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第404話 鏡の国の争い

 王冠をばらす。その制度を作る。言うだけなら簡単だった。治安権は治安機関へ、外交権は行政と代表団へ、外国軍の運用調整は複数組織からなる調整室へ、NECROテックの兄弟姉妹を守っていた個人的な庇護は法律へ。昨日まで「女王アリス」という一人の少女へ押し込まれていた機能を、一つずつ名前をつけて街へ返していく。アリスはそれを王冠の解体だと思ったし、三岐透子も、御堂環も、アザドも、少なくとも制度としてなら可能だと考えた。だが翌朝、彼女たちはごく当たり前の事実へぶつかった。制度は紙の上で動くのではない。制度を動かすのは人間である。そして人間は、必ずしも自分へ返される権限を喜んで受け取るわけではなかった。


 三岐が最初に用意したのは、《新開市臨時安全調整室》の設置案だった。オールドユニオン派遣群の新開市域内運用をアリス個人から切り離し、市行政、治安機関、代表団、派遣側司令部の四者による共同調整へ移す。群衆災害が起きても、アリスが「OU、右」「OU、下がれ」と一つずつ怒鳴らなくて済むための仕組みである。会議室に集められた実務官僚たちは案そのものには賛成した。問題は、その直後だった。


「では、明日正午をもって運用調整権の移管を開始します」


 三岐が言うと、担当官の一人が手を挙げた。


「受領時期について、再検討を要請します」


 アリスが顔を上げる。


「何で」


「現状、我々の調整室はアリス特別調停官と同等の即応判断能力を保証できません」


「だから作るんでしょ」


「はい。しかし、作った翌日から完全に機能するわけではありません」


「じゃあ練習して」


「市民の生命を練習台にはできません」


 アリスが詰まった。言っていることは正しい。担当官はさらに続ける。


「少なくとも運用実績が蓄積するまでは、アリス特別調停官を最終調整権者として残すべきだと考えます」


「嫌」


「しかし」


「嫌」


 三岐が割って入った。


「恒久ではありません」


「暫定も嫌」


「制度移行には暫定期間が必要です」


「その暫定が永遠になるんじゃん」


 誰も即座には否定できなかった。


 外交窓口も同じだった。アリス個人へ殺到している外国使節を新開市代表団と行政へ振り分ける案を出すと、外交実務官は難しい顔をした。


「現在、三十四の外国使節団がアリス氏本人との会談を前提として滞在しています」


「昨日三十一じゃなかった?」


「増えました」


「増やすな」


「我々が増やしたわけではありません」


「知ってる!」


「この状況で急激に窓口を変更すると、『新開市内部で政変が起きた』『アリス女王の権限が剥奪された』と解釈される恐れがあります」


「じゃあどうするの」


「当面、アリス氏との面談枠を維持しつつ、正式交渉のみ行政・代表団へ段階移行することを提案します」


「当面って何日」


「状況次第です」


「一番嫌いな答え」


 別の権限も似たようなものだった。緊急時に企業機へ救助協力を求める調整権は、「現行の信頼関係がアリス個人へ依存している」として移管保留。外国軍への即時停止要請も、「OU派遣群が現地ではアリスの指示を最優先している」という現実を理由に継続。NECROの権利法制化は進んだものの、成立までには審議期間が必要で、その間は「アリスによる保護保証を維持してほしい」とOCM側から正式に求められた。


 会議が終わるころ、アリスの前には「返すはずだった権限」がほとんどそのまま積み上がっていた。


「……何これ」


 三岐。


「移行期です」


「昨日と何が違うの」


「工程表ができました」


「権限減ってない」


「工程表はできました」


「それ二回言った!」


     *


 王冠解体構想が外へ漏れると、新開市市民はさらに予想外の反応を見せた。


 最初に始まったのはデモだった。ただし、これまでの《新開市に王はいらない》という反王政デモではない。まったく逆である。


《アリスを辞めさせるな》


《女王陛下に必要な権限を》


《アリスを前線へ戻すな》


《権限分散より負担分散》


《王冠を外すな、重さを皆で持て》


 中央区だけではない。NECROテック居住区、旧工業区、難民拡張区、大学街、市庁舎周辺。大小さまざまな集会が発生し、中には数万人規模へ膨れ上がるものもあった。社会学的には奇妙な現象だった。近代以降の都市社会で、君主権の縮小に反対して市民が自主的に大規模デモを行う例そのものが珍しい。そのうえ、参加者の多くは自分を王党派だと思っていなかった。


 鳴海梓が現地取材で一人の女性へマイクを向ける。


「王政を支持しているんですか?」


「いや、王政は嫌ですよ」


「では、なぜ《アリス女王退位反対》のプラカードを?」


「アリスならいいから」


「次の女王は?」


「いらない」


「王様そのものは?」


「いらない」


「でもアリスさんには権力を?」


「持っててほしいです」


 鳴海が一瞬だけ黙った。


「理由は」


「だって昨日、誰も死ななかったじゃないですか」


 別の参加者。


「王政は反対です。でもアリスがいなくなるのはもっと反対」


 さらに別。


「女王って呼び方嫌なら別の名前でいいんじゃない? 最高調停官とか、守護代表とか」


 隣の男。


「名称変えただけじゃん」


「じゃあゴーストで」


「それ元からだろ」


 鳴海はカメラへ向き直り、何とも言えない顔で言った。


「本人の意思と制度論と市民感情が、完全に別方向へ動いています」


     *


 さらに厄介だったのは、支持運動が職場へ入り始めたことだった。民間企業では《王冠解体の拙速な実施に反対》として半日休業を宣言する店が現れ、物流会社の一部労働者は「アリスの安全保証なき権限移管には協力しない」と自主的な勤務調整を始めた。大学教員の一部は公開討論会を開き、医療関係者の一部は「NECRO権利法成立前の庇護権返還は危険」と声明を出した。ここまではまだ市民運動の範囲だった。


 問題は、行政と治安機関にまで波及した時だった。


 真鍋の指揮室。


「……何だこれは」


 部下が答える。


「一部事務職員が、《特別調停官権限返還の延期を求める自主行動》として、移管関連文書の処理を保留しています」


「止まってる業務は」


「移管関連だけです」


「緊急業務は」


「継続しています」


「なら今日中に戻せ」


「しかし、政治的意見表明として」


 真鍋が机を叩いた。


「支持は勤務時間外にやれ」


 部下が黙る。


「アリスを支持するなとは言ってない。私だって信用してる。だが治安機関が一人の人間への忠誠で動き始めたら、それは治安機関じゃない」


「はい」


「市民守る仕事と女王陛下万歳を混ぜるな」


 そこへアリスが入ってきた。


「ありがとう」


 真鍋。


「礼言うな」


「でも」


「当たり前だ」


「……うん」


「あと」


「何」


「私の部下に直接『女王じゃない』って説教して回るな」


「何で」


「余計こじれる」


「もうやった」


「遅い!」


     *


 それでも、まだ政治運動だった。真鍋の治安機関は対応できる。三岐は法的整理ができる。祝部は配信で誤解を解ける。御堂環は市民団体へ説明できる。


 誰も予想しなかったのは、クラウドファンディングだった。


 祝部が最初に見つけた。


「アリス」


「何」


「これ見て」


「またニュース?」


「違う」


 端末を見せる。


《女王陛下に倒される悪党を、市民の手で》


 アリス。


「……何これ」


「クラファン」


「見れば分かる!」


 祝部が説明欄を読む。


「《アリス女王の統合治安能力を継続的に実証し、権限分散による市民安全保障上の危険を可視化するため、非致死性装備を用いた公認ヴィラン活動を実施します》」


「犯罪予告じゃん!」


 三岐が横から画面を覗く。


「現時点では政治パフォーマンス事業への寄付募集です」


「何でそんな分類になるの!」


「まだ犯罪行為を実施していないからです」


「目標金額」


 祝部。


「三千万」


「集まるわけ」


「達成してる」


「……」


「一時間四十二分」


「何で!」


 しかも出資者には個人だけでなく企業が混じっていた。《安全試験終了済み無人機二機を無償提供》《非致死サムライ装備一式貸与》《救護班費用を負担》《活動参加者向け傷害保険》。新開市外の企業まで「政治的表現と都市安全技術の両立に関心がある」と装備を提供し始めた。


 アリスは頭を抱えた。


「善意でヴィラン作るなよ……」


 祝部。


「新開市だから」


「理由になってない!」


     *


 三日後、その第一号が本当に現れた。


 中央区の旧展示広場。黒と白に塗り分けたサムライ・スーツが大型スクリーンの前へ立ち、周囲では支援者が安全柵を設置し、救護班まで待機している。使用武器は非致死性。飛行ドローンも落下安全装置つき。保険会社のロゴまで付いていた。


 サムライが拡声器を使う。


「我々《CROWN BREAKER》は!」


 アリス。


「名前からして反王政じゃん」


 祝部。


「続き聞け」


「アリス女王陛下への十分な権力集中が完了するまで!」


 アリス。


「逆だった!」


「活動を停止しない!」


「する!」


「女王陛下!」


「呼ぶな!」


「我々を倒してください!」


「嫌!」


「では、暴れます!」


「もっと嫌!」


 CROWN BREAKERは広場に配置されていた廃棄予定の試験ドローンを起動した。安全柵内を走り回り、映像広告を破壊し、噴煙を上げる。市民は歓声を上げる。


「盛り上がるな!」


 アリスの怒鳴り声が配信に乗った。


 真鍋から通信。


『アリス』


「何!」


『今のところ器物損壊と無許可武装活動。治安機関で処理する』


「私行かない!」


『それでいい』


『ただ』


「何」


『観客多すぎる。事故る前にサムライ回す』


「うん」


 アリスは自分で行かなかった。KASANEと別のサムライ・ヒーローが到着し、現在行動だけを見てCROWN BREAKERを制圧する。非致死装備同士の短い戦闘だった。


 ところが。


 CROWN BREAKER。


「違う!」


 KASANE。


「何がです」


「女王陛下に倒されないと意味がない!」


「知りません」


「お前は女王の騎士だろ!」


「違います」


「じゃあ女王呼べ!」


 KASANEは無言で男を地面へ押さえた。


「逮捕後に直接お伝えください」


「会える!?」


「保証しません」


「じゃあ抵抗する!」


「罪状増えます」


「くそ!」


 これが最初だった。


 そして。


 当然。


 最初で終わらなかった。


     *


 《市民公認ヴィラン》という言葉が流行した。クラウドファンディングで活動資金を集め、支持者から装備を借り、安全計画を公開し、「アリスへ権限を集中させる必要性を実証する」という建前で騒動を起こす。最初は非致死性だった。救護班もいた。人命を危険に晒さないよう導線まで組まれていた。


 だが、模倣が始まる。


 保険に入らない者。


 安全装置を外す者。


 単に強い武器を試したい企業。


 アリスへ会いたい配信者。


 王党派を名乗って反王政デモへ殴り込む者。


 クラウドファンディングだけ集めて消える詐欺。


 市民公認と勝手に名乗るだけの本物の犯罪者。


 善意から作られた「安全な悪党」の椅子が、本物の悪党にも座れる場所を作った。


 アリス。


「……晴翔」


 真鍋。


「今のところ違う」


「調べた?」


「調べた」


「本当に?」


「少なくとも最初の三件に、晴翔からの資金、装備、直接接触はない」


 アリスの顔がさらに嫌そうになる。


「じゃあ」


「街が」


 一拍。


「勝手に?」


 真鍋。


「そういうことだ」


「……」


 以前にも聞いた言葉だった。


 誰が学習した。


 街がだよ。


 その街は今、さらに一歩進んでいた。


     *


 大泉晴翔は、日本国代表団用施設でその様子を見ながら実に楽しそうに紅茶を飲んでいた。


 側近。


「先生の仕込みですか」


「今回は」


 一拍。


「本当に何もしていません」


「またですか」


「ええ」


「信じたくない」


「残念ですね」


 画面には王権支持デモ、市民公認ヴィラン、権限受領を保留する行政機関、アリス支持の民間ストライキが同時に映っていた。


「素晴らしいですね」


 側近。


「何が」


「女王陛下が」


 一拍。


「王冠を返そうとしただけで」


 晴翔は画面を指す。


「街全体が」


「両手で」


「支え始めた」


「あなた、これ期待してましたよね」


「ええ」


「アリスさんの退位、手伝うんでしょう」


「もちろん」


「じゃあ止めてくださいよ!」


「なぜです」


「矛盾してる!」


「していませんよ」


 晴翔は本気で不思議そうだった。


「王冠を脱がせるのを」


「手伝う」


 一拍。


「だから」


「脱がせたくない人たちにも」


「存分に」


「頑張っていただかないと」


「最低だ」


「ありがとうございます」


「褒めてない!」


「知っています」


 側近は机の隅を見る。《TEN=GU》《MIKOSHI=NYUDO》《KYO=KOTU》の開発進捗画面もまだ動いている。


「これだけ街が勝手に暴れてるのに、新しい札も作るんですか」


「作りますよ」


「何で」


「街が勝手に動くことと」


 一拍。


「私が何もしないことは」


「同じではありませんから」


 側近は黙った。


 それが大泉晴翔だった。


     *


 アリスが本当に困ったのは、敵意ではなく善意だった。


 王党派の老人が言う。


「もう義弘さんを病院から出させないでくれ」


 NECROの母親代わりをしている女性が言う。


「アリスが決められるなら、子供たちをまた兵器扱いされずに済む」


 救助されたことのある若者。


「女王って呼び方が嫌なら変えればいい。でも権限は返さなくていいだろ」


 企業技術者。


「アリスが最終承認者なら、どの会社も勝手なことできない」


 小さな子供。


「アリス、もう危ないところ行かなくていいんでしょ?」


 アリスは何も言えなくなる。


 その夜、中央行政区の休憩室でソファへ沈み込んだ。


「私」


 トミー。


「何」


「善意に」


 一拍。


「殺されそう」


 トミーは葉物野菜を齧った。


「かなり贅沢な死因だな」


「うるさい」


「嫌われて王様にされるよりいいだろ」


「好きだから王様やれって」


「もっと断りにくい」


「だろうな」


 アリスは顔をクッションへ押しつけた。


「晴翔なら」


「殴れる」


「うん」


「企業なら」


「怒鳴れる」


「うん」


「OUなら」


「アザドに文句言える」


「うん」


「子供」


 一拍。


「無理」


「無理だな」


「最悪」


     *


 その頃、新開市へ一人の外国人が入った。


 名をチャールズ・ブラウンという。英国籍。五十一歳。専門は政治社会学、正統性理論、集団行動、制度信頼。そして本人によれば「人が大勢集まって妙なことを始める現場一般」。


 入域審査官が端末を見る。


「渡航目的」


「観光です」


「職業」


「社会学者」


「新開市で現在発生している政治現象の調査では?」


「観光です」


「本当に?」


 チャールズはにこやかに笑った。


「非常に社会学的な観光です」


「研究ですよね」


「研究費を使っていませんので観光です」


「講演予定があります」


「旅行先で話すことくらいあります」


「メディア出演予定も」


「旅行先で喋ることもあります」


「……通ってください」


「ありがとうございます」


 チャールズは小さなキャリーケースを引きながら、王権支持デモの真ん中へ歩いていった。


     *


 彼はまず、デモ参加者へ聞いた。


「王政支持ですか?」


「違います」


「ではなぜ女王に権力を?」


「アリスなら安心だから」


「次の女王は?」


「いりません」


「興味深い」


 次に、市民公認ヴィランへ聞いた。


「なぜ女王を支持しながらヴィランを?」


 サムライ・スーツ姿の男。


「俺たちみたいなのを確実に倒せる権力が必要だからですよ!」


「なるほど」


「分かります?」


 チャールズ。


「いいえ」


「え」


「ですが非常に面白いです」


「学者って失礼だな!」


「よく言われます」


 さらに反王政デモへ行く。


「アリスさんは嫌いですか?」


「好きですよ」


「女王は?」


「嫌いです」


「ではアリス女王は?」


「それが困ってるんです!」


「素晴らしい」


「何が!」


「いや、社会学的に」


「帰れ!」


「取材が終わったら」


 チャールズは本当に楽しそうだった。


     *


 その日の夕方、英国系メディアの中継へ出演したチャールズは、司会者から現在の新開市をどう表現するか尋ねられた。


「革命でしょうか」


「いいえ」


「王政復古?」


「それも違います」


「では」


 チャールズは眼鏡を少し上げた。


「そうですね」


 一拍。


「《鏡の国の争い》とでも」


「鏡の国?」


「ええ」


「誰と誰が戦っているんです?」


 チャールズは背後に映る新開市の街を見た。


「アリスと」


 一拍。


「アリスです」


 司会者が眉を寄せる。


「どういう意味でしょう」


「街に生きたいアリスさんと」


「街が必要としている」


 一拍。


「女王アリス」


「本人の内面葛藤ということですか?」


「いいえ」


 チャールズは首を横に振る。


「そこが面白い」


「女王アリスは」


 一拍。


「もう」


「アリスさん個人から」


「独立しています」


 司会者が黙る。


「彼女が『私は女王ではない』と言っても、市民の期待の中に女王アリスがいる。外交文書の中にいる。企業の投資判断の中にいる。治安への安心感の中にいる。NECROテックの子供たちの将来への期待の中にもいる」


「つまり」


「彼女が王冠を外しても」


 チャールズ。


「王冠は」


 一拍。


「彼女の頭の上だけには」


「ないのです」


     *


 その映像を最初にアリスへ見せたのは祝部だった。


「アリス」


「何」


「面白いおっさんいる」


「今、面白さいらない」


「英国の社会学者」


「もっといらない」


「お前のこと《鏡の国の争い》って呼んでる」


 アリスの顔が止まった。


「何それ」


「見る?」


「……見せて」


 映像。


 チャールズ。


『王冠は、もう彼女の頭の上だけにはありません』


『支持者の手の中にあります』


『企業の手の中にあります』


『外国の手の中にあります』


『制度の手の中にあります』


『だから』


 一拍。


『彼女一人が』


『返すことはできないでしょう』


 アリスの目が細くなった。


「……こいつ」


 祝部。


「呼ぶ?」


「呼ぶ」


「早いな」


「呼んで」


「もう依頼送った」


「何で先にやってんの」


「来ると思ったから」


「お前も嫌い」


     *


 一時間後、チャールズ・ブラウンは中央行政区の小会議室にいた。ネクタイは少し曲がっている。世界的に知られた社会学者の割には威厳がなく、紙コップのコーヒーを嬉しそうに見ている。


 アリスは正面から睨んだ。


「私」


「鏡の国とか」


「言った?」


「はい」


「喧嘩売ってる?」


「いいえ」


「タイトルは必要ですから」


「学者のくせに軽い」


「学者だからこそ、読んでもらう必要があります」


「真面目にやれ」


「かなり真面目です」


 三岐が横で資料を開く。


「ブラウン教授、単刀直入に聞きます。現在の権限返還が社会的抵抗によって停滞している。この現象をどう見ますか」


「自然です」


 アリス。


「自然なの?」


「はい」


「こんな変なのが?」


「変ではあります」


「どっち」


「珍しいですが、理屈は通っています」


 チャールズはコーヒーを一口飲む。


「アリスさん」


「何」


「貴女は」


「王冠を外すのを」


 一度。


「やめればいい」


 アリスが固まった。


「は?」


 三岐も僅かに眉を動かす。


 祝部だけが笑いを堪えている。


「私、こいつ帰していい?」


「まだです」


 チャールズが手を上げる。


「誤解です」


「どういう意味」


「貴女が」


 一拍。


「貴女自身の権限で」


「退位を完成させようとするのを」


「やめる」


「……」


「貴女が『今日からこの権限はこの人に渡します』と最終決定する」


「それ自体が」


「女王の行為です」


 アリスの顔が変わる。


「……あ」


「お気づきになりましたね」


「むかつく」


「なぜ」


「言い方」


「気をつけます」


 チャールズは続ける。


「今、皆さんが王冠を支えています」


「なら」


「一人ずつ」


「手を離してもらわなければならない」


「どうやって」


「まず」


 チャールズは指を一本立てた。


「アリスさんを支持することと」


 一拍。


「アリスさんへ権力を集中させることを」


「別の行動にすることです」


「……」


「現在の新開市では」


「アリスを守りたい」


「イコール」


「アリスに権限を持たせたい」


「NECROを守りたい」


「イコール」


「アリスを権力者にしたい」


「街を安全にしたい」


「イコール」


「アリスを最終決定者にしたい」


「これらが全部」


 一拍。


「結びついています」


 御堂環が静かに頷いた。


「支持の表現方法そのものを変える」


「そうです」


 チャールズ。


「例えば」


「アリスさんを支持するなら」


「権限を」


「受け取ってもらう」


 アリス。


「……は?」


「王冠を支えている手へ」


「王冠の部品を渡すんです」


「支持者が」


「責任取る?」


「はい」


「女王陛下に全部任せたい、と言うなら」


「では、あなたは何を引き受けますか、と聞く」


 祝部。


「それ」


「嫌がる奴多そう」


 チャールズ。


「だから意味があります」


     *


 アリスは腕を組んだ。


「でも」


「子供」


「権限受け取れない」


「もちろん」


「NECROの子供が」


「私が女王なら安心って」


「言ってる」


 チャールズの表情が少し真面目になる。


「なら」


「その安心を」


「制度へ翻訳する」


 三岐。


「権利法制化」


「はい」


「子供に『私を支持するなら責任を取れ』とは言わない」


「大人へ言う」


 一拍。


「その子の安全をアリス一人へ預けるのではなく」


「自分たちが守れる制度を」


「一緒に作れ、と」


 アリスは少し黙った。


「……それなら」


「できる?」


「可能です」


「簡単?」


「いいえ」


「最悪」


「政治はたいていそうです」


「晴翔みたいなこと言う」


 チャールズが露骨に嫌そうな顔をした。


「それは」


 一拍。


「非常に不名誉ですね」


 アリス。


 少しだけ。


 笑った。


「お前」


「ちょっと好き」


「光栄です」


「ちょっとだけ」


「十分です」


     *


 チャールズはさらに資料へ目を落とした。


「もう一つ」


「何」


「アリスさん」


「貴女は」


 一拍。


「少し」


「皆さんを」


「甘やかしましたね」


 室内が静かになる。


 アリス。


「……は?」


「困れば」


「最後は」


「貴女が何とかする」


「暴走ドローン」


「外交」


「企業」


「ヴィラン」


「アライアンス」


「オールドユニオン軍」


「昨日も」


「最終的に貴女が噛み合わせた」


「だから皆さん」


「学習しました」


 アリスの顔が険しくなる。


「晴翔と」


「同じこと」


「言ってる」


 チャールズ。


「二度目ですね」


「嫌?」


「かなり」


「私も」


「意見が一致しました」


 三岐が溜息をつく。


「しかし指摘自体は正しいと思います」


 アリス。


「三岐まで」


「貴女が最後の安全装置である限り」


「人々には、権限を引き受けない合理性があります」


 御堂環。


「失敗してもアリスが直してくれる」


「はい」


 チャールズ。


「ですから」


「王冠の分解は」


「権限を渡すだけでは足りない」


「失敗する権利と」


 一拍。


「失敗した責任まで」


「街へ返す必要があります」


 アリスはしばらく何も言わなかった。


 それは怖い。


 誰かが失敗する。


 自分が止められた事故を。


 止められないかもしれない。


 でも。


 全部。


 自分。


 止める。


 なら。


 女王。


 残る。


「……難しい」


「はい」


「嫌」


「はい」


「でも」


 アリスは窓の外を見る。


「やる」


     *


 会議が終わる頃には、外でまた王権支持デモが始まっていた。広場に白い旗が並び、《アリスを一人にするな》《女王陛下を前線へ戻すな》という声が響いている。アリスは窓際へ立ち、それを見下ろした。


「チャールズ」


「はい」


「あいつら」


「私の敵?」


「いいえ」


「じゃあ」


「味方?」


「はい」


 アリスが振り返る。


「どっち」


 チャールズは少し笑った。


「だから」


 一拍。


「難しいんですよ」


「……」


「敵なら」


「倒せばいい」


「犯罪なら」


「止めればいい」


「ですが」


 彼は窓の外の人々を見る。


「鏡の中の相手は」


 一拍。


「敵ではありません」


「自分ですから」


 アリスも外を見た。


 女王を辞めたいアリスを、女王でいてほしい人々が守ろうとしている。アリスを危険から遠ざけるために権力を渡し、アリスを信頼しているから責任を預け、アリスに倒されるためにヴィランまで作る。その全部が、善意だけではなかった。企業の利益も、外国の思惑も、政治運動も、ただ騒ぎたいだけの人間も混ざっている。それでも中心には、確かに「アリスなら大丈夫」という信頼があった。


 新開市に生きるアリス。


 新開市の女王アリス。


 どちらも。


 同じ街から。


 生まれた。


 片方。


 偽物。


 ではない。


 だから。


 片方。


 倒せば。


 終わる。


 戦い。


 ではない。


 街の外では王冠を欲しがる国家が待ち、街の中では王冠を支える市民が手を伸ばし、その中心で一人の少女だけが、自分の頭から見えない冠を外そうとしている。


 後にチャールズ・ブラウンは、この日の新開市についてこう書いた。


 革命ではなかった。


 反革命でもなかった。


 王政復古でも。


 共和革命でも。


 なかった。


 それは。


 一人のアリスが。


 鏡の向こうに。


 生まれてしまった。


 もう一人のアリスと。


 同じ街を。


 どちらのものにも。


 しないための。


 争いだった。


 彼は。


 それを。


 《鏡の国の争い》。


 そう。


 名付けた。


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