*2
「…あいは?」
「帰ったで。随分長いトイレやったなぁ」
シンは“トイレ”から戻るなり、俺ひとりの屋上に分かりやすく機嫌を損ねた。
そんなシンに苦笑いを向けながら、手の中で遊ばせていた携帯電話を閉じてポケットにしまう。
「何してたん?お前が校舎内で」
「ゴミ掃除」
それだけ言って、カバンを拾い上げるシンを横目で見て自分も立ち上がる。
つまりケンカを買っていたらしい。制服に汚れも埃も見当たらないところから察するに、シンの圧勝だったのだろう。涼しげな顔をしている分こわいヤツだなと思う。
1週間前のケガは、見た目にはもう目立たない程度になっていた。自分もシンも。
それからふとシンが、「そうか、金曜だ」と小さく漏らした。
「なに、今日なんかあるん?」
「…ボクじゃない」
静かに漏らしたシンのその表情は見えなかったけれどその声音に、あいのことだと悟った。
シンはそれ以上の言葉を発しなかったので、俺もそれ以上聞くことはしなかった。
代わりに、聞きたかった質問をぶつける。
「シンは、あいがお金を渡してる相手が誰だか、知っとるんか?」
俺の質問にシンは一瞬だけ視線を向け、すぐに戻した。
それからフェンスに体重を預けるように寄りかかる。
ギシリとフェンスが鳴って、シンの金色の髪が揺れた。
「……会ったことがある」
予想外の答えに目を丸くする俺に、シンは続ける。
「…一回目は、ボクもあいもまだ幼い時だった。…アイツは…飴玉ひとつで、あいを攫っていったんだ」
シンの視線の先に、なにが見えるのか分からなかった。
だけど、シンの固く握った拳がわずかに震えていた。
「…その…あいの相手は…あいのことを、…どう思っとるん…?」
強要ではないとシンは言う。
だけどやっぱり、信じられない。
信じたくないだけかも、しれないけれど。
「……2回目に会った時、あいも…同じことを、訊いてた」
シンはそれから視線を遠くに向ける。
ひどく儚い横顔だった。
「愛してるって、言ったんだ。あいのことを、愛してるって。あいはその言葉を信じた。…信じてる。今でも」
あいが信じるなら、信じてるなら。それがきっと、真実なのだろう。
握った拳がどんなに熱くても、俺に“真実”はわからない。
不都合な真実を望まないのは、俺がコドモだからだろうか。
認めたくないというそれだけで、あいの信じるものを否定したくなるのは、俺がまだ“愛”というものを、知らないからだろうか。
その〝愛″は本当に、真実なのだろうか。
シンには決して聞けなかった。
だけど、考えるんだ。思うんだ。
教室にいると、学食や、体育館や、校庭の隅にいると、なにかが足りない気がするんだ。
校舎の渡り廊下を歩きながら、知らず屋上を見上げる自分が居るんだ。
それがどんなに自分本意なことかも、分かっていても。
それでももう俺は、自分の意志で関わることを、望んでしまったから。
この目で、この耳でこの体で。シンに言った言葉を胸の内で反芻する。自分で自分に言い聞かせるように。
まずは自分から信じなければ。動き出さなければ何も始まらない。欲しいものは得られない。
確かめよう。あいに。
だって心から頷けないんだ。納得できない。応援もできない。見守ることさえも、できない。
ただ胸が苦しくて。
***
「シンちゃん、実は頭すごくいいんだよ」
「あぁ、そうなんやってな。笹井から聞いたわ」
「…先生、坂城くんにはおしゃべりだなぁ」
少しつまらなそうに、仕方なさそうにあいが笑う。
あいはシンの話になると、よく笑った。
シンは今、テストを受けてるらしい。最初あいから聞いた時は一体なんのことだか意味が分からなかったけれど、学校との交換条件なのだそうだ。
「一回も教室行かんのやもんなぁ…受けてるのは二年の分てことか?」
「ううん、三年分」
「……は?」
「提案してくれたの、笹井先生なんだって。他の先生があまりにうるさいから黙らせる、て」
「三年分て…」
「全教科満点とったら、もう干渉しない約束みたい」
なんでもないことのように言うあいに、渇いた笑いしか返せず。
それはもう、頭がいいとかそうゆうレベルではないのでは。
言葉にすると少し悔しい気がして、あえて口にはしなかったけれど。
「…今新しい目標が加わったわ」
ぼそりと言った俺にあいが興味深そうな視線を向ける。
「卒業までに、定期考査でシンに勝つ。学年トップの意地とプライドにかけてな…!」
拳を大袈裟に握る俺に、あいが楽しそうに「無理だと思う」と笑った。年相応の、女の子の笑顔だった。
--それから。
あいの笑顔を見ながら、自分も笑顔を崩さずに言う。
聞くならシンがいない今しかないと思った。
「…あのな、あいに、聞きたいことがあるんやけど」
「…わたし?」
「……援助交際して…男に貢いでる、て…ほんまなん…?」
ダメだ。最後まで笑って聞くつもりだったのに最後の言葉が、震えた。
あいは一瞬だけ目を丸くし、だけどゆっくりと笑って、躊躇なく答えた。
「本当だよ」
その顔を直視していられなかった。
知りたかったんだろう? 自分に問う。
言葉にかたちはないのに、顔面を殴られたような衝撃を受けて。
ガンガンと眩暈がして視界が眩む。
それは俺が知りたかったはずの、あいの口から聞いた、真実だったのに。
あいの黒くて長い髪が風になびく。泣きたくなるようなその光景を、胸に刻みつける。
後悔はしないと決めていた。だってこんなの、身勝手もいいとこだ。自分の気持ちを押し付けているだけだ。あいの気持ちを無視して。
だからどんなに痛くてももう言葉にしてしまった以上、俺は最後まで責任を持たなきゃいけない。せめて、最後まで。
「あいが、…望んでやってる、いうんは…」
「本当だよ」
「その相手は…あいにとって、大切な奴なんか?」
「…うん。そうだね」
「…本当に…」
動揺を隠せず、ただ聞きたかったことだけが溢れ、それに律儀に答えるあいの顔をこわくて見ることができなかった。
だけどほぼ無意識に、言葉は零れていた。
「本当に、…相手は、あいのことを…思っとるん…?」
残酷なことを聞いてるって、わかってた。
シンに傷付けたら許さない、て言われていたのに。
あいは声音を全く変えずに答えるから、傷付けてしまったのか俺には分からないけれど。
「愛してる、て。言ってくれた」
知りたいと願ったのに、俺は受けとめる覚悟がなかったことを今更ながら思い知らされる。
そしてやっぱり、自分が望んでいる答えがはたして何だったのか。分からず訊いた自分の浅はかさも。
シンからもそれは聞いていた。だけど信じられなかった。
だけどあいにとっては揺るぎのない真実で。
だってそれは、否定しちゃいけない言葉だった。
震えていたのは、どっちだろう。
あいの言葉だろうか。俺の鼓膜だろうか。
「坂城くんはそれを知って、どうするの?」
あいの問いかけに何も答えられず、握った拳だけが小さく震えた。
胸に浮かぶのは、痛みと一握りの違和感。傷つける、覚悟。
「…ちがうよ…」
ほとんど無意識に出た、情けないくらい小さい声だった。
「あい、そんなん…ちがうよ…そんなん、間違うてる…」
何かがおかしいと思った。それが本当に真実なら。
ふるふると無意識に頭を振ったのと同時に、パラパラと何かがこぼれた。アスファルトに小さな染みが滲んで重なる。
「…坂城くん…じゃあ、教えて。本当のことって…知ってなきゃいけないの?」
俺には答えられなかった。もう、なにも。
握った拳の上を雫が滑り落ちて、言葉を失う。
いま、何を言っても、あいにはきっと届かないのだろう。
哀しいくらいにそれが分かったから。
俺の言葉にはなんの力もなく、あいの口から出た、“愛してる”の言葉だけが、すべてだった。
多分、一目惚れだった。初めて視線が合った、あの瞬間に。
あいの笑顔が好きだと思った。
シンの話をするとき、あいは子供みたいに無邪気に笑う。いつか自分のことでも、笑ってくれたら。笑わせてあげれたら。
だけどあいは、笑っているのに時々まるでそこに居ないような、そんな風に笑うから。シンがいつもそれを隠して、繋いでいるようにみえた。
シンが居なくなったらあいは、くしゃりと潰れてしまう気がした。それが哀しくて、しょうがなかった。
あの後どうやって帰ったのかは覚えていない。
ただ一度だけ、あいが泣き続ける俺に触れたその温もりは覚えていた。
泣く子供をあやす母親のように一度だけ背中をさすり、静かに俺の隣りからあいは離れていった。
触れた部分が灼けつくように熱く、やるせなさと熱が、体に蹲る。
――あい。
だけどあいを思う奴は、いるんだよ。あいを心の底から、呼ぶ声が俺には聞こえるんだ。
気付かないの? 聞こえないの? あんなに、すぐ隣りにいるのに。
シンの言葉にならない声が、俺にはあんなに強く聞こえるのに。
祈るように小さく、願うように儚く。降り注いでいるのに。
そうかきっと。その耳を塞いでいるのがシンなんだろう。
だったら俺は、叫ぶよ。
あいもシンも、決して言葉にしないから。
俺は願いを言葉に託す。
たとえきみが、俺に笑ってくれなくても。




