第407話 待てない者たち
王冠は、ほんの少しずつ軽くなっていた。劇的な変化ではない。オールドユニオン軍が一斉に撤収したわけでもなければ、外国使節がアリスとの面会を諦めたわけでもなく、《女王陛下》と書かれた旗が新開市から消えたわけでもない。それでも、最初の試験運用を行った《新開市臨時安全調整室》は、十一分かかっていた小規模ドローン事故への対応を、二度目には九分十九秒、三度目には七分四十一秒まで短縮した。最初の頃は企業担当部署を取り違え、道路封鎖を一分も遅らせ、横で見ていたアリスを何度も椅子から立ち上がらせた組織が、今ではアリスに一言も確認せず、事故機を止め、道路を閉じ、救護を入れ、責任企業へ回収指示まで出せるようになっている。外国使節団についても、三十四あった「アリス本人との直接面談」を前提とする代表団のうち十二が、新開市行政または代表団との正式協議だけで実務を進めることに同意した。NECROテックの兄弟姉妹に関する権利法制化も、正式法成立を待たず、医療アクセスと教育機関への受入れに関する暫定保障が先行して実施されている。企業製守護機の評価制度でも、「アリスが褒めたかどうか」ではなく、救助実績、事故率、民間人への危険度、運用コスト、他機種との協調性を複数機関が公開評価する試験制度が始まっていた。
「七分四十一秒」
アリスは端末に表示された数字を見ていた。
「速くなった」
チャールズ・ブラウンは紅茶を飲んでいる。
「ええ」
「私、何もしてない」
「ええ」
「誰も怪我してない」
「ええ」
アリスが少しだけ胸を張る。
「これ、勝ってる?」
祝部マコトが横から覗き込んだ。
「勝ってるんじゃない?」
チャールズはカップを置いた。
「少しだけ」
アリスの顔が一瞬で不機嫌になる。
「お前ほんと水差すな」
「正確さを重視しているだけです」
「七分まで縮んだんだよ」
「立派です」
「じゃあ褒めろ」
「今、褒めました」
「もっと」
「社会制度の自立運用における初期段階として、非常に望ましい改善です」
「長い」
「では、よくできました」
「子供扱いするな!」
祝部が笑い、三岐透子が机の上の工程表を一枚めくった。アリスの権限が大きく減ったわけではない。それでも、昨日まで彼女が処理していた十の仕事のうち、一つが街自身の手へ移り、その一つがちゃんと動いた。翌日にはもう一つ、その翌日にはさらに一つ。王冠は投げ捨てられない。だが、部品を一つずつ外すことならできる。アリス自身もようやく、その遅さを完全には嫌わなくなり始めていた。
だからこそ、チャールズが突然言った。
「では、そろそろ危ないですね」
アリスが振り向く。
「何で!」
「順調だからです」
「意味分かんない!」
「順調であることと、皆さんが順調だと感じることは別問題です」
三岐が視線を上げる。
「どういう意味ですか」
チャールズは壁面に映っている過去数か月の新開市主要事件一覧を見た。巨大ドローンの暴走。企業軍事機による都市戦。サムライ・ヴィラン。オールドユニオンと企業群の衝突。アライアンスの介入。三妖機。アリスの王冠。いずれも、一日か数日のうちに状況が劇的に変わったものばかりだった。
「この街は、劇的な変化を経験しすぎています。危機が起こる。誰かが介入する。巨大な機械が倒れる。翌朝には政治的な配置まで変わっている。その速度を、皆さんは異常だと思わなくなっている」
祝部。
「新開市だからな」
「それを社会学では説明に使えません」
「便利なのに」
「便利すぎます」
チャールズは、調整室の対応時間を指す。
「十一分が七分四十一秒になる。本来なら十分に大きな成果です。しかし映像としては、あまり面白くない」
アリス。
「面白くなくていい」
「貴女はそうでしょう。しかし企業は? 政治家は? 市民運動は? 外国軍は? 今日という機会に予算と評判を賭けている人々は?」
「……」
「彼らは考えます。もっと速くできる。もっと強くやればいい。もっと目に見える成果を出せる、と」
アリスは腕を組んだ。
「誰が」
チャールズ。
「必ず現れます」
「何が」
「待てない人です」
短い沈黙の後、チャールズは続けた。
「私たちが忍耐強くあっても、焦れてくる者は現れるものです。敵だけではなく、味方にも」
アリス。
「敵より?」
「今回最も厄介なのは、その味方でしょう」
アリスは嫌そうな顔をした。
「お前、そういう予言当てるから嫌い」
「予言ではありません」
「当たらなかったら?」
「喜びます」
翌日の朝。
最初に待てなくなったのは、オールドユニオン派遣軍だった。
*
派遣群の現地司令官は、長期駐留編成への移行報告と称してアリスのもとへやってきた。後方支援部隊の統合、医療区画の整備、補給経路の確保、MAXIMILIAN部隊の運用ローテーション。そこまではアザドから聞いていた話と大差なかった。だが報告の最後で、司令官は姿勢を正した。
「陛下。改めて、新開市域内における治安維持任務の下命を要請します」
アリス。
「しない」
「理由を伺っても?」
「私が女王じゃないから」
「それは政治的呼称の問題です。我々が必要としているのは、現地運用指示です」
「それも減らしてる途中」
「承知しています」
「じゃあ」
「しかし、現行の新開市治安調整体制には、まだ明確な能力不足があります」
アリスの目が細くなる。
「育ててる途中」
「その間にも事件は発生します」
「分かってる」
「我々には対応能力があります」
「知ってる」
「ならば使うべきです」
また正論だった。アリスはこういう正論が嫌いになり始めていた。チャールズが少し離れた席で何も言わず紅茶を飲んでいるのも腹が立つ。
「OUが全部やったら」
アリスは言った。
「調整室、いつまでも育たない」
「訓練は別途行えます」
「本番やらないと意味ない」
「本番で市民を危険に晒すべきではありません」
「その話昨日した!」
「私は昨日の会議には出席していません」
「そういうことじゃない!」
そこへ窓の外で低い駆動音が響いた。アリスが振り向く。行政区画前の広場に、紺と銀の装甲を持つMAXIMILIANが四機、整然と並んでいる。さらに二機が上空警戒位置へ入っていた。
「……何あれ」
「近接護衛部隊です」
「誰の」
「陛下の」
「いらない!」
「必要です」
「誰が決めた!」
「派遣群保安規定に基づき、現地最高重要人物への警護を」
「私を最高重要人物にするな!」
司令官は困ったように一瞬だけ眉を動かした。
「現在の脅威評価では、客観的にそうなります」
「客観嫌い!」
祝部が吹き出しかけ、三岐に睨まれて黙る。
「帰して」
「警護任務の完全解除には、本国との協議が必要です」
「またそれ!」
「ただし、配置場所については陛下の運用指示を受けます」
「じゃあ行政区の外周より内側に入れない!」
「承知しました」
「私についてくるな!」
「承知しました」
「銃口を市民に向けない!」
「既定事項ですが、承知しました」
司令官は敬礼した。
「陛下」
「陛下言うな!」
会議が終わり、司令官が去った後、チャールズがカップを持ち上げた。
「一例目です」
「数えるな!」
「悪意は?」
三岐が尋ねる。
「ほぼないでしょう」
チャールズは答えた。
「彼らは能力があり、市民を守る義務があり、アリスさんが危険に晒されることを避けたい。そして自分たちなら現行制度より速く動ける」
アリス。
「だから面倒」
「はい」
「味方」
「はい」
「面倒」
「そこは昨日申し上げました」
「嬉しそうにするな!」
*
オールドユニオンだけではなかった。OCMもまた、待つことに疲れ始めていた。
ヴェラ・クラウスがオスカー・ラインハルトの執務室へ入った時、オスカーはサボテンへ水をやっていた。
「あなた、私を呼んだ?」
「呼んでいません」
「じゃあちょうどいいわ」
「何がです」
「約束の話」
オスカーの手が止まった。
「海外部門の残存資産」
「はい」
「正式な再評価」
「はい」
「新開市域内での合法的な活動枠」
「検討中です」
「いつまで?」
「制度が整うまで」
ヴェラは笑わなかった。
「その制度、いつ完成するの?」
「分かりません」
「では待てと?」
「今は」
「こちらは待った」
ヴェラは机へ両手をつく。
「治安協力にも入った。NECRO兄弟姉妹の権利拡大にも協力した。旧資産の所在情報も出した。あなたが欲しがった監査も受けた。次はこちらの番でしょう」
「約束を破棄してはいません」
「遅らせている」
「意図的に」
「理由は?」
オスカーは窓の外を見る。遠くにOU軍のMAXIMILIANが見える。
「今、一機増やすだけでも」
一拍。
「王冠が重くなる」
ヴェラが僅かに目を細めた。
「あなたがそれを言うのね」
「私も学習します」
「遅いけど」
「貴女ほど急がないので」
「それ、ブラウン教授の影響?」
「嫌な言い方ですね」
だが、問題はヴェラだけではなかった。NECROテックの兄弟姉妹からも武装増強を求める声が上がり始めていた。OU派遣軍がアリスの近辺へMAXIMILIANを並べる一方、自分たちは法制度の成立を待ちながら従来装備でいる。家族を守るという一点だけから見れば、危機感を覚えるのは自然だった。
リンは露骨だった。
「外国軍にアリス守らせて、私たちは見てるだけ?」
オスカー。
「そうは言っていません」
「だったら装備出して」
「駄目です」
「何で!」
「今、君たちが重武装でアリスの周囲へ並べば」
一拍。
「君たちは家族ではなく」
「女王親衛隊として見られる」
リンの顔が歪む。
「そんなの知らない!」
「私は知っています」
「アリス危ないんだよ!」
「分かっています」
「じゃあ!」
ドラウグルが横から口を挟む。
「リン」
「何」
「オスカーの懸念は合理的」
「そっちつくの?」
「違う」
ドラウグルは淡々と言った。
「しかし、現状のOU軍との戦力差も合理的に無視できない」
オスカーは額を押さえた。
「二人とも、今は増強しません」
「いつ」
「必要性を制度側と一緒に評価してからです」
リン。
「待てってこと?」
「はい」
「皆それ言う」
「今は、それが一番難しいのです」
*
街の中でも同じことが起きていた。王権支持派からは、「最近アリス本人が姿を見せない」「本当に自分たちの声を聞いているのか」という不満が出始めた。反王政派からも、「退位を望むなら本人が公の場で明確に宣言すべきだ」「制度の陰に隠れている」と批判が上がる。正反対の立場なのに、要求していることは同じだった。
アリスを出せ。
本人に説明させろ。
祝部が二つの声明を並べて見せる。
「面白いな」
「何が」
「両方ともお前呼んでる」
「行かない」
チャールズ。
「正解です」
アリス。
「即答」
「王権支持集会へ行けば、女王が支持者へ直接応答したことになる。反王政集会へ行けば、退位そのものをアリスさん個人の決定へ戻してしまう」
「どっち行っても私中心」
「はい」
「面倒」
「かなり」
企業も焦れていた。新開市が世界中から注目されている期間が永遠に続く保証はない。都市守護ドローンを売りたい企業は今のうちに実証映像を作り、サムライ・スーツメーカーはアリスの現在行動評価に適合した機体だと示し、通信企業は王冠解体後の分散指揮網に自社規格を食い込ませたかった。新開市で「待つ」という選択は、市場機会を競合へ譲ることと同義になる場合がある。誰もが、少しだけ速く動こうとした。
その中でも。
最も。
待てなくなっていた男がいた。
*
カワシマ重工本社の会議室では、《KAGEBŌSHI》の運用実績が巨大な壁面へ表示されていた。数字だけを見れば、失敗しているところなど一つもない。新開市実証配備開始以降、重大故障なし。群衆災害時の障害物除去件数二十七。民間人救助百十四名。負傷者搬送補助四十三件。暴走ドローンへの非致死制圧成功率も高く、狭い路地での多腕作業能力はREGALIAを上回る場面さえある。市治安機関からの現場評価も高い。特に「指示系統の違う機体との協調性」と「救助優先判断」は、都市治安用機として極めて優秀だった。
役員の一人が言った。
「では、何が問題なのでしょう」
河島玄隆はいつものように笑っていた。
「誰も」
一拍。
「知らないことです」
室内が静かになる。
「認知調査では、KAGEBŌSHI単独の海外認知率は想定値を大幅に下回っています」
広報担当者が補足した。
「新開市の治安体制そのものへの評価は上昇しています。しかし回答者の多くがKAGEBŌSHIを、REGALIAやその他のアリス系守護機と区別していません」
別の役員。
「つまり」
「新開市方式の一部として認識されています」
「製品としてではなく?」
「はい」
次の画面には海外自治体からの問い合わせが並ぶ。《KAGEBŌSHI導入》ではない。《新開市型分散治安システム導入》《現在行動評価を取り入れた複数メーカー混成運用》《官民共同守護ドローン網》。カワシマ重工が巨額の開発費を投じ、世界最先端の都市守護機として売り出すはずだったKAGEBŌSHIが、成功すればするほど「新開市という制度を構成する良質な部品」の一つへ溶け込んでいた。
役員。
「技術的には成功しています」
「もちろん」
「採用実績も取れるでしょう」
「取れるでしょうね」
「なら」
河島は笑顔のまま答えた。
「我々は、部品屋になります」
誰も答えない。
「優れた部品です」
河島は続けた。
「ですが我々が投じた予算は、世界で最も優れた都市戦・都市救助機を作るためのものです。誰かが設計した都市治安システムの中で、道路上の瓦礫を持ち上げる便利な機械を作るためではない」
技術担当役員が少し眉を寄せる。
「道路障害除去も、都市救助機として重要な任務です」
「もちろん」
「では」
「重要であることと」
一拍。
「世界がそれを見ていることは」
「別です」
河島はKAGEBŌSHIの活動映像を流した。倒れた配送車両を持ち上げ、REGALIAと協力して救急車両の通路を確保する。別の映像では、コロボチェニィクと並んで崩落した仮設足場を支える。もう一つでは、市民公認ヴィランが投げ捨てた大型盾を道路脇へ片付けている。
どれも。
良い仕事だった。
だからこそ。
地味だった。
「当初の構想では」
河島。
「KAGEBŌSHIは、アリス系都市守護機の最先端として世界へ示されるはずでした」
役員。
「現在はMAXIMILIANもいます」
「REGALIAもいる」
「OCM系も」
「ええ」
河島は笑う。
「待っていれば」
「さらに増えるでしょう」
その言葉だけが、少し冷たかった。
*
会議の後、河島は一人で運用映像を見ていた。KAGEBŌSHIはよく働いている。新開市の現場担当者からも好かれている。文句を言わず瓦礫を持ち上げ、人を運び、狭い路地へ入り、必要なら戦いもする。河島自身、機体を失敗作だとは一度も思っていない。
問題は、成功の見せ方だった。
技術は、知られなければ存在しないのと同じだ。少なくとも市場では。
そして今、世界で最も価値のある認証は何か。
公式規格ではない。
国際機関でもない。
たった一人の少女。
世界中が「女王」と呼び始めているアリス・ヴァーツラフコヴァー。
彼女が一度。
現場で。
言えばいい。
――KAGEBŌSHI、そっちお願い。
それだけ。
その数秒の映像が世界へ流れれば、見出しは後から勝手につく。
《女王アリスが選んだ都市守護機》
《新開市王政府の主力都市戦ドローン》
《アリス型守護思想の完成形》
本当は違う。
アリスは機体の現在行動しか褒めない。
会社を認証しない。
河島もそれを知っている。
だが、世界は細かい区別をしない。
「たった」
河島は小さく言った。
「一言で」
秘書が振り向く。
「何でしょう」
「世界は」
河島は笑った。
「勝手に」
「その先を」
「書いてくれる」
*
河島玄隆は、自分を大泉晴翔と同じだとは思っていなかった。
晴翔は人間を使う。転ばせる。立たせる。その繰り返しそのものを楽しむ。河島にそんな趣味はない。彼が欲しいのは成果だった。KAGEBŌSHIが本当に優秀であることを、世界に正しく理解させる。そのための機会を作る。
それだけ。
少なくとも、河島本人はそう考えた。
「大泉先生のように」
河島は側近へ言った。
「人を壊したいわけではありません」
「では」
「性能を」
一拍。
「見せたいだけです」
「騒乱を起こして?」
「騒乱は」
河島は新開市の治安報告を示した。市民公認ヴィラン。王権支持派と反対派の衝突。過激な配信者。企業の実証活動。OU軍と治安機関の運用摩擦。
「すでにある」
側近は黙った。
「我々は」
一拍。
「少し」
「条件を整えるだけです」
その言い方を。
以前。
誰かが。
使っていた。
河島は覚えていた。
大泉晴翔。
まだ新開市で「悪党の席」を誰が埋めるかを楽しそうに語っていた頃、彼は河島にもいくつかの案を示していた。
正義の性能を示すなら、測れる相手がいる。
怪物が必要なら、用意すればいい。
ただし、怪物は本当に強くなければ意味がない。
そして。
倒されることが。
最初から。
役割に。
含まれていれば。
なお良い。
河島は当時、その提案の一部を保留していた。危険が大きすぎる。KAGEBŌSHIの完成度も足りない。新開市治安機関がどう動くかも分からなかった。
今は違う。
KAGEBŌSHIは育った。
実戦データもある。
現在行動評価も理解している。
救助と戦闘を同時に行える。
そして新開市は、世界中が見ている。
「今なら」
河島が言った。
「倒せます」
側近。
「何をです」
河島の目の前で、古い計画ファイルが開く。
名称欄は伏せられている。
巨大な構造。
複数の機動部。
都市構造物の間を移動するために組まれたフレーム。
兵器なのか。
怪獣なのか。
実証標的なのか。
画面だけでは。
分からない。
「怪物を」
*
最初に流れたのは金だった。カワシマ重工本体の口座からではない。研究支援団体、都市安全基金、政治活動を支援する第三者組織、装備評価会社、国外の小規模投資ファンド。いくつもの経路を通り、少額ずつ分割された資金が、市民公認ヴィランや過激な政治団体へ流れ始める。
次に装備。
非致死性サムライ・スーツ用電源セル。
通信妨害耐性を高める交換部品。
都市内高速移動用の補助ワイヤ。
旧世代ドローンの姿勢制御ユニット。
法的には軍用品ではない。
単独では違法でもない。
さらに情報。
治安機関が混雑を避けるために公表している規制予定。
企業実証が行われる区画。
道路工事によって一時的に通行能力が落ちる場所。
誰でも入手可能な情報を、使いやすい形に整理して渡す。
クラウドファンディングにも匿名資金が入った。
《市民公認ヴィラン第五回実証活動》
目標額。
予定より早く。
達成。
主催者自身も、どこから金が増えたのか知らない。
河島は一度も。
「暴れろ」
とは。
言わなかった。
大泉晴翔も、ほとんどそうだった。
*
チャールズ・ブラウンが違和感を覚えたのは、一週間後だった。
午後の聞き取りから戻った彼は、市民公認ヴィラン関連の資料を机へ並べていた。アリスは隣で外交案件を処理している。
「アリスさん」
「何」
「最近のヴィラン」
「うん」
「装備が良くなっていますね」
アリス。
「知ってる」
「気づいていました?」
「前の奴よりバッテリー持ってる」
「さすがですね」
「褒めた?」
「褒めました」
「やった」
チャールズは数枚の写真を並べる。
「ですが」
「何」
「別々の団体なのに」
「電源規格が似ています」
「同じ会社?」
「表向きは違います」
「じゃあ」
「保険も」
「何」
「複数の活動で、同じ再保険ルートが使われています」
アリスの表情が変わる。
「誰かいる?」
「おそらく」
「晴翔?」
チャールズは首を横に振る。
「そう決めるのは早い」
「でも」
「大泉議員なら」
一拍。
「もう少し」
「本人の痕跡を残さず」
「そして、もう少し人間側の選択を大きく使う気がします」
「嫌な評価」
「私も言っていて嫌です」
三岐が資料を見る。
「企業系ですか」
「可能性はあります」
アリス。
「敵?」
チャールズは少し考えた。
「おそらく」
一拍。
「本人は」
「味方のつもりでしょう」
アリスの顔が露骨に嫌そうになる。
「……始まった?」
チャールズ。
「ええ」
「何が」
「待てない人たちです」
*
その夜、カワシマ重工の非公開試験施設で、KAGEBŌSHIが模擬都市区画を走っていた。四本の補助腕が瓦礫を押し退け、主腕が倒壊した車体を持ち上げる。そのまま機体を反転させ、無人標的から放たれた模擬弾を装甲で受けながら、救助用シェルターを背後へ隠す。戦闘と救助の境目をほとんど作らない動きだった。
技術者が報告する。
「都市障害環境下救助試験、全項目基準値を上回っています」
河島。
「当然です」
「対複数標的制圧も」
「問題ありません」
「はい」
河島は満足そうにKAGEBŌSHIを見る。
「優秀でしょう」
「間違いなく」
「なら」
河島は別の画面を開いた。
《都市実証計画 再開承認》
技術者の顔から少し色が消える。
「本当に」
「実行しますか」
「KAGEBŌSHIは」
一拍。
「優秀ですよ」
「分かっています」
「では」
河島が承認キーへ指を置く。
「世界にも」
「分かっていただきましょう」
キーが押された。
施設のさらに奥。
長く照明の消えていた格納区画へ。
電力が流れる。
何か。
巨大なもの。
その一部だけが。
暗闇の中で。
動いた。
*
大泉晴翔がその変化へ気づいたのは、翌朝だった。
側近が一つの報告を持ってきた。新開市の市民公認ヴィラン界隈に流れている装備の質が上がっていること。複数の企業系ルートが薄く繋がっていること。そして、ずっと休眠していた古い実証計画に、間接的な資金移動が確認されたこと。
「先生」
「はい」
「これ」
晴翔は資料を見る。
ほんの数秒。
笑った。
「河島さんですか」
「そうみたいですね」
「指示した?」
「いいえ」
「でも」
晴翔は記録をめくる。
「昔」
一拍。
「こういう方法もありますよ」
「とは」
「申し上げました」
側近は額を押さえた。
「じゃあ先生の歯車じゃないですか」
「違いますよ」
「どこが」
「回しているのは」
晴翔は笑った。
「河島さんです」
「あなたが作った形でしょう」
「歯の形を」
一拍。
「少し」
「教えただけです」
「止めません?」
「なぜ」
「アリスさんの王冠を脱がすの、手伝ってるんでしょう」
「ええ」
「じゃあ、これ邪魔でしょう」
晴翔は窓の外へ目を向けた。遠くに新開市の都市域が霞んでいる。
「だからこそ」
「何です」
「皆さんが」
一拍。
「待てるかどうかは」
「重要でしょう?」
「先生は待てるんですか」
「最近」
晴翔は少し考える。
「かなり」
「教授のおかげですか」
「ええ」
「絶対馬鹿にしてる」
「感謝していますよ」
側近は資料を閉じた。
「河島さんは」
「どうなると思います?」
晴翔は楽しそうに答えた。
「さて」
一拍。
「どこまで」
「待てるでしょうね」
*
その日の夕方、KAGEBŌSHIはいつものように新開市で働いていた。故障した大型配送車の前へしゃがみ込み、補助腕で車体を持ち上げる。治安機関の誘導に従って道を空け、通りかかった救急車を先へ通す。REGALIAが別の交差点で人流を整理し、企業製小型守護機が落下物を回収する。どこにも英雄的な光景はない。誰も歓声を上げない。アリスも見ていない。
それでも。
人は。
助かっていた。
今の新開市が必要としているKAGEBŌSHIは、本当はその姿だった。
河島玄隆も。
それを。
分かっていた。
分かっていたからこそ。
待てなかった。
良い機械が、良い仕事をする。
昨日より今日。
今日より明日。
少しずつ。
街へ馴染む。
それが成功だと。
認めるには。
カワシマ重工は。
あまりにも。
大きな夢を。
KAGEBŌSHIへ。
載せすぎていた。
そして新開市では、焦った人間が劇的な変化を求めた時、その手の届くところに、もう一つのやり方が置かれている。
悪党の席。
怪物。
それを倒す正義。
大泉晴翔が作った歯車。
晴翔自身は。
何もしていない。
止めてもいない。
河島玄隆が。
自分の手で。
その歯車へ。
指を。
かけた。
そして。
回した。




