クラリッサの物語
莉沙は理解した。すたこらさっさと、逃げるより他にない。ところが、逃走はシーツの大波に阻まれた。莉沙はころころと転がされ、ニック=ショックの懐に納まってしまう。引き攣れた悲鳴を漏らす莉沙を抱きしめて、ニック=ショックは莉沙の頭を撫でる。
「怖がるなって。前に言ったろ? 俺はイイ女には優しいんだ。特に君みたいな、勇敢な美女は、俺の好きなタイプだからな。会いたかったぜ、リサ。君を逃がしちまった俺が、あの後、どんなに悔しがったかわかるか? こんなことになるなら、フランのジジイのオモチャなんて放っときゃよかったって。骨無し野郎の邪魔が入る前に、君を連れ去っちまえばよかったって。滅多にないことだぜ。この俺が、ああすりゃ良かった、こうすりゃ良かったなんて、過ぎたことでウジウジすンのは」
ニック=ショックは屹然と溜息をつく。後悔している、というのは本当のことなのだろう。物憂げな溜息は、ハート型の回転ベッドや、お盛んなメリーゴーラウンド、意味深な合奏団などより、効果的にムーディーな雰囲気を演出しているし、低く囁く声とお腹に回された強いけれど優しい腕は、唐突なお風呂上がりのバスローブ姿などより、ずっとセクシーに感じられる。
それはそれとして。熱い頬を両手で挟みながら、莉沙は冷静であろうと努めた。深呼吸を繰り返してみる。ニック=ショックが莉沙の旋毛にキスをしてくるから、恥ずかしさのあまり卒倒しそうだけれど、必死になって堪える。
兎にも角にも、これで、はっきりした。ニック=ショックは人違いをしている。
莉沙とニック=ショックは、言うまでも無く、初対面だ。ニック=ショックの言う「リサ」は莉沙ではない。きっと、クラリッサの物語のヒロインのことだ。
(でもどうして、クラリッサの物語のヒロインと私を、見間違うのかな? クラリッサの物語のヒロインはイギリス人で、わたしは日本人だよ。共通点は黒髪だけ。あっ、カラーコンタクトをしているから、瞳の色も同じかな。でも、たったそれだけのことで、見分けがつかないもの?)
うんうんと唸りながら、莉沙は考える。
(でも……妖精から見たら、人間って皆、同じように見えるのかも。性別が同じで、髪の色とか長さとか、目の色、背格好なんかが似ていたら、皆、同じに見えるのかも)
うんうんと頷きながら、莉沙は納得する。その解釈が、しっくりくる。モック=フランも、莉沙とクラリッサの物語のヒロインを混同しているのだろう。
つまり、クラリッサの物語は実際に起こった出来事を描いたものだということだ。
モック=フランが物凄く怒り狂っていたから、多少の脚色はあるのかもしれないけれど、それだってきっと、たいした改変ではないんじゃないだろうか。その証拠に、モック=フランとニック=ショックの人ととなり……人ではなくて妖精だから、妖精なり?……は、クラリッサの物語に出てくるそのままだった。
ということは、ヒロインも実在する女性ということになる。ボンレス=ミャオに愛された女性。長い黒髪を豊かに靡かせて、魔法にかけられたような青い瞳で、固定概念のヴェールに隠された、手つかずの世界を見る特別な女性。心優しく、正義感をもつ、素敵なイギリス人女性。
考えるまでもなく、莉沙は結論を出した。
(クラリッサだ! クラリッサの物語のヒロインは、クラリッサなんだ! だから、クラリッサは「パッチワークの丘のくるみの家の素敵な魔女」なんだ!)
クラリッサの物語と、クラリッサの不思議な境遇が、真っ直ぐな線で繋がった。いつのまにか、パッチワークの丘に棲んでいたクラリッサ。いつまでも若々しいクラリッサ。近所の人たちとの交流を控え、文明の利器を暮らしに取り入れられないクラリッサ。豊かな自然に囲まれて、不思議と一緒に暮らすクラリッサ。
クラリッサはきっと、今もボンレス=ミャオと一緒に暮らしている。クラリッサが言う『彼』は、ボンレス=ミャオに違いない。クラリッサに物語を語る『彼』が、続きを語らないのは、クラリッサとボンレス=ミャオの日々の暮らしそのものが、クラリッサの物語の続きだから。
(そっか……そっか、そっかそっか! そっかぁ……そうなんだね!)
莉沙は興奮していた。大好きな『クラリッサの物語』が、本当に本当の『クラリッサ』の物語だったと思えば、嬉しくて、嬉しくて、とても嬉しくて、堪らない。それと同時に、ひっそりと暮らしているクラリッサが、ひとりではなくて、彼女が愛し、彼女を愛する夫とともにあったと思えば、なんだか、ほっとして、泣いてしまいそうになる。
幼い頃、自分の居場所がないと感じていた莉沙に、居場所を与えてくれたクラリッサ。クラリッサと出会えなければ、莉沙はきっと、捻くれて、卑屈になっていただろう。もしかしたら、グレてしまったかもしれない。クラリッサがいてくれたから、莉沙は両親のことも、祖父母のことも、大好きなままでいられたのだと思う。
ずっと気がかりだった。いつでも笑顔で莉沙を迎えてくれるクラリッサは、いつも独りだったから。クラリッサはこんなにも優しい人なのに、とても寂しい人なんじゃないか。
(クラリッサは幸せなんだね。ひとりぼっちじゃないんだね。寂しくないんだね。良かった)
「ずっと……ずっと、一緒にいたんだ」
「そう。ずっと、忘れられなかったんだ。夢にまで見た。君のこの、流れる闇のような黒髪。弾け飛ぶ空のような青い瞳。ああ、リサ。この俺を、こんなに長いこと焦らす女は、君が最初で最後だろうな」
莉沙を背中から抱いたニック=ショックが、莉沙の耳元で囁く。莉沙はぎくりとした。ぎしぎしと首を軋ませて振り返える。ニック=ショックはにやりとした。こんなこと、心の中で言うことも、失礼だろうけれど……絶対に、ろくなことを考えていない顔だった。
莉沙の耳殻を唇で食んだニック=ショックは、案の定、ろくなことを言わなかった。
「優しくしてやる、もちろんな。だが、ちょっと、意地悪してやりたい気もするぜ。さぁ、どうしようか?」
かちんこちんに固まってしまった莉沙を抱えて、ニック=ショックは寝台に倒れ込む。慌てた莉沙が起き上がろうとするけれど、ニック=ショックの腕に絡め取られて、うまくいかない。分厚い胸板に咄嗟に手をつっぱって、莉沙は震えあがった。
それでも、ニック=ショックは退いてくれないし、放してもくれない。
「びくびくしちゃって、可愛いなァ、もう!」
ぎゅうぎゅうと抱き締められて、苦しい。抱き心地の良いぬいぐるみにでもなった気分だ。ニック=ショックがそれだけで満足してくれると良いんだけれど、という淡い期待はもつだけ虚しい。
「リサ……その初々しい反応、君、バージンだろ? わかるさ、俺様にはお見通しだ。知ってるぜ。表側の世界じゃ、女の子は白馬の王子様の為に、バージンはとっておくんだろ? 俺は、フランのジジイのオモチャに喰われかけた君を救った……つまり、俺は君の白馬の王子様ってわけだ。ま、このニック=ショック様は全世界の女の子の王子様みたいなとこあるけど? 今は君だけの王子様だぜ」
ニック=ショックがぱちんと指を鳴らす。すると、メリーゴーラウンドの馬たち煙に包まれた。煙が消えると、十二頭のショッキングピンクの馬たちは消え去り、六頭の白馬が現れた。それぞれの背に、マントを翻し、頭にちょこんと王冠を戴いたニック=ショックをのせている。物凄く恰好をつけたポーズをとっていた。
「ちがーう! 私の白馬の王子様は、ニック=ショックじゃなーい!」
本当ならば、私はあなたのリサじゃない! と叫びたいところだ。しかし、ここで莉沙がニック=ショック御執心の『リサ』でないことを明らかにしてしまったら、きっと、本物の『リサ』であるクラリッサに迷惑がかかってしまう。
それはいけない。だって、こんなことになったのは、莉沙がクラリッサの物語をネットで公開したからなのだ。それを、間違ったことだとは、今も思っていないけれど。もともと、クラリッサはあまり乗り気では無かった。もしかしたら、ボンレス=ミャオに反対されていたのかもしれない。それでも、クラリッサは莉沙の我儘を叶えてくれた。
優しいクラリッサを、紆余曲折あって、今は幸せに暮らしているクラリッサを、こんなゴタゴタに巻き込みたくない。
ニック=ショックは、莉沙が泣き喚いてもお構いなし。莉沙の両手首をひょいと掴むと、ひとまとめにして、頭上に張り付けてしまう。大きな掌に頬を撫でられた。
「リサ……俺のリサ。ずっと、君が欲しかった。なァ、そろそろ、素直に喜んでくれよ。このニック=ショック様に求められて、嬉しくないわけがない……そうだろ?」
嬉しいも何も、莉沙はもう泣きが入っている。しかし、それすらも、ニック=ショックの御都合主義の脳みそは、感涙であると勘違いしてしまうだろう。莉沙は尺取り虫のように体をのたうたせて抵抗した。
「嬉しくない! ちっとも嬉しくない! ニック=ショックのこと、好きだったけど、もう、好きじゃ無くなった! ニック=ショックなんて嫌い! 嫌い嫌い嫌い! いやいやいやいやいやー!」
莉沙が暴れた、そのとき。地の底から轟くような老婆の声が、響き渡った。
「ニィィィック=ショォォォックゥゥゥ……お母様のお帰りだよぉ……なんだぁい……出迎えもないのかぁい……」
ぐらぐらと部屋が揺れる。剥がれたパズルのピースが、ぱらぱらと雪のように降って来る。パズルのピースたちが逃げまどい、部屋の内装がごちゃごちゃになる。それ以上に、うろたえているのがニック=ショックだ。ニック=ショックは、彼のものとは思えないような、素っ頓狂な声を出した。
「お母様!? もうお戻りに!?」
「ニィィィック=ショォォォックゥゥゥ……どこだぁい……どこにいるんだぁい……まぁさか……まぁた……お兄様のところにぃ……お邪魔をしていぇ……ご迷惑をおかけしているんじゃあ……ないだろぉねぇ……」
「とんでもない! お母様のお留守の間、僕はとっても良い子にしておりました!」
「ニィィィック=ショォォォックゥゥゥ……いるんだろぉ……お母様のお部屋にいらっしゃぁぁぁい……すぐにいらっしゃぁぁぁい……まぁさか……まぁた……つまらない女を連れ込んでいるわけじゃあ……あるまいねぇ……」
「とんでもない! お母様のお留守の間、僕はとっても良い子にしておりました!」
「待っているよぉ……ニィィィック=ショォォォックゥゥゥ……お母様はねぇ……待つのはだぁぁぁい嫌いだよぉ……ニィィィック=ショォォォックゥゥゥ……」
「はい、お母様! 只今参ります!」
ニック=ショックはぴょんと飛び上がった。着地すると、仕立ての良い燕尾服を着ている。オールバックの髪型も、一瞬でバッチリ決まっていた。
ニック=ショックは振り返る。すると、逃げまどっていたパズルのピースが、莉沙をぐるぐると取り巻いた。悲鳴を上げようとする莉沙の唇を、パズルのピース達が張り付いて塞ぐ。莉沙は大きなシャボン玉に閉じ込められてしまった。
「悪いね、リサ。お母様が帰ってきちまったんだ。ちょっと、ご機嫌伺いに行って来る。すぐに戻るから、良い子にして待っててくれよ。焦れた分だけ、楽しめるぜ。約束する。じゃ!」
ニック=ショックは声を潜めて、早口でまくしたてると、踵を返した。彼の足元にぽっかりと穴が空き、ニック=ショックを吸い込んでしまうと、すぐに閉じた。
大きなシャボン玉がひとつだけ浮かぶ、真っ白な空間に、莉沙はひとり、取り残されたのである。




