第424話 よく蒔く者は、よく刈り取る
大泉晴翔による一連の事件が終結してから、アライアンスが最初に行ったのは勝利の検証ではなく、失敗の数を数えることだった。KYO=KOTUが新開市の民間物流と保守網を根として増殖したこと。《MIKOSHI=NYUDO》が災害設備、変電設備、物流機器、通信設備といった都市機能そのものを身体へ変えたこと。その設計データが公開され、安全制約の欠落した模造機まで生まれたこと。そして最後の《大行列》では、原型には存在していたアライアンス管理資産への安全制約さえ、一部の派生個体には残っていなかった。恒久的な中立インフラ喪失はなかった。死者も最悪の想定より少なかった。アリスたちは晴翔を逮捕し、新開市は《大行列》を停止させた。結果だけを見れば、勝利と呼べた。
「結果として、です」
氷の母は、会議室中央へ投影された損害評価を見ながら言った。
正面に立つ分析担当官が僅かに姿勢を正す。
「はい」
「大泉晴翔は失敗しました。新開市は都市機能を維持しました。アライアンス中立資産にも恒久的損失はありません」
「その通りです」
「ですが、それは安全だったという意味ではありません」
氷の母は表示を切り替えた。新開市から伸びる物流、通信、燃料、バイオ・オイル、複数国家・複数組織が共有する中立回廊。新開市一都市の混乱が、この都市の中だけで完結しない理由がそこにある。
「新開市は、自分たちの街だけを支えているわけではありません」
「新開市側でも再発防止策が進行しています。MIKOSHI互換規格の調整、管理主体不明設備の洗い出し、緊急権限の解体――」
「承知しています」
氷の母は遮らなかった。ただ静かに続ける。
「アリスたちは、今回も適切に対応しました」
一拍置く。
「だからこそ、次も彼女たちが適切に対応できることを前提としてはなりません」
室内が静かになった。
「都市は、人間の幸運を安全装置にしてはなりません」
もう一度画面が変わる。そこには新開市の都市構造図と、晴翔に関係した人物・企業・設備・組織の関係図が並べて表示された。片方は街。片方は人。その双方が、晴翔という一人の人間に何度も入口を与えていた。
「今なら、まだ整えられます」
*
その会議から三日後、アライアンスの中立施設へ二人の専門家が招かれた。
一人目は日本人の女性だった。
御厨綴。
四十歳を少し越えた程度に見える。日本国の警察行政、司法制度、犯罪履歴管理、再犯防止、社会復帰政策に関わる複数部署を渡り歩き、制度設計と実務評価の両方で妙に名前の知られた人物だった。柔らかな色のスーツを着て、手には紙の資料と小さな湯呑み。顔だけ見れば、少し眠そうですらある。
「まあ」
御厨は最初の資料を開いた。
「大変でしたねえ」
言葉だけなら、親戚の見舞いにでも来たようだった。
だが、ページをめくる間だけ目が変わる。
鋭い。
KYO=KOTU。
大泉晴翔。
神代朔。
TEN=GU。
河島玄隆。
折原連。
アリス・ヴァーツラフコヴァー。
逮捕、復帰、役割変更、所属変更、武装解除、再許可、英雄化、ヴィラン化。
すべて目を通す。
「面白いですね」
氷の母が問う。
「何がでしょう」
「この街」
御厨は微笑んだ。
「人を戻すのが、とても上手です」
「問題がありますか」
「いいえ」
ページを一枚めくる。
「戻すのは大事ですよ」
また一枚。
「ただ」
眠そうに見えた目だけが、少し細くなる。
「戻した人が」
一拍。
「前に、どこへ座っていたかを」
「忘れすぎですね」
氷の母は答えなかった。
もう一人の男は、その会話をほとんど聞いていなかった。
「ちょっと」
大きな声。
「何これ」
マティアス・ヴァン・ローン。
オランダ出身。都市構造学、都市社会学、防災都市計画、交通設計、インフラ史を横断的に扱う研究者であり、同時に複数都市の復旧・再整備事業へ実務家として参加してきた男だった。大柄で肩幅が広く、研究者というより建設現場の監督者に見える。実際、本人も現場作業用の厚いジャケットを好んで着ている。
その大男が、新開市の都市図へ身を乗り出していた。
「ここ」
太い指が外縁区画を指す。
「道路よね?」
「都市計画上は」
担当官が答える。
「都市計画上は?」
「現在は市場と居住区の一部になっています」
マティアスが目を閉じた。
「何年」
「十四年」
「十四年!?」
御厨が湯呑みを置く。
「大きな声を出さなくても聞こえますよ」
「十四年よ!? ねえ、ここの送電線は?」
「後付けです」
「許可は?」
「一部のみ」
「この通信系統」
「複数民間規格の相互接続です」
「この避難道路の上に建物があるじゃない!」
「違法増築です」
マティアスは額を押さえた。
「よく晴翔一人で済んだわね、この街」
御厨が穏やかに訂正する。
「一人ではありませんよ」
「何」
「大泉晴翔さんは、かなりの部分で既存の人間関係や都市機能を利用しています」
マティアスが彼女を見る。
「それもっと悪いじゃない」
「ええ」
二人とも、少しだけ楽しそうだった。
氷の母は二人を見た。
「新開市を安定させてください」
御厨が顔を上げる。
「人から?」
マティアスが都市図から目を離さず言う。
「街から?」
「両方です」
御厨は軽く頷いた。
「承知しました」
マティアスは都市図を拡大する。
「まず現地を歩かせて」
「もちろんです」
「模型と数字だけで街直す奴、大嫌いなのよ」
御厨。
「あら」
「何よ」
「私は数字も好きですよ」
「知ってるわ」
「人も見ます」
「それも知ってる」
「なら仲良くできそうですね」
「まだ分からないわよ」
氷の母が言う。
「強制的な都市再編権限、司法権限、逮捕権限は与えません。新開市行政、治安機関、関係事業者と協議し、調査と改善提案を行ってください」
御厨。
「当然ですね」
マティアス。
「面倒だけど当然ね」
「また、現地活動中の護衛および必要な制圧能力については、アライアンスが提供します」
マティアスがようやく都市図から目を離した。
「何を貸してくれるの?」
施設奥の隔壁が開いた。
*
そこにいたのは、アリスの知るどの機体にも似ていなかった。
二機。
細長い楔形の主胴体。人型ではない。獣型でもない。前後の区別さえ一見しただけでは曖昧で、その下から六本の可変支持肢が伸びている。肢の先端部は用途に応じて形状を変え、床へ固定するアンカー、拘束具、電磁制圧端子、非破壊切断装置、荷重支持脚として働く。武器らしい武器が見当たらない。それでも、見ているだけで「近づきたくない」と思わせる機体だった。
《Qbs.Bm.》
側面へ小さく識別名が刻まれている。
「正式名称は」
氷の母が言う。
「qui bene serit, bene metet.」
御厨が機体へ近づいた。
「制圧ログを見ても?」
「どうぞ」
彼女は最初から火力も装甲も見なかった。端末へ表示された判断履歴、対象識別、制圧開始理由、危険度評価、解除条件を見る。
「あら」
嬉しそう。
「いいですね」
「何が」
「なぜ相手を止めたのか」
御厨は画面を指す。
「全部残る」
「はい」
「誰を。いつ。どの情報を根拠に。何を危険と判断して。どの程度まで制圧したのか」
「はい」
御厨は柔らかく笑った。
「いい子ですねえ」
一方、マティアスは床へしゃがみ込み、六本の肢を眺めていた。
「この支持荷重いくつ?」
「制圧機です」
氷の母が言う。
「聞いてないわ。支持荷重」
数字が伝えられる。
マティアスの眉が上がる。
「橋脚押さえられるじゃない」
「条件次第では」
「仮設建築の支持も?」
「可能です」
「災害時の倒壊抑止」
「本来任務ではありません」
「できるの?」
「できます」
マティアスは満足そうに笑った。
「いいわね、この子」
御厨。
「私と同じこと言っていますよ」
「見てるところが違うのよ」
「そうでしょうね」
氷の母は二人へ貸与条件を説明した。
「Qbs.Bm.の現地指揮権限を限定的に付与します。ただし、最終指揮権および停止権限はアライアンスが保持します」
御厨。
「当然ですね」
マティアス。
「嫌ねえ」
氷の母。
「問題がありますか」
「仕事の途中で、後ろから電源切られるの嫌いなのよ」
「必要なら切ります」
マティアスは氷の母を見た。
少し。
笑う。
「そういう人、好きよ」
氷の母は無反応だった。
御厨だけが楽しそうに湯呑みを持ち直した。
*
同じ頃、新開市ではアリスが自分の王冠を減らすことに苦戦していた。
「OU直接調整回線」
「保留です」
三岐透子が即答した。
「返す」
「返却先の正式外交調整窓口がまだ試験運用です」
「いつ」
「最短三週間」
「長い」
「一昨日始めたばかりです」
「もっと早く」
「復旧作業と同時進行です」
「頑張って」
真鍋が横から言う。
「お前も頑張れ」
「真鍋の治安連絡権限はもう返した」
「元から私の」
「だから返した」
「その言い方腹立つね」
祝部マコトは少し離れた席で、何故か《歯車の女王》のカードを指先で回している。
アリスが気づいた。
「それしまえ」
「何もしてない」
「見えてるだけで腹立つ」
「最高レアなのに」
「関係ない」
三岐が次の項目を表示する。
「外国代表団との緊急警備調整権」
「返す」
「これは移管できます」
「やった」
「ただし、現在の窓口整備が完了するまでは緊急連絡先としてアリス個人を副次登録――」
「やだ」
「必要です」
「王冠減ってない!」
「減っています」
「見えない!」
「権限は可視性で測るものではありません」
アリスが机へ突っ伏しかけた時、専用回線が開いた。
『アリス』
氷の母だった。
アリスは顔も上げず言う。
「王冠増やす話なら嫌」
『違います』
「なら聞く」
『新開市の中立インフラ安定性について、アライアンスは追加の専門調査を行います』
アリスの頭が上がった。
「聞いてない」
『今、伝えています』
「誰」
『二名の専門家を招聘しました』
「私に?」
『いいえ』
「……は?」
『新開市行政および関係機関と協働します。貴女に貸与する人材ではありません』
アリスは口を閉じた。
自分が望んだことだった。
何でもアリスを通さない。
行政は行政。
治安は治安。
アライアンスはアライアンス。
なのに。
なんとなく。
気に入らない。
祝部がニヤニヤする。
「女王、外されてる」
「うるさい」
『なお』
氷の母が続ける。
『貴女にも一度会っていただきます』
「なんで」
『調査対象の一人ですので』
アリス。
「……もっと嫌」
*
翌日、市庁舎の会議室で顔合わせが行われた。
刀禰ミコト。真鍋。三岐。アリス。アライアンスの担当者。そして御厨綴とマティアス・ヴァン・ローン。
御厨はアリスを見ると、柔らかく微笑んだ。
「初めまして」
「うん」
「資料では」
一拍。
「ずいぶんお会いしました」
アリスの眉が寄る。
「それ嫌」
「でしょうねえ」
「何見た」
「公開記録、司法記録、治安機関との共有範囲、アライアンス提供資料。最近ですと、広域ハック未遂、特別調停権限、《離席》制度、OUとの調整、《大行列》対応など」
「いっぱい見てる」
「はい」
「嫌」
「すみませんねえ」
口調は穏やかだった。
でも。
目。
違う。
笑顔。
変わらない。
でもアリスは、その目がこちらの反応を一つずつ拾っていることに気づいた。
何か。
この人。
嫌。
ただし、その「嫌」が晴翔とは全く違う。
晴翔は最初から、こちらが嫌がることを面白がっていた。
御厨は。
本当に。
観察。
してる。
だけ。
一方のマティアスは、まだアリスをほとんど見ていなかった。
窓。
外。
見てる。
「ねえ」
ミコト。
「はい」
「あの増築」
外縁寄りの高層構造へ太い指を向ける。
「許可は?」
「ありません」
「何年」
「十四年前から段階的に」
「十四年!?」
アリス。
「人住んでる」
マティアスが初めてアリスを見る。
「見れば分かるわよ」
「壊すなよ」
「まだ何も言ってないでしょう?」
「顔」
「失礼ね」
御厨。
「マティアスさん、よくそう言われますよね」
「あなたに言われたくないわ」
「私は穏やかですよ」
「目が怖いのよ、あなた」
真鍋が小さく息を吐く。
「濃いの来たね」
アリス。
「うん」
会議そのものは驚くほどまともだった。御厨は犯罪歴情報を単純なブラックリストへする案を明確に否定し、現在の行動評価と過去の責任記録を分離して扱うべきだと話した。マティアスも違法増築を即時撤去するのではなく、住民生活、災害動線、物流、既存コミュニティを現地確認した上で代替案を作ると説明した。
「要するに」
御厨が言った。
「過去を消さない。でも、過去だけで今を決めない」
アリスの表情が少し変わる。
「……それ」
「何か」
「悪くない」
「ありがとうございます」
マティアスも続ける。
「街も同じよ。昔の設計図が正しいとは限らない。でも、今あるから全部正しいとも限らない。両方見て決める」
義弘がいれば気に入りそうな話だった。
アリスも。
少しだけ。
警戒。
下がる。
その時だった。
窓の外、広場に待機していた二機の《Qbs.Bm.》へシュヴァロフが反応した。
*
会議後、アリスは広場へ出た。
《Qbs.Bm.》。
近くで見ると、余計に気持ち悪い。
「これ何」
氷の母は現地にはいなかったが、通信越しに答える。
『次世代制圧用ドローン、Qbs.Bm.です』
「アリス系?」
『いいえ』
「NECRO?」
『いいえ』
アリスが少し近づく。
シュヴァロフも一歩前へ出る。
黒い巨体。
背面の巨大腕。
警戒。
Qbs.Bm.は反応しない。
威嚇。
しない。
武器。
出さない。
ただ。
見てる。
アリスが眉を寄せる。
「こいつ嫌い」
マティアス。
「会って三分よ」
「顔ない」
「そこ?」
御厨はQbs.Bm.とシュヴァロフを見比べた。
「性能差を見ても?」
アリス。
「嫌」
マティアス。
「見たいわ」
「嫌」
通信の氷の母。
『接近制圧試験であれば、安全条件下で実施可能です』
「シュヴァロフ壊すなよ」
『Qbs.Bm.にも同様に命令します』
アリスはシュヴァロフを見る。
「嫌ならやらなくていい」
シュヴァロフ。
少し。
前。
出る。
「……やるの」
準備。
整う。
制圧範囲。
設定。
殺傷。
禁止。
恒久損傷。
禁止。
双方。
開始。
シュヴァロフの姿が消えた。
光学迷彩。
高速。
回り込む。
背部巨大腕。
展開。
いつものように、相手の視線外から一気に拘束距離へ入る。
Qbs.Bm.は追わなかった。
主胴体。
ほとんど。
動かない。
一本。
支持肢。
床。
触れる。
次の瞬間、シュヴァロフが着地しようとした地点へ小型拘束子が展開した。
アリス。
「え」
シュヴァロフ。
避ける。
伸縮ブレード。
出す。
その鞘部。
Qbs.Bm.の別肢。
挟む。
刃。
出ない。
「ちょ――」
背面巨大腕。
開く。
Qbs.Bm.の胴体下から電磁制圧端子。
一つ。
伸びる。
駆動。
一瞬。
遅れる。
その遅れ。
十分。
別肢。
関節。
固定。
シュヴァロフ。
跳ぶ。
迷彩。
切り替える。
Qbs.Bm.。
追わない。
でも。
着地点。
先。
塞ぐ。
右。
逃げる。
右。
塞がれる。
後ろ。
アンカー。
打たれる。
十二秒。
シュヴァロフ。
倒れていない。
壊れていない。
傷。
ほとんど。
ない。
でも。
動けない。
伸縮ブレード。
封鎖。
巨大腕。
二本。
固定。
脚。
可動範囲。
制限。
光学迷彩。
意味。
ない。
アリスは固まった。
「……止めて」
瞬間。
Qbs.Bm.。
全部。
解除。
拘束肢。
戻る。
アンカー。
外れる。
シュヴァロフ。
自由。
なる。
損傷表示。
軽微。
アリスは駆け寄り、シュヴァロフの腕と関節を見る。
「大丈夫?」
シュヴァロフ。
返答。
問題。
なし。
アリスはQbs.Bm.を見る。
「これ」
一拍。
「何」
『先ほど申し上げました』
氷の母。
『次世代制圧用ドローンです』
「シュヴァロフより強い」
『制圧任務においては』
アリスの顔がむっとする。
「……返して」
『何をでしょう』
「最強」
数秒。
通信。
静か。
氷の母。
『貴女が』
一拍。
『所有していた覚えはありません』
祝部が後ろで口元を押さえた。
アリスが睨む。
「笑うな」
「笑ってない」
「肩動いてる」
御厨はQbs.Bm.を見ながら感心していた。
「壊さないんですねえ」
マティアス。
「だから使いやすいのよ」
アリス。
「嫌い」
御厨。
「Qbs.Bm.が?」
「全員」
「まあ」
*
その日の夕方、アリスは三岐にQbs.Bm.の正式名称を確認した。
「何て意味」
「qui bene serit, bene metet.」
「だから意味」
「『よく蒔く者は、よく刈り取る』」
アリスは顔をしかめた。
「……嫌な名前」
通信をまだ切っていなかった氷の母が答える。
『そうでしょうか』
「何を刈るの」
一拍。
『危険です』
「……ふーん」
氷の母はそれ以上説明しなかった。
*
御厨綴の最初の仕事は、書類を増やすことではなかった。
神代朔の病室へ行った。
朔はまだ完全には退院していない。TEN=GUは大破し、右肩にも固定具が残る。
「初めまして」
御厨。
「御厨綴です」
「知ってる」
「資料をご覧になりました?」
「真鍋さんから」
「そうですか」
御厨は椅子へ座った。
「今日は」
朔。
少し。
身構える。
「TEN=GUのこと?」
「それも」
「日本代表宿舎に行ったこと?」
「それも」
「じゃあ何」
御厨。
微笑む。
「今のあなたを見に来ました」
朔が黙る。
「過去、調べてる人でしょ」
「はい」
「なのに今?」
「両方見ないと」
一拍。
「比べられないでしょう?」
朔はしばらく御厨を見た。
「……変な人」
「よく言われます」
「過去のこと、消す気はない」
「消してはいけません」
朔の表情が僅かに硬くなる。
御厨は続ける。
「でも」
一拍。
「それだけで今のあなたを決めてもいけません」
朔。
少し。
目。
緩む。
「じゃあ、何見るの」
「これから」
御厨。
笑う。
「まめに」
「ずっと?」
「必要な間は」
「監視じゃん」
「観察です」
「同じじゃない?」
「制度上は結構違いますよ」
朔は少し笑った。
御厨も笑った。
この時点では。
本当に。
悪くない。
*
マティアス・ヴァン・ローンの最初の仕事も、都市図へ赤線を引くことではなかった。
外縁市場へ行った。
十四年前から旧避難道路を呑み込みながら育った、違法増築の商店街。食堂。修理屋。衣料。中古端末。屋根と屋根の間を後付け配線が走り、二階同士を誰が作ったのか分からない橋が繋いでいる。
「ひどい」
マティアスが言う。
案内していた行政職員が困る。
「やはり」
「違うわよ」
マティアスは頭上を見る。
「配線。これ、よく火事出なかったわね」
「二年前に一度」
「出てるじゃない!」
店主が笑う。
「でも焼けなかった」
「威張るところじゃないわよ!」
マティアスは一軒ずつ歩いた。何年住んでいるか。なぜここへ来たか。家賃。物流。避難経路。雨の日に水が溜まる場所。どの店が夜遅くまで開いているか。病人が出た時、どこから救急車を入れるのか。
昼。
一軒の食堂。
入る。
「これ何」
『煮込み』
「名前」
『店主の気分煮込み』
「嫌な名前ね」
『食う?』
「食うわ」
食べる。
美味い。
「……おかわり」
『あるよ』
店主が笑う。
マティアス。
市場。
見る。
「ここ十四年?」
『そう』
「好き?」
『当たり前だ』
「でも避難道路潰してる」
『知ってる』
「火事も出た」
『知ってる』
「救急車入れない」
『知ってる』
「それでも?」
『それでも』
マティアスは黙った。
少し。
考える。
飯。
もう一口。
「分かった」
『何が』
「道路を戻しながら」
一拍。
「市場も残す方法」
「まず探すわ」
店主。
少し。
驚く。
『あるのか』
「知らない」
『おい』
「だから調べるのよ」
『見つからなかったら?』
マティアスは煮込みを食べ終え、器を置いた。
「その時は」
穏やか。
でも。
迷い。
ない。
「道路を戻すわ」
店主と視線が合う。
「だって」
「人、死ぬもの」
*
夜。
氷の母の元へ、二人から最初の報告が届いた。
御厨。
『面白い街ですねえ』
「どの点が」
『記録上の人物と、現在の人物が、かなり違います』
「問題でしょうか」
『いいえ』
御厨は少し笑った。
『だから、ちゃんと両方残したくなりました』
次。
マティアス。
『ひどい街よ』
「改善不能ですか」
『逆』
「逆」
『直すところがいっぱいある』
「可能ですか」
『当然』
御厨も言う。
『こちらも』
氷の母は二人の報告を閉じた。
新開市の夜景が遠隔画面へ映っている。
大行列。
止まった。
道路。
修復。
された。
屋台。
出てる。
カード。
売ってる。
昨日。
敵。
今日。
祭り。
建物。
勝手。
伸びる。
人。
戻る。
また。
増える。
それが新開市だった。
「では」
氷の母は言った。
「始めてください」
二人。
それぞれ。
『はい』
『任せて』
氷の母は少しだけ、新開市の灯りを見た。
「今度こそ」
一拍。
「この都市が」
「自分自身を」
「食べないように」
通信が切れた。
御厨綴は、まだ誰も罰していなかった。
マティアス・ヴァン・ローンも、まだ一軒の家さえ壊していなかった。
Qbs.Bm.も、シュヴァロフを傷つけなかった。
氷の母も、新開市を奪おうとはしていなかった。
全員が。
新開市を。
良くしよう。
していた。
だからこそ、その日が後になって何の始まりだったのかを説明するのは、少し難しかった。
ただ一つだけ。
アライアンスの新しい制圧機の側面には、静かにその名が刻まれていた。
《Qbs.Bm.》
qui bene serit, bene metet.
よく蒔く者は。
よく刈り取る。




