祖父の錠
九日目の朝、俺はネリスとガロと、ローデリヒを連れて、第二層の奥へ向かった。
昨日、看守長のバルツは、看守を連れて第二層の奥へ行きかけて、途中で引き返してきた。折りたたんだ紙を握りしめて。看守長が自分で確かめに来るほど大事なものが、その先にある。
「ガロさん、本当に来るんですか。覗いただけで籠を止められた場所ですよ」
「籠ならもう、お前が止めた」
ガロは鼻を鳴らして先を歩いた。手下は連れてこなかった。昨日の証文は、懐にしまったままだ。
第二層は、溜まりより天井が低い。昔の兵の詰所や武器置き場が両側に並び、半分は崩れて瓦礫に埋まっている。鍵の間の鍵で灯りをともしたので、三百年ぶりに明るくなった通路の床は、厚い埃に覆われていた。その埃の上に、靴の跡が一筋だけ、くっきりと続いている。瓦礫を避けて、奥へ、奥へ。埃の積もり方からして、ここ何年かのものだ。何度も同じ道を通った跡だった。
「三百年前は、ここに兵の糧食を置いておりました」
ネリスが、通路の突き当たりの扉を指した。分厚い樫の扉に、鉄の帯が打ってある。三百年前の扉だ。けれど、そこについている錠は違った。
新しい。磨かれた真鍮の錠前が、古い扉の上に、ぴかぴかと光っていた。
俺は足を止めた。
錠に触れる前から、分かった。鍵穴の形。真鍮の縁の面取りの角度。鍵穴の下の、ほんの小さな空気抜きの穴。そして鍵穴の縁に、米粒ほどの大きさで打たれた、二重の輪と「H」の文字。店の刻印は錠の内側の板に打つのが決まりだが、祖父は自分の錠にだけ、鍵穴の縁にも小さく同じ印を打った。一目で自分の錠だと分かるように、と言っていた。
「……爺ちゃんの錠だ」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
ハーケン錠前店の刻印だった。祖父のオットーが、死ぬ前の年に作った型だ。レバーを六枚にして、合わない鍵を入れると内側の留め金が落ちる仕掛けを、町の錠に使える値段で組み込んだ。祖父が「これは町の錠の、いちばん上だ」と言って、店の一番目立つ棚に並べていた錠。
ひと月ほど前、それを一つ売った。
黒い上着を着た、年配の男だった。物腰は丁寧で、言葉遣いは貴族の屋敷の使用人のそれだった。「店でいちばん固い錠を」と言われて、俺はこの錠を勧めた。祖父の自慢の錠だと、仕組みまで説明した。男は銀貨五枚を払い、名前は名乗らなかった。
その錠が、ここにある。
「錠前屋」
ガロが、俺の顔を見ていた。いつもなら錠を見るなり褒めはじめる俺が、何も言わないからだろう。
俺は錠に手を当てた。
レバーが六枚。留め金が二つ。祖父の手の癖が、指先にそのまま伝わってくる。いい錠だった。いい錠だと、今日は口に出す気になれなかった。
三つ数えて、鍵を作った。鍵を回すと、祖父の錠は、祖父の錠らしい素直な音を立てて開いた。
◇
倉の中には、木箱が積まれていた。
大きいもの、小さいもの、全部で十いくつ。どの箱も、蓋の継ぎ目に赤い封蝋が押してある。ローデリヒが角灯を近づけて、封蝋をのぞきこんだ。
「王家の紋に、宝物庫の印じゃ」
老人の声が低くなった。
「宮廷魔導師だった頃に、何度も見た。宝物庫から品を出すときに、宝物庫長が押す封じゃ」
一番上の小さな箱だけ、封蝋が真ん中で割れていた。誰かが一度開けて、中を確かめたのだろう。ネリスがその蓋を、指先でそっと持ち上げた。
布にくるまれて、拳ほどの青い石が眠っていた。角灯の光を吸いこんで、箱の内側を青く染める。王冠の予備の宝石だと、ローデリヒがかすれた声で言った。ほかの箱は封蝋が無事で、開けるわけにはいかない。それでも、長い箱の蓋の隙間からは金の杯の縁が、別の箱の隙間からは細工の燭台の脚が覗いていた。どれも、俺が一生かかっても手の届かない品だった。
そして、どの箱にも、麻紐で小さな紙が結びつけてあった。
ローデリヒが、その紙を一枚ずつ読み上げた。品の名と、数。箱ごとに違う。けれど、どの紙の最後にも、同じ一行と、同じ署名があった。
「ヴァイスラー家預け品。家令、ホルスト」
ガロが、手にしていた角灯をゆっくり下ろした。
ヴァイスラー。一日目の裁きの場で、指輪を三つはめた手で俺を指した男。鍵を壊さずに宝物庫を開けられる者が、王都に何人いると思う、と言った男。宝物庫長、ヴァイスラー子爵。
その家の家令が、宝物庫から盗まれたはずの品を、迷宮牢の倉に預けている。倉の扉に、俺の祖父の錠をかけて。
それにしても、盗んだことにした品の箱に、わざわざ自分の家の名を書いた札を付けるものだろうか。
「看守長が書かせたんじゃろうな」
ローデリヒが、札を指でつまんで言った。
「あの男は、自分の身だけは守る。何かあったときに、子爵家の品を預かっただけだと言えるように、預け主の名を一箱ずつ書かせたんじゃ。箱の中身を後からすり替えられんようにする意味もある。預ける側も、預かる側も、相手を信用しておらんのよ」
「……そういうことか」
ガロが、箱の山を見回して、低く唸った。
「看守長が籠の日にここへ来てたのは、こいつの番だったのか。俺たちが覗いたら籠を止めたのも」
「盗まれたことにして、ここへ隠したんじゃな」
ローデリヒが紙を握りしめた。
「宝物庫長が自分で運び出して、盗人を仕立てて、品は誰も来ん穴の底へ。小僧、お前はちょうどいい盗人だったわけじゃ」
俺は、何も言わなかった。
倉の扉に戻って、祖父の錠をもう一度見た。黒い上着の男の顔を思い出そうとした。年配で、物腰が丁寧で、店でいちばん固い錠を、と言った。俺は嬉しくて、祖父の錠の仕組みを、あの男に説明したのだ。合わない鍵を入れると留め金が落ちます。だから、まず破られません、と。
「爺ちゃんの錠を」
声が震えた。
「こんなことに使いやがって」
ネリスが、俺の隣に立った。そして、俺の握りしめた拳の上に、冷たい手をそっと重ねた。
しばらくそうしていた。
やがて俺は拳を開いて、息を吐いた。
「箱は、このままにしておきます」
ガロが眉を上げた。
「持っていかねえのか。これがありゃ、お前は泥棒じゃねえって言えるだろ」
「俺がこれを持って門から出たら、盗人が盗品を持って脱獄した、と言われるだけです」
俺は倉の扉を閉め、祖父の錠に自分の鍵を差して、逆に二度回した。中で、レバーが一枚、こつりと動く。それから錠にもう一度手を当てて、三つ数え、新しい組みに合う鍵を作り直した。
「動かさずに、ここに置いておきます。錠は俺がかけました。看守長の鍵では、もう開きません」
「錠を作り替えたわけじゃねえだろ」
「祖父の錠には、鍵替えの仕掛けがあるんです。今ある鍵を逆に二度回すと、中のレバーの組みが一枚変わって、前の鍵では開かなくなる。店で売るときに、一番に説明するところなんですけどね。買った人は、話を半分しか聞いてなかったみたいです」
ガロは、しばらく俺の顔を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「出ねえのか、それでも」
「出ます。表から、王の前に、これを出せるときに」
◇
その日の夜だった。
溜まりで、明るい天井の下、みんなが溝の水で湯を沸かしていた。ガロが証文の文面を、字の読めない者たちに何度も読んで聞かせている。ミロは蹴られた腹をさすりながら、それを聞いて笑っていた。
ネリスが、俺の寝床の横に膝をついた。
「主。明日の夜には、わたくしを巻いていただかねばなりません」
「明日?」
「巻いて七日で、わたくしは止まります。主に巻いていただいたのは、三日目の夜でございました」
あの夜、巻き鍵は七回転で止まった。一回転が一日なのだと、ネリスは言った。俺は鉄の輪から、花の形の持ち手の鍵を外して、懐の一番奥にしまった。これだけは、なくすわけにいかない。
ネリスが、ふっと顔を上げた。
籠の縦穴のほうを見て、動かなくなる。
鎖の軋む音が、上の闇から下りてきた。
籠の日ではない。昨日、籠が来たばかりだ。溜まりのざわめきが、ひとつずつ止んでいく。籠は底まで下りてきて、止まった。格子の中に、抜き身の剣を下げた男たちが詰まっていた。看守の黒い外套の者もいれば、見覚えのない革鎧の者もいる。男たちは無言で籠を降り、縦穴の脇の、灯りの届かない岩の窪みへ散っていった。空になった籠が、また上がっていく。
鎖がまた鳴った。二度目の籠が下りてきて、同じように男たちを吐き出し、上がっていく。そして、三度目の籠が底に着いた。
「主」
ネリスが、俺の前に出た。いつもと同じ、静かな声だった。
「籠が三度、下りてまいりました。剣を持った者が、二十人」




