げた。


「もしかして、レオも初めて見るの?」

「まあな。城には興味なかったし」


 どこか苦々しげな口調に、レオが貴族に関していい印象を持っていないことを思い出す。


(……お城なんて、貴族そのものだものね)


 嫌いな人に近付こうとは思わないだろう。

 それなのに、今日はソフィアのためにこうして来てくれたということになる。


「レオ……その、ごめんなさ――」

「なんで謝る?」


 最後まで言わせてもらえなかった。しょんぼりしながら、それでも隠すことはできそうになくて口を開く。


「レオはお城に来たくなかったんじゃないのかな、って思って」

「いや? 前までだったらそうだったけど、今は別に……貴族なのに、貴族っぽくないのもいるって分かったしな」


(それって、私のこと?)


 正解、とでもいうように、帽子の上にぽんと手を置かれる。間違ってはいないが「そうだね」とも頷けず、ソフィアの顔が赤くなる。


「~~レオ! また揶揄って!」

「ははっ、ほら。花、摘むんだろ」


 ソフィアの抗議を適当にあしらって、レオは庭園の係員にさっさと花摘みの料金を払ってしまった。その上で手を差し伸べられたら、もう仕方ない。


「花摘みができるのはここと、向こうの区画だってさ。どっちにする?」

「うーん……向こうにしようかな。ラベンダーはいっぱい見たし」


 こちらに広がるラベンダーは花祭りの主役だ。香りもいいし、たくさんの観光客が同じように花を摘んでいる。

 けれどこれまでの道中で、それこそラベンダーは見飽きるほどに見た。どこにでも飾られて、ラベンダーに関する小物も多く売られていて、ソフィアも小さなサシェをひとつ買った。なので、少し気分を変えたくなった。


 奥に広がる花畑では、ラベンダーの紫以外の様々な色――赤や黄色、オレンジ――が揺れていた。こちら側に花を摘みに来る人は少なく、花畑をほぼ独り占めである。これだけ見晴らしが良ければ、もしコリンヌたちが来てもすぐ分かるだろう。

 そういう意味でも安心そうだ、とほっとして花に伸ばした手が止まる。


「……どうしよう。みんな綺麗で可愛い……どれを摘んだらいいの?」

「好きなだけ悩め。俺はその辺を撮ってるから」


 ここに来てまた悩み始めたソフィアにまた笑って、レオは写真を撮ると言ってカメラの準備をし始める。


 やがて、ソフィアが花を選ぶより早く支度を終えたレオはファインダーを覗き始める。カシャ、という機械的なシャッター音、フィルムを巻く滑らかなゼンマイの音。この一月弱で慣れ親しんだそれらに心が凪ぐ。

 風景を撮っているらしいレオの様子を少し眺めて、ソフィアはまた周りで咲く花に目を落とす。風に揺れる花はやはりどれも綺麗だ。


(これ、レオに似合いそう)


 その中で、鮮やかな黄色や薄紅の、蕾がほころびかけた花を手折って束ねていく。ラベンダーと違って強く香る花ではないが、切った茎からは青い葉の、花からは花粉の微かな香りがする。

 一度摘み始めたら、夢中になってしまったようだ。気づけば片手では持ちきれないほどになっており、落とさないように胸に抱く。


(あれ、大分離れちゃった)


 ソフィアが好みの花を探しように、レオも気に入る撮影ポイントを探して歩いていたのだろう。すっかり二人の距離が空いていた。


「レオ!」


 ファインダーから顔を上げたタイミングでレオに向かって「今、戻る」と手を振る。声に気づいたレオは、カメラから手を離さずに軽く頷いてくれたようだ。

 花を踏まないように気を付けながら、レオに向かって足を進める。ソフィアが摘んだこの花束を見たら、レオに似合いそうな色を選んだと気づくだろうか。


(たぶん、気づかないわ)


 それでいい。この恋と一緒に自分だけが知っていればいいと思う。


「いっぱいだな?」

「ふふ、つい。花瓶に入りきるかなあ」

「足りなくてもコップしかないぞ」

「牛乳瓶もあるわ!」

「色気の欠片もないな」


 笑い合って花畑を後にする。

 花が萎れる前に一度アパートに戻り、生けている間にマクシムが訪ねてきて、結局そのままジャンヌも交えて夕食を摂ることになった。

 ラリーのように軽口をぶつけ合う三人の会話を聞いているだけでも楽しくて、ラフに飾られた生花に囲まれて気負わない空気で囲む食卓に特別感がまた募る。


(レオと、皆に出会えてよかった)


「ソフィア、どうしたの? 疲れた?」

 楽しすぎてぼんやりしていたらしい。ジャンヌに顔を覗き込まれてハッと我に返る。そういえば、ジャンヌに訊こうと思っていたことがあったのを思い出す。


「う、ううん、大丈夫! あの、ジャンヌさん。後で少しいいですか?」

「あら、なにかしら。いつでもいいわよ、レオが気が利かないって話でしょ」

「なんだと?」

「ち、違います、そうじゃなくてっ」

「違わないよねえ。レオはほら、アレだから」

「アレってなんだよ、マクシム」


 わいわいと賑やかな時間が過ぎていく。

 花祭りの期間中、しっかり出かけたのはこの二日間だけだったが、自分より楽しんだ人はいないとソフィアは思う。それくらい、幸せを感じた。



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