第432話 工事を止めるな
アライアンスにとって、新開市は極めて重要な都市だった。ただし、それは新開市だけが重要だという意味ではない。中立インフラを維持するというアライアンスの仕事は、一つの都市を守り続けることだけではなく、必要な場所へ新しい回廊を伸ばし、既存の物流・通信・電力・医療支援網を繋ぎ直し、国家や企業の境界を越えて人間が最低限生きていける構造を増やしていくことでもある。極東方面を統括する《氷の母》は、その仕事の中心にいた。新開市ではいつも物静かで、アリスや義弘の雑談に付き合い、真鍋の愚痴を聞き、必要なら一杯の茶を前に長い協議にも応じるため、彼女が途方もなく多忙な人物であることを忘れさせるところがあった。だが実際には、彼女の端末には東南アジア沿岸部の新規中立物流網、中央アジアの電力中継設備、複数都市を接続する医療搬送ライン、海上CRADLE施設の増設、新規避難回廊の交渉案件が常に積み上がっていた。新開市は重要である。しかし世界には、新開市以外にも壊れかけている場所がいくらでもあった。
「新開市の定例報告です」
移動中の航空機内で、側近が端末を差し出した。
氷の母は資料を受け取る。御厨綴による独自行動の件、その後の権限制限、《LEDGER》の分析利用継続。マティアス・ヴァン・ローンによる復旧事業はおおむね順調。Qbs.Bm.は現地増強済み。高速機動隊と連絡要員も追加されている。
「御厨綴は?」
「強制措置に関する単独裁量を停止。分析・企業調査については継続しています」
「マティアスは?」
「前回の大規模デモを受け、工事動線と現場安全規則の改善案を準備中です」
「Qbs.Bm.の稼働状況は」
「問題ありません」
氷の母は数秒だけ考えた。
「では、新開市は現地体制で継続してください。重大な権限変更と、中立性に関わる事案だけ私へ」
「承知しました」
次の資料が表示される。新開市から千キロ以上離れた地域で、既存の避難輸送路が一国の政変に巻き込まれ、中立回廊として機能しなくなりつつあった。こちらは待てない。
氷の母は新開市の報告画面を閉じた。
見捨てたわけではない。むしろ逆だった。Qbs.Bm.を送り、専門家を二人置き、高速機動隊を増強し、連絡員まで厚くした。自分がいなくても動くようにしたのである。
ただし、組織の戦力が増えることと、氷の母本人がそこにいることは、同じではなかった。
*
その差に最初に気づいたのは、新開市で仕事を始めた企業たちだった。
天領機工の社内会議で、久我原総司はJX-01《REGALIA》の運用報告を見ながら眉を寄せていた。機体そのものの数字は悪くない。むしろ期待以上だった。大型構造物の支持、瓦礫撤去、仮設橋梁の設置、電力設備の搬送。戦闘ではなく都市復旧へ使ったREGALIAは、久我原が目論んだ通りの実績を積み上げていた。機体故障率も低い。現場からの評価も高い。
なのに稼働率が落ちている。
「ここ。先週から七・八ポイント落ちてる」
担当者が資料を確認した。
「機体不調ではありません」
「見れば分かる。原因は?」
「停止時間です」
「何の」
「人です」
久我原は顔を上げた。
「人?」
「デモ、配信者の工事区域侵入、導線屋による迂回路への無断誘導、住民との調整待ち。前回の大規模行進では三時間四十七分、完全停止しています。その後も一件につき十数分から一時間程度」
「……故障より面倒だな」
技術者が苦笑する。
「故障なら直せますから」
久我原は椅子へ背を預けた。企業としては当然の問題だった。REGALIAを一時間停止させても、機体の償却費は止まらない。技術者の人件費も、輸送費も、保険も止まらない。そして、もし配信者が大型機の足元へ入り込んだ状態で事故でも起きれば、責任だけは企業側へ来る。
「他社も同じか」
「はい。工兵ドローン会社、仮設電源、通信設備、物流。複数社から現場警備について協議したいと」
「まとめて話そう」
「アライアンスに?」
久我原は少し考えた。
「まずマティアスだ」
*
数日後、マティアス・ヴァン・ローンの前には、日本国企業十数社の代表が並んでいた。天領機工だけではない。都市設備、建設、通信、輸送、警備、ドローンメーカー。企業ごとに利害は違うが、この日に限って言うことはほとんど同じだった。
「共同警備体制を作りたい」
最初に提案した企業代表へ、マティアスは少し嫌そうな目を向けた。
「共同警備?」
「はい。各社で別々に現場を守るより、統一運用した方が効率的です。侵入者対応、デモ対策、設備警護、ドローン識別を一本化できます」
「誰が指揮するの」
「参加企業による協議体を想定しています」
「装備は?」
「各社提供。警備ドローン、非致死制圧装備、必要であればサムライへの対応能力も――」
「駄目」
マティアスが即答した。
会議室が少し静かになる。
「理由を伺っても?」
「日本企業ばっかりで新開市のインフラ直して、日本企業ばっかりで警備隊作って、その日本企業の警備隊が新開市民を工事現場から追い出すの?」
「表現としては極端ですが」
「絵面が最悪よ」
久我原が小さく笑った。
「そこは同意します」
別企業の代表が口を挟む。
「ですが、現状のままでは工事が止まります。我々は復旧費用を負担し、装備も人材も投入している。それでもデモが来るたびに大型機械を停止し、配信者一人が安全柵を越えれば全工程を止めなければならない。事故が起きれば企業責任です」
「分かってるわ」
「では代案を」
マティアスは黙った。
企業側の言っていることは間違っていない。むしろ、ここまで新開市民に配慮して工事を止めていること自体、企業としては相当我慢している方だった。久我原が机へ肘をつく。
「こちらも警備隊が欲しいわけじゃないんです」
「今そういう提案だったでしょう」
「欲しいのは、工事を止めなくていい環境です」
マティアスが久我原を見る。
「同じに聞こえるけど」
「違います。安全が保証されるなら、警備の形は何でもいい」
「企業の軍隊じゃなくて?」
「ない方がこちらも楽です」
久我原は平然と言った。
「兵士を雇うのも金がかかりますから」
「そういうところは正直で好きよ」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「承知しています」
*
マティアスは最初、既存組織を使う方法を探した。アライアンスの現地連絡員へ問い合わせる。返ってきた回答は慎重だった。
「復旧区域における常設警備力の増強については、新開市行政との協議が必要です。アライアンス高速機動隊は中立インフラへの重大脅威に対応しますが、一般的な工事区域警備を恒常的に代行するものではありません」
「じゃあQbs.Bm.を工事現場へ置くのは?」
「中立インフラに直接関係する現場であれば可能です。ただし民間企業の工事全般に配置するのは、中立性の観点から難しい」
「氷の母は?」
「現在、極東域外案件対応中です。重大案件であれば照会します」
「重大じゃなかったら?」
「現地判断となります」
次に真鍋。
「治安機関で工事現場全部見ろ?」
「言ってないわよ」
「顔が言ってる」
「少しだけ」
「無理」
「即答」
「私たちは街の治安を見る。工事現場の安全管理まで全部こっちへ持ってこられたら、警察じゃなくて工事会社になる」
「じゃあ企業警備隊」
「それも嫌」
「でしょうね!」
市行政。
「企業合同私兵化は避けたい」
「じゃあ警備」
「民間警備の範囲なら」
「サムライ・ヴィランが入ってきたら?」
「治安機関を呼んでください」
「到着まで工事停止?」
「安全上は」
マティアスは会議を終え、外へ出た。
「みんな正しい」
同行していた助手が言う。
「はい」
「全員正しいのに」
「はい」
「工事止まるじゃない!」
助手は何も言わなかった。
マティアスは前回の巨大デモを思い出した。正式ルートを無視して人が流れ、導線屋が「映える」という理由で群衆を工事現場へ近づけ、配信者がREGALIAの足元へ潜ろうとし、五メートルのMIKOSHIまで歩いてきた。あの時、アリスが来て人の流れを変えたから助かった。
だが。
毎回。
アリス。
呼ぶ。
のか。
それこそ、この都市がやめようとしていることではないか。
「……違うわね」
助手が振り向く。
「何がです?」
「現場を守ろうとするから、警備隊が必要になるのよ」
「では?」
マティアスは工事区域図を開いた。
「最初から」
一拍。
「危ないところへ入れないようにすればいい」
*
マティアスが作り始めたのは、軍事計画ではなかった。
工事規格だった。
《新開市復旧作業安全規格・暫定案》
工事区域と一般通行区域の物理的分離。住民用迂回路の確保。救急・消防経路の常時開放。デモや集会と工事区域が重なる場合の事前調整手順。取材・配信者向け撮影区域。企業ごとに違っていた工事用ドローン識別信号の統一。一般民間ドローンとの衝突防止。無断侵入に対する音声警告、物理障壁、非致死的排除という段階的対応。工事停止条件を明文化し、「人が近くに来たから全部止める」ではなく、どこまでなら安全に工程を継続できるかを定義する。
さらにマティアスは、自分が前回から拘っていた条件も入れた。住民説明会を行うこと。生活道路を奪う場合には迂回経路を先に整備すること。商店へのアクセスが失われる工事では補償を用意すること。既存コミュニティの維持に努めること。工事終了後には仮設物を撤去し、地域を元の生活へ返すこと。
内容だけを見れば、むしろ市民寄りだった。
ただし。
規格を守らせる人間が必要だった。
「各社から警備隊じゃなくて、作業保全要員を出して」
企業代表たちとの再会議で、マティアスは言った。
「警備じゃない?」
「警察じゃない。逮捕しない。捜査しない。デモを解散させない」
「では何を」
「工事区域を守る。危険な人を中へ入れない。入ったら外へ出す。事故が起きそうなら止める。設備が倒れそうなら支える」
久我原が頷く。
「指揮は?」
「企業ごとにやらせない。復旧事務局で統一」
「企業ロゴは」
「機体番号だけ。会社ごとの勝手な活動禁止」
「名称は?」
マティアスは少し考えた。
「《復旧保全共同隊》」
企業代表の一人が眉を上げる。
「軍隊っぽいですね」
「あなたたちが最初に警備隊作ろうって言ったんでしょうが」
久我原が笑った。
*
装備選定は、マティアスにとって楽しい仕事になった。
それが少し問題でもあった。
天領機工からはJX-01《REGALIA》。武装は不要。代わりに大型遮蔽パネル、非破壊拘束ワイヤ、瓦礫支持用アーム、緊急時に道路そのものを塞げる展開型バリケード。別の日本企業からは小型多脚工兵機。民間アリス系設計を応用した警備・誘導ドローン。通信会社からは工事区域専用ビーコン。別の重工メーカーからは大型機械を破壊せず固定できる磁気アンカー。
「これ、支持荷重あと二割上げられる?」
マティアスがREGALIAの仕様図を見ながら聞いた。
久我原。
「できます」
「拘束ワイヤ、対人じゃなくて大型ドローンにも使いたい」
「径を変えれば」
「狭路で展開できる?」
「脚部制御を書き換えます」
「殺傷武器は」
「不要」
「好きよ」
久我原は資料を閉じた。
「何度目でしょう、その言葉」
「仕事早い人好きなの」
「光栄です」
「それと、路面荷重もう少し下げて」
「そこは簡単ではありません」
「じゃあ好き半分」
「評価が変動制なんですね」
マティアスは笑った。
彼が欲しがっているものは一貫していた。殺す力ではない。持ち上げる力。押さえる力。支える力。動かないようにする力。道路を塞ぐ力。人間を傷つけず、進ませない力。
そしてそれは。
使い方を変えれば。
十分に。
制圧力。
だった。
*
アリスが新しい工事規格を知ったのは、試験区域へ通りかかった時だった。
道路の左右に新しい低い誘導柵が設置され、工事用ビーコンが一般ドローンへ迂回情報を送っている。上空には日本国企業製のアリス系警備ドローンが飛び、中央ではREGALIAが橋梁部材を保持したまま作業していた。
「……何これ」
マティアスが工事図面から顔を上げる。
「新しい安全規格」
「また勝手に」
「行政と協議中よ」
「じゃあ勝手じゃない」
「でしょう?」
アリスは少し悔しそうな顔をした。
「人」
「入れない?」
「工事中はね」
「デモ」
「安全ルートなら通れる」
「配信者」
「撮影区域からどうぞ」
「導線屋」
「勝手に経路変えたら保全隊が止める」
アリスは奥を見る。REGALIAの横に、非致死装備を搭載した複数の工兵・警備ドローンが待機している。
「これ」
「便利」
「でしょう?」
「便利」
一拍。
「すぎない?」
マティアスが笑った。
「便利だから作るのよ」
「それ」
「たまに危ない」
「何が」
「便利だから」
アリスはそれ以上うまく説明できなかった。
マティアスも、別に市民を追い出そうとしているわけではない。むしろ工事区域外には以前より広い歩行者通路があり、高齢者向けの休憩スペースまで設けられている。商店へのアクセスも残されている。安全性だけなら、前より遥かに高い。
「誰捕まえるの」
アリスが聞いた。
「誰も」
「サムライ入ったら」
「出てもらう」
「嫌って言ったら」
「保全隊」
「暴れたら」
「真鍋」
「うん」
アリスは少しだけ安心した。
「そこ」
「守って」
「何を」
「捕まえるの」
「私は都市研究者よ」
「だから心配」
「何でよ!」
*
御厨綴が暫定規格を読んだのは、その日の夕方だった。強制措置に関する権限を制限されてからも、彼女は《LEDGER》による分析と企業調査を続けている。反実仮想モデルはまだ試験段階で、画面の中では「介入しなかった場合」の推定が何度も更新されていた。
「人を止める仕組みですね」
御厨が言った。
マティアスは嫌そうな顔をする。
「違う」
「では?」
「危ないところに、人が来なくていい仕組み」
御厨は資料を読み直す。
「結果は似ていますねえ」
「違うわよ」
「どこが?」
「私は犯罪者を選んでない」
御厨の顔が僅かに変わる。
「なるほど」
「工事中なら誰でも入れない。過去がどうとか、犯罪指数いくつとか、関係ない」
「公平ですね」
「当然」
御厨は少し笑った。
「私も公平でありたいんですが」
「あなたは考えすぎ」
「よく言われます」
「今のところ、私の方が簡単」
「道路に線を引けば済みますからねえ」
「そうよ」
マティアスは地図を指した。
「ここから向こう、工事中。入らない。それだけ」
御厨はその線を見た。
「でも」
「何」
「その線をどこへ引くか決めるのは」
一拍。
「あなたですね」
マティアスの指が止まった。
「……今はね」
「ええ」
御厨はそれ以上何も言わなかった。
*
暫定運用初日、小さなデモが来た。
日本企業によるインフラ進出へ抗議する市民団体。参加者は二百人程度。前回の巨大行進と比べれば小さい。それでもプラカードと配信ドローンを持ち、何人かの導線屋らしき人物も混じっている。
「また来た」
現場スタッフが言った。
マティアスは時計を見る。
「工事止めない」
「人数増えたら?」
「規格通り」
デモ隊が工事区域へ近づく。以前なら安全確保のためREGALIAはそこで完全停止していた。
今回は止まらない。
誘導ビーコンが、一般歩行者とデモ参加者の端末へ迂回路を送る。工事区域脇には幅の広い通行帯が確保されており、そこからならREGALIAの作業も見える。配信者用の撮影ポイントまで設定されていた。
「日本企業は新開市を買うなー!」
「アライアンスの名を使うなー!」
「工事は止めんなー!」
一人、主張が混じる。
「どっちなのよ」
マティアスが呟く。
デモは流れる。
REGALIA。
作業。
続く。
そこへ一人の配信者が柵を越えた。
「近くで撮った方が――」
警告音。
『工事区域です。指定撮影位置へ移動してください』
「ちょっとだけ!」
小型保全ドローンが前へ出る。武器はない。配信者の進路へ低い可動柵を出し、工事区域とは反対側へゆっくり誘導する。
「触んな!」
『接触していません。後退してください』
「映えねえんだよ!」
保全要員。
「映えは安全区域でお願いします」
周囲。
少し。
笑う。
配信者。
結局。
戻る。
工事。
止まらない。
さらにデモ隊の一部が予定より工事側へ膨らもうとしたが、誘導帯が自然に人の流れを外側へ逃がす。狭い場所には最初から屋台や見物人が溜まれない配置になっている。導線屋が別ルートを示そうとしても、工事区域側には物理的に人波が入り込める余地がない。
四十分後。
デモ。
通過。
REGALIA。
作業。
継続。
停止時間。
ゼロ。
現場担当が思わず拍手した。
別企業の技術者も笑う。
「止まらなかった」
「でしょ」
マティアスは腕を組んだ。
「デモはデモ」
「工事は工事」
「両方やればいいのよ」
企業代表が頷く。
「正式規格化したいですね」
「まだ試験」
「十分成功では?」
「一回で決めない」
それでも。
マティアス。
嬉しい。
顔。
隠せない。
新開市民の一人が通行帯を歩きながら言った。
「前より分かりやすいな」
別の市民。
「工事どこまで入っていいか分かんなかったんだよ」
「配信場所もあるし」
「これならいいんじゃね」
マティアス。
聞く。
嬉しい。
企業。
満足。
市民。
一部。
満足。
事故。
ない。
工事。
止まらない。
成功。
だった。
*
だからこそ、次の要求は早かった。
「保全隊の権限をもう少し明確にしたい」
日本企業群から提出された追加案を、マティアスは翌日読んでいた。
「無断侵入者への物理的排除権限。大型ドローン侵入時の拘束権限。危険装備を持つサムライへの工事区域接近阻止」
「……まあ」
「必要では?」
「必要だけど」
「現場で真鍋さんを待っていたら、その間に事故が起きる可能性があります」
それも。
正しい。
「逮捕はしない」
「当然です」
「追跡もしない」
「工事区域外へ出れば治安機関へ引き継ぐ」
「殺傷装備なし」
「非致死のみ」
「企業の勝手な判断で使わない」
「復旧事務局の共通規格に従います」
マティアスは資料を見た。
少し前なら、「日本企業の共同警備隊」だった。
今は違う。
企業の兵隊ではない。
統一規格。
統一指揮。
企業ロゴ。
薄い。
逮捕。
しない。
でも。
道路。
止められる。
大型機。
拘束。
できる。
サムライ。
押し戻せる。
マティアスは自分の要求を書き加える。
《大型機を破壊せず停止可能な支持・拘束能力》
《人間への致命傷を避けた接近阻止能力》
《群衆へ圧迫を加えず通路を遮断可能な展開面積》
《旧市街狭路へ進入可能な脚部規格》
《都市設備を破損させず接続解除可能な多目的腕》
それを見た久我原が言った。
「だいぶ仕様が固まってきましたね」
「工事用よ」
「はい」
「本当に」
「もちろん」
久我原は一拍置く。
「少なくとも今は」
マティアスが顔を上げる。
「その言い方やめなさい」
「失礼しました」
*
暫定規格を正式化するには、アライアンス側の確認も必要だった。
現地連絡員は内容を読み込み、何度も質問した。中立性。企業装備の指揮系統。新開市行政との責任分界。治安機関との境界。規格そのものに致命的な問題は見つからない。
「本部判断は?」
マティアスが聞く。
「照会済みです」
「氷の母?」
「現在、別地域の中立回廊再編に入っています」
「いつ返事」
「重要度順に処理されます」
「これ重要じゃないの?」
「重要です。ただし、現時点で事故も違反も起きていません」
マティアスは天井を見る。
「成功してるから後回し?」
「端的には」
「嫌な理屈ね」
「組織ですので」
企業側からは早く正式化してほしいと連絡が来る。工事は進んでいる。次の大規模復旧区域も開けなければならない。住民説明会も予定されている。
「全部確認待ってたら」
マティアスは机を叩いた。
「何も直らないじゃない」
現地連絡員が答える。
「現行の委任範囲内で暫定運用を続けることは可能です」
「じゃあそうする」
「範囲を越えないでください」
「分かってるわよ」
「御厨綴も、同じようなことを言っていました」
マティアス。
止まる。
「それ今言う?」
「念のためです」
「私は夜中に企業軍連れて人の家囲まないわよ」
「そのままでお願いします」
*
夜。
マティアスは一人、新開市の都市図を広げていた。
復旧区域。
避難路。
市場。
居住区。
重要中立インフラ。
物流回廊。
電力設備。
デモの申請ルート。
工事車両の進入路。
全部。
一枚。
重ねる。
これまでの新開市は、何かが起きるたびに人間がその場で調整してきた。道路を曲げる。人を逃がす。別ルートを作る。アリスが来る。真鍋が怒鳴る。義弘が飛ぶ。誰かが無茶をして、誰かがそれを戻す。
それで。
生きてきた。
でも。
工事。
それ。
困る。
橋。
途中。
崩せない。
電力。
接続。
途中。
止められない。
大型機。
人。
来た。
だけ。
停止。
できない。
だから。
先に。
決める。
ここ。
通る。
ここ。
通らない。
ここ。
工事。
ここ。
生活。
ここ。
絶対。
止めない。
マティアスは地図の上に一本の太い線を引いた。
助手が隣から覗く。
「これは?」
「復旧基準線」
「名称ですか?」
「まだ仮」
「英語表記は」
マティアスは少し考えた。
「RESTORATION BASELINE」
助手が入力する。
画面の隅。
小さく。
《RESTORATION BASELINE》
表示。
される。
「ここからこっち」
マティアスは地図の片側を指した。
「何があっても」
一拍。
「工事を止めない」
「デモが来ても?」
「通せる道を作る」
「配信者が来ても?」
「撮れる場所を作る」
「サムライが来たら?」
「入れない」
「大型ドローンなら?」
「止める」
助手は少し考えた。
「かなり強い規格になりますね」
「街直すのに」
マティアスは地図を見る。
「毎回お祭りに負けてられないのよ」
*
遠く離れたアライアンスの新設中立回廊では、氷の母が現地政府と物流企業、医療支援団体の代表を前に長い協議を終えたところだった。夜を回っている。側近が次の報告を差し出す。
「新開市です」
氷の母は読む。
《暫定復旧保全規格 試験運用》
《工事停止時間:ゼロ》
《重大事故:ゼロ》
《市民との衝突:なし》
《企業側評価:良好》
《住民側苦情:軽微》
《正式運用承認申請:審査中》
氷の母はしばらく数字を見た。
「良い結果です」
「正式承認を急ぎますか」
「詳細確認後に」
「承知しました」
また別の通信が入る。
氷の母は新開市の報告を閉じた。
何も問題が起きていない。
むしろ。
改善。
してる。
だから。
今。
そこへ。
自分。
行く。
理由。
ない。
その判断自体は、間違いではなかった。
*
新開市では、その間にも工事が続いていた。
REGALIAが壊れた高架を支え、日本企業製の多脚機が路面を剥がし、民間アリス系設計を引き継いだ保全ドローンが一般通行帯との境界を巡回している。人々は新しい迂回路を歩き、デモをする者は指定ルートから工事を眺め、配信者は撮影区域から巨大機械を映した。
以前より。
安全。
以前より。
早い。
以前より。
分かりやすい。
マティアス・ヴァン・ローンは、その結果を見て自分が間違っているとは思わなかった。
間違っている理由がなかった。
街を壊していない。
人を追い出していない。
企業の私兵も拒否した。
住民説明もしている。
市場も守ろうとしている。
工事を止めないだけだった。
ただし、彼が作った《復旧保全共同隊》には、企業が提供した人員と機械が集まり始めていた。JX-01《REGALIA》。大型拘束機。アリス系警備ドローン。工兵機。通信支援機。都市設備解除用多腕機。それぞれ別の企業が作り、別の会社が所有し、今は復旧のためだけに並んでいる。
まだ。
軍隊。
ではない。
マティアスも。
そう。
思っている。
ただ。
もし誰かが。
あの機体群を。
一つの指揮系統で。
同じ方向へ。
動かしたなら。
大型ドローンを止められる。
サムライを押さえられる。
道路を封鎖できる。
建物を支配できる。
都市設備を切り離せる。
そういう力が。
もう。
形。
持ち始めていた。
その夜、マティアスの都市図には一本の線が残った。
《RESTORATION BASELINE》
ただの工事境界。
それだけ。
今は。
その線のこちら側では、人間も企業もデモも配信者も、街を自由に歩いてよかった。
向こう側では。
工事を。
止めては。
ならなかった。




