莉沙は絶体絶命
凄まじい悪臭を放つどろりとした粘液を、眼窩、鼻孔、口腔、耳孔から垂れ流す美青年が、じりじりと迫って来る。
莉沙は雷にうたれたように飛び上がった。わたわたと両手を振ってぎりぎりまで後ずさる。
「きゃー! きゃー! きゃー! やめてぇ、怖い、怖い、怖い! お願い、近寄らないで! いやー!」
かさかさとすり足で鳥籠の周りをぐるぐる回るモック=フランから、莉沙はかさかさと這って逃げ回る。業を煮やしたモック=フランが、鳥籠を蹴り飛ばして怒鳴った。
「ぴぃぴぃぎゃあぎゃあ、やかましいわ! 先刻までの威勢は何処へやった、ええ!?」
「だって! だって、だって、怖いんですもん! 怖いし、グロイし、変な臭いするし、もう、やだぁ! 助けてぇ、お父さん、お母さん! クラリッサぁ!」
莉沙はわっと泣き出した。助けてクラリッサ、クラリッサ、と助けを求めて、こどものように泣きじゃくる。モック=フランは目の色を変えた。
「黙れ! 黙らんか、この無礼者! 気色悪いだの、汚いだの、臭いだの! 好き放題愚弄しおって! 貴様なんぞに指摘されるまでも無い! この身の醜悪なことは、吾輩が最も思い知っておるわ!」
モック=フランはがんがんと鳥籠を蹴りつけてまくしたてる。莉沙はぐらぐらと激しく揺れる鳥籠の格子にしがみついて体を支えながら、豹変したモック=フランの怒りを鎮めようとする一心で話題を変えようとした。
「き、気にしているんですか?」
「ああ!? なんだ、なんだぁ!? 『気にしているんですか』だぁ? 寝惚けたことをぬかしおって! もういっぺん言ってみろ! 貴様の肉体をどろどろに融かして、臭くて汚い粘液にしてくれる。その上で、自問自答するが良いさ。『その醜悪な姿を、気にしているんですか?』とな!」
莉沙はぶんぶんと残像が残りそうな速さで首を横に振る。モック=フランは鼻を鳴らすと、身を翻した。ローテーブルからシャンパングラスをとりあげ、中身をあおった。肩を大きく揺らすと、手の内にあるグラスを粉々に握りつぶしてしまう。莉沙がきゃっと悲鳴を上げると、恐ろしい形相で振りかえる。
「愚かな小娘にしては、賢明な判断ではないか。ええ? そうだろうとも。強大な力と引き換えであっても、このような呪いに身を捧げるなど、愚の骨頂じゃろうて……」
尽き落とされたかのように、モック=フランはソファーに腰掛けた。大きく開いた膝に肱を突き、両手に顔を埋める。たった今、全財産を失った。破滅だ。もう死んで金をつくるしかない。と、そんなような落ち込みようである。なんだか、老け込んでしまった気がする。
(私……もしかしたら……ううん、もしかしなくても……酷いこと、言っちゃった……)
モック=フランの過去は、クラリッサの物語では語られない。けれど、ボンレス=ミャオと対峙するモック=フランの言動には、優位に立ってもなお、隠しきれない劣等感が滲みでていたような気がする。
莉沙はふと思い出す。莉沙がまだ五歳だった頃。黄色い小鳥の無残な死骸を目の当たりにして、怖くて泣いてしまった莉沙を、クラリッサは優しく慰め、窘めてくれた。怖くないのよ、莉沙が可愛いと言っていた小鳥さんと同じなのよ、と。
(あの小鳥と同じ……モック=フランも……)
莉沙はモック=フランを気の毒に思い、自身の思いやりの無い言動を反省する。謝らなくてはいけないと、莉沙は思った。
「あ……あの……モック=フラン……さん?」
意を決し、声をかけたとき。莉沙ははっと気がついた。部屋の外が騒がしい。
幾重にも重なる誰何と制止の声を悲鳴に変えて、近付いて来る足音。鈴の音より、冷たく澄んだ音を伴い、足音の主は扉を蹴破った。固く閉ざされ、淀んだ暗がりに、一条の光が射したかのようだった。
闖入者は眩い美貌の青年だった。うららかな春の日差しが容を成したかのような、優しい面立ちは、モック=フランを険しく睨みつけていても、清らかな聖者の風格を保っている。美貌の青年が一歩を踏み出すと、無造作に括った長髪がさらりと逞しい肩から滑り落ちる。そうして、頭髪を掻き分けて生える、灰色の毛に覆われた三角の立ち耳がぴこぴこと揺れる。生糸のように繊細な髪は、光の加減によって、白色にも灰色にも、目に映る色を変えた。
がしゃん、と重低音が轟き、豪奢な部屋が揺れる。天井に吊るされたシャンデリアの、電球の変わりに嵌めこまれた、発光する円い小鳥たちがぎゃあぎゃあと騒ぎ、部屋のいたるところにぷかぷかと浮かぶ色とりどりのシャボン玉がぱちぱちと破裂する。美貌の青年のが、身の丈を乞える大剣を床に振り下ろした衝撃によって。
青年が手にとる大剣は、その道に疎い莉沙の目にさえ異様なものとして映る。それは、人骨を複雑に繋ぎ合せたかのようで……いや、事実、その通りなのだ。彼の武器は、彼自身の骨で形作られる。その証拠に、彼が歩を進める度に、支えを失った背は、ゴム人形みたいに、くにゃくにゃとしなっている。実際に目にすると「大丈夫かな?」と心配になってしまうけれど、心配なんて要らないことを、莉沙は知っている。そう、彼こそは、自身の骨と柔靭な肉体を変幻自在の武器とする、不死の王。
「娘を返して貰おう」
呆気にとられるモック=フランを睥睨し、堂々と言い放つ美貌の青年。莉沙は、らんらんと目を輝かせ、彼の名を呼んだ。
「わぁ……ボンレス=ミャオだ……!」
歓声を上げて浮足立った莉沙は、我に返ったモック=フランにクッションをなげつけられて牽制されてしまう。竦み上がる莉沙をぎろりと睨み、モック=フランはボンレス=ミャオに向き直った。莉沙には見えなかったけれど、ナルキッソスの美貌に、背筋が凍るような、邪悪な笑みが浮かべていたことだろう。
「おやおや。星もぐっすり眠りこむ時分に、王への謁見を申し出る……礼儀知らず、命知らず、恥知らず、の三拍子揃った愚か者。何処の馬の骨かと思えば……貴様か、骨無し。善哉、善哉。呼出す手間が省けたわい」
モック=フランとボンレス=ミャオ。因縁の二人は絡み合う視線ですら、烈しい鍔迫り合いを繰り広げ、火花を散らす。
モック=フランは翼のように広げた両腕を背もたれにかけると、長い脚をもてあますように組んだ。露骨に顔を顰め、長い溜息をつく。
「いまさらになって、吾輩の前に姿を現すとは。一体、どういう風の吹き回しだね? 逃げ隠れするのに、嫌気がさしたか? 或いは、先の見えない逃避行に疲れ果て、破滅の安らぎを欲したのか? 否、違うだろう」
モック=フランは首を巡らせて、莉沙を振り返る。眼窩には禍禍しい瘴気が渦を巻いていた。モック=フランが嘲笑すると、瘴気はもくもくと、煙のように吹きあがる。
「愚かなものよ。人間の女にいれあげ、挙句の果てに破滅するとは! とんだお笑い種だ! 貴様はこの裏側に永く名をのこすことになろう。奇代の大馬鹿者としてなぁ!」
莉沙は勝ち誇るモック=フランをしげしげと見詰める。あれ? と小首を傾げた。モック=フランの言い方では、まるで、ボンレス=ミャオが莉沙に恋をしているみたいだ。
(私達、初対面なんだけど……モック=フランはどうして、そんな勘違いをしているの? ん? あれ? そもそも、ボンレス=ミャオはどうして、私を助けに来てくれたの? ボンレス=ミャオには、心に決めた女性がいて……それは人間の女性で……でも、私じゃないよ?)
みしり、と音を立てたのはボンレス=ミャオが噛みしめた奥歯だった。双眸は白眼も瞳も、車のヘッドライトのように輝いている。怒髪天を衝いた、らしい。挑発して、ボンレス=ミャオの怒りに火を点けたモック=フランは、さらに彼の怒りを煽った。
「さぁ、何処からでもかかって来るが良い、負け犬の王よ。我が瘴気に蝕まれた襤褸の肉体をして、絶対の王に挑む蛮勇に駆り立てる、貴様の愛とやらを計ってやろう。ちっぽけな人間の小娘を、どろどろの粘液に変え、貴様の牢獄に垂らしてくれる。愛しい女がおぞましきものに成り果てても貴様は、果して愛を貫けるものかね?」
せせら笑うモック=フランの肩が泡立つように盛り上がる。莉沙はびくついている場合ではなかった。
モック=フランの横面に、強烈な一撃が叩きつけられたのだ。ボンレス=ミャオの帯剣は、鞭のように形状を変え、蛇のように刀身をくねらせ、複雑な軌道を描き、モック=フランを強襲した。
それでも、ゆらりと立ち上がったモック=フランは然程、堪えた様子は無い。肉体的には。精神的なダメージは、結構なものだったようだ。憤怒に歪む形相は、耐え難い屈辱を受けたと言わんばかりだったし、ぎらぎらする眼光は、雪辱に燃えていた。
モック=フランの両太腿が倍以上に膨張する。撓むバネの力が弾けるように、モック=フランは跳躍した。獲物に踊りかかる猛獣さながらに、モック=フランの右フックがボンレス=ミャオを強襲する。それを見越していたボンレス=ミャオは、肱を横面に引き付けてガードした。モック=フランの拳はボンレス=ミャオの肱にめり込む。拳はぐにゃり肉に柔らかな沈み込み、絡め取られた。肘が伸びて隙が出来たモック=フランの脇腹に、ボンレス=ミャオの足技が炸裂する。モック=フランの体が大きく傾ぐ。倒れる寸前に、ぶわっと噴き出した瘴気の煽りを受けて、モック=フランは体制を立て直した。
莉沙は手に汗を握り、二人の肉弾戦を見守っていた。そうするより他に無かったのである。




