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神様に祈るより星に願う方が、よっぽど叶いそうな気がした。
『小さい頃のさ、甘いものって。愛情のように感じたことあらへん?』
ランが視線を遠くに向け、呟くように言った。
『愛情…?』
怪訝そうに眉根を寄せるボクに、ランが珍しく視線を落として続けた。
ランでもこんな顔をするんだなと意外に思えた。ランはいつも、笑っていたから。
『ウチは母親が全然料理できひん上に、甘いものだとかお菓子だとか苦手でな。作ってもろたことも買ってもろたことも殆ど無いねん。だから余計、友達ん家行って出された作り立てのお菓子と、美味しそうに頬張る友達と、それを嬉しそうに見つめる母親の顔が、セットになってて…こう、シアワセな家庭の象徴のように見えてな。愛情に味を付けたら、きっととびきり甘いんやろな、てそう思ってた時期があったんや』
まぁようは羨ましかったんやな、と、苦笑いを落とす。その横顔が印象的だった。
それはボクには分からない感情だと思った。
ボクは人と違う部分がある。
周りにもそう言われ、自分が一番それを理解していた。
それは例えば、ランには分からないことをボクは分かるように、ランに分かることをボクには理解できないということ。
環境や境遇が、あまりにも違うんだ。決して覆すことのできない事実。
だけどそれに不満を感じたことは無かった。そういうものとして生きてきたから。
視線を落としたまま、ランは続けた。
『この前シンが、飴玉ひとつであいを攫ったって、言ってたやろ?』
『…ああ…』
『甘いものイコール愛情てのは流石に極端やと思うけど…あいはたぶんそれが、欲しかったんとちゃうかな…』
『…ボクには分からない…だけどあいは甘いものが苦手だし、欲しいと思ったこともないって言ってた』
そう話した日を今でも覚えている。
だけどあいはあの時から、自分に嘘をつくのがとても上手くて。
心の奥底までは、ボクに見えない。
なんでも分かるワケじゃない。すべてを知っているワケじゃない。
だからこそ、不思議とランの言葉はボクの中にストンと落ちた。頭のどこかで理解することのできる推測だった。
ボクには分からなかっただけで、気付けなかっただけで。
ボクは親を自ら捨てて、あの場所にいた。
だけどあいは違う。
ボクとあいが出会ったのは幼い子供たちが親の迎えを待つ場所で、あいもボクもその中のひとりだった。
親を捨てたボクと親に捨てられたあいは、新しい親を待っていた。
あの日はじめて会ったあいは、母親に虐待されて傷だらけだった。
すべてを拒絶していたボクがあいを拒まなかったのは、たぶん同情からだ。
ボクの言葉にできない思いが、絶望が。目の前にいた気がしたんだ。
だけどあいは、あの場所で笑い続けた。ボクの隣りで、最後の日まで。
その“真実”を何度も何度も泥だらけの手で塗り固めて、やがて小さな容れ物ができた。
あいとボクはその中にいた。
あいが一生懸命に外堀を高く積み上げるのを、ボクは隣りでずっと見てきた。時には一緒に手を汚して。
ずっと、見守ってきた。
この箱の中から出たら、あいは生きてゆけないだろう。
外はいつだって、どこだって、敵しかいなかった。
あいはいつも、傷付けられてばかりだった。この世界の理不尽に。
そしてきっと、これからも─―ずっと。
だけどわかっていた。
本当はボクも、わかっていたんだ。
矛盾だらけのその庭に、花は咲かない。
朝なんか永遠にこないことを。
***
朝からずっと嫌な予感がしていた。
昨日、テストを受け終え特別指導室から出ると、あいが廊下にいた。ランと屋上で待っていたはずなのに。
なにかあったのかを聞くよりもはやく、あいの顔から感情が消えていることに、胸がざわつく。ボクの傍であいは、いつも笑ってくれていたのに。
『…あい?』
『…シンちゃん、この前言ってたよね』
ぽつりと呟いて、顔を上げる。
目が合って、久しぶりに見るあいのその表情に、とてつもない不安に襲われた。
心が揺れる、ざわざわと。
これはあいの、それともボクの?
『坂城くんは、嘘は言わない、て。…坂城くんにね、間違ってるよ、て言われたの。
シンちゃん、わたし、間違ってるのかなぁ…』
ボクは、何も答えられなかった。その手をただ強く、握ることしかできなかった。
氷が背中を滑るような、内臓が溶けてなくなるような錯覚に、眩暈がするほどの激しい怒りが沸いた。
ランを一発殴らないと気が済まない。
あいにあんな顔をさせるなんて。あいにそんなことを言うなんて。
それと同時に、あいがまたあの日のようにソレを確かめようとしないかが、不安でたまらなかった。
もしまた、訊いてしまったら。
それを確かめてしまったら。
それを思うだけで、不安で吐き気がした。なにかが壊れてしまいそうな、嫌な予感で胸が押し潰されそうになった。
だけどそれでも。ボクは何も、答えられなかったんだ。
そして翌日の今日。その不安は現実のものへとなった。
はじめて、あいが学校に来なかった。
***
10さいの時ボクたちが再会したのは、病院でだった。
ボクはこの体質のデータ収集の為、定期的にその病院に通っていて、あいは救急患者として運びこまれたところだった。
集中治療室へ緊迫した空気と共に滑車が走り、看護師が必死に患者の名前を呼んでいた。
それは偶然ボクのすぐ脇を通り、ボクは患者の顔を見ることができた。
それが4年ぶりのあいとの再会だった。
***
昼休みを告げるチャイムが鳴ってから数分後、ランが屋上のドアを勢いよく開けて入ってきた。
放課後じゃない時間にここを訪れたのは、初めてだ。ランは、いつもの飄々とした雰囲気からは想像できないほど、切羽詰まったような、必死な顔をしていた。
あいが学校に来てないことをボクに教えたのは、笹井だった。じゃなければボクはこの瞬間まで気付かなかっただろう。
ここにならあいがいるのかと思ったのかもしれない。
だけど屋上にひとりのボクを見て、ランが分かりやすく顔を歪めた。今にも泣き出しそうなくらい、くしゃりと。
こんなり分かりやすく感情を表に出すランを見るのは意外で、その顔をまっすぐ見据えながら立ち上がる。
「…あい、は…」
「見れば分かるだろ。来てない」
ゆっくりと歩み寄り、ランがボクの視線に耐えきれないように目を逸らした瞬間。
力の限りにランを殴った。
鈍い音が屋上に響く中、よろけたランをそのまま壁に押しつける。ランは予想していたかのように、無抵抗だった。それが余計にボクの神経を逆撫でる。
「ふざけるなよお前…!」
身長が自分の方が低く、下から睨み付けるのが悔しい。
そんなくだらないことが、今はいちいち癇に障った。
ランの表情は陰っていて、だけど今度は決して目を逸らさなかった。
「お前はそんなに正しいのか…!」
「俺は!」
わずかに上げた顔が、瞳が。日の光に反射する。
「俺は“正しいこと”をやりたかったわけやない! 俺は…! 俺は俺がやりたいことをやっただけや…!!」
ランの目に後悔は微塵もなく。ボクはランのシャツを握ったまま、ただ力を込めることしかできなくて。噛み締めた唇の内側に鉄の味が広がる。
「シンはほんまにいいと思っとるんか!? あいが望んどるからとかそんなん詭弁やんか…! シンは…っ、お前はどうしたいねん…!!」
ボクが、望むこと?そんなのひとつだけだ。
ずっとずっと。ひとつだけだ。
『――シンちゃん』
あい。今、どんな気持ちでいるの。どこで何をしているの。
「ボクの、望むことなんて…決まってる。ずっと、あの日から…」
ボクはまたあいを、守れなかったの。
「嘘を…“真実”にすることだよ」
小さな小さな箱庭に、いつからか雨が降り注いでいた。
すべてを流す、雨だった。
すべてを晒す、雨だった。




