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シュガーレス  作者: 長月イチカ
箱庭の神さま
11/13

*3


だけどあいにはその言葉が必要だったんだ。


『シンちゃん、お願い。わたしが学校の外で何をしてもシンちゃんは関わらないで。シンちゃんに見られたくない。シンちゃんをまたあの人達に、会わせたくない…お願いシンちゃん、約束して』

 アイツを殴ったボクの右手を両手で包んであいが哀しそうに言った。

 ボクはあいが望むことすべてを受け入れようと思った。

 そう覚悟を決めた。


***


 あいとのすべてを思い出しながら、口に出しながら。

 涙が止まらなかった。

 なぜそれをランに言ったのかは分からない。だけど多分ボクも、分かっていた。心のどこかで気付いていた。このままじや、いけないことを。

 強く握っていたランのシャツを離し、拳を下ろす。力がゆっくり抜けていくのを感じた。

 視線の先のアスファルトに黒い染みが広がり、そこだけ雨でも降ったかのように濡れている。今も、まだ。

 雨がすべてを暴いてしまった。曝してしまった。こんな歪なヒミツの庭を。

「あいが…あいが、すべてを理解して…この世界に、見切りをつけたらどうしよう…あいが生きる意味を、失くしてしまったら…どうしよう……!」

 本当はずっと。ずっとそれが一番こわかった。あいを失うことが、こわくてたならなかった。だからボクは何もできなかったんだ。


「それはない」

 きっぱりと答えたのは、目の前に居るランだった。

 熱い声が、頭上か降ってくる。

「だってここにはシン、お前がいるんやから」 

 なんだよそれ、と小さく呟いて、俯くボクにランが言う。いつもの明るめの、はっきりとした、口調で。

「自分で、決めるんや。何をしたくて、どう思ってるか…シンが、自分で選ぶんや」

 それは…ボクがもうずっと、諦めてきたことだった。

 それをしたら…選んだら。何かが変わるのだろうか。この先の未来に、希望はあるのだろうか。

 あいは、笑っているのだろうか。その時ボクは、その隣りに。


 ランは教室に戻りひとりになった屋上で、壁に背を預けて座り空を仰いだ。

 あいと約束をしたあの日から、言えなかった言葉がたくさんある気がする。だけどそれは遠い昔のことのようで、思い出せない。

 思い出すのは後悔と自責だけ。


『シンちゃんは、神さまみたい』


 ちがう。神さまなんかじゃない。


『シンちゃんに触られたところが、“わたし”になる。わたしはシンちゃんの手から、何度でも生まれ変われるような気がするの』


 腕の中であいは言い、そのまま眠りに落ちた。その小さな体を抱き締めて心の奥で誓ったことは嘘じゃないはずだ。同情なんかじゃ、ないはずだ。


 ズボンのポケットの中で携帯が振動し、取り出す。

 あいからの電話だった。

 だけどボクには救いの鼓動のように思えた。

 …あい。ボクは神さまなんかじゃない。神さまになんか、なれない。

 もうあいの願いを、叶えてあげられない。守ってあげられない。

 ずっと嘘をついてきた。あいの為のフリをして無力な自分を、なにもできない自分を認められなかった。だけど…ボクはあいの望む神さまには、なれなかったけど。

 あいのそばにいることなら、できるよ。あいがそれを望んでくれるのならば。

 今度はそれを、糧にする。

 少しだけ息を吐いてそれから吸って。携帯電話の通話ボタンを押した。

「……あい?」

『あ、シンちゃん…? ごめんね、連絡も何もしないで…屋上だよね?』

 携帯電話の向こうから聞こえるあいの声は、想像していたよりもずっと明るかった。

 それだけで…あいの声を聞くだけで何故か、涙が出そうになった。

「あいは今、どこ?」

『わたしはね、今学校着いて…とりあえず教室寄ってからすぐ行くね。お昼休みあとちょっとしかないけど』

 携帯を耳にあてたまま、足に力を込めて立ち上がる。

 それからゆっくりと、歩き出した。

「昨日…何かあった?」

『…うん、いろいろ、あって…』

 あいの声の向こうに、昼休みの生徒たちのざわめきが聞こえる。

 教室は、廊下は、学校は。喧騒に溢れていて嫌いだった。煩わしい場所でしかなかった。

 そしてその喧噪が段々と自分にも近付いてくる。

 人の多さに、溢れる意思に吐き気が込み上げてきたけれど、なんとか堪えて歩みを進める。

「…本当のことは、分かった?」

 階段を下りて人が溢れかえる廊下の端に立ち、あいの姿を探した。

 せわしない人の気配にじんわりと汗が滲む。

『……うん』

 ――不思議だった。だけど当然のことのようにも思う。その後ろ姿を、ボクは絶対に見逃さない。間違えない。

 きっとどんな場所に居たって、この声を聞き逃したりしないだろう。

 すぐ隣りを何人もの生徒が驚きと奇異の目を向けながら通り過ぎてゆく。

 だけどなんの音も声も、聴こえなかった。

「――あい!」


 ざわめきが一瞬強くなり、だけど次の瞬間には消えていた。

 携帯を耳にあてたまま振り返るあいが、驚きで目を丸くする。

 確かなことがある。ボクは絶対にあいを見失わない。

 …ぜったいに。



 ボクたちが作った箱庭は、跡形もなく消えたてしまった。

 だけどいつの間にか雨は止み、光が差し込んでいた。

 外に世界は広がっていた。

 それはボクたちが望んだ世界じゃなかったけれど、ボクたちが望んだ世界など、どこにもありはしないんだ。

 今、ここが、ボクたちが生きる世界なのだから。



 あんなに嫌悪していた、雑音が聞こえない。なんの音も、声も。

 そこにはあいと、ボクだけで、ボクはあいを力のかぎり抱き締めて。

 ずっと言いたかった言葉を口にした。それは自然と湧いてきた言葉だった。

「……帰ろう」

 6さいの時。ボクたちはあの場所で出会い、ずっと一緒だった。半年後にあいが連れて行かれるまでずっと一緒で。

 心から笑っていた。少なくともボクはあいが居れば、笑うことができたんだ。

 ボクを笑わせてくれたのは、あいだった。

 …幸せだった。家族なんかいなくても、居場所は確かにそこにあったから。

 ずっとそこに在ったんだ。

「――…いっしょに帰ろう、あい」

 ずっとずっと。それが、言いたかった。


 長いようで短い沈黙の後、腕の中であいがゆっくりと頷くのを感じた。小さくその身を震わせながら。だからボクは、一層強く抱き締める。

 ランがいつの間にかすぐ側まで来ていて、涙ぐんだ瞳で笑っていた。

 周りからは好奇の目で見られていたけれど、気にならなかった。

 ランが笑ってくれていたから。少しだけこの場所に、希望を持てた。


 ボクたちはすべてを失ったけど、それは世界の終わりなんかじゃなかった。


***


 それからしばらく、あいもボクもいろいろと慌ただしかった。

 あいの親権はあの母親と義父から剥奪された。あいに対する継続的な虐待行為と売春行為の斡旋が、児童保護団体に密告されたからだ。

 ちなみにだけど密告したのはボクじゃない。ボクも全く見当がつかなかった。

 あいの気持ちを重視し、その手続きや対応は水面下で行われ、公になることはなかった。

 あいがアイツらに…母親と義父に会うことはもう二度とない。あいはそれを承諾した。

 だけどあいは親を捨てたわけじゃない。やっと自分を、手に入れたんだ。


 それからあいは一時、昔ボクらが過ごした施設に身を預け、次の生活の準備の為に学校を休んでいる。

 明日には学校に来る予定だ。

 あいの新しい家と家族は、もう決まっていた。



「まさかお前らがキョーダイになるとはなぁ…」

「家族って言ってよ。まぁ、ややこしいから中学卒業するまで姓は今のままだし」

 あいはボクの家に養子にくることが決まった。ボクの家と言っても、もちろんあの施設からボクを引き取った里親だ。血の繋がりはない。

「…でもまぁ、びっくりするくらい過保護な人達だから…あいにはいいリハビリになるかもね」

 薄く笑うボクに、ランも歯を見せて笑った。うれしそうな、青空に映える笑顔だった。

「じゃあ、あいもシンも、これからが一番、楽しいとこやな」

 ランの言葉を聞きながら、遠く空を見上げた。

 そんなカンタンに心は切り替わらない。未来が明るいものであるのかを、ボクはまだ信じられない。

 これで良かったのか、これが正しかったのかは、きっと誰にも分からないだろう。

 ただ、思う。甘くない世界で生きることの難しさを。

「なぁ、シン、あいは結局甘いもんて嫌いなん?」

「…さぁ。今はどうだか分からない」

「笹井に聞いたんやけど、あいの誕生日、明日なんやて?」

「…あいつ絶対口軽すぎだろ」

 あぁ、でもそういえば家で祥子さんがケーキの準備をしていた気がする。

 そうか、誕生日なんて興味ないから気付かなかった。

「俺、ケーキ作ろうと思ってん。いろいろ再出発のお祝いも兼ねて、サプライズで。お前も手伝わへん?」

 人懐っこいその笑みを受けながら、絶対嫌だと思ったのに。冗談じゃないと、思ったのに。

 見上げた空は青く、高く、驚くほどに綺麗で。

 あいがどんな反応をするかは気になったから。見てみたいと、思えたから。

 たまにはガラじゃないことをやってみてもいいかもと思えた。たまにはね。



 ボクたちは15になる。



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