↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
401/428

第401話 王冠の代価

 アライアンスは怒らない。少なくとも、人間が怒るようには怒らない。中立インフラへの攻撃を侮辱とは考えず、面子を傷つけられたとも考えず、復讐を望みもしない。ただ、そこに存在するべき中立の経路が破壊されようとしたという事実を認識し、その原因が継続しているなら除去する。”揺り篭の日”のような世界規模の崩壊を経験した後も、人間と物資と情報を通し続けるために作られた巨大な仕組みにとって、それは感情ではなく機能だった。だからこそ、アリスはアライアンスを恐れていた。怒っている相手なら謝れる。利益を求める相手なら取引できる。政治的立場を持つ相手なら落としどころを探せる。だが、インフラの巨龍は違う。眠っている間は何も要求しない。その代わり、逆鱗を撫でる者が現れた時、相手が誰であるかを理由に牙を引っ込めることもない。


 中央行政区の臨時指揮室で、アリスは氷の母との回線を開いた。壁面には複数の映像が並んでいる。日本国代表団車列の周囲では、アライアンス高速機動隊《F.QRE.D.QVE》が既に三妖機の制圧へ入っていた。ON=MORAKIが高層建築の間を縫って離脱を試みるたび、鳥脚を思わせる機体が先回りして逃走経路を切る。GASYA=DOKUROは巨体を活かして道路そのものを塞ごうとしていたが、複数のF.QRE.D.QVEが楔のように左右から入り込み、脚部の自由を奪っていた。NU=Eだけは未だ情報層を濁し続けていたものの、既に《中立インフラへの継続的攻撃》という判定が確定している以上、「誰が敵か分からない」という曖昧さには以前ほどの意味がなかった。


「止めて」


 アリスは開口一番に言った。


 氷の母の声はいつもと変わらなかった。


『何をでしょう』


「全部」


『不可能です』


「晴翔も雫も、新開市で裁く。真鍋にやらせる。三岐も入れる。必要なら日本側とも共同でやる。VPVDの損害も、新開市から補償する」


 少しの間があった。


『アリス』


「何」


『これは損害賠償の問題ではありません』


「壊した分払うって言ってる」


『中立インフラは、殴った後に代金を支払えば殴ってよいものではありません』


 アリスの顔が険しくなる。


「分かってる」


『いいえ。今の提案は、その理解と矛盾しています』


「じゃあどうすればいいの」


『既に必要な処置を行っています』


 画面の一つで、F.QRE.D.QVEがON=MORAKIの片翼を切り落とした。爆発させない。都市へ墜落させない。姿勢制御だけを奪い、別の一機がそのまま機体を抱えるように捕縛する。別画面では、GASYA=DOKUROの膝関節が二方向から固定され、巨体がゆっくりと道路へ沈んでいった。


「もう止まってる!」


『三妖機は、そうですね』


「じゃあ」


『海井雫は、まだです』


 アリスの喉が詰まった。


「雫は私たちが止める」


『いいえ』


「何で」


『アライアンスは、新開市の治安機構に中立インフラ防衛を委任していません』


「でもここ、新開市!」


『そうですね』


「なら!」


『アライアンスは新開市の味方ではありません』


 アリスが黙った。氷の母は声を強めなかった。それでも、その一言だけで室内の空気が冷えた。


『日本国の味方でもありません。オールドユニオンの味方でもありません。OCMの味方でもありません。そして、貴女の味方でもない』


「……」


『中立インフラの味方です』


「そのためなら」


 アリスは低く言った。


「誰とでも喧嘩する?」


『敵対、という表現を使うなら』


 一拍。


『はい』


「私とも?」


『もちろん』


 氷の母は少しも躊躇しなかった。


『貴女が、本当に新開市の女王であっても』


 その言葉を聞いた瞬間、アリスの眉間に深い皺が寄った。


「女王じゃない」


『そう仰っていましたね』


「今も」


『承知しています』


 だが氷の母は、その先を言わなかった。女王ではないなら、何の権限でアライアンスへ命じるのか。それをまだ問う必要がないからだ。


     *


 収監施設前では、津田義弘がジュリウス・ニエレレと二度目の戦いを始めていた。


 いや、戦いという言葉すら正確ではなかった。義弘だけが戦っていた。ジュリウスは任務を進めている。その差は、最初の十秒で明確になった。


 義弘はワイヤーを撃ち、建物の外壁を使って一気に高度を取った。都市戦ならば自分の間合いに持ち込める。真正面から力比べをする必要はない。上から角度を変え、ジュリウスの視線と防御方向をずらし、着地点を限定する。それが義弘のやり方だった。


 だがジュリウスは追わなかった。


 義弘が上へ消えた瞬間、踵を返して収監施設の入口へ歩き始めた。


「っ!」


 義弘は舌打ちし、ワイヤーを巻き取って強引に軌道を変えた。高所から取ったはずの優位を自分で捨て、ジュリウスと施設の間へ着地する。左膝に衝撃が走り、スーツ内へ警告が表示された。


《左膝補助機構:負荷超過》


 ジュリウスは止まった。


「都市機動を継続すれば、膝の損傷が悪化します」


「心配してくれんのか」


「事実を伝えています」


「優しいねえ」


 義弘は刀を構える。


「俺と戦えよ」


「必要がありません」


「だろうな」


 義弘が踏み込んだ。白い刃がジュリウスの肩口へ走る。ジュリウスは避けない。無彩色の前腕装甲をほんの少し傾けただけだった。刃は硬質音を立てて滑り、義弘の身体が前へ流れる。そこへ肘。義弘はぎりぎりで身を捻ったが、胸部装甲の端を掠めただけで折れた肋骨の奥に熱い痛みが走った。


「ぐっ……!」


 ジュリウスは追撃しない。


 また施設へ向く。


「おい!」


 義弘は止めるために再び踏み込まざるを得なかった。


 ジュリウスには弱点がないのではない。義弘が利用できる弱点を戦場へ出さない。義弘が距離を取れば雫へ向かう。近づけば最小限だけ受け、義弘にだけ体力を使わせる。刀を振れば装甲で流し、ワイヤーを使えば追わない。義弘を倒す必要がないから、勝負をする必要すらない。


「……性格悪いな」


「任務です」


「お前、それで全部済ませるな」


 ジュリウスの胸部装甲が一瞬だけ街灯を反射した。そこに、小さく刻まれた文字が見えた。


**Soli homines homines protegere possunt.**


 義弘は息を切らしながら、その文字を読んだ。


「人間を守れるのは、人間だけ、か」


「はい」


「皮肉か?」


「何がです」


「人間守るって書いて、人間壊しに来てる」


「海井雫を殺す任務ではありません」


「能力切るんだろ」


「はい」


「生きてりゃ守ったことになるのか?」


 ジュリウスは一瞬だけ沈黙した。


「少なくとも、死者にはしません」


「そういうとこだぞ、お前ら」


 義弘が苦笑した。


 その直後、左膝が僅かに崩れた。


 ジュリウスは見逃さない。


 義弘が体勢を立て直すより先に、彼の横を通り過ぎる。


「待て!」


 義弘は無理に踏み込み、刀を横へ払った。ジュリウスの背部装甲を浅く掠める。だが振り切った瞬間、肩から胸へ鋭い痛みが走り、呼吸が止まった。


 ジュリウスはまた止まる。


「戦闘継続を推奨しません」


「お前に推奨されたくねえよ」


     *


 アリスは氷の母との回線を切らずに、別窓でシュヴァロフの視界を開いていた。黒い家族機は義弘を連れ戻すために収監施設まで追ってきている。画面の端で、義弘がジュリウスへ何度も食らいついているのが見えた。


「……馬鹿」


 祝部が横から覗く。


「義弘さん?」


「両方」


「ジュリウスも?」


「そっちは嫌い」


『感情評価は不要です』


 氷の母の声。


「聞いてない」


 映像の中で義弘がまた膝をついた。ジュリウスは倒れた義弘を見下ろすことすらせず、収監施設へ進む。


 その時。


 シュヴァロフが動いた。


「シュヴァロフ?」


 アリスは命令していない。


 黒い巨体が義弘の横を抜け、ジュリウスへ巨大な腕を振り下ろす。さすがのジュリウスも正面では受けず、数メートル横へ滑るように回避した。路面が砕ける。


 義弘が顔を上げる。


「おい!」


 シュヴァロフは返事をしない。アリスから受けている命令は義弘を病院へ戻すことだ。だが目の前では、その義弘が倒れ、その先には雫がいる。


 現在。


 危険。


 守る。


 家族機。


 シュヴァロフは自分で優先順位を変えた。


 ジュリウスが初めて、黒い機体を真正面から見た。


「シュヴァロフ」


 義弘が息を整えながら立ち上がる。


「悪いな」


 巨大な腕がもう一度振るわれる。


 今度、ジュリウスは懐へ入った。


 速い。


 シュヴァロフの腕が最も力を発揮する軌道の内側へ潜り込み、脇側の関節保護部へ拳を叩き込む。装甲を破壊するほどの一撃ではない。それでも駆動部の制御が一瞬遅れた。次に、ジュリウスは頭部側面へ回り込み、複眼状の補助センサー群へ掌底を打ち込んだ。


 アリスの映像が乱れた。


「シュヴァロフ!」


 ノイズ。


 一秒。


 二秒。


 映像が戻る。


 視界の右側が黒い。


 一部センサーが死んだ。


「お前!」


 アリスが思わず画面へ怒鳴る。


 当然、ジュリウスには届かない。


 シュヴァロフが巨大な爪を振るう。ジュリウスは半歩でかわし、今度は脚部関節の外側へ蹴りを入れる。シュヴァロフの身体がわずかに傾く。


 義弘がそこへ入った。


「こっちだ!」


 ワイヤーをジュリウスの左後方へ撃ち込み、一気に引く。義弘自身が飛ぶのではない。ワイヤーを路上の構造物へ絡ませ、ジュリウスの逃げられる方向を一つ潰す。


 ジュリウスが右へ避ける。


 そこへ。


 シュヴァロフの腕。


 初めて、完全に入った。


 無彩色の装甲が鈍い音を立て、ジュリウスの身体が数メートル横へ飛ばされた。壁へ片足をついて衝撃を逃がす。胸部装甲に、一本の深い擦過痕。


 義弘が笑った。


「当たった」


 ジュリウスは傷を見た。


「はい」


 それだけだった。


 次の瞬間には、また収監施設へ向かう。


「……お前なあ!」


 義弘は笑う余裕を失った。


     *


 義弘とシュヴァロフが二人がかりでも、状況は変わらなかった。むしろ悪化した。ジュリウスは二人を倒そうとしない。義弘が動きを止めれば雫へ向かう。シュヴァロフが関節を庇って下がれば雫へ向かう。だから二人は攻撃を続けなければならない。続ければ、消耗する。


 義弘の左膝は既に補助出力の限界へ近づいていた。胸部の痛みは呼吸のたびに増し、右肩も刀を上げるたびに鈍く軋む。シュヴァロフも片側センサーを失い、右上腕の動作に微かな遅れが生じている。


 ジュリウスだけが変わらない。


 義弘が刀を振る。


 装甲でいなす。


 シュヴァロフの爪。


 関節の内側へ入り込む。


 義弘がワイヤー。


 雫へ進む素振り。


 義弘が戻る。


 ただそれだけで、義弘は自分から傷を深くする。


「……クソ」


 義弘の呼吸が荒くなる。


 ジュリウス。


「退いてください」


「嫌だ」


「このままでは、あなたの後遺障害が増えます」


「医者みたいなこと言うな」


「医学知識もあります」


「何でもあるな、お前」


「任務に必要です」


「弱点ねえのかよ」


 ジュリウスは答えなかった。


 ある。


 もちろん人間なのだからある。


 ただ、その弱点をこの場で使わせない。


 それこそが、CRADLE LESSONだった。


     *


 収監施設の内部で、雫はその映像を見ていた。既にNU=Eとの接続は切断され、技能転用プログラムの権限は全面停止されている。端末へ触れることすら許されず、警備員と職員に囲まれている。それでも施設外の安全監視映像だけは消されていなかった。


 義弘がよろめく。


 シュヴァロフの右腕が一瞬止まる。


 ジュリウスが二人の間を抜けようとする。


「やめろ」


 雫は画面へ言った。


 誰も聞かない。


「もういいって」


 義弘がまた前へ出る。


「帰れよ」


 帰らない。


「私がやったんだから」


 義弘が刀を振る。


「私が悪いんだから」


 ジュリウスが受け流す。


「もう」


 雫の手が震える。


「私なんか」


 言いかけて。


 止まる。


 義弘なら。


 怒る。


 多分。


 今。


 この状況でも。


 怒る。


 雫は唇を噛んだ。


「……馬鹿」


 自分。


 だった。


     *


「氷の母」


 アリスの声が変わった。


『はい』


 彼女はシュヴァロフのセンサー越しに、義弘がまた壁へ叩きつけられるところを見ていた。ジュリウスは致命傷を狙っていない。それでも今の義弘には、一発一発が十分重い。シュヴァロフも徐々に動きを削られている。


「次」


『何でしょう』


「次、中立インフラ殴る奴出たら」


 アリスは拳を握った。


「私が止める」


 祝部が振り向く。


 三岐も。


 真鍋も。


 回線の向こうで黙る。


「責任持って」


 一拍。


「私が相手する」


 氷の母は少し沈黙した。


『素晴らしい提案です』


 アリスの顔がわずかに緩む。


「じゃあ」


『しかし、問題があります』


 また硬くなる。


「何」


『どういった権限で』


 一拍。


『貴女がそれを行うのですか?』


 アリスは答えられなかった。


「特別調停官」


『権限外です』


「新開市の治安協力」


『協力主体であって、治安機関そのものではありません』


「真鍋から」


 真鍋が口を開こうとするより早く、氷の母が続ける。


『現在、その委任はありません』


「市長」


『同様です』


「じゃあ」


 アリスの声が少し荒くなる。


「私が責任取るって言ってる!」


『責任は』


 一拍。


『権限ではありません』


 その言葉に、義弘の病室で聞いたやり取りが一瞬だけ蘇った。氷の母は以前、義弘にも同じことを言った。海井雫の能力切断を止める責任を自分が持つと言った義弘へ。


 責任は権限ではありません。


 アリスの口が閉じた。


『アリス』


「何」


『貴女が、中立インフラへの攻撃者を新開市側の責任として確実に停止させると約束する。その約束を理由にアライアンスへ介入の停止を求める』


「うん」


『ならば』


 氷の母。


『何として』


 一拍。


『責任を負いますか?』


 アリスは答えを探した。


 特別調停官。


 足りない。


 市長。


 違う。


 治安機関。


 違う。


 代表団。


 違う。


 自分はずっと、そのどれより上に立つことを拒んできた。アリスが決めれば全部が決まる街を作りたくなかった。皆が自分で決め、自分で助け、自分で悪党の席から降りられる街にしたかった。


 なのに。


 画面の向こう。


 義弘。


 また。


 膝。


 つく。


 シュヴァロフ。


 センサー。


 また。


 飛ぶ。


 ジュリウス。


 雫。


 向かう。


「……やめて」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


     *


 義弘は刀を落としかけた。右手の握力が抜けたのではない。胸の奥へ刺さる痛みで一瞬呼吸が止まり、その瞬間だけ指の力が緩んだ。


 ジュリウスは見逃さない。


 刀身を前腕装甲で押し上げ、そのまま義弘の肩へ掌底を入れる。


「っ!」


 義弘の身体が壁へ叩きつけられる。


 白い装甲が軋む。


 左膝が床へ落ちる。


 シュヴァロフが割って入る。


 ジュリウスは巨大な腕を潜り、損傷済みの関節へ二度目の打撃を入れた。


 鈍い音。


 シュヴァロフの右腕が垂れる。


「シュヴァロフ!」


 アリスの声が通信越しに届いた。


 黒い機体が、それでも左側の二本の腕でジュリウスの進路を塞ぐ。


 ジュリウスは止まらない。


 シュヴァロフを破壊する必要はない。


 雫へ。


 向かう。


「待て……!」


 義弘が刀を杖のようにして立つ。


 ジュリウスは振り返る。


「まだ続けますか」


「当然」


「あなたは」


 一拍。


「海井雫より先に」


「戻れなくなる可能性があります」


 義弘は、血の味が混じった唾を飲み込んだ。


「そりゃ」


 一拍。


「困るな」


「なら」


「でも」


 義弘は刀を上げる。


「俺が退いたら」


「お前」


「行くだろ」


「はい」


「なら」


 義弘。


 笑う。


「退けねえ」


     *


 アリスは、その笑いを見た。


 腹が立った。


 死ぬほど腹が立った。


 また勝手に病院から抜け出して、また自分の身体を使って、また誰かの出口に身体を挟んでいる。


「……として」


 アリスが言った。


 氷の母。


『聞こえません』


 祝部がアリスを見る。


 三岐も何も言わない。


 真鍋は口を結んでいる。


 アリスは喉を鳴らした。


 その言葉を、世界中が勝手に使った。


 晴翔が使った。


 企業が使った。


 支持者が使った。


 外交官が使った。


 報道が使った。


 アリス自身だけが。


 使わなかった。


「新開市の」


 一拍。


 声が少し震えた。


「“女王”として」


 室内から音が消えたように感じた。


 祝部が息を止める。


 三岐の目が僅かに見開かれる。


 真鍋だけが、深く眉を寄せた。


 氷の母は。


 笑わなかった。


 勝ち誇らなかった。


 ただ。


『承知しました』


 その声は、普段と何も変わらない。


『では、その言葉に責任を持ってください』


 アリスは拳を握りしめた。


「持つ」


『海井雫、および今後中立インフラへの直接的脅威となる者について、新開市側が先行して停止措置を取る。必要であればアライアンスへ即時情報共有を行う』


「うん」


『新開市側の対応が不十分であった場合』


「……」


『アライアンスは再び介入します』


「分かった」


『また』


 氷の母。


『貴女が女王を名乗ったことは』


 アリスの顔が。


 さらに。


 嫌そう。


 になる。


『アライアンスが貴女へ服従することを意味しません』


「分かってる!」


『女王であろうと』


 一拍。


『アライアンスの上には立ちません』


「分かってるって!」


『では』


 氷の母。


『ジュリウス』


     *


 収監施設前。


 ジュリウスが義弘とシュヴァロフの間を抜けようとした、その瞬間だった。


『ジュリウス』


 通信。


 氷の母。


 ジュリウスが止まる。


『停止してください』


 義弘も。


 動きを。


 止める。


「……何」


 ジュリウスは義弘を見た。


「任務」


 一拍。


「一時停止」


 その言葉を聞いた瞬間、義弘の全身から力が抜けた。壁へ背中を預け、そのままゆっくり座り込む。


「……助かった」


「まだです」


 義弘。


 顔。


 上げる。


「海井雫の現在行動監視は継続します」


「そうかよ」


「次に同様の行動が確認された場合」


 一拍。


「止まりません」


 義弘は荒い息のまま、少し笑った。


「次」


「作らせねえよ」


 ジュリウスはそれに答えなかった。


 光学迷彩を起動するでもない。


 雫の施設へ進むでもない。


 ただ。


 その場。


 立つ。


 中立。


 として。


     *


「……女王」


 収監施設の中で、雫が呟いた。


 職員が彼女を見る。


「何です?」


 雫は答えなかった。施設内の共有回線にも、アライアンス側との交渉結果が断片的に入っていた。


 アリスが。


 言った。


 新開市の。


 女王として。


 それは。


 アリスが。


 一番。


 嫌がっていた。


 言葉。


 だった。


 晴翔が何度呼んでも否定した。


 世界中がそう扱っても否定した。


 企業が利益に使っても。


 外交が認めても。


 支持者が王冠を被せても。


 拒んだ。


 でも。


 今。


 義弘。


 雫。


 シュヴァロフ。


 守る。


 ため。


 自分で。


 言った。


「……私」


 雫の声が震えた。


「何やってんの」


 誰も答えなかった。


「晴翔止めるって」


「……」


「アライアンスぶつけて」


「義弘また壊して」


「シュヴァロフも」


 雫は顔を伏せた。


「アリスに」


 一拍。


「王様」


「やらせて」


 職員が静かに言う。


「海井さん」


「何」


「今は」


「何も触らないでください」


 以前なら。


 その言葉に。


 怒った。


 今は。


 雫。


 小さく。


 頷いた。


「……うん」


     *


 大泉晴翔は、日本国代表団側の仮設室で、その言葉を聞いた。


《新開市の“女王”として》


 側近が晴翔を見る。


「先生」


「……」


「これ」


「望んでたんですか」


 晴翔はすぐには答えなかった。


 アリスが王冠を被る可能性は考えていた。むしろ何度も、その方向へ条件を作った。世界が勝手に女王と呼ぶことも、政治権限がアリスへ集中することも、晴翔にとっては興味深い現象だった。


 だが。


 今。


 アリスが。


 王冠を。


 被った。


 理由。


 自分。


 倒す。


 ため。


 ではない。


 政治。


 勝つ。


 ため。


 でもない。


 雫が。


 戻れなくなる。


 こと。


 止める。


 ため。


 義弘が。


 壊される。


 こと。


 止める。


 ため。


 晴翔はしばらく画面を見ていた。


「なるほど」


 側近。


「何がです」


 晴翔の笑みは、いつもより小さかった。


「王冠って」


 一拍。


「そういう時に」


「被るんですね」


「何を感心してるんです」


「学びです」


「あなたのせいでもあるでしょう!」


「今回は」


 晴翔は少し考えた。


「海井さんの方が」


 一拍。


「直接的ですね」


「責任逃れしないでください」


「していません」


 晴翔は画面から目を離さなかった。


 それでも。


 楽しそう。


 だった。


 ただ。


 いつもの。


 笑い。


 だけでは。


 なかった。


     *


 当然、その発言は数分もしないうちに外へ漏れた。


《アリス、自ら「新開市の女王」を宣言》


《女王アリス、アライアンスと直接交渉》


《アライアンス、女王の要求を受諾》


《新開市王政、事実上成立か》


《“女王として責任を負う”――歴史的発言》


 アリスは画面を見た。


「……」


 祝部。


「アリス」


「殺す」


「誰」


 アリスは少し考えた。


「全員」


「増えたな」


「切って」


「ネット?」


「全部」


「無理」


 三岐透子がすぐに端末を置いた。


「何を言ったんですか」


「聞いてたでしょ」


「確認しています」


「必要だった」


「必要なら女王を名乗ってよいのですか」


「義弘死にそうだった!」


「だからこそ」


 三岐は強い声で言った。


「その言葉の後始末をしなければなりません」


「分かってる!」


 アリスも怒鳴り返した。


 室内。


 一瞬。


 静か。


 三岐。


 アリス。


 見る。


「……なら」


 一拍。


「やりましょう」


 アリスの目が少しだけ動く。


「何を」


「王冠を」


 三岐。


「制度に固定しないための」


「後始末です」


 祝部も息を吐いた。


「俺もやる」


 アリス。


「お前は配信訂正」


「もうやってる」


「全部」


「無茶言うな」


 真鍋。


「私は雫と晴翔の処理だ」


 アリス。


「晴翔」


 顔。


 険しく。


「絶対」


「逃がさない」


 真鍋。


「法でな」


「分かってる」


     *


 義弘は結局、その日のうちに再び療養施設へ運び戻された。今度は自力で帰る余裕すらなかった。胸部損傷の悪化、左膝の炎症再発、右肩の可動域低下。幸い、致命的な新規損傷はなかったが、医師からは「次に同じことをすれば知らない」と本気で怒鳴られた。シュヴァロフも整備区画へ運ばれ、右上腕関節と補助センサー群の交換が始まった。


 トミーは病室のベッドへ戻された義弘を見て、耳を立てた。


「四回目」


「まだ言うの?」


「次やったら五回目」


「縁起悪いな」


「やるな」


「努力する」


「信用ない」


 義弘は苦笑した。


 その横で。


 アリス。


 腕。


 組んでる。


「……」


 義弘。


「何」


「殺す」


「俺?」


「うん」


「晴翔は?」


「あと」


「順番か」


「何で出た」


「雫が」


「知ってる!」


「じゃあ」


「知ってても!」


 アリスは義弘のベッドへ一歩近づいた。


「私」


 一拍。


「女王って」


「言った」


 義弘の表情が少し変わった。


「……そうか」


「聞いてない?」


「途中から意識飛びかけてた」


「役立たず」


「ひでえな」


 アリス。


 笑わない。


「義弘」


「何」


「私」


 一拍。


「言った」


「うん」


「自分で」


「ああ」


「嫌だった」


「だろうな」


「でも」


 アリスは手を握る。


「お前」


「雫」


「シュヴァロフ」


「止めないと」


「……うん」


 義弘はしばらく黙った。


「後悔してる?」


「してる」


 即答。


「言わなきゃよかった?」


 今度は。


 アリス。


 すぐ。


 答えなかった。


 長い。


 沈黙。


「……でも」


「うん」


「もう一回」


 一拍。


「同じだったら」


 義弘は待つ。


 アリス。


 顔。


 歪める。


「多分」


 一拍。


「言う」


 義弘は目を閉じた。


「そっか」


「何」


「いや」


「何」


「お前らしい」


「褒めてる?」


「半分」


「残り半分」


「危ねえ」


 アリス。


「……知ってる」


 それが。


 一番。


 嫌。


 だった。


     *


 アリスは王になりたかったわけではない。王冠を欲しがったこともない。むしろ世界中がそれを被せようとするたび、彼女は両手で払い落とそうとしてきた。自分が決めなくても街が決められるように、自分が現場へ行かなくても誰かが人を助けられるように、自分が誰かを悪党と呼ばなくても現在の行動だけで止め、そして戻れるようにしようとしてきた。


 それでも。


 誰かが。


 戻れなくなる。


 瞬間。


 そこ。


 止める。


 力。


 王冠。


 しか。


 ない。


 なら。


 アリスは。


 そこへ。


 手を。


 伸ばす。


 今日。


 初めて。


 自分の意思で。


 被った。


 借り物。


 だった。


 はず。


 王冠。


 でも。


 一度。


 自分の。


 名前で。


 責任。


 引き受けた。


 氷の母は。


 それを。


 忘れない。


 三岐も。


 祝部も。


 晴翔も。


 世界も。


 忘れない。


 そして。


 多分。


 アリス自身も。


 もう。


 忘れられない。


 善意で被る王冠は、悪意で奪う王冠よりも軽く見える。誰かを守るため。誰かの出口を残すため。危険を止めるため。それなら一度くらいと、人は思う。


 けれど。


 その一度。


 こそ。


 重い。


 王冠は。


 頭に。


 載っていない。


 それでも。


 アリスは。


 その夜。


 何度も。


 額。


 触った。


 見えない。


 何も。


 ない。


 なのに。


 確かに。


 重かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。