聖妃の招き
聖妃オクリョ。
王トゥパク・ユパンキの正妻にして、数多い妾妃の筆頭に立つ女性である。
彼女の使者が訪れ、ファラを部屋に招きたいと申し出たのは、今朝方のことであった。
「ご足労でしたね、白い娘さん」
オクリョは香を焚き込めたその居室の奥、垂簾に閉ざされた寝台の内から、床に跪くファラにそう声をかけた。
香炉から薄い紫煙とともに漂う香の匂いは甘い。しかし、垂簾の左右に立つオクリョの侍女たちの表情は、どこか冷然としたものだった。
「この度は、お招きいただきありがとうございます」
ファラの挨拶に簾のむこうからオクリョの笑う気配が伝わってくる。
「こちらの言葉も、だいぶ身に付けたようですね。貴方の教授がよろしかったのでしょう」
それに答えるのは、ファラの後ろに膝をついて控えるサタハだった。
「お褒めにあずかり光栄に存じます。ですがまだまだ尊き聖妃様の御前にて、失礼なくお言葉を交わせるほどではありません。本日は僭越ながら、私サタハが通訳を務めさせていただきます」
垂簾に映るオクリョの影が口元を押さえるように動き、愉快そうにかすかに揺れた。
「ふふ……。今日お呼びしたのは、この白き娘の歌と踊りがとても素晴らしいと聞き及んだため。是非ともご披露お願いしたいと、お伝えなさい」
サタハにその言葉を耳打ちされたファラはうなずくと、傍らに置いた箱から二弦琴を取り出し、垂簾のむこうに再拝をして請うた。
「今日は舞曲を奏でる楽師がおりませんので、こちらで踊りの唄を奏じ、歌いたく存じます」
サタハの通訳で伝えられた願い出にオクリョがうなずきを返す。ファラは着ているコルナの裾を払い、居住まいを正すと、膝に据えた二弦琴をそろりと奏で出した。澄明な音色が踊りのような律拍を刻み、香の紫煙に燻る部屋を満たしていく。
そして、歌声。
――こちらへどうぞ
さあ、喜びのうずまく中へ――
弾む音律の華やぎに乗るように、若く爽々とした声が誘うような甘さとともに伸びていった。
――気取って笑い、頬を赤らめ
踊る熱が汗ばみ浮けば
薔薇の香りのごとき芳し――
息継ぎから漏れる呼気が紫煙を揺らし、芳花の幻のような影を描いて乱れ消え、つま弾かれる琴線から生まれる音楽が鼓膜を震わし、輪舞の軌跡のような足取りを刻んで散っていく。
――その匂いを
さあ、ふわりふわりとまき散らし
手を取りまわり、髪をなびかせ
見るものすべての皆々を
薔薇の香りで薫りいざなえ――
花の盛りを祝うごとくに喜び踊る歌声は、しかし二弦琴の弦がひと弾きに、空気を切るように高く鳴った瞬間に転調する。
――香りは漂う
されど、触れ触られした誰彼も
終わりの風が、花を散らして
今は昔に残る彼の香は
未生の昔とおなじむなしさ――
未練のように細く続く終音の歌声は、やがて琴線の余韻とともにかすれて――絶えた。
無音。
左右の侍女は瞠目の表情で声を失ったようにたたずみ、後ろのサタハはこの無音を汚すのを畏れるように口を閉ざしている。この沈黙の中で、ファラが二弦琴を膝に下ろす。そこで垂簾のむこうの影が動いた。
「見事なものです。トゥパク・ユパンキ様が貴女をご所望になるのもわかるというものです」
ころころと笑うような声でされたオクリョの賛辞をサタハが通訳する。ファラはその称賛にしずしずと頭を下げて応える。
「それで……」
ここでオクリョの声色が変わったことは、言葉の通じていないファラにもわかった。
「その妓女の芸でムガマ・オ・トウリ様にもお近づきになられたのですね?」
トウリという言葉に、ファラの肩がぴくりと動いた。
「ですが、彼の方はこの太陽の地において不可侵の、決して穢れてはならぬ無垢なる心身の御方」
サタハが逡巡するように言葉を溜め、そして一語一語を選ぶようにゆっくりとファラに伝える。
「自分の身は……わかりますね?」
そこまで伝えられたファラは、オクリョがどうした目的で自分をこの部屋に招いたのかを知った。
オクリョが垂簾を隔ててファラに告げる。
「これ以上、彼の方とお会いすることはおやめなさい」
冷え固まる氷のように軋む心を押さえつけ、ファラは言葉もなく顔を床に伏せた。
あれだけ立ち込めていた香の甘い薫りも気付けばどこか薄く、彼方へと遠ざかるようにむなしさだけを残してかすれていった。




