第28話 未提出
ループ28回目。今日の目的:神崎が使う「始末書の写し」の正体を確定し、真壁を縛る最後の文章を崩す。新変数:正式な人事書類は、駅務区画ではなく総務保管で管理され、必ず赤帯封筒と受領記録が残る。
7:02
アラームの音で目を開けた瞬間、胸の奥で一つの言葉だけが硬く残っていた。
始末書。
神崎が真壁へ送ってきた、あの四文字。
昨日のループで分かったことは大きい。
15:39の白封筒は、庶務の受領番号と印を戻すだけで止まった。
16:52の直電も、議事メモ付きの打合せ机に真壁を座らせることで切れた。
その結果、真壁は神崎の声を聞かなくても、17:20に正しい一文を言えた。
でも、16:52のあとに届いたメッセージには、まだ刃があった。
始末書の写し——
その文字だけで、真壁の顔色は変わった。
なら、次に切るべきはそれだ。
音でも映像でもない。
もっと小さくて、もっと直接に、胸の内側へ刺さる文字。
ベッドから起き上がりながら、私は息を整えた。
それが本当に“始末書”なのかどうか。
そこからだ。
7:30
警備詰所の前で、飯田さんが鍵束を鳴らしていた。今日も初対面の目。
だから入口の言葉は、もう迷わない。
「迷子は、守りたいです。あの時の後悔ごと」
飯田さんの指が止まる。
私はすぐ、本題を置いた。
「始末書の写し、本当に正式書類だと思いますか」
飯田さんが眉を寄せた。
「……人事の紙って意味なら、駅務じゃ触れねえ」
「触れない?」
「正式な人事書類は総務保管だ。駅の記録室じゃなく、総務の施錠キャビネット。
封筒も違う。白じゃなく赤帯。受領記録も残る」
胸の奥が静かに鳴った。
赤帯。
受領記録。
つまり、神崎が真壁へ送っていた“始末書の写し”が本物の人事書類なら、駅務の外に痕跡があるはずだ。
「三年前の事故の後、真壁さん宛てに赤帯の封筒、見ましたか」
私が訊くと、飯田さんは少し考えてから首を横に振った。
「見てねえ。少なくとも、駅務の中で回った覚えはない」
その一言で、喉の奥が少しだけほどけた。
本物じゃない可能性が出た。
それだけで、次の扉が開く。
「総務を見ます」
「篠原に頼め。警備じゃ人事キャビネットは開けられねえ」
8:00
危機管理課に電話を入れる。
短い声が返る。
「篠原」
「今日は総務保管です。三年前の事故の後、真壁さんに正式な始末書処分が出たのか見たい」
向こうが一拍黙った。
「……やっとそこへ来たわね」
「飯田さんが、正式人事書類は赤帯封筒と受領記録が残るって」
「そう。なら、あるなら総務。ないなら、神崎の“写し”は別物」
言い切る声だった。
「八時五分はいつも通り押さえる。そのあと総務へ行く。祭当日の安全確認で、人員対応履歴の参照申請を切る」
「お願いします」
8:05
掲示板前。
紙の貼り替え。高瀬の顎の傷。藤崎の手袋。
いつもの始まりが、今日も同じ順番で来る。
高瀬が掲示板脇の細い扉へ向かった瞬間、飯田さんが塞ぐ。
「そこは通さない」
「点検です」
「点検なら、なおさら通さない。今日は人が多い」
篠原が来て、狭い通路を開ける。赤いレバー。『設備点検モード』。
「今日は封鎖。触らせない」
高瀬のスマホが二音鳴る。
藤崎の肩がわずかに揺れる。
計画変更の合図。
でも今日は、その先の火花より、もっと小さい紙の方が怖い。
私はそう思いながら、視線だけを戻した。
9:20
市役所の総務保管室は、駅務区画よりさらに乾いた空気をしていた。
紙とインクと、年季の入ったキャビネットの金属臭。
篠原が申請書を出す。
担当の女性が目を通し、少し迷ってから奥の鍵付きキャビネットを開けた。
「人員対応記録は、こちらです。事故関連なら年度別」
淡々とした声。
この部屋では、個人の痛みも“年度別”になる。
それが少し怖かった。
三年前。建国記念祭。
真壁の名前。
私は喉が鳴るのを押さえながら、篠原の手元を見た。
ファイルの中には、確かに真壁に関する書類があった。
でも、表紙の見出しは“始末書”じゃない。
経緯確認書(下書)
その右上に、赤いスタンプが押されていた。
正式提出不要
胸の奥が大きく鳴った。
喉がひりつく。
始末書じゃない。
しかも、正式提出不要。
つまり、真壁が一度書きかけた“説明の下書き”であって、処分文書ではない。
篠原がページをめくる。
そこには真壁の手書きがあった。まだ若い字。少し乱れている。
『火事だと思った。急がせないと死ぬと思った。どこへ逃がすかの指示が遅れた』
昨日までに読んだ内容の、もっと生の形だった。
その下に、総務の所見。
個人の過失のみとは認定せず。施設導線表示・現場配置・確認系統の不備あり。
処分:口頭注意にとどめる。始末書提出見送り。
息が止まる。
見送り。
始末書提出見送り。
神崎が使っていた“始末書の写し”は、本物じゃない。
下書きの一部か、そのコピーだ。
ヒヤリ。
嬉しいはずなのに、背中が冷える。
こんな単純な嘘に、真壁は何年も縛られてきた。
いや、嘘じゃない。
本当の一部だけを切った、いちばん厄介なやつだ。
リカバー。
私は必要な文を脳に刻む。
正式提出不要。始末書提出見送り。個人の過失のみとは認定せず。
これがあれば、真壁の胸ポケットの紙に穴を開けられる。
10:10
総務担当の女性が、別の薄い封筒を出してきた。
赤帯封筒。
表に、受領番号と押印がある。
「これが、当時の総務通知です。口頭注意のみ、っていう通知」
胸がひりつく。
本物の赤帯。
本物の受領記録。
真壁の“正式な処分文書”は存在しないどころか、正式には“口頭注意のみ”で終わっていた。
篠原が静かに訊いた。
「この写し、駅務区画へ持ち出せますか」
「閲覧はできますが、原本移動は不可です。コピーなら申請が要ります」
短いやりとり。
私はその間に、赤帯封筒の見た目と、押されている文言を焼き付けた。
人員対応通知/口頭注意のみ
それだけで、神崎の紙がだいぶ軽く見えた。
11:10
換気室。
巡回員のスマホが二音鳴る。
手がスイッチへ伸びる前に、篠原が遮る。
「封鎖。触るな」
巡回員は電話口で小さく言った。
「神崎さん、無理っす。危機管理が……」
換気は止まらない。
甘い匂いも薄いまま。
駅の普通は守れている。
そしてその普通の中で、今日は一つの“偽物”が剥がれた。
12:30
軽事故の交差点。
今日も群衆が膨らみ、スマホが向けられ、苛立った男が「救急車呼ぶほどじゃない」と吐き捨てる。
私は処置の補助をしながら、高瀬を探した。
いた。
輪の外。スマホ。二音。
そのあと、高瀬は駅務区画へ向かわず、一度だけ総務棟側の渡り廊下を見た。
胸の奥が冷える。
向こうも、“人事側の何か”を意識している。
神崎はどこまで知っているのか。
13:20
総務保管室の閲覧机で、篠原がコピー申請書を書いていた。
私は横で、真壁にどう伝えるかを考えていた。
“始末書はなかった”
それは事実だ。
でも、いきなりそう言っても、真壁は信じないかもしれない。
何年も胸ポケットの紙に縛られてきた人間が、急に軽くなれるとは思えない。
必要なのは、正しい紙だけじゃない。
それを“今ここで信じられる形”だ。
「赤帯のコピー、16時までに出る」
篠原が短く言う。
「それを真壁の前で見せる?」
私が訊くと、篠原は首を横に振った。
「直接突きつけると、反射で閉じる。
先に“神崎メモの方が正式じゃない”って気づかせる」
その言い方が、すごく現場的だった。
人は、正しい紙より先に、今持ってる紙の“偽物感”を理解した方が動きやすい。
15:10
サカイは今日も階段の手すりにもたれていた。手袋を落とす。私は拾って差し出す。
「落としました」
受け取りながら、サカイが小さく言う。
「見つかったか」
「始末書はありませんでした。正式提出不要、見送りです」
その瞬間、サカイの顔から血の気が少し引いた。
「……やっぱり、あれは脅しだったのか」
「本当の一部だけを切ってます」
「神崎さん、そういうの得意だ」
低い声。
怒りでもなく、吐き気みたいな諦めでもなく、もっと乾いた何か。
長く見てきた人の声だ。
16:25
花火警備へ警察車両が流れる時間。
折返しの配置につく。
篠原は手前。
警察は死角。
飯田さんは一般導線の出口。
私は壁沿い。
そして篠原のクリアファイルの中には、赤帯通知のコピーが一枚入っている。
16:50
駅務区画の打合せ机。
真壁、篠原、佐々木。
議事メモ。
前のループと同じ形。
私は区画の外、掲示板の前に立つ。
入らない。
今日は最後に、篠原がひとつだけ言うことが決まっている。
16:52
真壁のスマホが震える。
机の上。
光る画面。
『Kanzaki』
一度、通話。
真壁は出ない。
数秒後、メッセージ通知。
画面上部に浮かぶ文字。
始末書の写し——
胸の奥がひやりとする。
でも今日は、その先がある。
真壁の指がスマホへ伸びる前に、篠原が低く言った。
「真壁さん。その“始末書”、正式処分文書じゃありません」
空気が止まる。
真壁の指が画面の上で止まる。
「……何?」
「総務記録を確認しました。正式提出不要。処分は口頭注意のみです。
その写しは、下書きの切り抜きです」
佐々木さんのペンが止まる。
真壁の顔から、色が抜ける。
それは怒りじゃない。驚きでもない。
もっと深いところが、一瞬で空いた顔だ。
ヒヤリ。
ここで閉じるかもしれない。
“そんなはずがない”って、逆に固まるかもしれない。
私は喉が焼けるように痛むのを感じながら、掲示板の前で動かない。
リカバー。
篠原は追い打ちしない。
代わりに、クリアファイルから一枚だけ紙を抜いて、机の上に置いた。
赤帯封筒のコピー。
口頭注意のみの通知。
「終わったあとで読んでください。今は導線です」
短い声。
真壁は紙を見たまま、何も言わない。
でも、スマホの画面は暗くなった。
メッセージを開かないまま。
17:18
藤崎が来る。
鏡面広告板の前で、一拍。
袖から腰ポーチへ銀の筒。
顔が一般導線へ向く。
篠原の左手が下がる。
警察が出る。
今度も早くない。
鏡板に肘が当たり、ガン、と音が鳴る。
私は振り返らず、壁沿いへ声を出す。
「そのまま前へ! 止まらないでください!」
波は小さい。
藤崎はまた、ぎりぎりで抜ける。
でも、今日は音のあとも、人の波がほとんど戻らない。
17:20の声が、もう身体に入り始めている。
17:20
火災報知器が鳴る。電子音。
真壁がマイクを取る。
一拍。
今日は胸ポケットじゃない。
打合せ机に置かれた、赤帯通知のコピーを見る。
それから言った。
「火災報知です。係員の案内に従い、走らず壁沿いにお進みください。現場確認は後続班が行います」
胸の奥が熱くなる。
神崎のメッセージを開かずに、言えた。
しかも今日は、胸ポケットの紙すら触らない。
本物の紙を一度見たからだ。
それだけで、人の身体の向きだけじゃなく、真壁の背筋まで少し変わったように見えた。
17:35
煙は上がった。甘い匂いも一瞬だけ強くなる。
それでも爆発の衝撃は来ない。
換気も放送も生きている。
私は喉が枯れるまで誘導しながら、胸の中で繰り返していた。
正式提出不要。
口頭注意のみ。
たったその二行で、人は何年ぶんか軽くなることがある。
18:50
耳の奥で、アラームの気配が鳴り始める。戻る準備の音。
篠原が低く言った。
「今日は開かなかった」
私は頷く。
「はい。メッセージを見ませんでした」
飯田さんが短く息を吐く。
「紙より強えのは、やっぱ本物か」
私は少しだけ笑いそうになった。
本物は、派手じゃない。
でも、ちゃんと効く。
篠原が続ける。
「次は真壁に、自分から神崎の紙を捨てさせる」
私は頷く。
そこまで行けば、鎖はかなり弱る。
でも、まだ終わりじゃない。
神崎はきっと次の材料も持っている。
だから、こっちも次へ行く。
19:00
空気が薄くなり、視界が暗く落ちた。
7:02
アラーム。
私は飛び起き、胸の奥で赤帯の封筒を思い出した。
正式提出不要。
口頭注意のみ。
神崎の文字は、もう絶対じゃない。
次は真壁の手で、それを捨てさせる。




