ニック=ショックの招待1
その時。背後で澄んだ金属音が鳴った。我に返って振り返り、莉沙は目を瞠る。
筋骨隆々の逞しい男性が、その巨躯を精一杯縮ませて、莉沙を捕える鳥籠の戸の掛け金を外したところだった。莉沙と目と目が合うと、彼はウインクした。すると、ちょっぴり爬虫類っぽい印象の精悍な顔立ち……というか強面……の迫力が和らいだ。
エルフのように尖った耳にいくつも連ねた環状のピアス同士がぶつかり合って、じゃらじゃらと音をたてている。
莉沙はわぁっと歓声を上げた。
(今度はニック=ショックのお出ましだぁ……!)
クラリッサの物語が次から次へと目の前に現れる、奇跡のような体験に頬を紅潮させる莉沙を見て何を思ったのか。ニック=ショックはにっこりして、莉沙をひょいと抱き上げる。反射的に、艶やかな褐色の肌に覆われた上半身に触れると、本物のブロンズ像のように、かたく張り詰めていて、ひんやりしている。
目をぱちくりさせる莉沙に悪戯っぽく微笑みかけて、ニック=ショックは莉沙の右耳に唇を寄せた。
「こういうの、君達の世界じゃ『漁夫の利』って言うんだったか? うん? どうした? ぽかんとお口を開けちゃって。可愛いねぇ。グッとくるぜ、その物欲しそうな顔。……ああ、なるほど。俺の博識にうっとり……そうだな? わかるぜ、君は期待している。キスして欲しいんだろ? 君は俺にくびったけ。俺の魅力に骨抜きだ。骨無し野郎なんて目じゃないぜ。それじゃ、行こうか。二人きりになれる場所へ」
精悍な男前が屈託なく笑うと、わんぱく坊主のようだ。言っていることは、そうじゃないけれど。昔馴染みに再会したかのような奇妙な親近感を覚えてしまうことが不思議だ。クラリッサの物語のなかでも、特にお気に入りのキャラクターだから、だろうか。
その安心感に釣り込まれるように、莉沙は肯いていた。
次の瞬間、轟音が響きわたり、そこらじゅうに亀裂が奔る。
何事かと目を回す莉沙を抱いたまま、ニック=ショックは駆け出した。莉沙はニック=ショックの肩越しに振り返る。崩壊してゆく白亜の城。瓦解する光景の中で、混じり合わない赤と青の瘴気に覆い尽くされた空を背にした不定形の黒い影が二つ、くるくると踊り巡る。白銀の閃きに照らされて、それらが鮮血と粘液を迸らせて死闘を繰り広げる、モック=フランとボンレス=ミャオであることが、辛うじて視認できた。
ニック=ショックは使用人たちを蹴散らして廊下をつきあたりまで駆け抜けた。彼が大きく息を吸い込むと、突き当りの壁が壁紙のように簡単に剥がれ、物凄い勢いで此方に迫って来る。莉沙は悲鳴を上げた。
ところが、ニック=ショックに吸い寄せられた瓦礫はみるみるうちに小さくなって、大きく口を開いたニック=ショックの口腔に吸い込まれてゆく。
そうして、ぽっかりと口を開いた大穴から、ニック=ショックは跳躍した。背負った闇を被膜の翼のように羽ばたかせ、黒い森の上を滑空していく。
地上では、人ではないものたちが蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑っていた。白銀の熱線が地平線を焼き尽くし、さかまく瘴気が地上を覆い尽くす。断末魔さえ残さず蒸発して、朽ちていく。地獄絵図を目の当たりにしては、空を飛んでいる感動を味わう余裕がない。
莉沙はニック=ショックの逞しい首にぎゅっと抱きついた。ニック=ショックは莉沙の蒼褪めた顔を見下ろして、小首を傾げる。それから、にっこりして莉沙の頭を撫でた。
「そんな、可愛い顔で心配すんなって。フランのジジイは、そう簡単にくたばりゃしねぇよ。なんつっても、この無敵に素敵なニック=ショック様の伯父貴だぜ? 殺しても死なねぇさ」
ニック=ショックには、莉沙がボンレス=ミャオの心配をするとか、巻き込まれたその他大勢を憐れむとか、そういう発想が無いらしい。たぶん、ニック=ショック自身がそうだから、だろう。
どこまでも続く黒い樹海の上を通り過ぎて行く。死闘の中心地となったモック=フランの城から大分距離をとったものの、熱線や瘴気はどこまで行っても届くので、莉沙は極限の緊張を強いられた。ニック=ショックは何やら色々と、ぺらぺらと喋っていたけれど、内容はろくに頭に入ってこなかった。
そのうち、莉沙の目には何処を切り取っても同じ黒い樹海にしか見えないが、ニック=ショックには一目瞭然の、目的地に着いたらしい。
「さぁ、俺たちの愛の巣に御案内しよう。降りるぞ、しっかりつかまってな」
ニック=ショックは高度を下げて行く。
裸の黒い樹が梢を手のように伸ばしている。ニック=ショックは不気味に揺れる樹冠を鬱陶しそうに蹴散らして降下した。
そこは大きなクレーターだった。東京ドームの敷地よりも広いかもしれない。目を凝らすと、深い闇がぐるぐると渦を巻いている。ニック=ショックは躊躇いなく、闇の渦に飛び込んだ。
さらさらと、砂が流れるような音に混じって、耳を澄ませば、不気味な唸り声、呻き声、泣き声が聞こえてくるようだ。そわそわと落ち着かない莉沙の目を、ニック=ショックの大きな手が覆う。
「目を瞑れ。君にはちょっとばかり、刺激が強いだろう」
「何のこと」と訊ねる声は、謎の金切り声と怒声、そして断末魔めいた絶叫に掻き消される。
「んー……念の為に、裏口からこっそり入るか。ちょっと埃っぽいけど、我慢してくれ」
そう言って、ニック=ショックはくるりと旋回した。ニック=ショックの指の隙間から覗き見ると、どくんどくんと脈動する暗闇の中の、ぽっこりと膨らんだ部分を爪先で蹴る。すると、傷口が開くように、粘着質な音を立てて、闇が割れてぽっかりと穴が空いた。そこに手をかけ、ニック=ショックはひょいと身を躍らせる。
ウォータースライダーを滑るようだった。ニック=ショックが言った通り、埃っぽくて、ところどころ、青白く発行する蜘蛛の巣のようなものが張っていたり、ソフトボール大の蛍光するマリモのようなものがころころと転がっていたりする。それらは、ニック=ショックに蹴散らされる前に、そそくさと避けて行った。
程なくして、底が見えてくる。ニック=ショックはふわりと降り立つ。薄暗くて、やっと立っていられる程度の狭い空間だ。ニック=ショックは莉沙を降ろすと、軽く背を押して、先に出るように促した。出口は小さく、腰を屈めてやっと出られる。
暗闇に目が慣れた頃だったので、好奇心を押さえられず、莉沙は遠慮がちに家の中を見まわした。
意外や意外、その部屋の調度は昭和の日本を彷彿とさせるものだった。こじんまりとした四畳半の、居心地の良い和室だ。イグサの青々とした香りが鼻孔をかすめる感覚が懐かしい。
(だけどこの畳の敷き方って、切腹の間の敷き方だって、おじいさまが言っていたような? うーん……記憶違いかな?)
まぁ、ここは裏側の世界。表側とは異なる流儀で成り立っているのだろう。気を取り直して、部屋を見回してみる。
部屋の中央には卓袱台が置かれている。箪笥や飾棚は背が低く、テレビ台の上に載っているのはブラウン管テレビだ。うつるのだろうか? 目隠し暖簾の奥には台所があるのだろう。ニック=ショックの身長を考慮すると、低いのではないかと思われる天井からぷらんと垂れさがる、傘のついた豆電球を覗き込んでみる。豆電球の中にはウズラの雛くらいの大きさの、黒い小鳥すやすやと眠っていた。敷布をしいて、掛け布団をかけて、アイマスクまでして、眠っている。
部屋に入って来たニック=ショックは、案の定、天井に頭をぶつけている。しかし、痛がる様子はなく、天井に空いた穴から、掌サイズの色とりどりのマリモのようなものがぼとぼとと落ちて来て、ころころと転がった。三秒くらい硬直した後に、にょっきりと足が生えてきて、よろよろと千鳥足で、部屋の四隅の暗がりへと消えて行った。
「この部屋、雰囲気は気に入ってるんだが、ちょっと天井低すぎるんだよなぁ」
ニック=ショックはぼやきながら、頭髪に降りかかった七色の埃をちょちょいと手で払うと、窮屈そうに背を丸めて莉沙の隣に立つ。豆電球を指先で弾くと、中の小鳥が跳ね起きて、部屋が明るくなった。莉沙は反射的に目を細めたけれど、やんわりとした優しい灯りなので、目が眩むことはなかった。
床の間に続く鴨居にかけられた掛け時計を見上げた。ぐにゃぐにゃに折れ曲がった針が指し示す時刻を確認する。
「よし。お母様はまだお戻りじゃないな」
ニック=ショックはぼそりとひとりごちると、隣に並んで文字盤を見上げる莉沙の肩を抱き寄せた。
「こういう、ノスタルジックな雰囲気も悪くねぇけどさ。君みたいな美人と、俺みたいな良い男が豊かな夜を共に過ごすなら、もっとムーディーな部屋が良い……だろ? とっておきの、秘密の部屋に御案内だ。さぁ、おいで」




