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「じゃあシンちゃん、わたし行くね。坂城くんがきたら仲良くね」
言って立ち上がり、荷物を手にしてあいが笑いかける。ボクも立ち上がり、あいの隣り並んだ。
ボクはあまり背が高い方ではない。だけどあいは小柄なので頭いっこ分ぐらいの身長差があり、隣りに立つとあいを上から見下ろすかたちになる。
あいはとても小さく、華奢だ。
あいと向き合うように片手を壁について、屋上の出口への経路を塞ぐ。その細い手首をとり、背をかがめて顔を近付けた。
あいの瞳に、ボクの顔が映る。その瞳いっぱいに、ボクだけが。それを見るのが好きだった。
「…キスして」
目を合わせたまま、鼻先でささやいた。互いの吐息を呑むほどのキョリ。
温い風がボクらのわずかな隙間をすり抜ける。そんなボクにあいはやっぱり笑って、ボクに触れた。
決まっていつもボクの少しクセのある髪の毛を撫で、それを合図とするようにボクはまぶたを伏せてその時を待つ。それからあいがほんの少しだけ背伸びをして、唇を重ねた。
いつもこの瞬間の永遠を思う。
ボクにとってあいとのキスは、精神安定剤のようであり、おまじないのようであり、小さな祈りの儀式でもあった。
傍に居る限り、きっと永遠の。
それから屋上を後にするあいの背中を見送り、壁に体重を預けて考える。
坂城嵐の目的がなんなのかは分からない。だけどこれ以上関わろうとするなら、警告が必要だと思った。
この“いま”を守る為に。
今のボクでは“いま”を変えられない。だけど、万が一変える術を持っていたとして、それがあいの幸せに繋がるとは思えなかった。現状を誰よりも、何よりも“いま”を望んでいたのは、あいだったから。
このままが一番しあわせだと――ボクがそばにいる限り、これ以上の悪いことは無いはずだから。だから。
それを壊すヤツを、ボクは許さない。…絶対に。
「……あれ、シンだけか?あい、帰ってもうた?しまった、残念」
坂城嵐はこれまでと同じように当たり前の顔で屋上のドアを開けて入ってきた。そして当たり前のように、ボクへと近づいてくる。
この1週間…こいつがここに来る意図を、ボクらに関わる目的を、ボクは見定めることができなかった。はっきりとした確信が持てなかった。
だけどこいつの存在が、あいを傷つける可能性がわずかでもあるなら、排除しなくては。今までそうしてきたように。
邪魔な存在の払い方を、ボクは誰よりもよく知っている。
「ああ、ここはほんまに、夕陽がきれいやなぁ…」
坂城嵐が呑気に言って、睨んでいるはずのボクの隣りに物怖じせずどかりと座った。
ここであいと話してる時の坂城嵐は、ボクの目から見ても単純にあいとの会話を楽しんでるように思えた。
だけど本当にただそれだけとは、思えなかった。
「…坂城」
「うん?」
「お前の目的は、何」
「……」
低く、唸るように言葉を発する。敵意を相手に伝えるように。
坂城嵐がゆっくりと、ボクの方に視線を向けた。
「ここには来るなと、何度も言った。…お前、目障りだ」
「……そうゆう顔してると、顔がキレイな分ハクリョクあるなぁ」
「これが最後だ。言っても分からないようなら…」
笑みを崩さない坂城嵐を見据えたまま立ち上がり、まっすぐ見下ろす。
意外なほどに坂城嵐は、冷静な様子でそれを受け止めていた。
「カラダに分からせる」
坂城嵐はひるむどころか上等だと言わんばかりに口の端を持ち上げ、慣れた手つきで眼鏡を外しながら立ち上がった。
その笑みは、いま初めて見るもので。ここであいと笑っていたこいつからは、想像もできないようなもので。
「……エエよ、受けて立つ。その代わり…」
坂城嵐が制服の上着を脱いで、その上に眼鏡を放る。ネクタイを緩め対峙するように向き合った。
黒い、まっすぐな黒髪が、その首筋で踊る。
まるであつらえたかのように、風が騒ぎだした。
「俺が勝ったら…ラン、て呼べよ」
夕焼けに染まる瞳が燃えていた。その瞳に、自分が映る。
風が遠くで高く鳴り、それを暗黙の合図とするように、互いの拳が空を切った。
誰かと話すのが嫌いだった。
だから黙らせる為に拳を振るってきた。ケンカのやり方はもう十分体に染み付いていたし、人を殴ることにも慣れていた。
この拳でボクは自分を守ることはできたけど、あいのことは、守れなかった。
ボクは体が大きくない分、力が弱い。身軽さと素早さには自信があったけど相手を確実に倒すには確実に急所を突くか、ダメージを重ねるしかない。
相手の力量を見極めながら、何度も何度も、殴りつける。
相手が自分を負かすつもりで目の前に立った以上、どんな相手だろうと決して容赦はしなかった。
人の体を、血肉を殴る音が、屋上に響き渡る。屋上が夕焼けと血の赤に段々と染まった。
坂城嵐が壁を背によろけた足を、踏み留めた。
意外なほど、弱くはない。だけど経験が違う。
ボクは負けることなど許されない。許さない。絶対に。
「…まだやる気?」
「…、まぁ、男として一発も入れられんのは、どーかと…」
肩で息をしながら、ボロボロの体を支えて笑うそれは、強がりにしか思えなかった。
くだらないと思った。
「…もうここには来るな。あいにも近づくな。お前は望まれた、お前にピッタリの世界が…ここじゃない場所にあるだろ。…アソビは終わりだ」
「……」
「お前の居場所は、ここじゃない」
坂城嵐の瞳にボクはどう映るのだろう。
もう辺りは薄暗く坂城嵐の顔を見る気はなくて、それは確認できないし、知らなくても良いことだ。
勝負はついた。坂城嵐にボクは殴れない。絶対に。坂城嵐にもそれは十分わかっただろう。
坂城嵐が咳き込み壁に背を預けたままへたり込むのを見て、ボクは固く握り締めていた拳をゆっくり解いた。
緩んだ拳はじわりと痛みを引き寄せる。もうこの痛みにも、慣れてしまったけれど。
坂城嵐が肩で息をしながら近くにあった上着を手繰り寄せ、眼鏡をかける。荒い息だけが静けさの中に響いていた。
「…お前は…傷だらけの獣みたいに、人を殴るんやな、シン」
ぽつりと。
坂城嵐の発した言葉が、屋上に落ちた。
「追い詰められた獣みたいに、目の前の相手を殴っとる…負けたら食われてしまうのを、怖れとるみたいに」
「…なに言ってるんだ…? お前…」
「殴られた一発一発が、まるで、雄叫びみたいやった」
不可解な言葉に顔をしかめるボクを、坂城嵐の瞳が捕えた。
違う、目を逸らしていたのはボクの方で、坂城嵐はずっとボクを、見ていた。
「お前のその金髪は、暗くてもよぉ目立つな」
血の滲む口の端を持ち上げ、坂城嵐が笑ったように見えた。
薄い暗闇にその表情は溶けていたのだけれど、何故かそう思った。
その瞳に暗闇を裂く光を見て、思わず目を奪われる。
「ライオンはな、花が好きなんやで」
「…なに、言って…」
「たぶん、お前は知らない、物語や」
そして次の瞬間。
ボクはその闇に、光に。呑まれていた。
―――あの日。あいにもう一度会えた時。ボクは嬉しいよりもただ、哀しかった。
あいが泣いているところをボクは一度も見たことがない。
誰に何を言われても、何をされても、あいは毎日学校に行った。だからボクも、学校には行くと決めた。
何かせずにはいられないボクは、何かしようとする度に何もできないことを思い知る。
分かってる。ボクが本当に殴りたい相手は、別にいる。
アイツを、再起不能になるまで、二度と立ち上がれなくなるまで殴れたら、あいに嫌われてもいいと思っていた。
だけど…できなかった。




