第434話 古参の勘
津田義弘が白いサムライ・スーツへもう一度身体を通したのは、医師から「装着試験」という限定付きの許可が出た日の午後だった。戦闘復帰ではない。出力は通常の四割以下、武装系統は完全にロック、都市戦用ブレードも装着不可、I2Hも訓練モード、膝部補助機構は医療用設定のまま。立って、歩いて、関節補助の反応を確かめ、それで終わりという約束だった。それでも、長い入院生活のあとで自分の身体へ装甲が閉じていく感触は、義弘にとって少し懐かしかった。胸部装甲が固定され、白い外殻が肩から腕へ沿い、膝の補助機構が低い作動音を立てる。昔なら何も考えず立ち上がっていた重量なのに、今は一度呼吸を整えなければならなかった。それを隣のベッドからチャールズ・ブラウンが興味深そうに眺めている。
「どうです?」
「重い」
「以前も同じ重量だったのでは?」
「俺が軽くなったんだよ」
義弘はベッド脇の手すりへ手を置き、ゆっくり立つ。スーツの補助が入る。膝はまだ自分のものではないようにぎこちないが、支えられている感覚は確かだった。二歩。三歩。病室の端まで行って戻る。それだけで額に薄く汗が浮いた。
チャールズが端末を持ち上げる。
「休憩中に、昨日の映像でも見ますか」
「何の」
「新開市対日本国、途中からOCM参戦」
「試合名みたいに言うな」
「配信タイトルがそうでしたので」
画面には前回の騒動が映っていた。《復旧保全共同隊》の防衛線へ突っ込む民間アリス系ドローン。工事区域を飛び越えるサムライ・ヴィラン。JX-01《REGALIA》が大型機を壊さず持ち上げて境界外へ置き、その後からヴェラ率いるOCM海外部門が入り、観客の歓声がさらに大きくなる。コメント欄には「第二ラウンド」「OCM参戦」「新開市勝て」「REGALIA強すぎ」といった言葉が流れ続けていた。
義弘はしばらく黙って見たあと、深く息を吐いた。
「本当にどうしようもないな、この街は」
「嬉しそうですね」
「嬉しくねえよ」
「口元が」
「気のせいだ」
義弘は椅子へ腰を下ろす。白い装甲の膝が小さく軋んだ。
「真面目な奴ほど苦労する」
チャールズは画面から義弘へ視線を移した。
「アリスさんのように、ですか?」
「そうだな」
「大泉晴翔は、あまり苦労していなさそうでしたが」
義弘が少し笑う。
「極端に走る奴ほど、この街には適応してんのさ」
「興味深い表現ですね」
「褒めてねえ」
「分かっています」
義弘はまた画面を見た。そこではマティアス・ヴァン・ローンが作った《復旧保全共同隊》の線が、一度は新開市の挑戦者たちに突破されている。御厨綴はその危険を《LEDGER》で予測し、そしてまた独断でヴェラを呼んだ。どちらも悪意ではない。むしろ二人とも、新開市の中では珍しいほど真面目な人間だった。街を直したい。危険を減らしたい。責任を残したい。人を殺したくない。そのために頭を使い、必要な仕組みを作っている。
義弘は眉を寄せた。
「……まずいな」
「何がです?」
「真面目すぎる」
「それは悪いことですか」
「この街じゃ、たまに」
チャールズは少し笑った。
「会いに行くんですか?」
「何で分かった」
「顔です」
「最近みんな顔で読むな」
*
当然、医師は嫌な顔をした。
「装着許可と外出許可は別です」
「知ってる」
「ましてサムライ・スーツで街へ出る許可ではありません」
「移動補助だよ」
「車椅子があります」
「それだと格好つかない」
「リハビリに格好は関係ありません」
トミーが病室の椅子の上から言う。
「正論」
「お前どっちの味方だ」
「膝」
「人じゃねえのか」
結局、義弘はスーツの出力制限を維持し、戦闘行為をしない、走らない、跳ばない、長距離を歩かない、異常が出たら即座に戻るという条件で外出を許された。トミーが監視役として付く。そこへ話を聞きつけたアリスがやってきた。
「私も行く」
「お前、仕事は」
「後で」
「後でじゃねえだろ」
「ちょっとくらい」
「王冠解体どうした」
「やってる」
「じゃあやれ」
「義弘!」
その瞬間、病室の扉が開いた。
三岐透子だった。
アリスの顔が止まる。
「……何」
「アリス」
「何」
「権限移管表の第三段階確認」
「後で」
「昨日も後でと言いました」
「今日は義弘が――」
「津田さんはリハビリです」
「だから心配」
「あなたは特別調停官権限の返還工程を三日遅らせています」
「二日」
「今日中に終わらなければ三日です」
アリスが一歩後ろへ下がる。三岐が一歩詰める。
「自分で期限を決めたのは誰ですか」
「……私」
「延長不可にしたのは」
「私」
「理由は」
「勝手に伸ばすと王冠残るから」
「理解しているなら行きます」
三岐がアリスの腕を掴んだ。
「待って!」
「待ちません」
「義弘!」
義弘は立ち上がりながら言う。
「頑張れ」
「助けろ!」
「俺、リハビリ中」
「卑怯!」
トミーが義弘の肩越しから小さく前脚を振った。
「行ってらっしゃい、女王陛下」
「女王じゃない!」
三岐に連行されていくアリスの声が廊下の向こうへ消えた。義弘は少しだけ気の毒そうに見送ったあと、トミーへ視線を落とす。
「行くか」
「今の見てから?」
「だから行くんだよ」
*
マティアスは、本当に煮詰まっていた。
復旧事務局の仮設会議室には、新開市の都市図、工事区域図、機体配置図、前日の騒動ログが何枚も並び、中央の大型画面には《RESTORATION BASELINE》が何重にも表示されていた。一枚目の保全線。二枚目の作業境界。大型機の待機位置。サムライ侵入時の追跡経路。民間ドローンの飛行制限。群衆の迂回路。どれだけ壁を増やしても、昨日のような相手が来ればどこかへ負荷が集中する。
「入口を増やせば人が散る。でも管理点も増える。機体増やせば挑戦者が喜ぶ。壁厚くしたら壁そのものが目標になる。何なのよ、あの街」
助手が言う。
「ここも新開市です」
「知ってるわよ!」
その時、扉が開いた。
「忙しそうだな」
マティアスは顔も上げずに言った。
「今忙しいの!」
「じゃあ帰るか」
「そうして――」
顔を上げる。
白いサムライ・スーツ。短い黒髪。顔の傷。杖代わりに壁へ軽く手を添えながら立っている男。
マティアスの目が変わった。
「津田義弘?」
「そうだけど」
「入って」
「急だな」
「座って」
「帰れって言っただろ」
「今変えたの」
義弘が苦笑しながら椅子へ座る。トミーも机の端へ飛び乗った。
「都市戦の話できる?」
「俺は今、戦闘禁止なんだけどな」
「口は動く」
「それはそう」
マティアスは遠慮なく昨日のデータを広げた。《復旧保全共同隊》の配置、最初の民間アリス系による突破試行、サムライ・ヴィランの参戦、工事停止。その後のOCM増援まで全部見せる。
「どう思う?」
義弘は黙って図面を見る。五分近く何も言わない。マティアスは途中で口を挟みかけたが、義弘の目が真剣だったので待った。
やがて義弘が言う。
「壁ばっかだな」
「は?」
「ここも止める。ここも塞ぐ。ここも拘束。ここも境界」
「工事区域なんだから当然でしょう」
「全部、一枚目で勝とうとしてる」
「抜かれたら工事止まるのよ」
「だから」
義弘は画面の一番外側の線を指でなぞった。
「抜かれてもいい場所作れ」
マティアスが黙る。
「何それ」
「全部を境界で止めようとするから、境界が勝負になるんだよ。昨日の連中だってそうだろ。ここ越えれば勝ちって、勝手にルール作った」
「それはあいつらが馬鹿だから」
「馬鹿でも来るなら対策しなきゃ同じだ」
「じゃあどうするの」
義弘は図面上の第一線を指す。
「ここ」
「保全線」
「抜かせる」
「嫌」
「話聞け」
次に、その奥の広い空き区画へ指を移す。
「ここ何もないだろ」
「資材仮置き予定」
「危険物置くな。空けとけ」
「何に使うの」
「抜けた奴をここへ流す」
さらに奥。
「ここで二つに分ける」
「何を」
「人と機械。速い奴と遅い奴。見物と本気。全部同じ線で止めるな」
マティアスの顔から苛立ちが消えていく。
義弘は続ける。
「一枚目越えたからって、工事核心へ真っ直ぐ行けるようにする必要ない。第二線、第三線を作る。第一線は警告と誘導。次は空地。次は保全機。最後に工事核心。途中で逃げ道も作る。帰りたい奴は帰す。抜けたと思っても、危ない場所へ直結しない」
「縦深……」
「そういう言い方もするな」
義弘は別の図を引き寄せる。
「壁は越えられる」
一拍。
「でも奥行きは、一回越えただけじゃ終わらない」
マティアスは椅子へ座り直した。目が都市図へ吸い付いている。
「固定線じゃなくていいのね」
「場合による」
「人数で変える」
「そう」
「工事進捗でも」
「そう」
「市場が開いてる時間と閉まってる時間でも変える」
「そうだな」
「デモが南から来るなら一線をずらす。サムライが混じったら垂直移動も前提にする。大型機が来たら空地を増やす。生活動線を潰さず、核心部へ向かう経路だけ何層にも曲げる」
「おい」
「何」
「俺、そこまで言ってないぞ」
マティアスはもう聞いていなかった。画面上の線を消し、新しい領域を重ねる。固定された《BASELINE》ではなく、その時その時の人数、機材、工事段階、住民動線、危険度によって区域を組み替える運用構造。第一線が抜かれること自体を失敗としない。第二、第三の領域が前提として存在する。
「設計図」
マティアスが呟く。
「何」
「その時の街を毎回描き直すの」
新規ファイルを開く。
《BLUEPRINT》
義弘が眉を上げた。
「もう名前ついたのか」
「《BLUEPRINT》」
「そのままだな」
「分かりやすいでしょう」
マティアスは画面に新しい構造を書き始める。
「一枚の壁じゃない。街を止める壁でもない。その瞬間に必要な形を描く。第一線を越えたら第二線が開く。人の流れで保全機が移る。工事が進んだら核心部も動く」
「便利そうだな」
「でしょう?」
義弘は少し黙った。
「だから気をつけろ」
マティアスの手が止まる。
「何に」
「便利なの作った時ほど、一回離れて見ろ」
「どうして」
義弘は椅子の背へ身体を預けた。
「この街、真面目な奴ほど極端にするから」
「何を?」
「正しいこと」
マティアスは数秒、義弘を見る。
「私が極端?」
「まだ知らん」
「失礼ね」
「だから言いに来た」
「どうすればいいの」
「たまに人に聞け。地図じゃなくて」
「それだけ?」
「それが一番面倒なんだよ」
マティアスは少し笑った。
「覚えとく」
「忘れんなよ」
*
次に向かったのは御厨綴のところだった。
二度の独断行動の結果、御厨はアライアンスの正式な現場強制措置からかなり距離を置かされていた。《Qbs.Bm.》の単独直接指揮権はなく、OCM海外部門との独自実働連携も明確に禁じられている。分析、企業調査、記録統合、《LEDGER》の研究は続けられているが、以前のように「危険を見つけたから、そのまま現場へ行く」ということはできなくなっていた。本人はいつも通り穏やかな顔をしているものの、周囲のアライアンス職員が少し距離を取っていることくらい、義弘にもすぐ分かった。
御厨は義弘を見ると、本当に少し嬉しそうな顔をした。
「津田義弘さん」
「知ってる?」
「当然です」
「その当然、嫌だな」
「以前からお話ししたかったんです」
「俺はちょっと嫌な予感する」
「なぜです?」
「頭いい奴に会うと最近ろくなことない」
御厨は笑って義弘を中へ通した。
「ちょうどいいものがあります」
「ほら始まった」
大型画面へ《LEDGER》が表示される。履行履歴、改善実績、企業責任、犯罪指数、社会的役割、現在行動、介入因果。さらに追加された反実仮想モデルまで、御厨は一つずつ説明していった。
義弘は意外なほど熱心に聞いた。
「これ便利だな」
「でしょう?」
「会社に欲しい」
御厨が少し止まる。
「会社?」
「俺、会長もやってるからな。取引先が契約守ったか、不祥事起こしたあと改善したか、経営者代わって責任切れてないか、全部追えるんだろ?」
「できます」
「投資先見るのにも使える」
「……資産運用」
「何だよ」
「犯罪予測の補助として作ったので」
「そっちより金になりそうだぞ」
トミーが横から言う。
「借金女王にも教えてやれ」
「それは絶対怒る」
御厨は少し複雑そうに笑った。
義弘は画面を見ながら続ける。
「ただ」
「はい」
「新開市民をこれで判断するのは、やめた方がいい」
御厨の表情が静かになる。
「なぜです?」
「ここの連中」
義弘は少し考えた。
「自分のこと、聞いてほしいんだよ」
「聞いてほしい?」
「そう」
義弘は窓の外を見る。そこには復旧中の新開市が広がっている。
「ヒーローは、自分が正義だって言いたい。ヴィランは、自分が悪党だって言いたい。配信者は見ろって言う。導線屋はこっちが面白いって言う。アリス派はアリスがどうだって叫ぶ。自治派は街は俺らのものだって言う」
「それぞれ違いますね」
「全部違う」
一拍。
「でも、自分が何者かは自分で言いたいんだ」
御厨は黙って聞く。
「誰かに外から、お前はこういう奴だって決められるの嫌うんだよ。特にこの街は」
「だから、挑戦する?」
「それもある」
「《復旧保全共同隊》が強いから、突破しようとした」
「強いもの見たら試す。それもある。でも、たぶん『お前らじゃ越えられない』って見えたのが気に食わなかったんだろ」
御厨の目が少し細くなる。
「つまり、決めつけへの反発」
「そんな難しく言うな」
「同じでは?」
「まあ同じか」
義弘は苦笑した。
「こいつは犯罪者。こいつは安全。こいつは信用できる。そういう完成した答えにしない方がいい」
「ですが、判断しなければ安全管理はできません」
「判断はしろ」
「では」
「答えにするな」
御厨が少し眉を寄せる。
「違いは?」
「明日変わると思っとけってことだよ」
義弘は画面を指す。
「今危ない。それなら止める。今大丈夫。それなら通す。でも、それで人間全部分かった顔するな」
「過去を消さず、現在行動を見る」
「そう」
「役割変更を認める」
「そう」
「再評価を継続する」
「お前、すぐ仕組みにするな」
御厨が僅かに笑う。
「職業病です」
「だから心配なんだ」
少し沈黙があった。
御厨は義弘を見る。元市長。サムライ・ヒーロー。企業会長。アライアンス所属。過去には政治判断の失敗もあり、都市戦での独断もあり、無茶も多い。それでも今の新開市で、アリスとは別の意味で多くの人間から信用されている。
「津田さん」
「何」
「あなたを《LEDGER》で見てもいいですか」
「もう見てるだろ」
「正式に」
「何する気だ」
「観察です」
「嫌な言い方」
「行動判断、経路選択、他者への反応、役割変更への対応。新開市を長く見てきた人の判断を知りたい」
義弘は少し考える。
「勝手にしろ」
御厨の顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「俺を正解にするな」
御厨が止まる。
「俺がやること全部正しいと思うな。昔から結構間違えてる」
「それも記録します」
「そこからかよ」
*
その後しばらく、義弘は御厨の施設内を歩かされた。正確には、義弘が歩くのを御厨が観察した。リハビリ目的も兼ねていたので、医師の約束には一応反していない。義弘はゆっくり廊下を進み、曲がり角で一度止まり、向こうから機材を運んでくる職員を先に通した。
《進路選択予測:右方向 72%》
義弘。
左。
曲がる。
御厨が見る。
「なぜ左へ?」
「右、荷物来てたろ」
「回避?」
「邪魔したくない」
次の分岐。
《最短経路:直進》
義弘。
止まる。
窓際にいた若い職員へ声をかける。
「それ、重いか?」
「え?」
「箱」
「あ、少し」
義弘は片側だけ持ち上げ、数メートル先の台まで運ぶ。スーツの補助出力は医療設定のままなので、ほとんど人力だった。
御厨が端末を見る。
《目的地到達時間:遅延》
「今の必要でした?」
「困ってたから」
「目的行動とは無関係です」
「人間そんなもんだろ」
御厨は入力する。
《周辺他者状態による行動目的変更》
義弘がそれを見る。
「だからすぐ項目増やすな」
「必要なので」
「必要か?」
「あなたの予測が外れました」
「別に当てなくていいだろ」
御厨は答えなかった。
次に、施設入口付近で、警備員が一人の旧ヴィラン経験者へ少し強い口調で確認を求めていた。義弘は歩みを止める。《LEDGER》は過去記録から、その男の危険指数をやや高く出している。
義弘は一度男を見た。
「今日は何しに来た」
「機材納品」
「そうか」
「何だよ」
「いや」
義弘は警備員へ言う。
「荷物確認だけでいいだろ」
「しかし過去に――」
「今日は納品だ」
男が少し驚いた顔をする。
義弘はそのまま歩く。
御厨が聞く。
「警戒しなかったんですか」
「した」
「なら」
「今は納品してる」
「危険可能性は」
「ある」
「それでも?」
「何かしたら止める」
御厨はまた入力する。
《現在行動優先》
《役割固定回避》
《過去情報保持・現在行動分離》
義弘が横目で見る。
「全部名前つけるんだな」
「記録するためには必要です」
「人の話聞けって言ったんだけどな」
「聞いていますよ」
御厨は本当にそう思っていた。
*
夕方、義弘が帰ったあと、御厨は《LEDGER》へ取得したデータを入れ直していた。歩行経路。視線移動。立ち止まった理由。周辺人物との関係。過去情報を保持しながら現在行動を優先する判断。相手を固定役割で扱わないこと。さらに、その場で他人へ声をかけることで自分の行動目的そのものを変える傾向。
《津田義弘 行動予測誤差:基準値超過》
御厨は画面を見た。
「予測できない?」
しばらく考える。
「……違いますねえ」
予測不能ではない。
変数が足りない。
義弘の行動は偶然ではなかった。荷物を避けた。困っている職員を手伝った。旧ヴィランを過去だけで判断しなかった。それぞれ理由はある。ただし、その理由が戦術、治安、最短距離、危険指数といった単純な分類の外から入ってくる。
なら。
もっと。
見る。
御厨は新しい分析層を追加する。
《周辺他者状態》
《社会関係》
《目的変更許容度》
《役割可変性》
《自己申告と現在行動の乖離》
《反発誘発係数》
《第三者行動による予測対象変化》
それでも。
義弘。
難しい。
御厨は少し笑った。
「面白いですねえ」
そして、別の問題へ目を向けた。
《LEDGER》は、人が次に何をする可能性が高いかをかなり細かく読めるようになっている。しかし、それを現場で使うには人間か機械が必要だった。以前はQbs.Bm.がいた。だがQbs.Bm.はアライアンスの機体であり、御厨のものではない。単独指揮も制限された。OCM海外部門を使えば動かせるが、それも禁止されている。
《LEDGER》は。
目。
だけ。
手。
ない。
御厨は画面へ簡単な人体モデルを出した。
歩行。
重心。
視線。
肩。
腰。
足。
武器を抜くなら、その前に重心が動く。走るなら、踏み出す前に身体が傾く。右へ逃げるなら、右足だけではなく視線と肩が先に動く。サムライであっても完全に予備動作を消すことはできない。
《LEDGER》が複数の次行動候補を表示する。
《右方移動:46%》
《後退:24%》
《上方移動:18%》
《現位置維持:12%》
御厨は、その右方移動地点へ仮想的な機体モデルを置いた。
一秒。
考える。
「人が」
一拍。
「次に行く場所が分かるなら」
仮想機体。
先。
動く。
「追いかける必要は」
小さく笑う。
「ありませんねえ」
新規設計ファイル。
開く。
《LEDGER / SUPPRESSION FRAME ― CONCEPT》
まだ骨格だけ。人間より少し大きい細身の機体。殺傷武装なし。高速追跡ではなく、先回りして位置を取ることを重視する脚部。多関節腕は武器ではなく、相手の重心を崩し、関節を傷つけず動作を止めるためのもの。展開式の小型遮蔽板。ソフト拘束ワイヤ。視線、筋肉予備動作、重心移動を読む近距離センサー。《LEDGER》から複数の予測位置を受け取り、最適な一点へ先に入る。
Qbs.Bm.とは違う。
Qbs.Bm.は、相手が使える行動そのものを減らしていく。
こちらは。
相手が選ぶ。
次。
読む。
そして。
そこ。
先。
取る。
《設計進捗:0.4%》
御厨はしばらく画面を見たあと、別ウィンドウに残った義弘の行動ログへ視線を移した。
《REFERENCE SUBJECT:YOSHIHIRO TSUDA》
《行動予測誤差:高》
御厨は少しだけ目を細める。
「まず」
一拍。
「この人ですねえ」
*
一方、マティアスもまだ帰っていなかった。
《BLUEPRINT》。
画面上で何度も線が動く。
第一線。
突破。
第二線。
開く。
群衆。
右。
流れる。
保全機。
移動。
サムライ。
垂直侵入。
なら。
第三線。
高さ。
変える。
工事核心。
移動。
する。
一枚の壁。
ではない。
複数。
領域。
重ねる。
抜けても。
次。
ある。
マティアスは義弘の言葉を思い出す。
『全部、一枚目で勝とうとしてる』
確かに。
その通りだった。
「一枚の壁じゃない」
マティアスは画面へ新しい層を追加した。
「街そのものを」
一拍。
「奥行きにする」
《BLUEPRINT》。
表示。
更新。
する。
*
病院へ戻った義弘は、白いサムライ・スーツを脱がされる頃にはかなり疲れていた。膝は痛むし、肩も重い。医師からは「今日は歩きすぎです」と怒られ、トミーからも「言っただろ」と追撃を受けた。
チャールズがベッドから尋ねる。
「どうでした?」
義弘は自分のベッドへ腰を下ろす。
「手遅れじゃない」
「それは安心しました」
「でも」
「はい」
義弘は天井を見た。
「頭いい奴に助言すんの、怖いな」
チャールズが笑う。
「理解されすぎましたか?」
「ちょっと違う」
義弘も苦笑した。
「違う意味に」
一拍。
「ちゃんと理解された」
「より危険ですね」
「だろ」
そこへ義弘の端末が鳴った。
アリス。
『終わった?』
「お前は?」
『終わってない』
背後から三岐の声。
『アリス、手を止めない』
『分かってる!』
「頑張れ」
『それしか言わない!』
義弘は少し笑った。
『二人、どうだった』
「真面目だった」
アリス。
数秒。
『それ怖い』
義弘。
「そうなんだよ」
通信の向こうで三岐がまた何か言い、アリスが怒鳴った。義弘は通話を切る。
チャールズが聞く。
「結局、お二人へ何を伝えたんです?」
「マティアスには、一枚の壁で全部止めるな」
「御厨さんには?」
「一つの答えで人を決めるな」
「良い助言です」
「そうなんだよ」
「問題が?」
義弘は目を閉じる。
「マティアスは」
一拍。
「もっと柔らかい壁を作り始めた」
「なるほど」
「御厨は」
一拍。
「もっと柔らかい答えを作り始めた」
チャールズは少し考えたあと、小さく笑った。
「あなたは正しい助言をしましたよ」
義弘は疲れた顔のまま答えた。
「それが怖いんだよ」
その夜、新開市では二つの新しい設計が静かに育ち始めていた。一つは、都市を一枚の境界で守らず、侵入されることさえ前提にして幾重もの奥行きをその場で組み替える《BLUEPRINT》。もう一つは、人間を一つの過去や一つの数字で固定せず、変化する現在行動を読み続け、その次の一歩へ先回りする《LEDGER》と、その判断へ自らの手足を与えようとする専用制圧機の青写真だった。
マティアスは、義弘から縦深を学んだ。
御厨は、義弘から人を見ることを学んだ。
そして二人とも、まだ知らなかった。
自分たちがこれからどれだけ精密な縦深を作り、どれだけ深く人間を読み、都市と人を数字と設計へ落とし込めるようになったとしても。
その二つを。
長い失敗と。
長い現場と。
長い付き合いの中で。
もう。
一人で。
やっている。
人間が。
この街には。
いた。




