目覚めたら鳥籠の中
ぶんぶんと煩わしい虫の羽音がすぐ耳元で聞こえる。追い払おうにも、体は鉛で出来ているかのように重くて動かない。指先を動かせないどころか、瞼すら持ち上げられないのである。不自由が苦しくて、莉沙はうんうんと唸った。
どれくらいそうしていただろう。重く冷たかった体の端々から、微弱な電流のような痺れとともに感覚が戻りつつあった。長時間正座を続けた後の、あの、くるおしくもどかしい痺れが体の末端から駆け上がってくる。莉沙は苦鳴を上げ、苦しみから逃れようと闇雲に体をゆすった。
じっとしていられなくって、寝返りを打ったとき。体が自由の大部分を取り戻していることに気がつく。ゆっくりと瞼を持ち上げると、銀の鉄格子の向こうに、ヴィクトリア朝の貴族のお屋敷の一室のような、瀟洒な……それでいてどこか陰鬱な光景が広がっていた。
座り心地のよさそうな豪奢なソファーを支えるのは、小さな猫足だ。紛れもない、猫の足である。ぷるぷると震えながら、押し潰されないように、精一杯の力を漲らせて、ソファと、そこに腰かける主を支えている。
猫足の苦労になど見向きもせず、悠然と寛ぐのは、典雅な室内に完全に溶け込む優美な青年。莉沙が気を失う前まで、話し込んでいたあの金髪碧眼の美青年である。
美青年は、シャンパン・クーラーからボトルを取り出すと、シャンパングラスへどす黒い紫色の液体を注いだ。一口含み、ローテーブルに戻す。気だるい様子で、呆然とする莉沙の方を向いた。
「ようやっとお目覚めかね。待ちくたびれたぞ」
美青年は席を立ち、一直線のラインの上を歩くように美しいウォーキングで歩み寄って来る。美青年が身に纏う、強烈なにおい……盛りの花や、爛熟した果実の甘い香りと、饐えたような、それでいて生々しい臭いが混ざり合った悪臭……がリサの鼻孔から脳天まで貫いた。せっかく取り戻した意識を手放してしまいそうになる。
眠そうな垂れ目の、陰湿な嘲笑に怖気だった莉沙は、無意識のうちに尻であとずさった。鼻を摘ままずにいられたのは僥倖と言えるだろうか。
背に銀の格子があたり、ぱっと辺りを見回すと、莉沙は銀の鳥籠に捕らわれていた。唯一の出入り口である戸に飛びつくが、いくらゆすってもびくともしない。外から掛け金がかかっている。取り外そうと手を伸ばし、ひっぱってみるが、重くて堅くて、びくともしなかった。
「申し遅れた。我が名はモック=フラン。裏側の世界を統べる王である」
美青年は素っ気なく自己紹介を済ませると、ゆっくりと鳥籠の周囲を練り歩く。樹上に逃げた獲物が力尽きて堕ちてくるのを待つ猛獣のように。莉沙はぱっと飛びずさり、鳥籠の中央で震えあがった。
(え、え、え!? これって、もしかしなくても、監禁だよね? 私、誘拐されて、監禁されてるよね? この、モック=フランさんに……。ちょっと、ちょっと待って! モック=フランって、あのモック=フランでしょ!? クラリッサの絵本に出てくる、腐乱王モック=フラン! まさか、そんな筈ない! でも……このひと、見れば見るほど、モック=フランにそっくり……って言うか、そのものだよ! でも、でも……そんなことって……!? そうだ、このひと、きっと、あれだ。クラリッサの物語に夢中になって、現実と空想の境を飛び越えちゃった系の人なんだ! ええっ……なにそれ、怖い!)
モック=フランは竦み上がる莉沙をねぶるようにせせら笑うと、格子を掴んだ。がしゃんと大きな音を鳴らしてゆする。莉沙はきゃあと悲鳴を上げて縮こまった。モック=フランはさも愉快そうに歯を剥いて笑う。笑声とともに、卒倒してしまいそうな程の悪臭が、優美な口唇から放たれる。
「貴様の考えていることはお見通しだ。この私を、現実と空想の境を見失った異常者だとでも、思っているのだろう。無知蒙昧な愚かな小娘め。冥土の土産に教えてやろう。この世には、貴様のような矮小な存在の理解など到底及ばぬ、絶望的に偉大な存在があるということを」
そう宣言したモック=フランの足元から影が這い上り、蛹のように彼の総身を覆う。体中の穴という穴から、どす黒い紫色の煙が噴き出した。瘴気だ。吐気を催す悪臭を放ち、目に染みる。
後を追うように、瘴気と同じ色の粘液が、体中の穴からどろどろと溢れだす。萎んでゆく美青年の皮を取り囲む渦のように、おどろおどろしい粘液の奔流が渦を巻く。
莉沙は絶叫した。モック=フランがいるのと反対側の格子に突進し、必死に揺さぶる。粘液の塊が籠に覆いかぶさってくる。絹を裂くような莉沙の悲鳴に共鳴するように、鳥籠はみしみしと軋み、悲鳴を上げた。
莉沙が錯乱して泣き崩れると、粘液はぼこぼこと泡立ち、不気味な音をたてた。嘲笑だったのかもしれない。
莉沙の怯えを気が済むまで堪能すると、粘液は美青年の皮の中へ、するすると引っ込んでいった。莉沙が怖々と顔を上げると、格子の外には美しい青年が腕組をして立っている。なんとも厭らしい笑みを浮かべて。
「これでわかったかね。お前は、あのように野卑な妄想をこねあげ、あまつさえ大衆に向け垂れ流すという愚行を犯し、このモック=フランを侮辱したのだ。その罪、万死に値する」
モック=フランは、許容量を超える恐怖と驚愕に呆然自失する莉沙を見下ろし嘲笑を深めた。モック=フランは本当に腹を立てていて、莉沙を簡単くびりころしてしまえるのだ。そして、そうすることに何のためらいもない。
何故なら、彼は本物のモック=フランだから。クラリッサの物語に登場する、残虐非道の腐乱王モック=フランだから。
(うそ……うそ、うそ……じゃないんだよね……? 夢でも、なさそうだし……私、おかしくなっちゃった? クラリッサの物語に夢中になって、現実と空想の境を飛び越えちゃった?……それとも、私、本当に……ずっと憧れていた、クラリッサの不思議な世界に、飛び込んじゃったの?)
生まれて初めて、生命の危機に晒された莉沙は、生き残るための知恵を絞ることが出来ずに、とめどなく涙を流しながら、漠然と思った。
(ここは、憧れの不思議の国。ほら、あの呼び鈴なんて、クラリッサの描いていた通り。あの、逆さ吊りにされた、茶色くってずんぐりむっくりの、土くれみたいな小人。モック=フランはあの子のお腹の裂け目から、ピンク色の腸を引っ張り出して、その悲鳴で使用人を呼ぶのよね。……私もあの子みたいに、酷い目にあわされる? どうして? あっ、モック=フランは、私が野卑な妄想をこねあげて、垂れ流したって言っていた……もしかして、クラリッサの物語をネット上で公開したことを言っている? モック=フランは悪役として描かれているから、面白くないってこと? でも、きっと、本当のところ、モック=フランは悪役なんだと思うけど)
モック=フランは莉沙の泣き顔を嬉しそうに鑑賞しながら、燕尾服の上着のポケットを探る。取り出したのは、莉沙のスマートフォンだった。 家族や友人達との思い出がいっぱい詰まった、大切なスマートフォンである。クラリッサの不思議なお話も、メモ帳に保存してある。まだバックアップをとっていないものがあった筈だ。莉沙は慌てて、モック=フランがいる側の格子に飛びついた。
「あの! お願いですから、壊さないでくださいね! クラリッサのお話が……大切なデータがたくさんあるんです!」
「どうせ、吾輩を貶すようなものだろうよ」
莉沙の訴えをにげもなく一蹴し、モック=フランはスマートフォンを手の中で弄ぶ。ボンレス=ミャオとは違って、文明の利器を苦手としていないようだ。妖精は鉄を苦手とするものが多いのだけれど、モック=フランはその限りでは無いようだ。
しかし、スマートフォンの方はモック=フランの正気に耐えきれないようだ。びきびきと音をたてて、外装が剥げ落ち、液晶画面に亀裂がはしっている。莉沙は悲痛な叫びをあげる。
「やめて、壊さないで! お願いします、返してください!」
「ええい……ちょこざいな! 人間の創造物はどうしてこうも、ややこしいのだ! そして貴様はどうしてそうも、やかましいのだ!」
モック=フランはスマートフォンを闇雲に弄り回していたけれど、歯が立たずに、癇癪を起こす。びくりと竦み上がる莉沙に、スマートフォンを突きつけ、怖い顔で凄んだ。美形がそうすると、何とも言えない迫力がある。
「貴様が「情報の海」とやらに解き放った、あの胸糞悪い「クラリッサの物語」とやらを、今この場で皆殺しにするのだ! 確約された貴様の死を、苦痛に満ちたものにしたくなければな!」
「み、皆殺しですか!?」
莉沙は素っ頓狂な声を上げてしまう。さっぱり意味が分からない。察しが悪い莉沙に苛立ち、モック=フランは莉沙を罵った。モック=フランが言う「情報の海」がインターネットのことで「物語を皆殺しにする」とは、ホームページに掲載しているクラリッサの物語を削除しろ、と言う意味だと、たっぷり時間を懸けて理解した莉沙は、とんでもないと頭を振った。
「嫌です! クラリッサの物語を、愛してくれる読者の皆から、奪うことなんてできません!」
莉沙は、きっぱりと言い切った。そうして、真っ青になった。うろたえる莉沙を見て、にやりと笑うモック=フランは間違いなく、恐怖の大王だったのだ。
「……見上げた心意気だ。つまらぬ信条に殉じるその瞬間も、果たして先ほどの詭弁を弄していられるかな」
血に飢えた凶相に産毛がぞわりと逆立つ。モック=フランはスマートフォンを真っ二つにして、莉沙に放って寄越した。あんまりだ。スマートフォンだったものを握り締めて嘆く莉沙に、モック=フランは冷ややかに告げる。
「失われた物を惜しみ、嘆くことは無い。貴様の存在もまた、表からも裏からも、永遠に失われることになるのだから」




