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「シン、大丈夫か? すまん、そんな強く殴るつもりはなかったんやけど…」
星空を眺めながら、そうか殴られたのかとぼんやり思う。
殴り飛ばされるなんて久しぶりで、体が認識に追いつかない。
意識が飛んでいたらしく、真上から坂城嵐が自分を見下ろしていた。
後から追い付いてきた痛みに無意識に顔を歪め、だけど体は動かなかった。
「…シン?」
「うっさいな、聞こえてるよ」
ようやく返ってきた返事に安心したように笑う坂城嵐の顔が、なぜかあいの笑顔と、重なった気がした。
それからドサリと自分のすぐ隣りに仰向けに寝転がった坂城嵐を横目で見やり、すぐにまた星空に向ける。
少し肌寒い空は、星が綺麗だった。
「……お前、噂が本当かを、知りたかったんじゃないのか…?」
「……噂?」
「あいとボクの関係だとか、あいの援交の噂とかだよ」
「あぁ、お前らいろいろあるからなぁ。あと、“綾瀬心は人を殴ることを楽しんでる”とかな」
はははと笑う坂城嵐の声が、夜空に響いた。
くだらないと笑い飛ばすその声に、星が合わせて歌うように瞬く。
「でもシンは別に暴力を好んでるワケやなかったことは、今わかったしな」
坂城嵐の、明るい声が隣りから聞こえてくる。けっこう殴りつけたはずなのに、バカみたいに明るい声だった。
「噂なんてな、そんなもんや。言葉は人を通すと形を変えてしまうから…ホンマのことが知りたかったら、自分の目とか耳とか、体で確かめるしかない」
まぁこんな風に痛い目見る場合もあるけどな、と。苦笑いも含んで続ける。
「自分も噂の対象やから、そう思うんかもしれへんけど…でも俺はただ、噂より何より、あいの笑顔が好きだし、シン、お前のことも気に入っとるよ」
言って笑う気配をすぐ隣りに感じて、ゆっくりとまぶたを伏せる。
坂城嵐の言葉に嘘はなかった。
それがかえってイヤだった。
そんなことボクは望んでいないから。
そしてボクは痛む頬に流れた涙の意味を、必死に探していた。
いつだったかあいが言っていた。
『ねぇ、シンちゃん。流れ星って、いつかは燃え尽きちゃうんだって。一番最初に流れ星に願い事をした人は、そんなこときっと、知らなかったよね。どうして流れる星に願おうなんて思ったのかなぁ』
その時ボクは何も答えなかった。答えを持っていなかったからだ。
だけど、思う。今なら少しは分かる気がする。
願い事をするのはどんな時だろう。
空を見上げるのはどんな時だろう。
久しぶりに見上げた空の星が滲み、涙があとから流すから。そんなことを、思い出していたんだ。
「…お前、左目見えないのか?」
顔を見られないように起き上がり、感じていた違和感を口にした。
隣りで坂城嵐が目を丸くしてじっとボクを見つめる。ボクはそれに睨み返す。
「なんや、気付いてたん?」
「…動きで分かる」
「あはは、そか。見えないわけやなくて、極端に視力が悪いねん。生まれつきでな。親と教師以外、誰も知らんねんで。眼鏡してたら生活に支障もないしな」
「……それに、あいが…」
「うん?」
「お前の瞳の光の色が、違うって言ってた。左右で」
「…そんなことまで、気付くんやなぁ、あいは」
ぽつりと呟いて起き上がり、困ったように嬉しそうに笑う。それを視界の端で見ながら、立ち上がった。体の節々がわずかに軋み、声には出さずに眉をしかめた。
「……帰る」
それだけ言って、しかめっ面のまま荷物を取りに坂城嵐に背を向ける。坂城嵐も慌てて立ち上がろうとし、悲鳴を上げた。
「い、痛くて死ぬ…!」
上着と荷物を掴んでヨロヨロと歩く坂城嵐に、思わず小さく笑う。
坂城嵐は確かにイケメンだっただけに、ちょっと間抜けな姿だった。
「ラン」
ドアの前で振り返り、名前を呼んだボクの顔を、びっくりした顔で凝視する。
さっきよりも間抜けな顔で。
「…なにそのバカ面」
「や、だって、名前…」
「負けたからな。ぶっ飛ばされたワケだし。約束は守る」
「お、おー! お前、素直やなぁ! ちょっとトキメいたわー」
「…いいから。お前カギ持ってないだろ、さっさと出ろよ」
イマイチ掴めないのは変わらず。だけど。
ボクにできないことを、できる奴はいる。ボクが持ってない答えを持ってる奴は、この世界のどこかに存在するんだ。
「ひとつだけ、教えてやるよ」
「うん?」
「あいの噂は本当だよ」
月の光がボクらを照らしている。長く伸びる黒い影。
ランの表情から笑みが消え、戸惑いが滲んでゆく。
「……あいの噂、て…援助交際して貢いでる、ゆうやつ?」
「…そう」
「…そうは…っ、…見えへん…よ…」
「信じるか信じないかは、自分で決めればいい」
言って視線を外し、ドアノブに手をかける。暗い校舎内に、錆びたドアの開く音が響いた。
何かの悲鳴みたいだった。泣いているみたいに、暗闇の中から。
「……シンは、このままで、ええんか…? …やめさせへんの?」
小さな問いかけに、ドアを開けたまま視線を向ける。
暗闇に俯き加減のその表情は溶けていて、どんな顔でその質問をしているのかは見えなかった。
「あいが望んでやっていることだから」
それが〟今〟のボクらの真実だった。
ランが、顔を上げてボクを見据える。
一筋の光がその黒い瞳に一瞬だけ宿った気がした。
「そんなの…! 嘘かもしれへんやろ?! シンはそれが本心だと思っとるんか?! 俺には…っ あいが望んで体売るような子には…思えへん…!」
憤りをぶつけるように叫ぶランをどこか冷めた気持ちで見つめる。
いいから出てと小さく急かし、屋上のドアを閉める音が体中に響く中、ボクは答えた。
「そんなの、お前の勝手な思い込みだろ。…あいは、嘘をつかないし、ボクには分かる」
「分からんやろ! そんなの…、本人にしか…っ 分からんやろ……!」
納得できないように握った拳を震わせるランを真っ直ぐ見据えて言う。
どうしてそれを言う気になったのかは、ボク自身もわからなかったけれど。
ボクの内の何かの感情が、きっと目の前のランに同情したのかもしれない。
「ボクには、分かる。嘘をついてるか、本心を隠してるのか、分かる」
キッパリと。言い切ったボクの言葉に違和感を感じたのか、ランが怪訝そうな瞳を向けた。
「お前の左目と、一緒だよ。生まれつきなんだ。ボクに嘘やごまかしは通じない。…“分かる”んだよ」
ランの瞳が戸惑いに揺れ、ゆっくりとボクから視線を外す。
ガチャン!とカギを閉める音が階段にこだました。
それから立ち尽くすランを置いて、屋上を後にする。
月明かりに浮かぶ影が段々とその身を増やし、静かに1日の終わりと真実を告げた。
***
気が付くとボクは無数の矛盾の中で生まれていた。
ソレは無意識に脳に叩き込まれるように感じ、理由も分からず、誰にも理解してもらえず。ボクは“嘘”と“本当”を見失い、こんな世界で生きてはいけないと思った。
だけど、こんな世界にあいは在た。こんな世界であいと出逢えた。
たったひとつの救いだった。
いつだろう屋上の建物の影に、タンポポが咲いていた。それを見てあいが笑って言った。
水も日の光も満足に与えられてないのにコンクリートの隙間から咲くその花を見て、強いね、と。
ボクはそのタンポポにそっとあいの姿を重ねた。
あいの笑顔は花が咲くようでもあり、散っていくようにも思えた。
あいの笑った顔を見ると、嬉しいよりも先に、泣きたくなる。
気付かれないほど儚げなその花は、いつも路上の片隅で踏みにじられていたから。
***
月曜日、空は気持ちいいほどに晴れていた。
ランは屋上に来るだろうか。
ぽつりと思ったけれど、別にどちらでもいいかと思う。
盛りを終える桜の最期のカケラが、屋上まで届いた。
風が桜の花びらを空に舞い上げ、屋上に降らす。あいとこの景色を見たい。あいに見せたい。
どんな景色もあいを通すと、不思議とすべて愛しく思えた。
ボクの1日の流れは単調だ。
朝学校に来てからお昼まで、あいをずっとここで待つ。
時々裏庭や近くの空き教室に場所は移すけど、大抵ボクらはここにいた。屋上という場所が好きだった、お互いに。
通常は立ち入り禁止で鍵がかかっているけれど、鍵は勝手につけかえたので邪魔しに来る者は殆ど居ない。今回みたいな例外を除いて。
笹井にバレていたのは誤算だったけれど、笹井はボクたちからこの場所を取り上げようとはしていないようだった。
それからお昼をあいと過ごし、また放課後まであいを待ち続ける。それの繰り返し。
ずっとふたりだった。
ランは、来るだろうか。
わずかに腫れて痛む頬に、ランの瞳を思い出す。
もしも、今日。
今までと変わらない、あの笑顔であの扉を開けたなら。
ライオンと花の物語を…ボクの知らないその話を、聞いてやってもいいかなと思った。




