割れ目の夜
ローデリヒの寝床は、溜まりの壁際の、光苔が一番よく育っている場所にあった。二十二年いると、そういう場所がもらえるらしい。
「グラウの決まりを教えてやろう。顔役を閉じ込めた新入りは初めてじゃからの、わしにも前例がないが」
二日目の昼、俺は老人の前で、木の椀に入った薄い麦粥をすすっていた。ガロが黙って俺の分を配ってきたのだ。量は昨日の隣の男の言葉どおり、腹の足しにもならない。
「食い物は、週に一度の籠の日に上から下りてくる。黒パンと麦と塩じゃ。百二十人の一週間には、まず足りん」
「足りない分は、どうしてるんですか」
「魔石で買う。グラウの下の層から、魔物が這い上がってくるでな。石鼠に影蜘蛛。それを棒と石で狩って、腹の魔石を取る。籠の日に看守へ渡せば、黒パンが増える」
ローデリヒは、指でつまむほどの灰色の石を見せた。石鼠の魔石だ。一晩、家の灯りをともせる大きさがある。
「看守は、これ一つを銅貨三十枚で買う」
「三十枚?」
思わず声が出た。
「外では銀貨一枚ですよ。下町の魔石屋なら、この大きさで銀貨一枚を切ったことはないです」
近くで聞いていた囚人たちが、ぴたりと黙った。銅貨三十枚と、銅貨百枚。外の三分の一以下だ。
「知っとる者は知っとる。じゃが、売り先は看守しかおらん。嫌なら籠を上げると言われれば、それまでじゃ」
看守長のバルツは、籠の日にときどき自分で下りてくるという。そして、第二層の奥にだけは、囚人を決して近づけないそうだ。何があるのかは誰も知らない。
「それと、大隔壁じゃ」
ローデリヒの声の調子が変わった。
「グラウは三百年前、初代王の地下要塞じゃった。下の層から魔物が溢れて、初代王は第三層の奥を巨大な扉で塞いだ。それが大隔壁じゃ。王家の封印錠が七つ。魔物は、その周りの岩の割れ目から這い上がってくる」
「錠が七つ……」
「王宮の解錠師が十年かけて、開けられんかった。わしも若い頃、宮廷魔導師の一団に入って、破砕の術を撃ち込んだ。傷一つ付かんかったわ」
老人は濁った目を細めて笑った。自分の若い頃を笑っているようだった。
「この層にも、要塞の頃の扉がいくつも残っとる。溜まりの奥の下り通路の口にも、鉄の隔壁がぶら下がっとるじゃろう。あれも三百年、上がったきりじゃ。下ろせれば割れ目の魔物を止められるんじゃがの。ガロたちが梃子で何度やっても、動かんかった」
◇
その夜、溜まりの奥の通路から、乾いた音が聞こえてきた。
かり、かり、かり。石を爪でかく音が、無数に重なっている。
「割れ目だ! 起きろ!」
ガロの声が溜まりに響いた。寝床から跳ね起きた囚人たちが、壁に立てかけてあった棒をつかむ。俺も起き上がった。
溜まりの奥には、下の層へ続く広い下り通路が口を開けている。そこから、猫ほどの大きさの灰色の塊がぞろぞろと這い出してきた。石鼠だ。皮が石のように硬く、光苔の明かりで鈍く光っている。その間に、犬ほどもある黒い影が混じっていた。影蜘蛛。暗がりに溶けて、輪郭がはっきりしない。
十匹や二十匹じゃない。通路の奥から、まだいくらでも湧いてくる。
「いつもより多いぞ!」
「囲め! 一匹ずつ叩け!」
囚人たちが棒を振り下ろす。石鼠は一撃では割れない。二度、三度と叩く間に、次の石鼠が足に噛みつく。影蜘蛛の顎が、誰かの棒を噛み折った。
通路の口の近くで、悲鳴が上がった。昨夜、俺を見ていた少年だ。転んだところへ影蜘蛛がのしかかり、足首を引きずっていく。
「ミロ!」
ガロが飛び込んで、影蜘蛛の胴に棒を叩きつけた。蜘蛛が少年を放す。ガロは少年の襟をつかんで引きずり戻したが、その後ろから、通路いっぱいの灰色の群れが押し寄せてくる。
俺は通路の口の脇の壁を見た。
昼にローデリヒが言っていたものが、そこにある。通路の天井から吊られた、分厚い鉄の隔壁扉。三百年前の要塞のころのもので、上がったまま錆びついている。
俺は扉の脇の錠に走った。
見るのは二度目だ。昼のうちに、手を触れずに眺めておいた。扉を吊っている留め金を、錠のレバーが噛んで押さえている作りだ。鍵を回せば、留め金が外れて扉が落ちる。錆で固まっているのは留め金じゃなく、レバーのほうだ。
手のひらを当てて、三つ数えた。
鍵ができる。鍵穴に差して、力いっぱい回す。錆の砕ける手応えがあって、レバーが動いた。
「ガロさん、下がって!」
ガロが少年を抱えたまま転がり込んでくる。その頭の上で、何かが外れる音がした。
鉄の扉が落ちた。
石の床を震わせる轟音がして、通路の口が塞がる。扉の向こうで、押し寄せていた群れがぶつかる鈍い音がいくつも重なった。かり、かり、かり、と爪の音が鉄を引っかき続ける。けれど、それ以上は一匹も入ってこない。
溜まりの中にいた十数匹を、囚人たちが叩き終えるまで、誰も扉のほうを見なかった。
最後の石鼠が動かなくなって、ようやく静かになった。
ガロが、ゆっくり扉の前に立った。拳で鉄を叩く。もう一度、さっきより強く叩く。扉は揺れもしない。
「……下りた」
ガロは扉を見上げたまま、そう言った。
少年のミロは床に座り込んで、自分の足首を両手で押さえていた。噛まれた跡はあるが、骨は無事らしい。棒を握ったまま突っ立っている囚人が何人もいた。誰かが「三百年、上がったままだったんだぞ」とつぶやき、誰かが「梃子でも動かなかったのに」と返した。
ローデリヒが杖をつきながら近づいてきて、扉の脇の錠をしげしげと眺めた。錠に差さったままの、鉄色の鍵を。
「小僧。これは、お前が作ったのか」
「はい。錆びてただけなので」
「錆びてただけ、か」
老人は鍵と俺の顔を何度も見比べて、杖の先で床を二度叩いた。それが、この老人の笑い方の一つだと分かるのは、もう少し後のことだ。
◇
朝までに、溜まりの囚人たちは叩いた魔物から魔石を取り出した。十四個。いつもなら、ひと月かけて集める数だという。看守の買い値でも、黒パンがしばらく余分に下りてくる。
囚人たちは魔石を並べて、何度も数え直していた。ガロが、ミロの足首に布を巻いている。誰も俺に何も言わなかったが、ガロの手下の一人が、自分の寝床の毛布を黙って俺に放ってよこした。
俺は魔石の山を見ていなかった。
落ちた隔壁扉のさらに奥、下の層へ続く暗がりのほうを見ていた。その先の第三層に、三百年誰にも開けられなかった錠が、七つ並んでいる。
ローデリヒが俺の視線に気づいて、ため息をついた。
「やめておけと言っても、聞かん顔じゃな」
「三百年前の錠ですよ」
俺は扉に差したままの鍵を抜いて、鉄の輪に通した。
「錠前師なら、一度は見てみたいです。見せてもらいます」




