第405話 紳士は急がない
チャールズ・ブラウンは、朝が遅かった。少なくとも、アリス・ヴァーツラフコヴァーから見れば犯罪的なほど遅かった。午前六時二十分には中央行政区の臨時執務室へ入り、三十四の外国使節団から届いた面談要請、オールドユニオン派遣群の再編案、《特別調停権限返還・分散工程》の受領保留一覧、市民公認ヴィランによる新たな政治パフォーマンス予告、NECRO権利法制化に関するOCMからの修正要求、それに前夜から続いている《女王陛下退位反対》の署名運動を順番に処理していたアリスにとって、午前八時半まで眠っているという行為はもはや怠慢の一種だった。
「祝部」
「何」
「ブラウン」
「寝てる」
「起こして」
「昨日二時まで論文書いてたらしいぞ」
「私も!」
「お前は朝六時から仕事始めるのやめろって三岐に言われてただろ」
「今それ関係ない!」
「あると思うけど」
アリスは不機嫌そうに次の文書へ署名した。《外国使節団面談枠の一部を新開市代表団へ移管する試験運用》。昨日までなら全てアリス本人との面会を求めていた外交団のうち四か国が、ようやく行政側との正式交渉を受け入れた。たった四か国。それでも王冠をばらす最初の小さな一歩だった。
「八時半まで寝るって」
一拍。
「大人としてどうなの」
祝部。
「普通じゃない?」
「普通じゃない」
「お前基準で言うな」
その頃、同じ建物の来賓宿泊区画でチャールズは実に穏やかな朝を迎えていた。目覚まし時計が鳴るより少し前に目を開け、慌てるでもなくカーテンを開け、新開市の空を眺め、シャワーを浴び、皺のないシャツを選び、ネクタイを結び、簡単にニュースを確認した。それから備え付けの湯沸かし器を使わず、自分で持ち込んだ小さなティーポットを取り出した。
九時少し前。
ようやく執務室へ現れたチャールズを、アリスは入口で睨んだ。
「遅い!」
「おはようございます」
「七時から待ってた!」
「それは早起きですね」
「褒めてない!」
「私も褒めたつもりはありません」
チャールズは何事もなかったように席へ座り、手にしていたポットからカップへ紅茶を注いだ。
アリス。
「何それ」
「紅茶です」
「見れば分かる!」
「では、なぜお聞きに?」
「今飲む?」
「朝ですので」
「資料!」
アリスは机上に積まれた十数冊のファイルを指した。
「これ」
「今日中」
「全部」
チャールズは一番上のファイルを手に取り、厚さを確かめ、紅茶を一口飲んだ。
「無理ですね」
「何で!」
「社会は今日中には変わりません」
「変えて!」
「できません」
「社会学者!」
「魔法使いではありません」
「昨日あんな偉そうなこと言った!」
「昨日申し上げたことも、時間が必要だという内容だったはずですが」
「そこだけ覚えてない!」
「都合の良い記憶ですね」
アリスが本気で睨んだ。
その横で、トミーが朝食代わりの葉野菜を齧っている。
チャールズは初めて間近で見る喋るウサギへ視線を向けた。
「あなたがトミーですね」
「そうだけど」
「光合成をなさるとか」
「一応」
「羨ましい」
トミーが耳を動かす。
「何が」
「昼食代を節約できそうです」
トミーは数秒チャールズを見た。
「気に入った」
アリス。
「何で!」
「話分かる」
「どこが!」
チャールズは微笑んだ。
「光栄です」
アリス。
「トミー、こいつに懐くな」
「誰が懐くか」
「もう気に入ったって言った!」
「社会学者としては面白い」
「ウサギ目線で社会学者評価すんな!」
朝から続いていたアリスの怒鳴り声をものともせず、チャールズは紅茶を飲み終えてからようやく最初の資料を開いた。
*
午前十時半、チャールズは津田義弘の病室にいた。もちろんアリスには「一時間以内。義弘を疲れさせない。変なこと吹き込まない。戦わせない」と三度念を押されている。
「最後のは私に言われても困りますね」
「お前が変なこと言ったら義弘動く!」
「昨日までの経緯を見る限り、私がいなくても動いています」
「だから止めて!」
病室では義弘が背を起こしていた。胸部固定はまだ外れず、左膝には冷却装置。右肩も完全には戻っていない。ベッド脇には飲み物と薬、それからアリスが置いていった《勝手に出るな》と大きく書かれた紙が貼られていた。
チャールズはそれを見た。
「愛されていますね」
「監禁されてんだよ」
「似たようなものでは」
「全然違うだろ」
トミーも病室についてきている。
チャールズは椅子へ腰を下ろした。
「津田さん」
「何だい教授」
「新開市に」
一拍。
「ヒーローは必要でしょうか」
義弘が眉を上げた。
「急だな」
「専門ですので」
「社会学ってヒーローまでやるの?」
「社会の中に存在するものは、大抵研究対象になります」
義弘は少し考えた。
「いらなくなるなら」
一拍。
「その方がいいんじゃねえか」
「それでも貴方は続ける?」
「必要な間はな」
「では」
チャールズは足を組んだ。
「ヒーローは制度ではなく」
「余白なのでしょうか」
義弘。
「余白?」
「制度が」
「人を落とした時」
「そこへ手を入れる」
義弘は少し笑った。
「そんな上等なもんじゃねえよ」
「そうでしょうか」
「目の前で落ちそうな奴いたら」
「手出すだけだ」
「それを」
チャールズ。
「社会学では」
「非常に厄介な機能と呼びます」
「褒めてねえな」
「かなり褒めています」
トミー。
「分かりにくいな」
「学者ですので」
義弘は笑ったが、チャールズはそこで少し表情を変えた。
「ただし」
「何」
「貴方が」
「毎回」
「その余白を埋めるなら」
義弘の笑みが薄くなる。
「制度は」
一拍。
「穴を直さなくなる」
「……」
「英雄が優秀すぎる社会は」
「英雄に依存します」
義弘は天井を見る。
「耳痛えな」
「社会学者の仕事です」
「嫌われそうだな」
「慣れています」
トミー。
「アリスにも昨日から嫌われてる」
「嫌われてはいませんよ」
病室の扉が開いた。
「嫌い!」
アリス。
チャールズ。
「おや」
「何でまだ喋ってる!」
「予定では一時間以内です」
「四十八分!」
「守っていますね」
「義弘休ませて!」
義弘。
「俺も楽しかった」
「お前も寝ろ!」
「はいはい」
チャールズは腕時計を確認した。
「では」
「私も少し」
アリスが嫌な顔をする。
「何」
「昼寝を」
「は?」
*
十二時三十七分。
チャールズは本当に寝ていた。
中央行政区の休憩室。ソファ。薄いブランケット。靴だけ脱ぎ、腕を胸の上に置き、完全に眠っている。
その同じ時間、隣の会議室ではアリスがオールドユニオン派遣群の長期駐留設備についてアザドと揉め、その直後に三岐と行政権限移管の工程表を修正し、さらに祝部と王権支持デモへの広報方針を詰めていた。
祝部がガラス越しに休憩室を見る。
「寝てる」
アリス。
「知ってる!」
「すげえな」
「起こして」
「忍耐だって」
「こいつ殴る」
三岐。
「暴行は王権返還に悪影響です」
「女王じゃない!」
「ならなおさら暴行しないでください」
一時間後。
チャールズは自分で目を覚ました。
「よく眠れました」
アリス。
「嫌い」
「ありがとうございます」
アリスの眉がぴくりと動く。
「それ」
「何でしょう」
「晴翔も言う!」
チャールズは一瞬、真顔になった。
「では今後やめます」
アリス。
「……そこはまとも」
「比較対象が大泉議員なら、かなりの侮辱ですから」
「そこまで?」
「まだ会っていませんが」
「会わない方がいい」
「興味はあります」
「やめろ」
*
午後二時、チャールズは街へ出ると言い出した。
「どこ」
「王権支持デモです」
「何で」
「現場を見ます」
「映像ある」
「映像では匂いも距離も分かりません」
「危ない」
「そうでしょうか」
「市民公認ヴィランいる!」
「是非」
「是非じゃない!」
結局、アリスは治安機関から二名、さらに巡回中の若いサムライ・ヒーロー一名を護衛につけた。
チャールズ。
「護衛は不要ですが」
「必要!」
「研究対象へ影響します」
「死ぬよりマシ!」
「私はそこまで危険な場所へ行く予定では」
「新開市でそれ言うな!」
祝部。
「アリス」
「何」
「結構世話焼いてるな」
「焼いてない!」
「護衛三人」
「研究対象死んだら困るだけ!」
チャールズ。
「ありがとうございます」
「違う!」
*
チャールズは午後いっぱい、新開市を歩いた。王権支持デモでは《アリスを一人にするな》という旗を持った老人に話を聞き、反王政側では《アリス本人を女王から解放しろ》と訴える学生と三十分近く話した。NECRO支援者には「なぜアリス個人の権力が必要だと思うのか」と問い、企業技術者には「アリスの認証がなくなった時、自社製品を誰に評価してほしいか」と聞いた。導線屋には「女王支持デモと反対デモを同じ商売対象にすることへ倫理的葛藤はないのか」と尋ね、「金になる導線には思想がない」と答えられ、心底楽しそうにメモを取った。
市民公認ヴィランにも会った。
前日のCROWN BREAKERとは別の男だった。軽装型サムライ・スーツを着込み、クラウドファンディングによって集めた資金で《女王の最終治安権限維持》を訴えている。
「なぜ」
チャールズ。
「アリスさんを支持しながら」
「ヴィランを?」
男。
「俺らみたいなのが出るから、女王に権限が必要なんですよ!」
「なるほど」
「分かります?」
「いいえ」
男が固まる。
「え」
「ですが」
チャールズ。
「非常に面白いです」
「学者って失礼だな!」
「よく言われます」
「何で分かんないんだよ!」
「では逆に聞きます」
「何だよ」
「アリスさん本人が」
一拍。
「その権限を」
「欲しくないと言っていることは」
「どう扱います?」
男が黙る。
「……でも」
「危ないだろ」
「誰が」
「アリスが」
「だから」
男は少し苛立ったように言った。
「上にいて」
「俺らみたいなのは」
「サムライとか軍隊に任せればいいんだよ」
「なるほど」
「今度は分かった?」
「少し」
チャールズはそれ以上追及しなかった。
「ありがとうございます」
「終わり?」
「はい」
「説教しないの?」
「私は社会学者です」
「変なの」
「よく言われます」
*
夕方六時。アリスがようやく行政会議を一つ終えたところで、壁面モニターに英国系ニュース番組が映った。祝部が勝手につけたのである。
「何」
「ブラウン教授」
「また?」
番組タイトル。
《女王を生むのは誰か――新開市の正統性危機》
アリス。
「……」
チャールズがスタジオの遠隔画面に映っている。
『現在の問題は』
『アリス・ヴァーツラフコヴァー氏が』
『権力を欲していることではありません』
『逆です』
アリス。
「言うな」
『権力を欲しない人物へ』
『市民が』
『権力を預けたがっている』
「言うな!」
祝部。
「聞こえないぞ」
『民主社会では』
『悪い支配者を』
『止める方法は』
『かなり研究されています』
司会者。
『では、新開市の問題は?』
チャールズ。
『難しいのは』
一拍。
『良い支配者を』
『辞めさせる方法です』
アリス。
「良い支配者言うな!」
祝部。
「褒められてる」
「違う!」
『しかもアリス氏本人は』
『支配者であることを』
『否定している』
『それでも市民が』
『彼女へ権限を渡そうとする』
『これは個人の野心ではなく』
『社会的信頼が』
『権力集中を生んでいる』
アリスは頭を抱えた。
「帰ってきたら」
「何」
「怒る」
「もう帰ってるらしい」
「早い!」
*
来賓区画へ戻ったチャールズは、何事もなかったように紅茶を淹れていた。
アリス。
「何で言うの!」
「何をです?」
「良い支配者!」
「評価として」
「私支配者じゃない!」
「そこが現在の研究対象です」
「発表するな!」
「学者なので」
「私の許可!」
チャールズの手が止まった。
少し。
真面目な顔。
「必要ありません」
アリスも止まる。
「……」
「私は」
一拍。
「貴女の」
「広報官ではありません」
祝部は黙った。
チャールズ。
「貴女に都合の悪い分析であっても」
「事実だと判断すれば」
「公表します」
「ただし」
「安全保障上の秘密や」
「個人情報は除きます」
「でも」
アリスは口を尖らせる。
「私嫌」
「承知しています」
「やめる?」
「いいえ」
「嫌い」
「それも承知しています」
アリスはしばらく睨んだ。
けれど。
最後には。
「……分かってる」
小さく言った。
女王でない街が欲しい。
なら。
自分にとって不愉快な学者を。
黙らせる。
わけにも。
いかない。
*
その日の夜、《王冠解体》会議が開かれた。三岐、御堂環、祝部、アザド、アリス。チャールズは制度設計者ではないため正式構成員ではなかったが、社会的受容に関する助言者として端に座っている。
アリスは開口一番に言った。
「全部」
「一気に」
「返す」
三岐。
「反対です」
「何で!」
「昨日より社会的抵抗が増えています」
「だから早く!」
チャールズ。
「駄目です」
アリスが振り向く。
「何で!」
「アリスさん」
「人々は」
一拍。
「昨日まで」
「貴女に頼ることで」
「安全だったのです」
「……」
「今日」
「制度ができたから」
「明日から」
「頼るのをやめなさい」
「それは」
一拍。
「無理です」
「でも」
「時間が必要です」
「どれくらい」
「分かりません」
「嫌」
「でしょうね」
「早く終わらせたい」
「だからこそ」
チャールズは首を横に振る。
「急いではいけない」
「なぜ」
「急げば」
一拍。
「社会は」
「貴女が」
「王冠を」
「手放した」
「とは理解しません」
「じゃあ」
「どうなる」
「誰かが」
「アリスから」
「王冠を」
「奪った」
「そう理解します」
アリスの顔が変わる。
「すると」
御堂環。
「王権支持運動が」
「さらに強くなる」
「はい」
チャールズ。
「奪われた女王を」
「取り戻せ」
「という運動になります」
アリス。
「……最悪」
「ですので」
「忍耐を」
「嫌」
「必要です」
「嫌」
「必要です」
「お前それしか言わない!」
「大切なので」
*
チャールズが提案したのは、大胆な退位ではなく、小さな失敗と小さな成功を積み重ねる方法だった。
「まず」
チャールズは資料へ三本の線を引いた。
「一つ」
「小さな権限だけ」
「移してください」
アリス。
「全部じゃなく?」
「はい」
「例えば」
「企業製小型ドローンの」
「軽微な市街事故への」
「一次対応調整」
真鍋の治安機関が直接対応するほどではないが、企業間連絡と道路封鎖が必要な規模。その調整を新設の臨時安全調整室へ任せる。
「アリスさんは」
「手を出さない」
「事故ったら?」
「死者が出そうなら」
「当然止めてください」
「じゃあ」
「でも」
「判断が少し遅い」
「連絡が一度噛み合わない」
「現場が少し不格好」
「その程度なら」
一拍。
「待つ」
アリス。
「難しい」
「知っています」
「私ならすぐ直せるのに」
「だから」
「待つ」
「嫌」
「忍耐です」
「その言葉嫌いになりそう」
「一時的でしょう」
第二。
「王権支持者を」
「敵にしない」
「してない」
「かなり怒っています」
「怒ってるだけ」
「相手には同じに見えることがあります」
アリス。
「じゃあどうする」
「アリスさんを支持するなら」
一拍。
「制度を支えてください」
「そう言う」
「女王に権力を」
「ではなく」
「女王がいなくても」
「安全な制度を」
「一緒に作ってください」
御堂環。
「支持の方向を変える」
「はい」
第三。
「アリスさん自身が」
「失敗を」
「許してください」
アリス。
「嫌」
「即答ですね」
「人死ぬ」
「死者が出る失敗は」
「止める」
「しかし」
「小さな不格好まで」
「全部」
「貴女が直してはいけない」
アリスは黙った。
これは。
怖い。
失敗できる社会。
言葉では。
好き。
だった。
でも。
自分が。
直せる。
失敗を。
目の前で。
見過ごす。
のは。
別。
「……やる」
チャールズ。
「急がず」
「うるさい」
*
実際、その翌日に小さな試験が行われた。企業連の配送ドローン二機が道路上で接触し、一機が低空へ降下した事故である。以前ならアリスの家族ドローンか、彼女の直接判断で周辺交通を止めていた。しかし今回は、新設された臨時安全調整室が企業運用班、道路管理、治安機関へ連絡し、自分たちだけで処理することになった。
そして。
遅かった。
アリス。
「遅い!」
チャールズ。
「待ってください」
「車来る!」
「道路管理が止めます」
「連絡遅い!」
「四十二秒です」
「私なら六秒!」
「それを言ってはいけません」
「言いたい!」
調整室。
最初の連絡。
間違う。
企業Aではなく企業Bへ送る。
再送。
道路封鎖。
一分。
遅れる。
アリス。
「私やる!」
チャールズ。
「まだ」
「何で!」
「危険域ではありません」
「でも!」
最終的に。
道路。
止まる。
ドローン。
回収。
負傷者。
なし。
事故処理。
十一分。
アリスなら。
三分。
だった。
アリスは腕を組んで、ものすごく不満そうだった。
「遅い」
チャールズ。
「成功です」
「遅い」
「誰も死んでいません」
「十一分」
「次は十になるでしょう」
「私なら」
「六秒ですね」
「分かってるじゃん!」
「だから」
一拍。
「貴女は」
「手を出さなかった」
アリスが止まる。
「それが」
「今日の仕事です」
少し。
だけ。
アリス。
納得。
した。
*
夜になれば、チャールズは昼間とは別人のように働いた。ホテルの部屋ではなく、中央行政区の来賓研究室を借り、昼間に集めた聞き取り記録を整理し、新開市におけるヒーロー依存、王権支持、社会的信頼と制度移行について論文の草稿を書いた。
《英雄は制度の失敗を救済する。しかし、英雄が恒常的に成功すると、制度は英雄の存在を前提として最適化され始める》
《良き支配者への信頼は、悪しき支配者への恐怖よりも権力集中を正当化しやすい場合がある》
《アリス・ヴァーツラフコヴァーの政治的問題は、本人の権力欲ではなく、周辺社会の信頼過剰にある》
そこまでは、昼間の延長だった。
チャールズは別のフォルダを開いた。
《OIZUMI HARUTO》
大泉晴翔。
三妖機。
悪党の持ち回り制。
サムライ・ヴィラン。
ヴェラ。
海井雫。
日本国代表団。
女王アリス。
晴翔自身が悪党の席に座り、被害者として助けられ、その後また政治家として交渉へ戻った記録。
チャールズの表情から、昼間の軽さが消えた。
何十分も。
読む。
何度も。
前へ。
戻る。
ある。
行動。
見る。
次。
別。
役割。
見る。
また。
戻る。
「……これは」
一拍。
「かなり」
「まずいですね」
独り言だった。
大泉晴翔は、単に悪事を隠す人物ではない。責任を否認するだけでもない。むしろ必要なら責任を引き受ける。負ければ負けを認める。被害者になれば助けられる。政治家へ戻れば政治家として働く。協力者として有用な提案もする。悪党として倒されても、「悪党の席から降りる権利」を自分自身にも適用して戻ってくる。
役割が変わるたび、社会は彼をその役割に合わせて扱う。
現在。
被害者。
なら。
助ける。
現在。
政治家。
なら。
話す。
現在。
協力者。
なら。
提案。
使う。
それ自体は。
間違っていない。
むしろ。
アリスの。
現在行動評価。
正しい。
だから。
晴翔。
強い。
チャールズはノートへ書いた。
《彼の強さは出口を持つことではない》
一度、ペンを止める。
その下。
《出口を役割変更装置として使用すること》
さらに資料を読む。
晴翔は「前の自分」を完全に消しているわけではない。社会が、新しい役割に応じて別の評価枠を与える。その境界を利用している。
「現在だけを見る」
チャールズ。
小さく。
「正しい」
「ですが」
一拍。
「現在だけでは」
「この男に」
「食われる」
彼はもう一行書く。
《再生を止める必要はない》
その下。
《記憶させればよい》
さらに。
《役割が変わっても、社会的責任が追従する構造》
チャールズは背もたれへ身体を預けた。
殺す必要はない。
永久追放する必要もない。
出口を塞ぐ必要もない。
悪党から降りてもいい。
政治家へ戻ってもいい。
協力者になってもいい。
被害者になったら救えばいい。
ただし。
前の席で残した勘定書き。
それ。
次の席まで。
持ってくる。
「……なるほど」
チャールズは冷めた紅茶を飲んだ。
顔をしかめる。
「これは」
「美味しくないですね」
それでも捨てずに飲んだ。
*
翌朝、チャールズはまた義弘の病室を訪れた。
「また来たのか」
「はい」
「アリスに怒られるぞ」
「既に怒られています」
「ならいいか」
「良くはないと思いますが」
チャールズは椅子へ座った。
「津田さん」
「何」
「以前」
「貴方は」
「大泉議員について」
一拍。
「帰ってきても」
「同じ場所へ」
「戻れないようにする」
「そう仰った」
「ああ」
「その意味」
「少し」
「分かった気がします」
義弘がチャールズを見る。
「どういう意味」
「帰ってきてよい」
「ただし」
チャールズ。
「前に座っていた席の」
一拍。
「勘定書きを」
「持ってきてもらう」
義弘は一瞬黙り、それから笑った。
「社会学者って」
「言い方回りくどいな」
「職業病です」
「でも」
一拍。
「悪くねえ」
チャールズ。
「大泉議員は」
「悪党から降りる」
「それ自体を」
「再生に使っています」
「うん」
「なら」
「降りることを」
「止める必要はない」
「前の責任を」
「次の役割へ」
「持ち越す」
義弘は少し考えた。
「証拠」
「記録」
「制度」
「全部いるぞ」
「はい」
「しかも」
「晴翔は」
「それも利用する」
「でしょうね」
「簡単じゃねえ」
「分かっています」
「倒せそう?」
チャールズは首を横に振った。
「まだ」
「方法は」
「ありません」
「でも」
一拍。
「倒し方を」
「間違えてはいけないことは」
「分かりました」
義弘。
「それなら」
「十分じゃねえか」
「初日は」
「そんなもんだ」
「紳士は急ぎませんので」
「昼寝もするしな」
「重要です」
「アリスに言うなよ」
*
もちろん、アリスには知られた。
その日の午後、チャールズが席を外した隙に研究室を訪れたアリスは、机上に開かれた資料を見つけた。勝手に覗こうとしたわけではない。本人を呼びに来ただけだった。だが表紙に大きく《再生の怪物》と書かれていれば、見る。
「……何これ」
戻ってきたチャールズが答える。
「大泉議員についてです」
「何で」
「研究です」
「何の」
「貴女の敵ですので」
アリスが眉を寄せる。
「私の?」
「はい」
「新開市の敵」
「それもあります」
「でも」
チャールズは机へ資料を置く。
「貴女は」
「彼と」
「長く」
「戦っている」
「……」
「今後も」
「戦うのでしょう」
「うん」
「なら」
「理解しておいた方がいい」
「お前」
アリスは資料を見る。
「晴翔嫌い?」
チャールズは少し考えた。
「まだ」
「会ったことがありません」
「じゃあ」
「ですが」
一拍。
「社会学者として」
「あまり」
「自由にしておきたくない方です」
アリスは少し意外そうな顔をした。
「そこまで?」
「はい」
「晴翔」
「社会学者にも危険?」
「非常に」
「やった」
「なぜ喜ぶのです」
「私だけじゃない」
「それはそうでしょう」
「じゃあ」
アリス。
一拍。
「私のため?」
チャールズは答えず、紅茶を一口飲んだ。
「研究上の興味です」
「嘘」
「半分は」
「残り」
チャールズは少し笑った。
「貴女は」
「怒りながら」
「ずいぶん」
「世話を焼いてくださいますので」
「……」
「多少」
一拍。
「お返しを」
アリスが顔を逸らす。
「別に」
「世話してない」
後ろからトミー。
「護衛三人出してたのに?」
「うるさい!」
チャールズ。
「昼食も手配していただきました」
「お前忘れるから!」
「来賓用車両も」
「危ないから!」
「ホテルまで送迎も」
「夜遅いから!」
トミー。
「世話焼いてるな」
「二人とも黙れ!」
*
その夜、アリスはようやく少し早く仕事を切り上げた。チャールズに「今日はここまでにしてください」と言われ、三岐にも「明日の判断能力を落とすことは制度移行上のリスクです」と言われ、トミーには「寝ろ」と言われたからである。
「何で全員」
「私に」
「寝ろって」
トミー。
「寝ないから」
「寝る」
「何時間」
「……五」
「足りない」
「六」
「足りない」
「七」
「最初からそうしろ」
アリスは不満そうに来賓区画を後にした。
その頃、チャールズは一人で研究室に残っていた。
机上。
新開市。
資料。
アリス。
ヒーロー。
ヴィラン。
オールドユニオン。
アライアンス。
そして。
大泉晴翔。
晴翔という人間は、社会から外れない。むしろ何度でも社会の中へ戻ってくる。悪党として倒されても、責任を負っても、それを次の役割へ変える。出口を作り、出口を通り、そのたびに新しい席へ座る。
だから。
出口。
塞ぐ。
違う。
席。
固定。
違う。
殺す。
論外。
追放。
女王。
完成。
それも。
違う。
チャールズは新しい紙を一枚出した。
《大泉晴翔》
その下。
《役割横断的責任追跡》
ペン。
止まる。
「怪物は」
小さく。
独り言。
「倒されるたび」
「別の役割として」
「社会へ戻る」
一拍。
「なら」
書く。
《役割ではなく責任を追跡する》
チャールズは椅子へ深く座った。
今はまだ。
仮説。
だった。
晴翔本人。
話して。
ない。
分からない。
こと。
多い。
むしろ。
分からない。
方。
多い。
だから。
急がない。
観察。
する。
記録。
読む。
人。
聞く。
それから。
考える。
アリスは急ぐ。
義弘は身体を差し出す。
晴翔は危険を面白がる。
チャールズ・ブラウンは、そのどれでもなかった。
彼は。
待てる。
必要なら。
昼寝も。
する。
そして。
夜。
誰も。
見ていない。
時間。
怪物。
倒し方。
考える。
冷めきった紅茶へ手を伸ばす。
一口。
飲む。
「……やはり」
一拍。
「美味しくないですね」
それでもカップを置かず、大泉晴翔の記録へもう一度目を落とした。
「さて」
ペンを取る。
「どうやって」
一拍。
「怪物に」
「前の自分を」
「忘れさせないように」
「しましょうか」
新開市の夜は、まだ騒がしかった。王権支持デモの残り火も、市民公認ヴィランの募集も、外国使節の交渉も、オールドユニオン軍の駐留準備も止まってはいない。それでも王冠は、昨日よりほんの少しだけ、アリス一人の頭から街へ移り始めていた。
急げば。
壊れる。
待てば。
変わる。
その違いを知っている大人が、一人だけ。
新開市に。
加わっていた。




