あなたのすべてに
水鏡に星が煌めく。
ファラは暗く陰瞑に沈む木々の影に溶けるように身を隠し、紫雲のような星空を鏡映しに湛える水面を見つめながら、翠緑苑の池の縁に佇んでいた。
風もなくしんと静まった夜気は薄氷のように張り冷え、ファラの白い肌に刺すようにひりつく。けれど彼女は身体を震えさすことなく強いまなざしで、じっとそのときを待っていた。髪に挿した簪を飾る青い石が、星明かりに鈍く光った。
「……今さらながらあらためて訊くが、本当に来るんだな?」
ファラの後ろの暗がりに身を潜めていたサタハが、周囲の物音に警戒を払いながら小声で訊いた。
「来るわ」
そう返すファラの声は、確信の響きを帯びていた。暗闇からサタハの肩を竦める気配が伝わってくる。
「……もしもの備えは必要だ。もし来なければ、このまま逃げるぞ。そのときは可哀想だがルントゥは――」
「来るわ」
振り返ったファラの瞳がサタハを射る。その瞳に宿る色は強情な否定ではなく、疑いようのない事実を淡々と告げる沈着であった。
闇の中で光るその瞳に気圧されるようにサタハが身じろぐと、不意にその視線が彼の背後へと外れた。
そして微笑む。
「善き夜の出会いに感謝を」
サタハが振り向く。そこには月もなく草木の輪郭も見失われた夜の闇の底に、抱かれるようにして立つ少年の影があった。
「あなたは残酷な人だ」
少年は泣くような声でそう言った。ファラは微笑みながら一歩、二歩とゆっくりと近づき、少年の手を包むようにして握ると彼の首筋に顔を埋め、そっと唇を少年の耳に近づけて、泣く子をあやすような声音で囁いた。
「あなたは優しい人です」
「あなたは残酷な人だ」
ファラの言葉にそう繰り返した少年は、しかし抗う姿勢は見せず、その身を絡めるように寄せる少女の横顔を慈しみに満ちた瞳で見やり、その耳に告げた。
「けれど悲しい人だ」
少年は鳶色の瞳をまぶたで閉ざし、ファラの背中に手をまわして続ける。
「あなたは私なしでは生きられない」
その言葉にファラの瞳が揺れた。暗く狭い巌の底に閉じ込められた虜囚が、開かれた岩戸から差し込む光を見上げるようにその瞳は揺れ、この光を掴むように少女の手もまた少年の背中へとまわる。光のすべてを捕らえるように、彼女は指の一本一本が少年の肌に痕付くほどに強く抱き締めた。
「ああ――」
そして喉を震わせ、彼女は歌う。
――どんな深い暗闇も
私の妨げにはなりません
たとえ陽の下を責め追われ
月も眠りに見えない夜でも
星の微かな瞬きが
あなたの姿を照らすのならば
なにを恐れるというのでしょう――
それは即興の情歌だった。渓流を楚々と流れる清水のように静やかな歌声は、しかしその伏流に逆巻き燃える炎にも似た激しい熱を帯びて、少年の耳へと注がれる。
――だからあなたが私の前に
こうして現れてくれるのならば
この指も
この肌も
この唇も
この心も
私の持てるあらゆるを
あなたのすべてにそそぎましょう――
歌い終わりの余韻の中で顔を離したファラは、少年の鳶色の瞳を覗く。その瞳には、もう凪いだ湖面のような静穏の色も、迷い惑う心を映した濁りの色も見えない。
少年の手が少女の背中を優しく撫でる。
「もう、大丈夫ですよ」
少女の身を焦がす熱情もそのままに受け入れて、少年の瞳に映るのは春の曙光を浴びながらゆったりとたゆたう海のような、慈しみの色であった。
「あ――」
冬去りし海に吹く風は生気に満ちる。少年があの月夜に少女の胸に残した熱が、少女の全身を満たしていく。唇が震え、それは短い言葉となって口から溢れる。
「――ありがとう、トウリ様」
ファラの頬を涙が伝う。その流れをたどるように指を沿わせ、少年は静かに首を振る。
「私の名前は、もう『恵みを与えるもの』ではありません」
困惑するファラを安心させるように微笑んで、少年が告げる。
「私の名前はラパラ。それが『恵みを与えるもの』に選ばれる前に、父母が私に贈った名前なのです」
――翼。
その名を表すように少年が両腕を開く。その姿がファラには大空へと雄飛する大鷲のように見えた。
「美しい名前――」
その翼に抱かれたファラにとって、このぬくもりこそがすべてであった。
だから彼女はラパラの内で、誓うように再び歌う。
――私の持てるあらゆるを
あなたのすべてにそそぎましょう――




