第399話 離席
大泉晴翔が最初に思い描いていたものとは、ずいぶん違う形になった。それでも、彼が新開市へ持ち込んだ仕組みは、ついに一つの完成を迎えたと言ってよかった。誰かが不満を抱く。機会を見つける。悪党の席へ座る。ヒーローがそれを止める。負けた者には出口が用意され、責任を取った後には別の場所へ戻ることができる。そして空いた悪党の席には、また別の誰かが座る。以前、その循環を作るためには晴翔自身が人間と人間の間へ手を入れ、情報や機会や導線を慎重に置かなければならなかった。今は違う。サムライ・ヴィランは誰に命令されるでもなく勝手に名乗り、企業は利益のために対抗装備を作り、配信者は注目のために騒動へ飛び込み、政治団体は自分たちの理念を悪役の衣装へ押し込み、サムライ・ヒーローはそれぞれの現在行動を判断して彼らを止める。アリスたちは騒動を起こすことではなく「降りること」に報酬をつけ始め、その出口さえ、新しい歯車の一部として街の中へ組み込まれつつあった。晴翔が何もしなくても、新開市が新開市自身を回す。それを数日間眺め続けた晴翔は、珍しく静かな満足感に浸っていた。
「先生」
「はい」
「最近、本当に何もしてませんよね」
「失礼ですね。仕事はしています」
「新開市の騒動についてです」
「それなら、ほとんど何も」
側近は端末へ並ぶ映像を見た。KUROGANEとKASANE。別地区で活動する新しいサムライ・ヴィラン。治安機関。Ghost Hero。サムライ・ヒーロー。途中で武器を捨てて拘束に応じる者。その一方で、新たな未登録スーツを身につけて悪党の席へ座ろうとする者。確かに、そのどこにも晴翔の直接命令はない。
「なのに回ってる」
「ええ」
「……嬉しいんですか」
晴翔は少し考え、窓の向こうに広がる新開市を見た。
「完成ですね」
「何がです」
「新開市が」
一拍置いて、晴翔は笑った。
「自分で、新開市を回している」
側近は嫌そうな顔をした。
「言い方が怖いです」
「褒めているんですよ」
「誰を」
「街を」
晴翔は満足そうだった。だが、その満足は長くは続かなかった。日本国代表団と新開市代表団の残余交渉は、もう終盤に入っている。今回の滞在が終われば、日本側の主要メンバーは順次帰国する。晴翔も当然、その中に含まれる。
「……もったいないですねえ」
側近が顔を上げる。
「何がです」
「こんなに面白い街なのに」
晴翔は本気で惜しそうに言った。
「もうすぐ帰らないといけない」
「帰ってください」
「冷たいですね」
「あなたがここにいると仕事が増えるんです」
「最近は何もしていないのに?」
「何もしなくても増えるようにした人が言うな!」
晴翔は少し笑ったあと、机の上の次期日新関係資料へ手を伸ばした。
「では」
「何です」
「定期的に来られるようにしましょう」
側近の顔が引きつった。
「観光ですか?」
「仕事ですよ」
「絶対嘘だ」
*
晴翔は、自分から「今後も新開市との定期連絡役を務めたい」とは言わなかった。それを言えば、アリスは即座に拒絶し、新開市代表団も少なくとも晴翔個人の恒常参加には強く警戒する。それくらいのことは分かっている。だから晴翔がやったのは、もっと普通で、もっと正しいことだった。今回の交渉で積み残された細部を整理し、日本国と新開市の間に定期的な実務連絡協議を置くべきだと、日本側代表団の複数の実務担当へ提案したのである。
「今回だけの会合で終わらせるより、定例の協議窓口を作った方がいいでしょう」
日本側官僚が頷く。
「サムライ運用、企業認証、NECRO関連、治安協力。確かに一度では終わらない」
「特別調停官制度も暫定ですし、制度移行の確認も必要です」
「問題は誰を常任窓口にするかですね」
「持ち回りでいいでしょう」
晴翔はそこで自分の名前を出さなかった。
「現地事情を理解している者が、その都度参加する形で」
「今回の経験者は?」
「必要なら」
晴翔は少し笑った。
「私でも構いませんが」
それだけだった。だが日本側では、別の理屈が自然に育っていった。アリス本人に会えるのは政治的にも外交的にも魅力がある。とはいえ新開市はまだ不安定で、サムライ・ヴィランまで出現し、代表団車列の安全すら完全には保証できない。ならば、今回の会合を円満にまとめ、現地事情にも詳しく、危険な状況でも動ける実績のある人物を同行させるのが合理的ではないか。そこまで空気が育てば、あとは日本側自身の口から晴翔の名が出る。
比嘉日向だけは、文案を見た瞬間に眉間を押さえた。
「これ、大泉先生が仕込んでますよね」
「証拠はありません」
「あなたが本人でしょう!」
「だからこそ客観的に申し上げています」
「何を!」
「制度としては合理的です」
比嘉はしばらく晴翔を睨んだ。
「あなた」
「はい」
「新開市に遊びに来たいだけでしょう」
晴翔は一瞬だけ考えた。
「完全には否定しません」
「否定してください!」
*
同じ文書を受け取ったアリスは、三行読んだところで晴翔の名前を口にした。
「晴翔」
祝部。
「まだ名前出てない」
「晴翔」
三岐。
「提案元は日本国代表団です」
「だから晴翔」
「証拠はありません」
「義弘に聞く」
その日のうちに療養施設へ持ち込まれた資料を、義弘はベッドの上で最後まで読んだ。胸部固定はまだ外れておらず、左膝も安静指定が続いている。シュヴァロフは当然のように病室の出口側へ座っていた。
「どう」
アリス。
「多分晴翔」
アリスが祝部を見る。
「ほら!」
「義弘さんも証拠ないだろ」
「ない」
「じゃあ何で」
「やりそうだから」
「二人とも感覚で政治すんな!」
義弘は資料をもう一度見た。
「でも定期協議自体は止めんな」
アリス。
「何で」
「必要だから」
「晴翔来る」
「そこだけ止めろ」
「どうやって」
「知らん」
「役立たず」
「俺、病人」
「自分でなった」
「最近それ言われすぎじゃねえ?」
トミーが窓際から言う。
「事実だからな」
義弘はトミーへ文句を言いかけたが、途中でやめた。アリスの顔が本気で険しくなっていたからだ。
「二つある」
アリス。
「何が」
「晴翔止める」
一つ。
「街止める」
もう一つ。新開市では今もサムライ・ヴィランが増え続けている。全盛期ほど無軌道ではなくなったとはいえ、悪党の席が一つの選択肢として定着しつつある。企業試験、政治活動、売名、ヒーローへの挑戦。それぞれが「ヴィラン」を名乗る理由を持ち始めている。
「両方やればいい」
祝部。
「人足りない」
真鍋から送られた配置表を、アリスが机へ投げる。治安機関もサムライ・ヒーローもGhost Heroも、既に広域対応へ分散している。日本側との会合処理も残っている。晴翔の定期参加工作を政治的に潰すなら、日本側との継続交渉へかなりの労力を割く必要があった。
義弘が静かに訊く。
「どっち先にする」
アリスは長く黙った。晴翔が定期的に新開市へ来る。それだけで腹が立つ。何より、また街を舞台にして遊ばれるのが嫌だった。しかし、その参加を止められるかどうかは日本国側の事情にも依存する。自分が「嫌だから来させるな」と押し切れば、それこそ女王の私人感情で外交人事を決めることになる。
「……街」
義弘。
「先?」
「うん」
アリスは嫌そうに顔を歪めた。
「晴翔より」
一拍置く。
「今燃えてる方」
義弘は少しだけ笑った。
「それでいい」
「でも晴翔も絶対あとでやる」
「知ってる」
「逃がさない」
「それも知ってる」
*
アリスがサムライ・ヴィランへ向けた呼びかけは、その日の夕方から始まった。最初の草案では「サムライならサムライ・ヒーローを目指すべき」という一文が入っていたが、アリス自身が読み返して削った。
「違う」
祝部。
「何が」
「サムライだからヒーロー」
「駄目?」
「決めつけ」
三岐。
「そうですね」
「サムライ・スーツの所有や技能を、特定の職業倫理へ強制的に結びつけるべきではありません」
アリス。
「だから」
端末へ打ち直す。
「ヒーローなりたいなら、なればいい」
「試験したいなら」
「試験場作る」
「政治したいなら政治やれ」
「配信したいなら配信しろ」
「私に見てほしいなら」
一拍。
「知らない」
祝部。
「そこだけ雑」
「でも」
アリスの声が低くなる。
「人殴るために」
「悪党の席」
「仕事にするな」
真鍋が頷いた。
「そこだな」
三岐はさらに制度側を詰めた。自主的に武装解除を申し出たサムライ・ヴィランは、治安機関が安全に離脱させる。違法改造機は証拠保全のため一時押収するが、即時破壊を原則とはしない。技術者には合法的な試験・開発制度への申請経路を示し、元ヒーローや元企業戦闘員には救助、警備、競技、試験業務などへの転用路を提示する。政治目的ならば武装ではなく政治活動へ戻る道を設ける。もちろん、既に行った犯罪行為への責任は司法手続きで問われる。しかし「サムライ・ヴィランだった」という肩書きそのものを永久の身分にはしない。
祝部が資料を見ながら言う。
「俗称どうする?」
真鍋。
「いらん」
「どうせネットがつける」
アリスが少し考えた。
「離席」
「何」
「悪党の席」
一拍。
「降りる」
祝部が頷く。
「《離席》」
三岐。
「行政名称にはしませんよ」
「分かってる」
その日の夜、アリスは全市配信へ出た。背後に旗もない。サムライも並べない。白いパーカーのまま、祝部が置いたカメラの前へ立つ。
「サムライ・ヴィラン名乗ってる奴」
一拍置く。
「聞いて」
「サムライだからヒーローになれとは言わない」
「でも」
「ヴィランを仕事にするな」
「ヒーローなりたいなら来い」
「機械試したいなら、ちゃんと試せる場所作る」
「政治したいなら、武器置いて政治やれ」
「配信したいなら、知らない。勝手にしろ」
祝部が横で小声を出す。
「そこ少し優しく」
「嫌」
アリスは続けた。
「今までやったこと」
「消えない」
「犯罪したなら責任取る」
「でも」
一拍。
「悪党だから」
「ずっと悪党でいろとは」
「言わない」
赤い目がまっすぐカメラを見る。
「自分で座ったなら」
一拍。
「自分で立て」
「悪党の席」
「降りろ」
*
その呼びかけへ最初に真正面から応じたのは、KUROGANEだった。翌日午後、彼は以前KASANEと対峙した旧金融街の広場へ再び現れた。今回は逃げる様子もない。黒いサムライ・スーツ。刀一本。周囲には治安機関が距離を取り、KASANEが一人前へ出る。
「来ると思っていました」
KASANE。
「なぜ」
「あなたは」
一拍。
「答えを聞きたがる人だから」
KUROGANEが少し笑う。
「お前」
「前よりヒーローっぽくなったな」
「それはアリスが決めることではありません」
「もうそこまで覚えたか」
KASANEの通信へアリスが入る。
『KUROGANE』
黒いサムライが僅かに顔を上げた。
「名前」
アリス。
『今回だけ』
祝部。
『ほら、呼ばれたぞ』
アリス。
『邪魔』
KUROGANE。
「女王に名前を呼ばれるのも」
「悪くないな」
『女王じゃない』
「知ってる」
アリスは少し黙った。
『お前』
「何だ」
『私に見てほしかった?』
「違う」
『じゃあ何』
「女王の騎士が」
一拍。
「本当にヒーローか」
「確かめたかった」
アリス。
『分かった?』
KUROGANEはKASANEを見る。前回、アリスに「敵」と言われれば斬るのかと問うた男。今回は、アリスの命令ではなく、現在行動を見て自分の前へ立っている。
「少し」
アリス。
『じゃあ』
一拍。
『もういいでしょ』
「何が」
『席』
アリスの声は、命令というより面倒そうな説得に近かった。
『降りろ』
KUROGANEは黙った。刀を見た。KASANEを見た。周囲の治安機関を見た。
「俺が降りたら」
一拍。
「お前は俺を忘れるか」
アリス。
『多分』
KUROGANEが笑った。
「最悪の女王だな」
『女王じゃない』
「知ってる」
そして、黒いサムライは刀を地面へ置いた。KASANEはそれを拾わない。真鍋の指示を受けた治安機関員が、武器を持たずにゆっくり近づく。
「罪は?」
KUROGANE。
三岐の声が遠隔回線へ入る。
『それは別です』
「厳しいな」
真鍋。
『当たり前だ』
「捕まる?」
『必要な事情聴取と司法手続きは受けてもらう』
「スーツは?」
『押収』
「返る?」
『合法化できる部分は検討する』
KUROGANEは一度だけ空を見た。
「……じゃあ」
一拍。
「降りる」
アリス。
『うん』
「もうヴィランじゃない?」
アリス。
『今』
一拍。
『もうやめたなら』
『今は違う』
それで終わりだった。恩赦ではない。無罪でもない。王からの赦しでもない。ただ、悪党の席から降りたという現在行動だけが、そこで評価された。
その映像は思った以上に街へ効いた。企業試験を目的にヴィランを名乗っていた者の一部は、正式な対抗試験制度への参加申請を出した。配信系の何人かは「離席配信」の方が再生数を稼げると気づき、自主的に武装解除した。政治系の一部は「女王の恩赦など受けない」と反発したが、それでも内部から「武装している必要はない」という離脱者が出た。もちろん残る者もいた。むしろ「降りたら負けだ」と過激化する者もいる。それでも、悪党の席へ座っていること自体の価値は、確実に下がり始めていた。
*
その映像を見ていた晴翔は、本当に満足そうだった。
「先生」
「はい」
「サムライ・ヴィラン」
「減り始めてますよ」
「ええ」
「失敗じゃないんですか」
「何がでしょう」
「先生が種を蒔いたんでしょう?」
「少しは」
「悪党の席から降りてる」
晴翔は端末へ映るKUROGANEの武装解除を見た。
「出口が」
一拍。
「機能していますね」
「……嬉しいんですか」
「ええ」
「アリスに止められてるのに?」
「止める?」
晴翔は少し首を傾ける。
「私は、誰かを永久に悪党へしたかったわけではありませんよ」
側近。
「でもまた誰か座るでしょう」
「かもしれません」
「じゃあ」
「その人も」
晴翔。
「降りればいい」
「先生の勝ち負けって何なんです?」
「生きて戻れるなら」
一拍。
「かなり勝ちに近いですね」
側近は頭を抱えた。
晴翔はその横で、別の端末を開いた。
三つ。
認証。
《NU=E》
《ON=MORAKI》
《GASYA=DOKURO》
側近の顔色が変わる。
「……先生」
「はい」
「何してます」
「確認です」
「何の」
「帰国日程」
日本国代表団の帰路。車列。警備計画。
側近。
「これ」
一拍。
「本当にやるんですか」
晴翔。
「何をでしょう」
「もう、その言い方やめてください!」
晴翔は答えなかった。三妖機の起動準備だけが、静かに進んでいった。
*
狙いは、日本国代表団の帰路だった。会合を成功させた日本側が新開市を離れる。そのタイミングで治安上の大きな不安が可視化されれば、「今後も定期協議が必要だ」という主張はさらに強くなる。しかも次回以降、日本側にも現地の特殊事情を理解する人物が必要になる。今回の会談を調整し、サムライ・ヴィランに襲われても生き残り、複雑な新開市の政治環境に慣れている大泉晴翔。その名が自然に候補へ上がる。
晴翔は、自分自身も代表団車列に乗る予定を変えなかった。
「先生も乗るんですよね」
「代表団ですから」
「危ないですよ」
「そうですね」
「三妖機が出たら!」
晴翔は少し考えた。
「それは」
一拍。
「大変ですね」
「何でちょっと嬉しそうなんですか!」
「怖いので」
「普通、怖かったらやめるんです!」
「そうなんですか」
「そうです!」
*
三妖機の動きを最初に捉えたのは真鍋だった。日本国代表団の車列が中央行政区を離れて十分ほど経ったところで、複数の都市監視系に不自然な情報欠落が発生した。次いで上空監視へON=MORAKIらしき高速反応。幹線道路前方では、GASYA=DOKUROの重量反応。さらに経路案内と護衛車両間通信へ、NU=E特有の曖昧化パターン。
『アリス』
「何」
『三妖機』
アリスの顔が一瞬で変わる。
「どこ」
『日本代表団車列』
「晴翔?」
『乗ってる』
「……馬鹿!」
アリスは椅子から立ち上がった。身体が勝手に動いた。だが二歩目で止まる。
祝部が見る。
「行く?」
アリスは拳を握る。自分が出れば晴翔は喜ぶ。日本代表団が危険に晒されれば、次回以降「新開市に精通した晴翔が必要」という日本側の判断材料になる。しかも、それを止めるためにアリス本人が飛び出せば、また「女王が直接守らなければならない危険な都市」という映像になる。
「KASANE」
『もう向かってる』
「REGALIA」
久我原。
『代表団護衛として現在行動評価へ移行。既に対処中です』
「Ghost Hero」
リン。
『南から入る!』
「真鍋」
『経路切り替える』
「……」
アリスは座り直した。
祝部。
「行かない?」
「行かない」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
アリスは画面の向こうにいる晴翔を睨んだ。
「でも」
一拍。
「晴翔」
「それ」
「待ってる」
*
代表団車列の前方では、NU=Eが作った偽の経路情報によって自動誘導車が二系統へ分かれかけていた。REGALIAが即座に固定された予定経路を破棄し、目の前の車両と周囲の市民の現在行動を基準に護衛配置を組み替える。上空からON=MORAKIが急降下し、日本側警備サムライが迎撃。GASYA=DOKUROは道路中央へ巨大な骨格を出し、車列そのものを物理的に停止させようとする。
「大泉先生!」
比嘉の声が車内へ響く。
「はい」
「何でまたこうなるんです!」
「新開市ですから」
「説明になってません!」
衝撃。車体が揺れる。遠くでREGALIAの白銀装甲がGASYA=DOKUROの腕を受け止める。
晴翔は窓の外を見る。
「良い景色ですねえ」
「最悪です!」
「怖いですね」
「笑いながら言うな!」
別車両から警告。ON=MORAKIが護衛線を突破しかける。そこへKASANEが高架から飛び降り、軌道を変えた。
晴翔。
「おお」
比嘉。
「実況しないでください!」
*
その頃、収監施設では海井雫が、技能転用プログラム用の限定端末に流れてきた異常ログを見ていた。彼女の権限では実ネットワークへ触れられない。解析用に切り出された情報を読むだけだ。しかし、画面へ現れた通信欠落の癖を見た瞬間、雫の指が止まった。
「……いた」
職員。
「何がです」
「NU=E」
「治安機関へ報告を」
「待って」
「なぜ」
雫はログを拡大する。間違いない。以前何度も観測した、情報を嘘にするのではなく「どれが本当か分からなくする」機械の癖。晴翔の三妖機。
「また」
一拍。
「あいつ」
「やってる」
「大泉議員?」
「多分」
「証拠は」
「まだない」
職員が通信を取ろうとする。
「では解析結果を」
「待ってって」
雫の声が低くなる。
昨日までなら、見つけた情報を渡せばよかった。それが正しい。自分には外へ触る権限がない。義弘は、自分が歯車を回したせいでまた重傷を負った。その義弘が、それでも自分を壊される側から守った。アリスは晴翔へ「帰ってきても同じ場所へ戻れないようにする」と言った。自分はもう、火をつける側へ戻らないと少なくとも一度は思った。
それでも。
晴翔。
また。
戻る。
悪党の席。
被害者の席。
政治家の席。
今度は、日本国と新開市を繋ぐ定期連絡役の席まで作ろうとしている。
「……普通じゃ」
職員。
「何です?」
「普通じゃ」
一拍。
「止まらない」
端末の隅に、権限制限表示がある。技能転用プログラムのプロテクト。そこを越えれば、外部操作と判断される。プログラム停止。再収監条件の悪化。場合によっては、またアライアンスの《能力切断》評価が上がる。
雫は指を止めた。
義弘の声が、頭の中で蘇る。
――歯車回すのやめろ。
――晴翔より出口作ってねえ。
「……分かってる」
職員。
「何を」
「独り言」
画面には警告。
《権限外操作》
《継続した場合、技能転用プログラム停止審査対象》
雫はしばらくその文字を見た。
「でも」
一拍。
「こいつ」
「喉」
「あるなら」
職員。
「海井さん」
「今」
「何を」
雫はプロテクトの解除処理へ指を伸ばした。
「探す」
警告。
もう一度。
表示。
雫。
押す。
*
同じ時間、新開市ではアリスがサムライ・ヴィランへの《離席》呼びかけを続けていた。日本代表団車列が三妖機に襲われている状況でも、彼女は現場へ飛び出さなかった。そこへ行けば晴翔の思う壺だと理解している。そして何より、今自分がやるべきなのは晴翔一人を追うことではなく、街の中で勝手に回り続ける悪党の歯車そのものから人を降ろすことだった。
「聞いて」
臨時配信。背後には現場地図。アリスはカメラを睨むように見る。
「今」
「サムライ・ヴィラン名乗ってる奴」
「悪党だから」
「もう戻れないとか」
「ない」
「降りたら負けとか」
「知らない」
「負ければいい」
祝部が横で僅かに眉を上げる。アリスは構わず続けた。
「犯罪したなら責任取れ」
「壊したなら弁償しろ」
「人傷つけたなら裁かれろ」
「でも」
一拍。
「それと」
「ずっと悪党でいるの」
「別」
アリスは昨日のKUROGANEを思い出す。刀を置いた黒いサムライ。罪は消えなかった。けれど席からは立った。
「自分で座ったなら」
「自分で立て」
「悪党だから」
「悪党の席に」
「縛られるな」
カメラの向こうでは、いくつかのサムライ・ヴィラン集団がその言葉を聞いていた。一人が武器を下ろす。別の者が「そんなの女王の恩赦だ」と怒鳴る。企業系の一団では、「正式な試験枠が本当にあるならそっちへ移る」と相談が始まる。配信者は《離席するか残るか》の投票を始めていた。
アリスは最後に言った。
「降りたい奴」
一拍。
「出口」
「開けてる」
「今のうちに」
「立て」
*
雫の侵入は、鍵を一枚ずつ壊すようなものではなかった。NU=Eは単独で閉じた機械ではない。いくつもの認証と通信経路の隙間を渡り歩き、自分がどこにいるかを曖昧にする。なら雫が狙うべきなのは、閉じている扉ではなく、NU=E自身が別の扉へ移る瞬間だった。アクセス権が切り替わる、ごく短い隙間。そこへ指を差し込む。
「……そこ」
職員。
「海井さん、何をしているんです」
「静かに」
「権限外です」
「知ってる」
「停止してください」
「嫌」
職員が警備へ連絡しようとする。雫は画面から目を離さない。
「三十秒」
「駄目です」
「二十秒」
「海井さん」
「十秒!」
視界。
変わる。
一瞬だけ。
自分の端末ではない。
NU=E。
外。
見る。
幹線道路。
車列。
REGALIA。
ON=MORAKI。
GASYA=DOKURO。
そして。
日本代表団車両。
その中。
晴翔。
雫の呼吸が止まる。
「……見つけた」
*
アライアンス側にも、同時に警告が上がっていた。《海井雫:許可範囲逸脱》。ジュリウス・ニエレレは記録を開き、外部通信へ接続しようとしている雫の現在行動を確認した。
氷の母。
『評価を』
ジュリウス。
「悪化」
『能力切断を』
ジュリウスはすぐには答えなかった。画面には三妖機。日本代表団。NU=Eへ食い込んだ雫。彼女が何をしようとしているのかはまだ判定できない。
『ジュリウス』
「待つ」
『理由を』
「目的」
一拍。
「未確定」
『権限逸脱は事実です』
「はい」
『以前の行動傾向への回帰も』
「可能性」
『なら』
ジュリウスは静かに言った。
「現在」
一拍。
「まだ」
「切断すべき行動か」
「見ます」
氷の母は数秒黙った。
『見届けるのですね』
「はい」
*
三妖機との戦闘は激しくなっていた。GASYA=DOKUROが車列の前方へ巨大な腕を振り下ろし、REGALIAが受ける。ON=MORAKIはKASANEと日本側警備サムライを引きつけ、NU=Eは通信経路を入れ替え続ける。真鍋は別路へ代表団を逃がそうとするが、偽経路情報が混じり、誘導そのものが危険になっていた。
アリス。
「NU=Eだけ」
「誰か止められない?」
真鍋。
『位置が固定できねえ』
「グリンフォン」
『情報が飛びすぎて捕まえられない』
祝部。
「晴翔は?」
「生きてる」
「それはよかった」
アリス。
「よくない」
「いや生きてるのはいいだろ」
「存在がよくない」
「そこは分けろ」
アリスは歯を食いしばる。自分が行けば、家族機の連携でNU=Eを追える可能性はある。それでも立たない。自分が出れば、晴翔の欲しい映像になる。何より、既に現場ではKASANEもREGALIAもGhost Heroも、自分の判断で人を守っている。
「任せる」
アリスは自分へ言い聞かせるように言った。
「今」
「私の仕事」
「そこじゃない」
*
収監施設で、雫はNU=Eの内部へさらに深く入り込んでいた。欲しいのは機体を暴走させる権限ではない。晴翔のところへ戻る道だ。誰が、いつ、どの経路を通して三妖機を起動したのか。どの認証が生きているのか。NU=EがON=MORAKIやGASYA=DOKUROと同期する時、どこへ情報を返しているのか。その一本を捕まえれば、大泉晴翔が「私は何もしていません」と席を移動するための曖昧さを一つ剥がせる。
「……逃げんな」
職員。
「海井さん、停止してください!」
「今止めたら」
「何です」
「消える」
「何が」
雫は答えない。
NU=Eの向こう。
晴翔。
見える。
車内。
外。
見る。
笑っている。
怖い。
はず。
でも。
楽しんでいる。
「ほんと」
一拍。
「ムカつく」
雫の指が、NU=Eから伸びる一つの通信へ触れる。
その瞬間。
別の認証。
浮かぶ。
見覚え。
ある。
晴翔の三妖機運用へ使われてきた。
中継。
雫。
目。
見開く。
「……喉」
*
その頃、晴翔自身はまだ何も知らなかった。車列はREGALIAとサムライ・ヒーローに守られ、ゆっくりと迂回路へ移り始めている。比嘉は怒鳴り疲れていた。
「大泉先生」
「はい」
「これが終わったら」
「ええ」
「日本に戻ったら」
「はい」
「しばらく新開市へ来ないでください」
晴翔は残念そうな顔をした。
「それは困ります」
「何で!」
「定期協議が」
「あなたじゃなくていいでしょう!」
「そうですね」
「じゃあ!」
「でも」
晴翔は窓の外を見た。
「また来たいので」
「本音出た!」
GASYA=DOKUROがREGALIAへ押し返される。ON=MORAKIもKASANEとGhost Heroに挟まれ、高度を落とす。
晴翔は。
楽しそう。
だった。
自分が。
作った。
わけでもない。
サムライ・ヴィラン。
自分が。
完全には。
支配していない。
街。
それでも。
自分が。
戻ってきたいと。
思う。
新開市。
だから。
また。
席。
作る。
政治家の席。
調整役の席。
被害者の席。
必要なら。
悪党の席。
何度でも。
座り直せばいい。
*
一方、新開市では《離席》が広がり始めていた。KUROGANEに続いて、企業系サムライ・ヴィラン二名が武装解除。元NECROMANCER系の一人が救助活動への転向を申し出た。政治系の一団は分裂し、半数がスーツを脱いで通常のデモへ戻った。配信者の一人は「捕まるまでヴィランを続ける」と宣言した直後、自分の仲間が離席して注目を集めたのを見て、十分後に自分も武器を置いた。
祝部。
「効いてる」
アリス。
「うん」
「悪党の席」
「空いてきた」
「うん」
「晴翔に勝った?」
アリス。
「知らない」
「そこ即答しないんだ」
「晴翔」
一拍。
「これ見ても」
「喜ぶ」
祝部。
「……だろうな」
「それがムカつく」
「分かる」
真鍋から通信。
『代表団車列、主要危険域を抜けた』
「死者」
『なし』
「負傷」
『護衛側に数名。重篤なし』
アリスはようやく息を吐いた。
「三妖機」
『撤退傾向』
「晴翔」
『生きてる』
「……よし」
祝部。
「今ちょっと嫌そうだった?」
「気のせい」
*
晴翔が新開市で作ったものは、完成しつつあった。そして完成したからこそ、もう彼の手から離れていた。サムライ・ヴィランは晴翔が止めても止まらない。アリスが説得すれば降りる者もいる。別の誰かがまた座るかもしれない。企業は自分の利益で動く。政治団体は自分の理念で動く。ヒーローは自分の判断で人を助ける。治安機関は法で止める。新開市は、晴翔の命令ではなく、自分たちの理由で回るようになっていた。
だからアリスは。
歯車を。
壊さなかった。
人を。
降ろした。
悪党の席を。
永久の職業へ。
しなかった。
座ったなら。
立てる。
間違ったなら。
止まれる。
止まったなら。
次へ。
行ける。
それが。
アリスの。
答え。
だった。
そして。
別の場所。
海井雫だけが。
違う。
答えへ。
手を。
伸ばしていた。
*
限定端末の警告は、もう赤へ変わっていた。技能転用プログラム違反。外部操作。強制停止予告。それでも雫はNU=Eとの接続を切らない。
「普通に」
一拍。
「倒しても」
「戻る」
晴翔。
失脚。
戻る。
悪党。
戻る。
被害者。
戻る。
政治家。
戻る。
今度は。
定期連絡役として。
戻ろうとしている。
「だったら」
雫の指が、中継経路を掴む。
NU=E。
その目。
借りる。
日本代表団。
車。
晴翔。
そこ。
いる。
まだ。
気づいてない。
「戻る前に」
一拍。
「首」
雫。
目。
細める。
「押さえる」
職員が背後で警備を呼ぶ声がする。遠くではジュリウスが現在行動を見ている。アリスは、雫が何をしているか知らない。義弘も知らない。
NU=Eの視界の中央へ。
大泉晴翔。
入る。
照準でも。
攻撃指定でも。
ない。
ただ。
情報。
として。
捕まる。
雫。
小さく。
笑わない。
「……見つけた」
その日、新開市では多くの人間が悪党の席から立ち上がった。
そして同じ瞬間。
一人の少女だけが。
自分から。
もう一度。
危険な席へ。
腰を下ろそうとしていた。




