第26話 欠番の社内便
ループ26回目。今日の目的:高瀬が「保全部・至急」の白封筒を運べなくなる条件を作る。新変数:駅務区画の社内便には、本来、受領番号と佐々木の受領印が必要。
7:02
アラームの音で目を開けた瞬間、胸の奥で白い封筒の角が浮かんだ。
右上にぴたりと揃えられた角。
十五時三十九分。
高瀬が真壁の机に置く、“保全部・至急”の社内便。
前のループで、私はそれを差し替えた。
やれた。
でも、あれは綱渡りだ。
八秒の空白に身体を滑り込ませて、同じ厚み、同じ位置、同じ向きで置き直す。
一回なら通る。
でも、毎回それで乗り切るのは違う。
高瀬が封筒を運ぶこと自体を、普通じゃない状態にしないといけない。
ベッドから起き上がりながら、私は深呼吸をした。
封筒を止める。
でも流れは止めない。
それが今日の線引きだ。
7:30
警備詰所の前で、飯田さんが鍵束を鳴らしていた。今日も初対面の目。
だから入口の言葉は、もう迷わない。
「迷子は、守りたいです。あの時の後悔ごと」
飯田さんの指が止まる。
そのまま私は、本題へ入った。
「今日は社内便です。高瀬が真壁さんの机に置く白封筒、自分で届けられない形にしたい」
飯田さんが眉を寄せる。
「差し替えじゃなく?」
「はい。ルートを切ります」
飯田さんは少し考えてから、低く言った。
「駅務の社内便は、本来、庶務の佐々木が受ける。受領番号と印が要る」
胸の奥が静かに鳴った。
「受領番号?」
「白封筒を好きに持ち歩いていいわけじゃねえ。庶務棚の脇に受付票があって、持ってくる便には番号が振られる。佐々木が受領印を押して、そこから各机へ回す」
私は息を呑んだ。
つまり、高瀬がやっていたのは“庶務便を装った手渡し”だ。
正規の流れじゃない。
だから、正規の流れへ戻せば、高瀬は机まで入れない。
「佐々木さんを味方につけます」
「つけるっつうより、仕事に戻してやればいい」
飯田さんが短く言う。
「祭りでみんなバタついてるから、勝手便が通ってるだけだ」
8:00
危機管理課に電話を入れる。
短い声が返る。
「篠原」
「駅務の社内便、本来は佐々木さんの受領番号と印が必要です。高瀬はそこを飛ばして机まで持って行ってます」
向こうが一拍黙った。
「……なら、封筒じゃなくて“便の権限”を戻せばいい」
「はい。今日は差し替えません」
「分かった。庶務の流れを危機管理名義で元に戻す。八時五分はいつも通り押さえる。そのあと佐々木と話す」
8:05
掲示板前。
紙の貼り替え。高瀬の顎の傷。藤崎の手袋。
いつもの始まりが、今日も同じ順番で来る。
高瀬が掲示板脇の細い扉へ向かった瞬間、飯田さんが塞ぐ。
「そこは通さない」
「点検です」
「点検なら、なおさら通さない。今日は人が多い」
篠原が来て、狭い通路を開ける。赤いレバー。『設備点検モード』。
「今日は封鎖。触らせない」
高瀬のスマホが二音鳴る。
藤崎の肩がわずかに揺れる。
その揺れを横目に、私は今日は別の一文を追っていると自分に言い聞かせた。
白封筒は、午後だ。
9:20
駅務区画の奥、庶務棚の前で、佐々木さんは帳票の束を腕に抱えていた。
前のループで、私が名前を呼んで誤魔化した、あの人だ。
今日は誤魔化さない。
「佐々木さん」
彼女が顔を上げる。
「救急の……」
一瞬だけ覚えがあるような顔をしたけれど、すぐに消えた。初対面の目に戻る。
私は名札を見せたまま、篠原の一歩後ろに立つ。
篠原が短く言った。
「祭当日の安全確認で、庶務便を本来の受領運用に戻します。今日から“保全部・至急”も、必ず佐々木さんの受領印を通してください」
佐々木さんが目を瞬いた。
「いま? 今日? みんな走り回ってるのに?」
「だからです。誰が何を机へ置いたか、追えないのが一番危ない」
篠原の声は短い。揺れない。
佐々木さんは帳票の束を見下ろし、それから小さく息を吐いた。
「……実は、変だと思ってたんです」
その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「保全部・至急って封筒、最近は庶務棚を通らないことがあって。
でも“保全部なら急ぐだろう”って、みんな見て見ぬふりしてた」
やっぱりだ。
気づいていた人はいた。
ただ、忙しさの方が強かっただけだ。
「今日から戻しましょう」
篠原が言う。
「受領番号、受領印、各机への振り分け。いつもの手順で」
佐々木さんは頷いた。
その頷きが、思っていたよりずっと力強く見えた。
11:10
換気室。
巡回員のスマホが二音鳴る。
手がスイッチへ伸びる前に、篠原が遮る。
「封鎖。触るな」
巡回員は電話口で小さく言った。
「神崎さん、無理っす。危機管理が……」
換気は止まらない。
甘い匂いも薄いまま。
駅の“普通”は守れている。
今日の勝負は、その普通のまま、十五時三十九分を迎えられるかだ。
12:30
軽事故の交差点。
今日も群衆が膨らみ、スマホが向けられ、苛立った男が「救急車呼ぶほどじゃない」と吐き捨てる。
私は処置の補助をしながら、高瀬を探した。
いた。
輪の外。スマホ。二音。
そのあと、彼は駅務区画の方へ向かった。
庶務棚のある通路。
予定通りだ。
13:10
庶務棚の脇には、いつもは開きっぱなしの小さな引き出しがある。
今日は、その前に佐々木さんが座っていた。
受領番号票、青い受領印、社内便の台帳。
机に座るだけで、空気が変わる。
誰が見ても、“通す場所”になる。
「この番号票、今日は保全部も全部通します」
佐々木さんが言う。
「抜け道なしです」
私は頷いた。
たぶん彼女も、ずっと嫌だったのだ。
勝手便が、忙しさに紛れて机へ滑り込んでくる感じが。
15:37
駅務区画の廊下。
私は掲示板の前で避難導線図を見ているふりをする。
篠原は少し離れた机で、人員表を読むふり。
飯田さんは見える範囲の外、巡回に紛れている。
佐々木さんは庶務棚の前に座り、受領台帳を開いている。
全部、整った。
15:39
高瀬が来た。
雑用係みたいな地味な上着。手には白封筒が二通。
昨日と同じ。
でも今日は、庶務棚の前に佐々木さんがいる。
「受領番号をどうぞ」
佐々木さんが顔も上げずに言う。
高瀬の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……保全部です。至急」
「はい。だから番号を」
声が淡々としている。
怒っていない。
ただ、仕事の手順を言っているだけだ。
それが一番強い。
高瀬が笑った。
「いつも通り、真壁さんへ直接——」
「今日から戻しました」
佐々木さんが初めて顔を上げる。
「受領番号、受領印、庶務経由です。保全部も同じです」
廊下の空気が少しだけ硬くなる。
ヒヤリ。
ここで高瀬が押し切ろうとしたら、揉める。
揉めれば、“保全部・至急”の圧が周りを揺らす。
私は喉がひりつくのを感じた。
リカバー。
篠原が一歩だけ前へ出る。
「安全確認の一環です。例外は作りません」
高瀬の笑みが一瞬だけ薄くなる。
彼は封筒を見下ろし、それから佐々木さんの台帳を見る。
番号を書かないと通らない。
書けば、差出人と時間が残る。
残れば、神崎の好きな“曖昧さ”が消える。
高瀬は数秒黙ってから、封筒を引いた。
「……あとで来ます」
それだけ言って、踵を返した。
置けなかった。
真壁の机まで届かなかった。
胸の奥で、何かが静かに噛み合った。
15:50
真壁は席へ戻る。
机の右上には、白い封筒がない。
ほんの僅かに目が動く。
探している。
そのあと、自分の胸ポケットを無意識に指で押さえた。
空だ。
今日は、あの紙がまだ届いていない。
16:25
花火警備へ警察車両が流れる時間。
折返しの配置につく。
篠原は手前。
警察は死角。
飯田さんは一般導線の出口。
私は壁沿い。
そして今日、真壁の胸ポケットには神崎メモがない。
16:52
真壁の個人スマホが震えた。
『Kanzaki』
胸の奥がひやりとした。
やっぱり来た。
封筒が無理なら、次は直電だ。
真壁は画面を見る。
でも、今日はすぐには取らない。
周囲を見て、駅務区画の外へ一歩出てから、耳に当てる。
距離を取った。
つまり、これまでの“社内便の紙”とは別の重さがある。
封筒より、少しだけ露骨だ。
ヒヤリ。
まだ切れていない。
でも、形は変わった。
それで十分だ。次がある。
17:18
藤崎が来る。
鏡面広告板の前で、一拍。
袖から腰ポーチへ銀の筒。
顔が一般導線へ向く。
篠原の左手が下がる。
警察が出る。
今度も早くない。
鏡板に肘が当たり、ガン、と音が鳴る。
私は振り返らず、壁沿いへ声を出す。
「そのまま前へ! 止まらないでください!」
波は小さい。
藤崎はまた、ぎりぎりで抜ける。
でも、抜けた先の一般導線は今日さらに静かだ。
真壁の一文が、もう身体に馴染み始めている気がする。
17:20
火災報知器が鳴る。電子音。
真壁がマイクを取る。
一拍。
胸ポケットに手は行かない。
代わりに、ほんの短く目を閉じる。
それから言った。
「火災報知です。係員の案内に従い、走らず壁沿いにお進みください。現場確認は後続班が行います」
胸の奥が熱くなる。
紙がなくても言えた。
封筒が届かなくても、同じ一文を選べた。
もちろん、神崎は16:52に直電している。
でも少なくとも、“机に白い封筒が置かれる”あの儀式は切れた。
17:35
煙は上がった。甘い匂いも一瞬だけ強くなる。
それでも爆発の衝撃は来ない。
換気も放送も生きている。
私は喉が枯れるまで誘導しながら、胸の中で整理していた。
封筒は切れた。
次は、直電だ。
18:50
耳の奥で、アラームの気配が鳴り始める。戻る準備の音。
篠原が低く言った。
「高瀬は置けなかった」
私は頷く。
「はい。庶務の手順に戻しただけで、封筒は止まりました」
飯田さんが短く息を吐く。
「勝手便は、手順が戻ると弱いな」
私は少しだけ笑いそうになった。
神崎のやっていたことは、ずっと“忙しさに紛れた例外”だったのだ。
篠原が続ける。
「次は16:52の電話。封筒が切れたから、神崎は自分で真壁に触りにきた」
私は頷いた。
直電。
次の鎖は、音声だ。
封筒より短く、でもまだ切れるはずのもの。
19:00
空気が薄くなり、視界が暗く落ちた。
7:02
アラーム。
私は飛び起き、胸の奥で二つの時刻を並べた。
15:39。
16:52。
白封筒は切れた。
次は、神崎の声だ。




