第406話 怪物からの挨拶
大泉晴翔は、おそらく今の新開市で最も危険な男だった。本人にそう告げれば、きっと嬉しそうに笑うだろう。彼は新開市にある全てを支配しているわけではない。むしろ、自分の予想を外れるもの、自分の意図を離れて動き始めるものを好んでいた。だから晴翔が恐ろしいのは、街を盤面として完全に掌握しているからではない。彼自身がこの街へ埋め込んだ歯車がどういう形をしていて、どことどこが噛み合い、どれくらい力を加えれば隣の歯車まで回るのかを、誰よりもよく知っているからだった。悪党の席。そこから降りるための出口。正義に倒されることによって生まれる信用。救済による再利用。アリスという注目そのものを報酬へ変えた寵愛市場。サムライ・ヴィラン。日本と新開市を行き来する外交の席。晴翔が一から組んだものもあれば、彼が置いた条件から勝手に育ったものもある。それでも晴翔は、歯車がいつもと違う音を立てれば気づく。それがどれほど小さな部品のせいであっても。
ここ数日のアリスは、明らかに変わっていた。事件が起きてもすぐには飛び出さない。制度に任せる。失敗が致命的でない限り、苛立ちながらも待つ。自分を女王として支持する市民を敵視せず、彼ら自身に責任を受け取らせようとしている。何より、王冠を一気に投げ捨てようとしていた少女が、急に「社会が変わるには時間が必要だ」と言い始めた。
晴翔は英国系報道局の画面を見ながら、ゆっくり紅茶へ口をつけた。映っているのは、少しネクタイの曲がった冴えない英国人だった。派手な身振りもない。声を荒らげもしない。司会者が刺激的な言葉を求めても、淡々と説明する。
『難しいのは、悪い支配者を止める方法ではありません』
チャールズ・ブラウン。
『良い支配者を、どう辞めさせるかです』
側近が映像と晴翔を交互に見た。
「この人、そんなに重要ですか」
「重要ですよ」
「社会学者でしょう」
「だからです」
「アリスさんの軍事顧問でもなければ、外交顧問でもない」
「ええ」
晴翔は画面から目を離さない。
「でも、アリスさんが待つことを覚えた」
「良いことじゃないですか」
「とても」
晴翔は微笑んだ。
「だから、誰が教えたのか知りたくなります」
側近が嫌そうな顔をする。
「また会いに行くんですか」
「ええ」
「教授に?」
「いいえ」
晴翔は卓上に置かれた籠を見る。新開市産の果物が綺麗に詰められていた。
「津田さんのお見舞いに」
「絶対それだけじゃないでしょう」
「お見舞いは本当ですよ」
「そこだけ本当なのが一番嫌なんですよ」
*
津田義弘は、晴翔から見舞いの連絡が来たと聞いた時、しばらく天井を見ていた。胸部固定はまだ外れず、左膝も冷却装置に繋がれたままだった。右肩には可動制限。医師からは「次に勝手に出れば入院では済まない」と脅され、アリスからはもっと直接的に「次出たら殺す」と言われている。もちろん本当に殺されるとは思っていないが、シュヴァロフが病室の外で定期的に巡回している以上、今回はさすがに逃げられない。
トミーがベッド脇で耳を動かした。
「断る?」
「普通ならな」
「普通じゃない?」
「晴翔だぞ」
「だから断るんじゃ?」
義弘は少し考えた。
「教授、今日来るって言ってたよな」
「ブラウン?」
「ああ」
トミーがじっと義弘を見る。
「やめといた方がいい顔してる」
「どんな顔だよ」
「面白そうって顔」
「俺も見てえんだよ」
「何を」
義弘は口元を僅かに曲げた。
「晴翔とブラウン教授を、同じ部屋に放り込んだらどうなるか」
「アリスに怒られるぞ」
「黙ってれば」
「シュヴァロフいる」
「……あいつ修理終わったんだよな」
「終わった」
「じゃあ短時間」
「アリスに言う?」
「言わない」
トミーが呆れたように人参を齧る。
「五回目の入院は自業自得だからな」
「今回は病室から出ねえよ」
「そういう問題じゃない」
結局、義弘は晴翔の見舞いを許可した。そしてその直後、チャールズへも短い連絡を入れた。
『大泉晴翔が来る』
返事はすぐに来た。
『承知しました』
『嫌なら断っていいぞ』
少し間があった。
『かなり嫌です』
義弘は笑った。
『じゃあ断る?』
『いいえ』
『なぜ』
『会うべきでしょう』
『そう言うと思った』
『津田さん』
『何』
『アリスさんには?』
義弘は少しだけ沈黙した。
『言ってない』
今度はチャールズの方が長く黙った。
『……貴方も、大概ですね』
『褒めてる?』
『いいえ』
*
午後二時過ぎ、晴翔は果物籠を持って病室へ入った。
「こんにちは」
「お前」
義弘は籠を見る。
「また果物?」
「お見舞いですから」
「前も持ってきただろ」
「前回とは種類を変えました」
「そういう問題じゃねえ」
晴翔は果物籠をテーブルへ置き、義弘の状態を眺める。
「元気そうですね」
「どこ見て言ってんだ」
「会話はできます」
「基準が低い」
「歩いて帰られるより安心です」
「お前が言うな」
晴翔は笑い、用意されていた椅子へ腰を下ろした。数分ほど本当に普通の見舞い話をする。膝の回復具合。肩の再検査。日本側の交渉。OU軍の駐留問題。そのどれも晴翔にとっては利用可能な情報であり、同時に、本当に義弘の容態を気にしているのも嘘ではなかった。
やがて晴翔が何気ない調子で訊いた。
「ブラウン教授も、こちらへよく?」
義弘は晴翔を見る。
「そこが本題か」
「本題はお見舞いですよ」
「ついで?」
「かなり興味深いついでです」
「会いてえ?」
「一度」
義弘は数秒晴翔の顔を見て、それから時計を見る。
「もうすぐ来る」
「おや」
「呼んだ」
「ありがとうございます」
「俺も見てえんだよ」
「何をでしょう」
「お前らが初対面で何すんのか」
晴翔は本当に楽しそうに笑った。
「期待に沿えるとよいのですが」
「沿わなくていい」
その時、扉が開いた。
チャールズ・ブラウンが入ってきた。いつものように派手さはない。濃色のスーツ。少し曲がったネクタイ。片手には保温ボトル。もう片方には小さな紙袋。義弘への見舞いらしい。
「こんにちは、津田さん」
「教授」
チャールズの視線が晴翔へ移った。
晴翔は立ち上がった。
「初めまして」
一拍。
「大泉晴翔です」
チャールズは握手のために差し出された手を見た。
握らなかった。
晴翔の顔を見る。
「貴方は」
義弘が僅かに眉を上げた。
「人間を」
チャールズの声は静かだった。だが、いつもの軽さがなかった。
「社会実験の器具として扱っている」
義弘。
「……は?」
晴翔は手を下ろした。
笑顔のまま。
チャールズは続ける。
「不満を育てる。機会を置く。武器へ近づける。人が悪党の席へ座るのを待つ。正義へ倒させる。そして、今度は出口を与えて社会へ戻す」
「……」
「貴方はそれを寛容と呼ぶ」
晴翔は答えない。
「人を転ばせるなら、立ち上がれる場所を用意する。それ自体は一見すると慈悲深い。しかし貴方は、転ぶ原因を自ら配置している」
義弘がチャールズを見る。
普段の男ではない。
紅茶を飲み、昼寝をし、学者のくせに軽口を叩き、アリスに怒鳴られても穏やかに笑っている男とは思えない。
「寛容ではありません」
チャールズの声が低くなる。
「貴方は、人間が壊れるかもしれない瞬間を娯楽として観察している」
晴翔の笑みは崩れない。
「政治家として卑劣です」
一拍。
「社会の構成員として無責任です」
さらに。
「個人として」
チャールズは晴翔を真っ直ぐ見た。
「私は、貴方を軽蔑します」
病室が静まった。
義弘がようやく声を出す。
「教授?」
晴翔は何も言わない。
チャールズを見る。
笑顔。
ただし、目は笑っているだけではない。
観察している。
チャールズもまた、その目を見ていた。
怒らない。
驚かない。
弁解しない。
反撃もしない。
それどころか、自分が何を仕掛けたのかを見ている。
晴翔が口を開いた。
「続けてください」
チャールズの眉が僅かに動く。
「……」
「もう少し」
晴翔はにこやかなまま言った。
「あるでしょう?」
「お前も煽るな」
義弘が割り込む。
「初対面ですので」
「普通、初対面でこれは喧嘩って言うんだよ」
「私は歓迎されていますよ」
「どこがだよ」
その時。
チャールズの表情が、ふっと戻った。
険しさが消える。
持ってきた紙袋を義弘のサイドテーブルへ置き、何事もなかったように椅子へ座った。
「十分です」
義弘。
「何が!?」
晴翔が小さく笑う。
「やはり」
チャールズは保温ボトルから紅茶を注いだ。
「分かりましたか」
「ええ」
義弘は二人を交互に見る。
「何が?」
晴翔。
「教授は」
一拍。
「私を怒らせたかった」
チャールズ。
「正確には」
「反応を見たかった」
義弘は目を閉じた。
「お前ら」
一拍。
「最初から何やってんだよ」
*
チャールズは紅茶を一口飲み、先ほどまでの罵倒がまるで存在しなかったかのように晴翔へ訊いた。
「初対面で、私が何か仕掛けると予想していましたか」
「もちろん」
「なぜ」
「アリスさんが」
晴翔はゆったり椅子へ座り直した。
「私を危険人物だと説明していないはずがない」
「それだけで?」
「いいえ」
晴翔はチャールズを見る。
「貴方は、アリスさんに必要とされた人物です」
チャールズの目が僅かに細くなる。
「アリスさんは私と長く戦っている。そして、私のことを本気で危険だと考えている。そのアリスさんが、自分の王冠を外す問題について助言を求めた学者がいる」
一拍。
「なら、その学者が」
「私を観察しない方が」
「不自然でしょう」
チャールズは少し黙った。
「私は」
「貴方が私個人について」
「かなり調べたものと考えていました」
「調べましたよ」
「では」
「ただ」
晴翔は微笑んだ。
「調べる前から」
「何かされるだろうとは」
「思っていました」
チャールズは紅茶へ視線を落とす。
これが危険なのだ、と理解した。
晴翔はチャールズ・ブラウンという一人の人間を完全に知悉していたから予測したのではない。アリスが自分を危険視していること。チャールズがアリスに選ばれたこと。社会学者として観察と仮説検証を重視すること。その役割を組み合わせただけで、「初対面で何か試してくる」という行動へ辿り着いた。
人間を。
役割から。
読む。
チャールズは表情には出さなかった。
だが内心では、昨夜の評価を一段上げた。
――これは。
本当に。
まずい。
「紅茶がお好きなんですね」
晴翔が急に言った。
チャールズが顔を上げる。
「英国人全員が好きというわけではありませんが」
「もちろん」
「私は好きです」
「新開市のお水はいかがです?」
「茶葉によっては少し難しいですね」
「良い店をご紹介しましょうか」
「貴方の紹介した店へ行くのは」
チャールズは少し考えた。
「かなり嫌ですね」
「残念です」
義弘が呆れた顔をする。
「何で急に普通に喋ってんの?」
「雑談です」
「さっきまで軽蔑してたぞ」
チャールズ。
「今もしています」
晴翔。
「光栄です」
チャールズ。
「その返事」
一拍。
「嫌いです」
「申し訳ありません」
「反省しています?」
「いいえ」
「でしょうね」
義弘。
「ほんと相性悪いな、お前ら」
*
それから三人の話題は、新開市そのものへ移った。晴翔が義弘に聞いたらしい、チャールズの「ヒーローは制度の余白ではないか」という議論にも触れた。
「面白い表現ですね」
晴翔が言う。
「私はむしろ」
「ヒーローがいるから」
「悪党の席が必要になると」
「考えているのですが」
チャールズ。
「存じています」
「どう思われます?」
「非常に迷惑な思想だと」
晴翔は笑った。
「良かった」
「何がです」
「意見が違う方が」
「話す価値があります」
「貴方は意見の相違を」
「危険へ変える傾向があります」
「時々」
「頻繁にです」
義弘が横から言う。
「教授」
「はい」
「こいつに普通の倫理期待すんな」
「期待していません」
晴翔。
「ひどいですね」
二人。
同時。
「事実です」
義弘が笑った。
「そこは合うのかよ」
チャールズは少し紅茶を飲み、それからカップを置いた。
「大泉さん」
「はい」
「一つ」
「伺っても?」
「どうぞ」
「貴方は」
一拍。
「悪党の席から降りた人間は」
「社会へ戻るべきだと考えている」
「はい」
「貴方自身も?」
「もちろん」
チャールズは晴翔の表情を見た。
「では」
「前の席で作った」
一拍。
「勘定書きは?」
義弘が僅かに動く。
晴翔の笑顔も、ほんの少しだけ変わった。
「消えませんよ」
即答だった。
チャールズ。
「では」
「持って戻るべきだと?」
「当然でしょう」
チャールズは一瞬、何も言わなかった。
否定すると思っていたわけではない。
だが。
ここまで。
迷わない。
「政治家へ戻ったら」
「悪党として行ったことの責任も」
「負う?」
「はい」
「被害者として救助された後も?」
「はい」
「協力者として有益な提案をしても?」
「もちろん」
「それでも」
チャールズ。
「社会へ戻る?」
晴翔。
「なぜ戻ってはいけないのでしょう」
「……」
「責任を負っている人間が」
一拍。
「社会へ参加してはいけない」
「という理由には」
「なりませんよね?」
チャールズはゆっくり頷いた。
「ええ」
「では」
晴翔。
「問題ありません」
チャールズの仮説が一つ潰れた。
晴翔は責任から逃げることで再生しているのではない。
責任そのものを。
抱えたまま。
再生できる。
少なくとも本人は、そのつもりでいる。
そして恐らく、実際にある程度はできている。
政治的責任を認める。
調査へ応じる。
批判される。
それでも次の役割で有用であれば働く。
責任追跡だけでは。
足りない。
晴翔が、楽しそうにチャールズを見る。
「教授」
「何でしょう」
「私を」
一拍。
「役割ではなく」
「責任で」
「追いかけるおつもりですか?」
義弘の目が晴翔へ向く。
チャールズは数秒沈黙した。
「まだ」
「研究中です」
「違いました?」
「回答を控えます」
晴翔の笑みが深くなる。
「素晴らしい」
チャールズは露骨に嫌な顔をした。
「そういう反応をされると」
「大変」
「不愉快です」
「すみません」
「反省していないでしょう」
「はい」
義弘が溜息をつく。
「やっぱ相性悪いな」
晴翔。
「そうですね」
チャールズ。
「そうですね」
二人の声が綺麗に重なった。
「そこだけ合うな」
*
面会予定時間が終わる頃、晴翔は果物籠の位置を少し直してから立ち上がった。
「津田さん」
「何」
「お大事に」
「お前が騒ぎ起こさなきゃもうちょい早く治る」
「努力します」
「嘘つけ」
晴翔はチャールズを見る。
「教授」
「何でしょう」
「新開市には」
「長くいらっしゃる予定ですか」
「今のところは」
「嬉しいですね」
チャールズは小さく息を吐いた。
「私は」
一拍。
「あまり」
「嬉しくありません」
「そのうち」
晴翔は本当に楽しそうだった。
「貴方も」
「私の」
「強敵になりそうです」
「私は」
「ヒーローではありません」
「知っています」
「戦闘能力もありません」
「でしょうね」
「なら」
「だから」
晴翔は笑う。
「面白い」
チャールズは義弘へ顔を向けた。
「津田さん」
「何」
「この方」
一拍。
「本当に」
「嫌ですね」
義弘。
「今さら?」
「昨夜より評価が悪化しました」
「俺も何度も更新した」
「参考になります」
晴翔は楽しそうに頭を下げ、病室を出ていった。
扉が閉じる。
数秒。
沈黙。
チャールズは紅茶を飲んだ。
義弘。
「どうだった」
チャールズはすぐには答えない。
「大泉晴翔は」
一拍。
「私がこれまで」
「社会学上の事例として読んできた」
「かなり危険な政治的人物の」
「どれとも」
「少し違います」
「強い?」
「はい」
「倒せそう?」
チャールズは首を横に振った。
「責任を追わせれば」
「再生を止められると」
「考えていました」
「駄目?」
「不十分です」
義弘。
「責任も持って帰ってくるから?」
「はい」
「面倒だろ」
「非常に」
チャールズは少し考えた。
「ですが」
「分かったこともあります」
「何」
「彼は」
一拍。
「勝ちたいのではない」
「知ってる」
「負けたくないのでもない」
「うん」
「社会から」
「退場したくない」
義弘がチャールズを見る。
「……そこか」
「少なくとも」
「一つの核でしょう」
チャールズは空になったカップを見る。
「ですから」
「追放だけでは」
「おそらく」
「足りません」
「面倒だな」
「ええ」
「でも」
チャールズは少しだけ笑った。
「興味深くは」
「あります」
義弘。
「お前もそっち行くなよ」
「非常に不名誉な忠告ですね」
*
当然ながら、アリスには知られた。
晴翔が病院を出てから一時間もしないうちに、アリスは義弘の病室へやってきた。扉が開いた時点で顔が怖い。
「義弘」
「はい」
「晴翔来た?」
「……誰から聞いた」
「監視」
義弘が窓の外を見る。
「シュヴァロフ修理終わってたな……」
「何で黙ってた!」
「病室から出てねえぞ」
「そういう問題じゃない!」
「教授と会わせたかった」
「何で!」
チャールズもまだ部屋にいた。窓際で平然と紅茶を淹れている。
「ブラウン!」
「はい」
「お前も!」
「有意義でした」
「危ないって言った!」
「非常に危険でした」
「でしょ!」
「社会学的に」
「そういう意味じゃない!」
アリスは頭を抱えた。
「何された」
チャールズ。
「何も」
「本当に?」
「会話だけです」
「晴翔笑ってた?」
「ほぼ常に」
「最悪」
義弘。
「教授も最初すげえぞ」
アリスが顔を上げる。
「何した」
チャールズ。
「少々」
「何」
「大泉議員を面罵しました」
「……」
「人格的に軽蔑すると」
アリスがチャールズを見る。
一秒。
二秒。
「……いい」
「何が」
「そこはいい」
「褒められました」
「でも二度と勝手に会うな!」
「必要なら会います」
「何で!」
「私は貴女の広報官ではありませんので」
「それ便利に使うな!」
*
翌朝、新開市へ学者が来た。
最初は三人だった。英国の政治学者。フランスの憲法学者。シンガポールの都市危機管理研究者。昼までに七人増えた。夕方には十五人。翌日には、政治社会学、君主制史、法哲学、集団心理、都市工学、サイバー社会論、ヒーロー研究、メディア研究、文化人類学、軍民関係研究まで揃った。
アリスは入域申請一覧を見て、目を疑った。
「何で」
祝部。
「学者」
「見れば分かる!」
「多いな」
「何で増えてる!」
祝部が調べる。
「晴翔」
アリスの顔が一瞬で変わった。
「何した!」
「各方面で言ってる」
「何て」
祝部が晴翔のインタビュー記事を読み上げる。
「《現在の新開市に必要なのは、軍事力だけではなく、ブラウン教授のように社会を観察し、制度と市民感情の間を翻訳できる優れた研究者でしょう》」
「……」
「あと」
「まだある?」
「《女王陛下の周囲に多様な知見が集まることは、新開市の安定に資する》」
アリス。
「宮廷」
一拍。
「作る気!?」
三岐。
「学術顧問団として制度化しなければ宮廷にはなりません」
「絶対しない!」
「そこは同意します」
チャールズも一覧を見る。
アリスが睨む。
「お前のせい」
「私ではありません」
「お前褒めたから!」
「褒めたのは大泉議員です」
「全部帰して」
「研究者の入域自体を禁止する理由はありません」
「私に会わせない!」
「それは可能でしょう」
祝部。
「でも、向こうは顔見せしたいらしいぞ」
「何で!」
「次のブラウン教授枠狙ってんじゃない?」
「枠ない!」
チャールズは少しだけ考え、それまでの軽い表情を消した。
「アリスさん」
「何」
「これは」
一拍。
「私への嫌がらせだけではありません」
「じゃあ何」
「彼は」
「貴女の周囲へ」
「賢者を」
「集めようとしている」
アリスの顔が険しくなる。
「……女王の?」
「宮廷として」
アリス。
「最悪!」
「はい」
「お前嬉しくない?」
「全く」
「よかった」
「ただ」
チャールズは申請一覧を見る。
「これは」
「軽い挨拶でしょう」
「軽い?」
「彼なら」
一拍。
「もっと」
「別のものを」
「用意している気がします」
アリスは嫌な顔をした。
「言うな」
*
その予感は正しかった。
新開市から離れた場所。名義をいくつも挟んだ開発施設。巨大な格納庫の一角で、一つの人型装備が固定架へ吊られていた。従来のサムライ・スーツより細身で、背部と脚部に複雑な展開機構を持つ。まだ外装の全ては装着されていない。
《TEN=GU 適合系統確認完了》
別の格納区画では、建物の影と見紛うほど巨大な輪郭がゆっくりと立ち上がっていた。重量を支える複数の脚。中央部に空洞にも見える巨大構造。戦闘兵器なのか、移動拠点なのか、輸送機なのか、それだけでは判然としない。
《MIKOSHI=NYUDO 基礎機動系正常》
さらに別の実験空間では、無数の小型ドローンが床、壁、天井を覆っていた。一機一機は小さい。だが動き始めると、群れ全体が一個の巨大な生物のように形を変える。
《KYO=KOTU 群制御再調整完了》
晴翔は三つの映像を順番に見た。
側近が後ろに立っている。
「学者を送り込むだけで」
「十分じゃないんですか」
「あれは送り込んだわけではありませんよ」
「あなたが煽ったんでしょう」
「紹介しただけです」
「それを煽ったって言うんですよ」
晴翔は否定しない。
「あれは」
一拍。
「挨拶です」
「誰への」
「ブラウン教授への」
側近が三つの画面を見る。
「じゃあ」
「これは」
晴翔。
「お土産です」
側近は嫌な顔をした。
「何をするつもりです」
「まだ何も」
「また?」
「ええ」
「いつ使うんです」
「急ぐ必要はありません」
晴翔は《TEN=GU》の適合記録を開き、《MIKOSHI=NYUDO》の起動試験を確認し、《KYO=KOTU》の群制御ログへ目を通した。
「教授から」
一拍。
「忍耐を」
「学びましたので」
側近。
「絶対馬鹿にしてるでしょう」
「いいえ」
晴翔は本当に楽しそうだった。
「感謝しています」
「何に」
「アリスさんが」
「さらに」
「面白くなりました」
側近はもう何も言わなかった。
*
大泉晴翔は、チャールズ・ブラウンを気に入った。友人としてではない。味方としてでもない。自分が作り、自分が知り尽くしている歯車の中へ入り込んできた、これまでとは違う形の抵抗としてだった。
アリスは現在を見る。敵だった者でも、今、人を助けているなら助ける。味方だった者でも、今、人を傷つけているなら止める。義弘は出口を見る。悪党になった者でも、間違った者でも、戻れなくなる一線だけは身体を張って外そうとする。そしてチャールズは、過去を見る。役割が変わっても、前の席に置いてきた責任が消えない方法を探そうとしている。
現在。
出口。
記憶。
三つが噛み合えば。
もしかすると。
再生の怪物。
大泉晴翔。
それすら。
今までと。
同じ場所には。
戻れなくなる。
晴翔は。
それを。
恐れた。
そして。
だからこそ。
嬉しかった。
自分の再生を止めようとする者が増えた。自分の歯車を理解しようとする者が現れた。しかも、拳でも刀でもハッキングでもなく、社会そのものへ記憶を持たせようとしている。
なら。
試してみればいい。
人。
役割。
象徴。
群れ。
現在行動。
分散。
責任。
それらが。
本当に。
一つの街で。
噛み合うのか。
《TEN=GU》。
《MIKOSHI=NYUDO》。
《KYO=KOTU》。
学者たちの群れは、ほんの軽い挨拶だった。
本当の土産は、まだ誰にも開けられていない。
箱の中で。
静かに。
次の。
新開市を。
待っていた。




