第27話 十六時五十二分
ループ27回目。今日の目的:16:52の神崎からの直電を切り、真壁が“声で殴られずに”17:20を迎えられる状態を作る。新変数:真壁は議事メモが残る打合せ中だけは、私用携帯に出ない。
7:02
アラームの音で目を開けた瞬間、胸の奥で時刻がひとつだけ光っていた。
16:52。
前のループで、私はようやく切れた。
高瀬が15:39に机へ置く「保全部・至急」の白封筒。
庶務の受領番号と受領印を正規の流れへ戻しただけで、あの紙は真壁まで届かなくなった。
でも、届かなくなった次の瞬間、神崎は直電してきた。
紙が切れたら声になる。
箱が切れたらポケットになる。
神崎のやり方は、いつも少しずつ小さくなる。
だったら今日は、その“声”の道を切る。
電話そのものを壊すんじゃない。
真壁が出られない状態を、正規の手順で作る。
ベッドから起き上がりながら、私は深呼吸をした。
止めるんじゃない。
別の用事で埋める。
神崎より先に、真壁の耳をこちらへ向ける。
7:30
警備詰所の前で、飯田さんが鍵束を鳴らしていた。今日も初対面の目。
だから入口の言葉は、もう決まっている。
「迷子は、守りたいです。あの時の後悔ごと」
飯田さんの指が止まる。
そのまま私は、本題を置いた。
「今日は16:52です。神崎からの直電を、真壁さんに取らせたくない」
飯田さんが眉を寄せる。
「携帯そのものを預かるのか」
「それだと警戒されます。出られない状態を作りたいです」
飯田さんは少し考えて、それから低く言った。
「真壁は、会議中に私用携帯を取らない」
胸の奥が硬く鳴った。
「会議?」
「昔、一回それで怒鳴られてる。議事メモが残る打合せの最中に私用へ出て、庶務と揉めた」
なるほど。
だから神崎は、これまで封筒を15:39に入れていた。
“会議”に入る前に紙を差し込んでおけば、電話しなくても効く。
封筒が切れた今、直電へ移ったのは、その古い穴を使えなくなったからだ。
「誰が議事メモを取りますか」
私が訊くと、飯田さんは即答した。
「佐々木だ。庶務の流れも戻したばかりだし、あいつがいれば真壁は携帯に触れにくい」
胸の奥が少し軽くなる。
使うのは、新しい策じゃない。
駅に元からある“ちゃんとした手順”だ。
8:00
危機管理課に電話を入れる。
短い声が返る。
「篠原」
「今日は16:50に打合せを作りたいです。真壁さんが16:52の電話に出ないように」
向こうが一拍黙った。
「……議事メモ付きのやつね」
「はい。佐々木さんを入れます」
「分かった。名目は“庶務便運用の復旧確認”と“17時台の導線確認”。祭当日なら十分ある」
「お願いします」
「あなたは会議に入らない」
その一言に、喉がわずかに詰まる。
「え?」
「あなたが入ると、真壁が余計に構える。今日は庶務と危機管理だけで囲う。あなたはその外で藤崎側を見る」
短い声。
でも正しい。
私は頷いた。
「分かりました」
8:05
掲示板前。
紙の貼り替え。高瀬の顎の傷。藤崎の手袋。
いつもの始まりが、今日も同じ順番で来る。
高瀬が掲示板脇の細い扉へ向かった瞬間、飯田さんが塞ぐ。
「そこは通さない」
「点検です」
「点検なら、なおさら通さない。今日は人が多い」
篠原が来て、狭い通路を開ける。赤いレバー。『設備点検モード』。
「今日は封鎖。触らせない」
高瀬のスマホが二音鳴る。
藤崎の肩がわずかに揺れる。
計画変更の合図。
私はその揺れを見ながら、今日は十五時ではなく十六時五十分を越えることが勝ちだと、自分に言い聞かせた。
9:20
庶務棚の前で、佐々木さんは台帳の束を抱えていた。
前のループで、社内便を正規の流れへ戻してくれた人だ。
今日はそこから一歩先へ行く。
「佐々木さん」
彼女が顔を上げる。
「また安全確認?」
「はい。今日の16:50に、短い打合せをしたいんです」
私が言うと、佐々木さんは少しだけ怪訝そうな顔をした。
そのタイミングで篠原が横へ出る。
「祭当日の庶務便復旧の確認です。あと、17時台の導線。
議事メモ、お願いできますか」
“議事メモ”という言葉に、佐々木さんの目が少し変わった。
自分の仕事の顔になる。
「できますけど……真壁さん、今さらそんなの嫌がりますよ」
「だからこそです」
篠原の声は短い。
「勝手便も止めた。庶務の流れを戻した。次は、その運用確認が必要」
佐々木さんは少し黙って、それから頷いた。
「……分かりました。16:50、駅務区画の打合せ机ですね」
決まった。
喉の奥が少しだけほどける。
11:10
換気室。
巡回員のスマホが二音鳴る。
手がスイッチへ伸びる前に、篠原が遮る。
「封鎖。触るな」
巡回員は電話口で小さく言った。
「神崎さん、無理っす。危機管理が……」
換気は止まらない。甘い匂いも薄いまま。
駅の普通は守れている。
その普通の上に、“予定”を一つ足すだけでいい。
16:50の打合せ。
紙より弱そうで、実は強い予定。
12:30
軽事故の交差点。
今日も群衆が膨らみ、スマホが向けられ、苛立った男が「救急車呼ぶほどじゃない」と吐き捨てる。
私は処置の補助をしながら、高瀬を探した。
いた。
輪の外。スマホ。二音。
そのあと、高瀬は真壁のいる駅務区画ではなく、廊下の突き当たりで一度だけ立ち止まり、壁の時計を見た。
16:52の時刻を頭に置いているような、待ち方だった。
封筒が切れたぶん、向こうも“電話の時間”を重く見ている。
13:40
佐々木さんが打合せ机に、薄い議事メモ用紙を置いた。
日付、時間、議題欄。
たったそれだけなのに、机の顔が変わる。
雑談の机ではなく、“記録が残る場所”になる。
私は少し離れた位置からそれを見て、胸の奥で納得した。
神崎の紙が効くのは、真壁が一人だからだ。
一人で、胸ポケットの紙だけを見るからだ。
だったら、紙より先に“人の目”を置けばいい。
15:39
高瀬が来た。
雑用係みたいな地味な上着。手には白封筒。
でも今日は、庶務棚の前に佐々木さんがいる。
受領番号の台帳も開いている。
「受領番号をどうぞ」
佐々木さんの淡々とした声。
高瀬は一瞬だけ笑い、すぐにそれを引っ込めた。
「保全部です。至急です」
「はい。番号を」
前と同じやりとり。
前と同じ結末。
高瀬は封筒を引いて、置けないまま去った。
私は息を吐く。
ここまでは、予定通り。
16:47
駅務区画。
打合せ机に、真壁、篠原、佐々木が座る。
真壁の顔は明らかに不機嫌だ。
「こんな時に、いま?」
「いまです」篠原が短く返す。
「庶務便を戻した以上、17時台の確認も今やるべきです」
佐々木さんはもう議事メモを開いている。
逃げ道はない。
これは、正式な打合せだ。
私は区画の外、掲示板の前に立っていた。
中に入らない。
真壁の視界に、私は余計なノイズだ。
今日はただ、時計だけを見る。
16:52
真壁のスマホが震えた。
机の上。
光る画面。
『Kanzaki』
胸が一気に跳ねる。
取るな。
取らないでくれ。
私は祈るみたいに息を止めた。
真壁の指が、ほんの一瞬だけスマホの方へ動く。
でも佐々木さんのペン先が紙を叩いた。
「真壁さん、ここの導線、中央柱から壁沿いに振るでいいですか」
庶務の声。
記録の声。
真壁の指が止まる。
「……ああ」
短く返事をして、スマホは裏返される。
出ない。
胸の奥で何かが、静かに外れた。
でも、すぐには安心できなかった。
神崎は一回で引かない。
案の定、数秒後、もう一度震える。
真壁は画面を見る。
今度は通話じゃない。
メッセージの通知。
画面の上部に、数文字だけ浮かぶ。
始末書の写し——
胸がひやりとした。
やっぱりだ。
音と映像が切られた次は、始末書。
でも今日は打合せ中だ。
真壁はその通知を見ても、手を伸ばさない。
画面が暗くなる。
議事メモの紙と、篠原の声と、佐々木さんのペン先が、神崎の文字を今だけ押し戻している。
16:58
打合せが終わる。
真壁が立ち上がる。
スマホを手に取る。
画面を見る。
顔色が少しだけ変わる。
でも、その直後に篠原が紙を一枚渡した。
駅内安全確認メモ。
前に差し替えた時と同じ文だ。
真壁はそれを受け取り、胸ポケットへ入れる。
スマホはズボンのポケット。
位置が逆だ。
今日は、神崎の文字より先にこちらの紙が胸へ入った。
17:18
藤崎が来る。
鏡面広告板の前で、一拍。
袖から腰ポーチへ銀の筒。
顔が一般導線へ向く。
篠原の左手が下がる。
警察が出る。
今度も早くない。
鏡板に肘が当たり、ガン、と音が鳴る。
私は振り返らず、壁沿いへ声を出す。
「そのまま前へ! 止まらないでください!」
波は小さい。
でも藤崎は、またぎりぎりで抜ける。
それでも、抜けた先の一般導線は今日さらに静かだった。
16:52の電話を取らせなかったぶん、真壁の一文が最初から立っている。
それが、人の流れに効いている。
17:20
火災報知器が鳴る。電子音。
真壁がマイクを取る。
一拍。
胸ポケットに手。
スマホではなく、紙の位置を確かめる動き。
それから言った。
「火災報知です。係員の案内に従い、走らず壁沿いにお進みください。現場確認は後続班が行います」
胸が、熱くなる。
16:52の神崎の声を聞かなくても、言えた。
封筒がなくても。
直電を取らなくても。
メッセージの途中を見ても。
それでも、この一文を選べた。
人が止まらない。
押し合いが小さい。
中央柱の逆流も起きにくい。
駅が少しずつ、自分の足で立つみたいになってきている。
17:35
煙は上がった。甘い匂いも一瞬だけ強くなる。
それでも爆発の衝撃は来ない。
換気も放送も生きている。
私は喉が枯れるまで誘導しながら、胸の中で“始末書の写し”という文字だけを反復していた。
次は、そこだ。
音と映像の次は、文章。
神崎の武器は、また一段、小さくなった。
18:50
耳の奥で、アラームの気配が鳴り始める。戻る準備の音。
篠原が低く言った。
「16:52は切れた」
私は頷く。
「はい。真壁さんは出ませんでした」
飯田さんが短く息を吐く。
「議事メモつきの机は、やっぱ強えな」
私は少しだけ笑いそうになった。
神崎の声より、庶務のペン先の方が強い瞬間がある。
それは、少し救いだった。
篠原が続ける。
「でも次は“始末書の写し”ね。メッセージに出た以上、神崎はそれを次の武器にする」
私は頷いた。
「保安記録室にも、第二倉庫にもなかった。だから別の場所です」
胸の奥で、次の扉が鳴る。
小さくなる。
近くなる。
でも、切れる。
19:00
空気が薄くなり、視界が暗く落ちた。
7:02
アラーム。
私は飛び起き、胸の奥で二つの文字を並べた。
16:52。
始末書。
神崎の声は切れた。
次は、その文字だ。




