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Session.8 Massacre particles Part.1



 夏目 貴靖は苛立っていた。腕の骨折は全治数ヶ月かかるが、退院自体はもう何週間かすればできるという。しかしその間、病院の個室のベッドで大人しくしておかなければならない。そんな環境からくるフラストレーションも、その苛立ちを助長している。

 が、それ以上に彼は、自分がこんな羽目になった過程も原因も分かっていないのだ。それが何より気に喰わなかった。しかし、それすらも些末なことだ。一番の要因は、自分が《保有者ホルダー》でなくなったという、信じがたい事実である。

 これからどうなるのか。そんな不安を打ち消すために、冷えきりそうな心を、生命の火を炊くことで燃やさんばかりに温めているのだ。


 そんな日々がもう何日か過ぎたある日。彼の病室に、ひとりの男が訪れた。その男は、芦原高の制服に身を包んでいた。

 病室のドアを開け部屋に入ってきた男の姿をベッドで横になりながら見た夏目は、驚いた様子で声をあげた。

竹早タケハヤさん!」

 その呼ぶ声に男は、にこやかに返した。

「見舞いにきたよ。何も持ってきてなくて申し訳ないけど、せめて顔だけは見せておこうと思ったんだ」

 それに夏目もまた、笑顔で応えた。御剣や、取り巻きの《Cランク》共の前では見せたこともないような顔だ。

「いえ、いいんです。竹早さんが来てくれただけでも嬉しいですよ」

「それならいいんだがね」


 男の名は竹早タケハヤ 戴郷ダイゴウ。三年生だ。その襟には、金色に輝く二本の剣が見える。彼は、どんな人間にも――非保有者アン・ホルダーであろうと、夏目のような自他共に認める素行不良者であろうと、別け隔てなく接し、求められれば快く人助けもするその物腰の柔らかさから、誰からも尊敬されていた。夏目すらも例外ではなかった。

 そのがっしりとした体躯が器量の大きさと共に、《Aランク》である彼の実力を証明しているようでもあり、それもまた羨望や敬意、そして畏怖の念を生み出している、ということでもあるだろう。一部の人間が彼に遜った態度を取るのは、いざというときに援助してもらうために、ゴマをすっているだけだ。夏目もどちらかと言えば、そちら側の人間だった。

 彼は、葦原高の生徒が怪我をして入院でもすれば、大して関わりのないような者でも、今のように見舞いに行くような人間だった。やり過ぎなほどの親切さと真面目さもあって信頼も厚く、生徒会長への立候補なども期待されていた。本人が一歩引いた態度であったため、結局はならなかったが。

 そんな竹早が見舞いに来てくれたので、夏目は骨折した腕の痛みも、先程までの苛立ちも忘れて喜んだ。彼は非保有者――自分より下の者に対しては高慢であるが、自分より上の者には多大な敬意を表する男だった。

 夏目の枕元まで歩み寄りつつ、竹早が言う。

「話は聞いたよ。残念なことになったな。まさか自分がこんな目に会うとは思ってなかっただろう。辛いか?」

「そりゃ、辛いですよ。今ももう、俺は《保有者》じゃないっていうんですよ……信じらんねえ、認めたくないですよ」

「そうだろうな」

「もしかしたら、俺が非保有者になったからって、今までツルンでた連中が、手のひら返すかもしれないんです。いや、絶対そうなりますよ……どうすりゃいいんだ」

「フフッ」

 竹早が突然、含み笑いを漏らした。

 誰からも尊敬されている彼だが、今のように唐突に笑い出すところが、ただひとつ皆が不思議に思っているところだった。決して笑い話ではないのに。

 が、彼は自分の笑い声など気にしない様子で、続ける。

「心配するなよ、夏目くん。俺はそんなことはしないさ。これから君が苦労するようなことがあったら、俺ができる限り助けになってやる。遠慮無く頼ってくれていい」

「……」

 このような台詞を臆面もなく言えるところが彼の魅力だった。まるで聖人のような男だ。ゴロツキだろうと認めるのも、ある種当然のことだった。

「今日はこれだけ伝えたくてきたんだ。クラスは非保有者のものに移るし、特別棟にもいられなくなるだろうが、これからも仲良くしようじゃないか」

「そ、そりゃもちろん! こちらからお願いしますよ」

「ん。それじゃあな。腕の調子はどうだ」

「竹早さんのお陰で、しばらく忘れられましたよ」

「ハハハ、そうかい。その調子で早くよくなってくれよな。また会おう」

「はい。竹早さんもお元気で」

「俺は元気にやるさ。君もね」

 別れの挨拶を済ませ、竹早は病室から去っていった。

 ほんの短い間のことだったが、夏目はいくらか気持ちを落ち着かせることができた。が、平素な気持ちで改めて自分の胸の内を見つめなおしてみると、苛立ちが和らいだ代わりに、何かがしこりのように残っているのに気づいた。

 何か、何かが頭に引っかかっているような気がする。そう、それは記憶だ。何らかの理由で失った、あの日の夜の記憶が、その僅かな――10m×10mのガラスを粉々に砕いたほんの拳ほどの一欠片だけ見えた。そこには、何かがいた。具体的な姿は見えない。何なのかも形容できないが、確かに、何かがいた。




    ※




 その日の夜。あるいはもう次の日になってそれなりの時間も立っているのかもしれない。夏目は、不意に眠りから眼を覚ました。

 何故かは分からない。何か大きな音が聞こえたわけでもない、病院は静かなものだ。部屋の様子が変わったわけでもない。消灯し、月明かりしか入らない病室の中は、相も変わらず暗いままだ。

 ……いや、何か違和感があった。その僅かな月明かりがどこかおかしかった。“暗すぎる”。部屋に入ってくる光量が、夜であることを差し引いても少なすぎる。咄嗟に彼は首をもたげて、窓の方を見た。

 見えない。月がまったく見えなかった。この時間なら、窓の向こうには静かにその輝きをたたえる月の姿が見えるはずなのに、今はただ、真っ暗な闇が窓の向こうを包んでいるだけだった。星の灯りさえ見えない。


 違う。窓の“向こう”ではない。

 何かがいる。窓の“内側”に何かが立っていて、月の光を遮っている。よく見れば、点々と煌めく星の中に、うっすらとそのシルエットが見えていた。

 夏目は戦慄した。そのシルエットは、明らかに人間どころか、この世のありとあらゆる生物のそれではなかったのだ。見たこともない生物だった。

 彼の頭の中に存在していたしこりが、その正体を一瞬だけ見せた。記憶の断片の中にいる何かと、今目の前にいる何かの姿が、同一のものであるのかはともかくとして、繋がった。


「うおおぁぁっ!!?」

 夏目は、ベッドから飛び出し地面に降りた。骨折しているのが片腕だけだったからできることだ。が、地に足がついたのはいいが、その足はガタガタと震えていた。暗闇に眼が慣れてくる中で、段々と、ほとんど真っ黒だった“それ”のシルエットがはっきりとしてくる。が、それでもまだ真っ黒のままだった。おそらく、身体自体が黒いのだろう。そんな中でうっすらと見える白く細長いものは、牙か何かに見えた。獣の牙。同じような白い何かが腕の辺りに見えるが、それは爪だろうか。

 ますます化け物にしか見えない。夏目は、今自分は夢を見ているのかと疑いたくなったが、夢だと思っている内にあいつに喰われて死ぬんじゃないかという考えが芽生えた。

 夢だろうが幻覚だろうか何だろうが、逃げなければならない。

 《Bランク騎士型ナイトタイプ》でなくなった肉体で最大限の瞬発力を発揮し、裸足のまま床を蹴り、ドアに向かって駆けた。《因子ファクト》を失った身体を充分に動かすことができたのは、能力を抑え普通の人間並の身体能力でいた時間が長く、それに慣れていたからだ。こんなことで、《因子法》に助けられるとは。


 が、数歩駆けた瞬間、硬いと柔らかいの中間のような感触の何かにぶつかって押し戻され、尻餅をついて倒れこんでしまった。

 “同じヤツ”だった。あの、窓際の化け物と同じ生物。その巨体がドアの前に立ち塞がっていた。これでは逃げ場がない。前門にも後門にも、虎も狼も愛玩動物に見えるような恐ろしい姿の生命体が待っている。窓際の“それ”が、ゆっくりとこちらににじり寄ってくる足音がかすかに聞こえる。眼前の“それ”の口元から、唾液が滴り落ちていた。

「だ……誰かッ!!」

 夏目は反射的に叫んだ。この病院にいる誰かに助けを呼んだ。看護師でも医者でもいい、何なら隣の病室にいるどこぞの誰かでもいい。とにかくこんな事態に直面している自分に気づいて欲しかった。

 だが、返事はない。静寂ばかりが帰ってくるだけだった。精一杯に声を張り上げたのに。

「聞こえてるんだろ! 誰か、返事しろ!!」

 もう一度声を張り上げても、やはり返ってくるのは沈黙だけだった。これほど大声を上げれば誰かに聞こえて、返事がくるだろうに。まるで、この空間を結界が取り囲み、音を遮断でもしているかのようだ。助けもこない。

「……」

 夏目はただ絶句して、見開いた眼で眼前の怪物を眺めることしかできなくなった。脳内をある言葉だけが、壊れたメロトロンのように繰り返し響く。

――死ぬのか? 死ぬのか死ぬのか死ぬのか死ぬのか死ぬのか死ぬのかァーーッ!?――

 怪物が、その鋭い爪を突き出さんと腕を引く。


 だが、その腕が前へ出ることはなかった。

 瞬間、夏目の視界に躍り出てきた、ひとつの影があった。その影のすぐ傍を白い光が揺らめいたかと思うと、怪物の腕があらぬ方向へと舞い飛び、宙をきりもみした後床へと落ちた。響く怪物のうめき声。

「!?」

 何が起こったのか理解できない夏目の眼の前、投げ出した足が触れそうな程の位置に、怪物とは別の何かがいた。黒い布のようなものに全身を包まれた生き物らしきものが、小さくうずくまっている。そのシルエットから、銀色に輝く鋭利な物体が伸びていた。刃だ。それが、先の一瞬揺らめいた光りの正体であり、怪物の腕を切り飛ばしたものだった。円を描くように歪曲したその刃は、鎌に見える。足のように太い、大鎌だ。

 その何か――怪物とは違う何かは、どうやら人間のようだった。黒い布はフードのようなものになっており、その奥に、真っ白な髪の毛と、怪しげに光る赤い眼が見えた。吹き出して間もない鮮血を、そのままの色彩で固めたような真紅の色だった。

「な……なんだ……」

 無意識の内に呟く夏目の前で、その人間はゆっくりと立ち上がった。黒い布は全身を足元まで隠すほど大きく、裸足のつま先と踵ぐらいしか見えなかった。その起立する動作は、あまりに緩慢だ。同じ空間に二体の化け物がいるという状況でのスピードではなかった。しかもその内の一体は、今しがた腕を切り飛ばされ、憤怒に狂っているであろう。

 まずい、と夏目が思った瞬間には、残ったもう片腕が、その人間の身体を横薙ぎに打ち据えていた。位置的に考えて胸か腹の辺りの肉が、黒衣ごと霧を払ったかのように抉れる。


 まさしく、霧を払ったかのようだった。確かに怪物の腕は彼――いや、彼女か?――その人間に命中し、身体の一部を跡形もなくかき消した。だというのに、人間は吹き飛びもしない。下半身と繋がっていないはずの上半身は、床に落下していなかった。まるで天井から糸で吊るされているかのように、同じ位置を保っている。そもそも、かき消された肉はどこに飛んだ。血の一滴も飛び散っていない。

 まさしく、まったくもって、霧を払ったかのようだった。さながら蜃気楼のごとく、黒衣の人間は平然とその場に居続けていた。

 だが、幻ではない。確実にそいつはそこにいる。今もまた、ゆっくりと振りかざした大鎌の刃を怪物の頭に突き立て、息の根を止めたのだから。鮮やかな、美しさすら感じる一撃だった。生命を刈り取ることのカタルシスを感じさせる光景だった。黒い布で全身を包んだ格好と相まって、夏目にはそいつが、“死神”か何かに見えた。あの怪物共の生命を狩る死神だ。

 まず一匹仕留めた黒衣の人間が、怪物の頭に突き刺さった刃を引きぬきつつ、くるりと振り返った。次の標的、窓際のもう一匹に狙いを定めたのだ。吹き出した鮮血が放物線を描き、病室の壁や床を赤く染める。

 その時夏目は初めて、フードの向こうのそいつの顔をはっきりと見た。

 若い女だった。同じぐらいの歳の女。闇夜に溶けこむような黒衣と対極にあるかのような、白く透き通った肌と白髪、そして赤い眼。人間に見えるが、同時に人間離れした容姿だった。ますます“死神”に見えてきた。


 こつ然と、彼女が姿を消した。

 何か、黒い煙のようなものが散ったかと思ったその瞬間には、その姿が見えなくなっていた。

「なっ!?」

 慌てて周囲を見回すが、どこにも彼女は見えない。だが、夏目は自分が一人取り残されたとは思わなかった。

 いる。確かに彼女は、どこかにいる。

 怪物の方に眼を向けてみる。

 向こうも、それなりの知能はあるらしい。夏目同様、少女が急に姿を眩ましたことに驚いているようで、長い首を左右に振りながら辺りを探っていた。


 その時だ。突然、前触れもなく彼女が再び現れた。怪物の背後だ。いつの間に回り込んだのか、まったく見えなかった。まるで空気の中からにじみ出てきたかのように、気づいた時にはそこにいた。

「あっ!」

 夏目が声を上げた瞬間には、箒のように逆手に握られていた大鎌の刃が怪物の首に突き刺さった。

 うめき声をあげる化け物。それに構わず、少女はそのまま上向きに突き刺さった刃を強引に引き上げ、順手に持ち替えつつ一気に後頭部を抉りとった、大きく振りぬかれた鎌が宙に血飛沫の円を描き、刃が床に当たって乾いた音を立てた。

 ヤツらには脳があったらしい。急所を切り裂かれた怪物は、そのまま事切れて倒れこみ、重苦しい音を立てた。

 文字通りあっという間。瞬くような出来事だった。怪物に殺されると思ったら、突如現れた少女がその怪物共を皆殺しにした。自分が《因子ファクト》を失ったことよりも、突拍子もなければ信じることもできない事態だった。

 壁も床も天井も真っ白で、いかにもそれらしく清潔感が保たれていた病室が、今は赤黒い汚濁の汁にまみれている。そしてその中に立つ、ひとりの少女。フードの奥に覗くその顔に、何故だかふと、既視感のようなものを覚えた。

 そんなはずはない。デジャヴというのは、一度も見たことがないものに対して言うらしいが、まさしくそれだ。白い髪と赤い眼の女など、夏目はこれまで会ったことはなかった。このような容姿の人間が、アルビノとして知られているように実際にいるということも、勿論知ってはいるが。

 彼は、自分の意思によるのか、それとも見えない何者かが神経を操っているのかも分からないままに、こう口走っていた。

「お、お前、何者だ……」

 少女は応えない。ただ、冷然とこちらを眺めるばかりだ。蔑視するように、路傍でじっとしている虫を観察するかのように。同時に、彼女によって抹殺された二体の怪物の死骸、そしてそこから飛び散った血液が、蒸発するように消え始めていることに気づき、夏目はさらに驚愕した。

「誰なんだって聞いてんだクソ! お前にしてもこの化け物共にしても、一体何だ! 記憶喪失の次は幻覚か、見たことない生き物が現れたかと思えば、今はそいつらの死体が消え始めてる……わけわからねぇんだよ! 俺の知りたいこと全部教えろよ」

 そこまで捲し立ててからやっと、少女は応えた。静かな声だった。1000mの深海を泳ぐ魚が起こす小さな波のような声だった。その透き通る声音もまた、宇宙の果てまで続く精神の海のような流麗さを感じさせ、それだけでも、混乱した心が鎮まるような気さえした。あくまで“気”の話だが。

「私が誰なのかは、教えられない。そして、この者達が何なのかも、教える必要はない」

「なんだと」

「貴方の頭の中に、浮かび上がる顔があるでしょう。彼に教えてもらうといい」

 どういう根拠があってそんな台詞を言っているのかは知らない。ただ、その言葉に喚起され、夏目の脳裏にあるひとりの男の顔が浮かんだ。

 御剣 誠一だ。

 そうだ。ヤツに関わってから、自分はこんな眼にあった。もしかしたらヤツが、この化け物共のことも、何故自分が《因子》を失うことになったのかも、知っているかもしれない。

 が、当然ながらそんな確証はない。仮にあったとしても、今は……

 夏目は、少女の言葉を聞き入れた上で、反論した。

「ふざけんな! “そいつ”に話を聞くまでに何日待たなきゃいけねえと思ってる。こんな薬液臭いとこから退院するまで、悶々と過ごしてろっていうのか? 今起こったことなんだ、それを知ってる人間は目の前にいる。分かるか? お前だよ、お・ま・え! 普通お前が話すモンだろうが頭蓋骨の中に硫酸でも溜まって脳みそ溶けてんのか馬鹿」

 人にものを頼む態度としては不合格どころか論外だが、予想外の事態に気が動転しているため、仕方がないのだろう。少女の方も、逡巡する様子を見せながらも、正論ではある彼の言葉を聞き入れることにした。

「……用が済めば、私はこの場を去る。また今みたいな怪物達が貴方を襲わない限り、しばらく会うこともない。だからこそ、今聞けばそれこそ悶々とすることになる。それでも……構わない、と?」

 抑揚のない声だった。ますます深海のようだ。あまりに広く、だからこそ全容を知ることもできないという、そんな雰囲気。


「いいから話せ」と催促する夏目の前で、彼女は物語を語るように、落ち着き払った声音で話し始めた。

「この者達の名は《因子獣ビースト》。かつて貴方の身にも、これの同類が棲み付いていた……」




    ※




 夏目が入院しているのは、《先導会》が経営する《保有者》専門の総合病院だ。一応、非保有者の治療も受け入れているが。その設備は日本でも最新鋭のものが揃っており、敷地も広い。患者達の憩いの場として、大きな公園なども設けられていた。そこからは、入院病棟の様子がよく見える。


 深夜になれば、公園の中にいる者などまずいない。だからこそただひとり、木々に囲まれたその中に立つある男の姿がよく目立つ。目立ったとしても、見る者などいないのだが。

 その男は、入院病棟のある一室の窓を一心に見つめていた。ある者達の仕事を観察し、その成果を待っているのだ。

 やがてその成果というものが見えてきた。だがそれは、彼が予想していたものではなかった。

 窓に、大量の血液がへばりついた。それと同時に、先程まで感じられていた“ヤツら”の気配が、消滅した。

 失敗したのだ。

「チッ」

 男は舌打ちをした。その次の瞬間には、すでに彼は公園どころか病院の敷地からも抜け出し、入り口前の歩道にまで移動していた。彼は《Aランク保有者》だ。

 《保有者》でもなくなったただの人間を殺すために狩りだされた《因子獣》が二体とも死んだ。それはすなわち、あの場に別の《保有者》がいたということだ。そいつに返り討ちにされた。

 おそらく、事前にこの事態を察知していたのだろう。最近、この辺りで自分達の活動を妨害している者がいるというのは知っていたが、おそらくそいつだ。そいつに見つからないためにも、早急に身を隠しておく必要があった。いつまでも公園に立っているわけにはいかない。

 とはいえ、だ。この男が《因子獣》まで持ちだしてそのターゲット――夏目 貴靖を始末しようとしたのは、“依頼”されたからだった。出来て当然という仕事なのだが、まさか失敗するとは思わなかった。“依頼”を達成することもできず、これからどうなるのだろう。

 そんな不安に駆られ、彼は思わず呟いた。

「どうすりゃいい……」

 その時だった。ポケットに入れてあった携帯電話のバイブレーションが鳴った。メールが届いたらしい。彼はすぐに携帯を取り出し、メールを確認した。

 “依頼主”からのメールだった。

 内容はこうだ。


『仕事の首尾はどうだ?

心配はいらない。失敗したことはすでにこちらも分かっているが、非難するつもりも、契約を破棄するつもりもない。

こんなものは、元々出来てもできなくてもどちらでもいい。

その代わり、君には別の仕事をこなしてもらおう。

御剣 誠一を始末せよ。

それが出来れば、約束を守ろう。

方法は問わない。君の好きなようにやってくれ。

健闘を祈る。』


 男は咄嗟に周囲を見回した。このようなメールを送ってくるということは、“依頼主”はどこかでこちらを見ているということだ。が、探したところで見つかるわけもない。

 仕方なく携帯の画面に眼を戻しつつ、メールの内容を微動だにせず再び読んだ。そうして、安心すると共に焦燥した。

 次なるチャンスは与えられた。だがその内容は、困難を極めるものだった。

 御剣 誠一。そいつは確か、男の“同胞”を始末した男だった。そいつを殺れというのだ。

 だが、仕事を選り好みしている余裕はなかった。

「やるしかねえ……」

 男は、その言葉通りの現実を受け止め、何よりもまず、励むことにした。任務の遂行……己が何よりも好む、殺戮の遂行にだ。



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