青き星へ祈る
棕櫚の簾を開いてその部屋に入ろうとしたルントゥは、震える膝に自身の心の畏れを知った。
音もない夜の風が背中から吹き、ひやりとした感触をルントゥの肌に生じさせ、部屋の闇へと流れていく。身体の怖気を払うように頭を振ったルントゥは、部屋に足を踏み入れ、微かな星明かりだけを頼りに目指す寝台へとたどり着く。
王の寝台。
それを見下ろした瞬間に生まれた感情は、ルントゥの畏怖に委縮する心を吹き飛ばした。
「ここでファラーレ様は……」
毎夜の夜伽を終えて自室に戻ってきたファラの姿を思い返す。切り傷、掻き傷、青痣、赤痣、噛み痕、締め痕――染みひとつなかった彼女の白絹のような肌を踏みにじり、自らの所有物であることを誇示する焼印の如くに刻みつけられた傷痕の数々。ルントゥの奥歯が軋んだ。その音に含まれる響きは――憎悪。
その感情にルントゥは、自らの役目を確かめるように着ている長衣の合わせを寄せる。頭巾があり顔も含めた全身を隠せるキトナと呼ばれるこの長衣は寒暖の調節用に使われる服であったが、ここ数日ファラは肌の傷や痣を隠すために着るようにしていた。王の侍従は彼女が王からどのような扱いを受けているか知っていたので、それを咎めるようなことはなかった。ファラはこれを利用して、肌を白く塗ったルントゥにキトナを着せて入れ替わり、王の寝所へと送り込んだのだ。
(ファラーレ様……)
キトナにかすかに残る水蜜にも似た甘い香り。自らがすべてを捧げた美しき主人の匂い。この残り香に抱かれたルントゥは、自分の身体の芯に燃えるような熱が広がっていくのを感じた。きっと自分を燃やし尽くすであろうこの熱も彼女にとっては許しであった。この熱があれば、畏れるものなどなにもない。ルントゥはただ、この熱を与えてくれた主人がその想いを無事に遂げてくれることを祈り、そのための犠牲になる自らの運命に喜びを感じていた。
(ファラーレ様の加護でここまで無事に来ることができました。あとはチェスカ様の言葉に、トウリ様がファラーレ様をお選びになれば――)
ムガマ・オ・トウリと宮殿を抜け出す計画に、チェスカの協力を求めるよう提案をしたのはルントゥだった。
ルントゥは覚えていた。あの翠緑苑でのひととき。恋にためらう少女の手を引いた少年が、少女の幸福を祈ったあの尊く儚い時間。そこにいたチェスカが少年にむけていたまなざしが、自分と同じものであったことを。
それは愛だった。見守るものの幸せを願い、そのすべてを許すような優しく、慈しみに満ちたまなざし。
そのまなざしの理由はわからない。チェスカの事情などルントゥには知り得ようがないことだった。けれどこのまなざしが信じられるものであると確信したルントゥは、ファラの許しを乞い彼女を説得したのだった。
「ファラーレ様とムガマ・オ・トウリ様は結ばれるべきです」
斎殿でチェスカと面会したルントゥは、この言葉を彼女にぶつけた。驚くチェスカに、ルントゥは危険を承知で計画について話した。密告されればルントゥもファラも無事では済まないだろう。けれどルントゥはチェスカのまなざしを信じていた。
ルントゥがすべてを話し終えると、チェスカは目を瞑り、深い思案を見せた。息を呑み返答を待つルントゥに、この沈黙は永遠のように長く感じられた。
やがてチェスカは目を開き、心を決めるようにうなずいて答えた。
「それをトウリ様が望むのであれば」
ムガマ・オ・トウリがファラを選べば、チェスカはそれに従うと決めた。その意思を確かめたとき、チェスカは計画の日にトウリを翠緑苑へと連れてくることを約束した。
(きっとお二人は結ばれる。だから私は――)
チェスカはトウリがファラを選ばない場合は協力できないと言っていたが、ルントゥはそんなことはあり得ないと心の底から信じていた。だから彼女はキトナの内懐に収めた“それ”に手を触れ、自分がこの場に来た役目を確かめた。
(ファラーレ様がお与え下さったこの使命を、必ずやまっとう致します)
冷たく硬質な感触。ファラがルントゥに授けた短刀。これで彼女は自らの役目を果たす。
(ファラーレ様にご加護を……。青き星よ、あの方にこの想いが届きますように……)
青き星とは南天の中心に光る、暗く青い星である。弱々しく今にも消え入りそうな輝きのこの星は、けれど時とともに移ろう星空にあって動くことなく不変にあり続ける星であった。その姿は人々に、どんな困難に隔てられ、時が移り変わろうと、想い人が変わらずにあることを信じさせた。そして人々はこの青き星に願いを託す。
ルントゥは短刀を授けられたとき、これと交換するように青き星を象った青い石を飾った簪をファラに渡していた。まじないである。
(不変の青き星のようにあなたが無事にあり続け、私のこの想いが届き続けますように――)
このルントゥの祈りを妨げるように、そこで部屋の外から足音が聴こえてきた。足音は彼女の心音と混ざり合いながら、徐々に部屋へと近づいてくる。
その足音が部屋の前で止まったとき、ルントゥは短刀の刃を鞘から抜いた。
闇の帳の中で映す光もない刀身は、虚のような漆黒に染まっていた。




