*2
暗くなった屋上で、星と月明かりの下で、あいが言った。
『シンちゃんは、神さまみたい』
初めてあいを抱いた日。こころが震えるのを、確かに感じたんだ。
なんにだってなるよ、あいが望むものに。
あいの望みをかなえてあげる。
だけどボクがあいの望みを叶えてあげられるのは、この箱庭の中でだけだった。
「例えばそれが嘘だとしても、あいには本当じゃなきゃいけない…真実じゃなきゃ、いけないんだ…」
どうしてだろう。
なぜそれを今、思い出すんだろう。
「そうゆうのが…必要な人間だっているんだよ…!」
いつからだろう、願いがすり替わったのは。
それはあいの望みじゃなくて、ボクの望みになったのは。
顔を上げられずただ叫ぶボクに、ランが戸惑うのを頭の上で感じる。ランのシャツを握る手が震えて、それ以上力を入れることができなかった。
ただ記憶が。責めるように、問い質すように、溢れ出した。
溢れて、止まらなかった。
「あいはきっと、昨日…聞いたんだ…アイツに…確認したんだ」
それを予測できたのに、昨日自分は何も言えなかった。
結局ボクは、こわくて。
触れるのが、暴くのが、こわくて。
「…っ、でも…、俺はてっきり、金曜に会ってるもんやと…せやから、そんなすぐには確認したりせぇへんて思ってた…ただ少しだけでも、考えてほしくて…!」
ランはきっと、本当にソレを確かめたかったわけじゃない。あいの気持ちが…本当の気持ちが、知りたかっただけなんだろう。
かつてはボクもそれを、望んだように。
「金曜は、違う。…関係ない…。むしろ、逆なんだ…金曜以外あいは毎日、知らない男に会って…その日の内に、アイツにお金を渡してる…」
毎日、あいは。
『わたしの体はね、傷とかアザとか醜いから、あんまりお金もらえなくて…だから仕方ないの』
仕方ない、て、なにが? あい。
あいはボクに心配かけまいとなんでもないことのように言うけれど。
ボクがそんな言葉カンタンに暴けると知っていて、だけどなぜだろう、それは。嘘なんかじゃなくて。
「あんなにまで…自分の体を、投げ出して、だけどあいは、愛してる、てその言葉を疑わずに、その言葉を支えに生きてきたんだ…なのに、もし…知ってしまったら…アイツが…アイツらが……!」
――あの日。
今よりまだ少し幼かったあいが、震える声でそれを聞いた。
すがっていたのはあいだったのか、それともボクだったのかわからない。
きっと精一杯の勇気だった。
『わたしのこと、好き…?』
好きよ、と。愛しているよ、と。
あいの母親は笑って言い、愛人に――後にあいの義理の父親に、あいの体を売った。
アイツらが本当にあいを愛しているかなんて、ボクには決して聞けなかった。
あいがランの言葉に動かされることも、本当にそれを確認することもするわけないと思っていた。思い込んでいたんだ。
この庭は絶対に、侵されることなどないはずだった。
「あいは……絶対に、聞かないって思ってた…だって、もしそれで…っ、実の母親が、自分を愛していないことを、知ったら…! 『愛してる』なんて言葉じゃもう繕えないほど、ごまかしきれないほど、アイツは…アイツらはあいの気持ちを、裏切って、踏みにじって、傷つけてきたんだ…! アイツらは、あいを愛してなんかいないくせに…!」
どうしてそこまでするの、と聞いたことがある。
あいは笑って、迎えに来てくれたから、と答えた。
あいの笑顔に、言葉に。かなしいくらいに嘘はなかった。
だけどボクは納得できなかった。―許せなかった。
あの施設にあいを迎えにきたのは、あいを虐待していた母親だった。
周りの反対の中、母親についていくかはあい自身に決めさせることになった。
ボクは絶対について行かないと思っていた。あいの体中の傷を一度だけ見たことがあり、それを誰にやられたのか、知っていたからだ。
母親があいの手の平に、飴玉をひとつ乗せて、微笑んで言った。
『あいは、お母さんのこと好きよね…? またお母さんと一緒に、暮らしたいでしょう…? お母さんには、あいが必要なの』
ビー玉にも似た安っぽい飴玉と母親の顔を見つめ、あいはわずか数秒で答えを出した。
そうしてあいは母親のもとへと、帰っていった。
行かないでと叫んだボクの言葉は届かず、ボクは見捨てられたような気持ちの中、あいがこれ以上傷つくことがないよう、祈った。
神様は叶えてくれなかったことをその4年後に知る。
ボクはあいが笑っていられる世界を望み、なのに出来上がったのは真実という名の嘘で塗り固めた小さな箱庭だった。
――あい。神様なんて、いないんだよ。
人間が勝手に作り上げた、ただの偶像に過ぎないのだから。
だけど人が祈りをやめない限り、“神様”は存在し続けることを、ボクは知っていた。
だからあいが望む限り、ボクは嘘を真実にした。
13になったばかりの夏だった。
あいのあまりにも青い顔に、堪えきれずにボクから聞いた。何かあったの、て。また何か、嫌なことをされたのか、て。
あいはボクの目を見ることはせず、だけどぽつりぽつりと話してくれた。
ボクに嘘が通じないことを知っているからじゃない。あの時、あいの心はもうボロボロだったんだ。少しでも吐き出さなければ、押し潰されてしまいそうだったんだ。
『……シンちゃん。わたし、すごくきたないの。男の人と、して、お金をもらってることがじゃない。それを何とも思ってないことが…何にも、感じないことが…自分でも、きたないと思った…だってもう、平気なの。何をされても…平気なの。でも、そんなのシンちゃんには知られたくなかった……シンちゃんに嫌われたらどうしよう、て…シンちゃん、わたし…すごく、きたないんだよ…』
あいの声はあまりにも小さく、今にも消えてしまいそうなほどか弱く、儚かった。
だからボクはあの日、あいを抱いた。
あいが、何をしているのか、どんなことをさせられているのか。ぼくは全部知っていて、だけど何もできなくて。
だけどボクはあいをきたないなんて思ったことは一度もない。その細い肩に、髪に触れる度に。ずっと、欲情していた。
ボクにとってあいは何よりも大切だから、それは言葉だけじゃ伝わらないと思ったから…伝えたかった。どうしても。
もうそれくらいしか、ボクには、できなかった。
「分かってるよ…! そんなのボクが嘘を見抜けようがただの人間だろうが関係ない、ダレだって分かる…! 女の子が…まだたった14さいの女の子が…! 平気なわけないだろう……!?」
あいはその行為を何とも思わないと言ったけど、あの日あいはボクの腕の中でボクの名前を何度も呼んだ。
だからボクは応える代わりにキスをした。
何かを願いながら、祈りながら。すがるように、何度も。
そこにあいの、神さまは居るのだろうか。こんなにも残酷な、神さまが。
あいの体は熱かったし、繋いだ手も、声も、震えていた。
何とも思わないんじゃない。何も感じないんじゃない。そうやって自分を必死に守っていただけだ。
そうやって傷だらけになっていく体を、ボクは、哀しいくらいに、愛おしかった。
――守りたかった。
あいが初めてその行為を強いられたのは、中学に入ってからだった。
それまではやはり、義父に連れられて知らない男とは会っていたようだけど、例えばそうゆう趣味の男と話すだけだったり、写真を撮られたり。
あいが直接的に体を売り物にされたのは、中学生になり、制服を着てからだった。
『お義父さんにね、言ったの。知らない男の人と、あんなことするのは、嫌だって。でも…お母さんに、泣かれちゃったの。わたしは、お母さんに幸せになってもらいたいから…お母さんはずっと、自分を犠牲にしてわたしのことを育ててくれたから。だからお母さんが幸せになれるのなら、お母さんがそれを望むのなら、わたしもそれを、望むの』
…嘘ならいいと思った。そんなこと、嘘じゃないとあいが可哀相だ。
本当は嫌なのに、身勝手な母親の為に自分を犠牲にしているだけなら…本当は全部嘘なら、どんなにいいだろうと思った。
だけどその望みがあいを生かすなら…こんな卑劣な世界に、繋ぎ止めてくれるなら。
ボクは 受け容れるしかなかった。
あいはただまっすぐ、母親の言葉を信じて自分の体を投げ出していた。
だってそうしないと、信じないと、それを真実にしないとあいはもう、笑えない。
あいにとってそれが、それだけが絶対の、真実だったんだ。
だけどボクはどうしても、許せなかった。
あいだけがあんなに気付かず、傷つけられていくなんて、許せない。それがこの先も続くなんて、黙っていられない。そう思ったから。
ある日あいに内緒で後をつけて、あいの家まで行った。やめさせるか、もしくはアイツらを一発ぶん殴ってやりたかった。それが正しいと、思っていた。
そして出てきたあいの義父を、力の限りに殴った。
自分を抑えられなかった。
いっそころしてやりたいとも。
後ろであいの母親が悲鳴を上げ、その隣りであいの瞳が戸惑いに揺れていた。
だけどボクは構わず倒れた義父をさらに殴ろうとした瞬間、あいがボクを止めた。
『やめてシンちゃん、やめて…!』
――どうして。ボクは――あいの為に…!
だけど、ボクは逆らえない。震えるその腕を、振り払うことなんてできない。
あいの腕の中でボクの右手は力を失い、その隙に義父はボクの腕を払い酒に呑まれた体でよろけながら立ち上がり言った。
『嫌なら、出ていけばいい。母親と一緒にな』
あいの体が強張り、ボクの腕を掴む手に力が篭る。痛いくらいに、強く。
それからあいは、義父の顔を見ながら、ふるふると小さく首を振った。
そしてボクは、あいを傷つけたんだと。一番やっちゃいけないことをしたんだと、理解した。
あいが守ろうとしているものを、壊そうとしたんだと。
あいに何をさせているかを解っていて、あいの母親は、あいにすがって言った。
『あい、お願い…あの人に嫌われたら、生きていけない…あいがあの人の言うことを聞いてくれないなら、お母さん、あの人に捨てられちゃう…! あい、お願い、お母さんあの人がいないと生きていけないの…!』
あいが、震える声で、母親にひとつだけ尋ねた。聞かずにはいられなかったんだと思う。
きっとあいにとって精一杯の勇気だった。
『お母さんは…わたしのこと…好き…?』
ボクからあいの顔は見えなかった。
だけど、あいにすがる母親の顔は見えた。はっきりと、笑うその顔が。
好きよ、と。愛しているよとあいの母親は笑って答えた。
嘘だった。




