第396話 女王は見ない
翌朝、アリスの机には、前日に起きた騒動の報告書が積み上げられていた。逮捕者百名超、行政処分候補十九団体、違法改造機三十一機、無許可飛行四十六件、偽救援要請二十二件、交通妨害七件、マッチポンプの疑いがある企業・政治団体による「自主治安活動」が十一件。そこまでは真鍋の治安機関がまとめた数字だった。その隣には祝部が集めた別の数字が並んでいる。《アリス本人が言及》七件、《公式配信で名称露出》十九件、《事件後フォロワー十万人以上増加》六アカウント、《企業名トレンド入り》十二社、《関連商品の売上急増》九社、《政治団体支持率上昇》三団体。アリスは最初、その意味を理解できなかった。報告書を右から左へ読み、もう一度戻り、眉を寄せる。
「……こいつら」
祝部がコーヒーを飲みながら答える。
「うん」
「得してる」
「うん」
「人に迷惑かけて」
「そう」
「機械暴れさせて」
「そう」
「道路塞いで」
「そう」
「私に怒鳴られて」
「それが一番でかい」
アリスが顔を上げた。
「何で」
「昨日、お前に『帰れ』って言われた配信者、切り抜き三百万再生」
「……」
「模造HOUND走らせた奴、登録者十八万増」
「……」
「企業連も『女王陛下自ら我が社の機体へ言及』ってプレスリリース出してる」
「褒めてない!」
「『危ないから引っ込めろ』でも、会社名をお前が口にしたのは事実だからな」
アリスの表情がだんだん険しくなる。その横で真鍋が腕を組んだ。
「だから増える。騒ぎを起こした奴が、逮捕されても損だけじゃねえ。配信者なら再生数、企業なら認知度、政治団体なら支持者、ハッカーなら武勇伝だ」
「……じゃあ」
アリスはしばらく黙り、報告書を閉じた。
「何もしない」
祝部が眉を上げる。
「治安維持を?」
「違う」
「じゃあ」
「褒美」
真鍋の目が僅かに細くなる。
「騒いでも」
アリスは机の上の数字を指で叩いた。
「私から何もやらない」
*
その日の昼、療養施設の義弘の病室は、また会議室になった。本人は「病室なんだから病人を休ませろ」と文句を言ったが、誰一人聞かなかった。アリス、祝部、真鍋、御堂環、鳴海梓、トミー。そしてベッド脇には相変わらずシュヴァロフが座っている。義弘は逃亡防止の監視を兼ねた黒い巨体を横目で見てから、諦めたように枕へ背を預けた。
「で」
義弘。
「今度は何を始める気だ」
「騒動起こした奴」
アリス。
「私、名前呼ばない」
「ほう」
「会いにも行かない」
真鍋。
「原則としてな」
「写真も撮らない」
鳴海梓がすぐに口を挟んだ。
「それを報道機関にまで強制するなら反対」
アリス。
「何で!」
「あなたが誰を報道していいか決め始めたら、本当に女王になるから」
アリスが止まる。
「でも」
「公式がやることと、報道がやることは分ける」
「そいつら映したら得する」
「それでも報道の自由は別問題」
「じゃあどうするの」
梓は机上の端末へ数件の映像を並べた。違法ドローンを飛ばした配信者。逃げ遅れた子供を抱えて走った一般市民。HOUNDを止めた若いサムライ。武器を途中で捨てて仲間を避難させた騒動参加者。瓦礫を持ち上げるKAGEBŌSHI。
「報道を止めるんじゃない」
一枚目の、主犯が叫んでいる映像を小さくする。代わりに、救助者たちの映像を大きくした。
「公式が何を主役にするか変える」
祝部が身を乗り出す。
「騒動を起こした人じゃなく?」
「止めた人。助けた人。避難路を作った人。途中でやめた人。武器を捨てた人」
真鍋。
「事件実行者の情報は、捜査と公共安全に必要な範囲で出す。それ以上は宣伝してやらねえ」
環も続けた。
「企業についても同様です。騒動を利用した宣伝を、公的調達や認証評価へ有利に反映させない。むしろマッチポンプが確認された企業は、その行為自体を独立して評価する」
アリス。
「……じゃあ」
祝部。
「騒動の主役を」
一拍。
「主役じゃなくする」
義弘が薄く笑った。
「いいんじゃねえか」
アリスはまだ納得しきっていない顔をしている。
「私が言及しないのも?」
「いい。ただし“無視する人間をお前が選ぶ”形にすると危ねえ」
義弘。
「何で」
「それも権力だからだ」
アリスの顔が嫌そうに歪む。
「何やっても王になる」
「今はな」
「嫌」
「知ってる」
祝部が端末へ仮題を入力する。
「じゃあ方針名決めるか。《NO CROWN CREDIT》」
「嫌」
「即答」
「王冠入れるな」
「じゃあ《無冠対応原則》」
「もっと嫌」
真鍋。
「行政文書は《新開市騒乱時広報・対応分離指針》でいい」
祝部。
「長い」
真鍋。
「行政文書だからな」
トミー。
「俗称は?」
祝部がアリスを見る。
「女王は見ない」
「女王って言うな!」
「じゃあ売れない」
「売るな!」
病室に、少しだけ笑いが起きた。
*
方針そのものは笑い話ではなかった。午後から新開市の公式窓口、治安機関、サムライ・ヒーロー協力網、特別調停官室、主要医療・避難系統へ通達が出された。騒乱の実行者へ過剰な注目を与えない。公式発信では救助・停止・撤退・武装解除・避難誘導を優先して扱う。アリス本人は、生命上の必要がない限り、注目獲得を目的とした騒動へ直接赴かない。さらに、途中で騒動から降りる者を一律に敵扱いせず、安全に退出できる導線を確保する。それは第394話でアリスが最初に使った暫定権限――「追うな、降りる奴を敵にするな」という原則を、今度は情報の世界へ拡張したものだった。
当然、最初に文句を言いに来たのは河島玄隆だった。
「困りました」
アリス。
「何が」
「アリスさんが褒めてくださらない」
「褒めない」
「KAGEBŌSHIも?」
アリスが少し止まる。
「……それは」
河島が笑みを深くする。
「昨日、KAGEBŌSHIは市民救助へ大きく貢献しました」
「知ってる」
「では」
「褒めれば?」
「褒めたい」
「なら」
横から義弘の通信が入る。病室からだ。
『機械褒めろ』
アリス。
「何」
『会社じゃなくて』
「……」
『やったこと褒めりゃいい』
アリスは河島を見る。
「KAGEBŌSHIが昨日、人助けした」
河島。
「はい」
「それは良かった」
「カワシマ重工としては」
「知らない」
一拍。
「KAGEBŌSHIがやったことは良かった」
河島の笑顔が、ほんの僅かだけ止まった。
「……なるほど」
「何」
「現在行動評価」
「そう」
「企業ブランドには」
「変えない」
河島は数秒考え、それからまた笑った。
「手強くなりましたね」
「褒めてない?」
「今回は褒めています」
「じゃあ嫌」
*
オスカーにも同じことが起きた。NECROテックの兄弟姉妹が前日の混乱で救助・避難誘導へ参加したことについて、OCM側から公式な評価を求める問い合わせが来たのである。
「兄弟姉妹が人助けしたら」
アリス。
「それは褒める」
『ありがとうございます』
「OCMとの共同治安枠は別」
『……はい』
「海外部門との協力はもっと別」
横からヴェラの声が入る。
『冷たい女王様』
「女王じゃない」
『でも、あなたの一言が市場を動かす』
「だから」
アリス。
「動かさない」
ヴェラが少し黙った。
『へえ』
「何」
『少しは学んだのね』
「お前に言われたくない」
『私は褒めてる』
「もっと嫌」
オスカーが割って入る。
『ヴェラ、黙ってください』
『あなた最近そればっかりね』
*
晴翔は、新方針の全文を読んだ。側近はその横で、どこか勝ち誇ったような、それでいて警戒を解けない顔をしている。
「騒動を起こしても、アリス本人は原則として直接言及しない。公式配信も救助者・撤退者・停止行動を優先」
「ええ」
「効くと思いますか」
「効くでしょうね」
「困ります?」
晴翔は少し考えた。
「少し」
側近が驚く。
「本当に?」
「ええ」
「先生の歯車を止めた?」
「そこまでは」
晴翔は指先で文書を送る。
「報酬を変えたんです」
「報酬?」
「今までは、騒動を起こすと女王に見てもらえた」
「はい」
「今度は」
一拍。
「やめた人間の方が」
「見てもらえる」
側近。
「先生の出口を」
「逆に使った?」
晴翔の笑みが少し深くなる。
「そうですね」
「腹立ちません?」
「いいえ」
「何で」
「正しいからです」
「……」
「出口は」
晴翔。
「使われるために作るものですよ」
*
最初の実験は、その日の夕方に来た。中央駅前で、アリス支持を公言している過激配信者が六機の違法改造ドローンを飛ばした。武装は軽度だったが、通行人を威嚇するには十分だった。配信タイトルは《女王陛下来るまでやめません》。
「アリス!」
配信者がカメラへ叫ぶ。
「見てるか!」
「昨日の奴らより俺の方がすごいぞ!」
数分後。
来たのは。
KASANE。
治安機関。
ダムとディー。
アリス。
来ない。
「何で!」
配信者。
「アリスは!」
KASANE。
「来ません」
「呼べ!」
「呼ぶ理由がありません」
「俺がやったんだぞ!」
ドローン一機が通行人へ接近する。KASANEが踏み込み、刃を一閃。駆動部だけを斬る。機体が落ちる。ダムとディーが転倒した老人を保護し、治安機関が群衆を後退させる。
配信者はさらに声を張った。
「もっと出せ!」
仲間が二機。
追加。
それでも。
アリスは。
来ない。
代わりに祝部の公式配信が始まった。映っているのは、主犯ではない。老人を支えた一般市民。避難誘導をした駅員。KASANE。ダムとディー。そして、途中で顔色を変えた一人の参加者。
「……俺」
若い男。
手。
上げる。
「もうやめる」
真鍋の現場指揮。
『退出希望一名! 攻撃止めろ!』
武器を捨てる。
治安機関が確保。
殴らない。
引きずらない。
安全側へ。
通す。
祝部。
「そこ映して!」
カメラ。
やめた男。
映す。
そして。
遠隔のアリス。
映像。
見る。
「止めたなら」
一拍。
「もう殴るな」
「その人」
「出して」
配信者の顔が。
変わる。
「は?」
アリスは。
自分。
名前。
呼ばない。
武器。
捨てた。
仲間。
そっち。
見た。
「おい!」
配信者。
「俺だぞ!」
「俺がやった!」
「アリス!」
カメラ。
向かない。
「見ろ!」
別の参加者。
武器。
落とす。
「俺もやめる!」
もう一人。
「私も!」
出口。
ある。
そこへ。
注目。
集まる。
騒動を続けるより。
降りた方が。
女王に。
見てもらえる。
主犯。
ようやく。
理解。
「……何だよ」
仲間。
減る。
「お前ら!」
一人。
また。
武器。
捨てる。
「悪い、俺降りる」
「待て!」
「だって」
若い男。
「もう」
「やってる意味」
「ないだろ」
*
十五分後、騒動は終わった。主犯は治安機関に拘束された。アリスは最後まで現場へ行かなかった。主犯の名前も呼ばなかった。公式配信の見出しは《中央駅前騒動、参加者四名が自主撤退。市民・駅員・サムライが避難協力》だった。
晴翔は、その映像を最初から最後まで見ていた。
側近。
「止まりました」
「ええ」
「先生の方法を」
一拍。
「使われましたね」
「そうですね」
「どう思います?」
晴翔は少し笑う。
「上手です」
「悔しくないんですか」
「なぜ」
「だって」
「私の歯車ではありません」
晴翔。
「もう」
「皆さんの歯車です」
「……」
「そして」
一拍。
「出口に」
「褒美を」
「つけた」
「そこは」
晴翔。
「非常に良い」
側近。
「敵を褒めるんですね」
「良いものは良いでしょう」
「先生」
「はい」
「本当に勝ちたいんですか」
晴翔。
少し。
考える。
「負けたら」
一拍。
「戻ればいいでしょう?」
側近は。
額を押さえた。
*
ところが、成功した途端、別の問題が生まれた。《女王の無視刑》。その言葉がネットで急速に広がったのである。
翌朝。
アリス。
「刑じゃない!」
祝部。
「俺に言うな」
「誰がつけた!」
「ネット」
「ネット呼べ!」
「無理」
報道関係者からも批判が出た。《新開市行政は、事件実行者への注目を意図的に抑制することで、社会的制裁を行っているのではないか》《“女王に無視される”こと自体が新たな権力行使ではないか》《都合の良い救助映像だけを公式が強調するのは情報操作ではないか》。
さらに、三岐透子が特別調停官室へ来た。
「方針の趣旨には賛成します」
アリス。
「じゃあ問題ない」
「あります」
「何」
「アリスが」
一拍。
「誰へ社会的注目を与えるか」
「決める制度にもなり得ます」
アリス。
黙る。
三岐。
「あなたが名前を呼ばない」
「あなたが映さない」
「あなたが褒めない」
「それが社会的利益と不利益を決めるなら」
一拍。
「それもまた」
「王の寵愛です」
アリス。
「……何で」
「何がです」
「王の寵愛なくすのに」
「私が誰見ないか決めたら」
「また王になるの」
三岐。
「そういう構造だからです」
「面倒!」
「民主政治は」
「面倒なものです」
「嫌い」
「それでも必要です」
祝部が少し笑う。
「俺らの仕事だな」
「お前だけ楽しそう」
「だってアリスが『全部私が決めた方が早い』って顔してる」
「してない」
「してる」
「殴るよ」
「はい」
御堂環がそこで口を開いた。
「では」
一同。
見る。
「アリスが」
一拍。
「見ない人を」
「決めるのも」
「やめましょう」
アリス。
「じゃあどうする」
「アリスが」
「決めない」
「……」
「救助行動の記録」
「現場の第三者評価」
「治安機関」
「独立報道」
「市民委員会」
「サムライ・ヒーローの活動記録」
「複数の主体が」
「別々に」
「残せばいい」
祝部。
「つまり」
環。
「誰かを助けたことの価値を」
一拍。
「アリス一人に」
「認証させない」
梓。
「それなら報道側も乗れる」
三岐。
「行政上の恣意も減らせます」
真鍋。
「治安機関が表彰制度やる気はないが、救助と撤退の記録は出せる」
祝部。
「俺らは現場の人間を拾う」
環。
「企業評価も単独でアリスの推薦を使わず、実績ベースへ」
アリス。
少し。
考える。
「……私」
「何するの」
環。
「何もしない」
アリス。
目。
細くなる。
「それ嫌」
「必要なら」
「あなたも」
「一人として」
「褒めればいい」
「一人?」
「女王としてではなく」
一拍。
「アリスとして」
アリス。
少し。
黙る。
「……それなら」
「いい」
*
病室へ報告に行くと、義弘はそれを聞いて笑った。
「面倒」
アリス。
「そりゃそうだ」
「私が全部決めた方が早い」
「そうだな」
アリス。
義弘。
睨む。
「……」
「だから」
義弘。
「やるな」
「分かってる」
「なら」
一拍。
「進歩」
「殴るよ」
「病人だぞ」
「知らない」
「肋骨折れてるぞ」
「自業自得」
「ひどくねえ?」
トミー。
「三回逃げたからな」
「お前まだ数えてるの?」
シュヴァロフが、義弘の横で大きな腕を僅かに動かした。
「お前まで肯定すんな」
*
収監施設の海井雫は、《女王は見ない》と呼ばれるようになった一連の対応を、公開映像で黙って見ていた。中央駅前で騒ぎを起こした配信者。アリスを呼ぶためにドローンを飛ばし、叫び、もっと大きな騒ぎを作ろうとした。それでもアリスは来なかった。代わりに、途中で武器を捨てた人間へカメラが向いた。
「……ずる」
雫が小さく言った。
監視員。
「何がですか」
「知らない」
「ではなぜ」
「知らないって」
雫は画面を閉じる。
自分は。
アリスに。
見てほしかった。
だから。
歯車。
回した。
晴翔の。
真似。
した。
でも。
今。
回したら。
アリスは。
見ない。
逆に。
やめたら。
見る。
「……ほんと」
「ずる」
その時。
扉。
開く。
職員。
入る。
「海井さん」
「何」
「技能転用プログラムについて」
雫の表情が冷える。
「まだそれあるの」
「再審査中です」
「どうせ落ちる」
「一件だけ」
一拍。
「あなたへ」
「技術的な意見を」
「求めたい案件があります」
雫。
「……何」
「現在の」
「寵愛目的の騒乱」
「どうすれば」
「技術的に」
「抑制できるか」
雫。
職員。
見る。
「私に」
「聞くの?」
「はい」
「私」
「煽ってた側だけど」
「だから」
「構造を」
「理解していると」
「判断されています」
雫。
少し。
黙る。
義弘。
思い出す。
晴翔より。
出口。
作ってねえ。
「……高いよ」
職員。
「報酬は規定されています」
「そうじゃない」
「では」
雫。
視線。
逸らす。
「アリスに」
一拍。
「言わないで」
職員。
「何を」
「私が」
「手伝ったって」
職員が。
僅かに。
驚く。
「理由を」
「嫌だから」
「何が」
雫。
「知らない」
「……」
「いいから」
「言わないなら」
一拍。
「見る」
*
与えられたのは外部操作のできない解析端末だった。実ネットワークへ命令は出せない。ログを読み、提案を返すだけ。以前の雫なら、その制限を突破する穴を最初に探しただろう。
今日は。
探さなかった。
「これ」
雫。
大量の配信ログ。
見る。
配信者。
騒動。
起こす。
数字。
上がる。
コメント。
増える。
アリス出現予測。
別サイト。
ランキング。
導線屋。
遭遇確率。
「……馬鹿」
職員。
「誰が」
「皆」
「対策は」
雫。
指。
動かす。
「切らない」
「何を」
「配信」
「停止しない?」
「切ったら」
「別のサービス行く」
「じゃあ」
「数字」
一拍。
「見えなくする」
職員。
「数字?」
「再生数」
「同時視聴者」
「コメント数」
「拡散順位」
「アリス反応予測」
「女王遭遇期待値」
「全部」
職員。
「消す?」
「騒乱時だけ」
「公開側から」
「見えなくする」
「でも内部では」
「残す」
「捜査用」
職員。
「なぜ」
雫。
少し。
口元。
歪める。
「見えなきゃ」
一拍。
「面白くないでしょ」
職員は。
少し。
感心したように。
「なるほど」
「褒めないで」
「はい」
「あと」
「何です」
「アリスに」
「言わないで」
「先ほど聞きました」
「絶対」
「はい」
雫は。
端末。
見る。
以前なら。
火を。
つける場所。
探した。
どうすれば。
皆が。
走るか。
どうすれば。
アリスが。
来るか。
どうすれば。
アリスが。
自分を見るか。
考えた。
今は。
逆。
どうすれば。
走らなくなる。
どうすれば。
騒いでも。
得しない。
どうすれば。
アリスが。
来なくて済む。
それを。
考える。
*
同じ記録を、別の場所でジュリウス・ニエレレも見ていた。海井雫の技能転用プログラムに限定的な再審査が入り、外部操作権限なしの技術協力が開始された。アライアンス側の監視対象記録へ、その事実が追加される。
氷の母。
『判断は』
ジュリウスは少し黙った。
「保留」
『能力切断は』
「まだ」
『理由を』
ジュリウス。
画面。
海井雫。
解析。
見る。
以前。
騒乱。
増幅。
現在。
騒乱。
抑制。
「現在行動が」
一拍。
「変わった」
氷の母。
少し。
沈黙。
『それだけで?』
「我々は」
ジュリウス。
「現在行動を」
「評価する」
一拍。
『ええ』
「なら」
「今は」
「切断理由」
「弱い」
氷の母。
『津田義弘の影響ですか』
ジュリウス。
「不明」
『アリスの?』
「不明」
『では』
「本人が」
一拍。
「選んだ」
氷の母。
それ以上。
何も。
言わなかった。
*
夜、新開市の公式配信では、その日の小さな救助が淡々と紹介された。騒動の主犯者ではない。転倒した老人を支えた駅員。暴走機の進路から子供を抱えて逃げた市民。命令を待たず道路を封鎖した若いサムライ。途中で武器を捨て、仲間へ「もうやめよう」と言った者。KAGEBŌSHIが瓦礫を持ち上げた記録。NECRO兄弟姉妹が負傷者を運んだ記録。それらを誰か一人の寵愛ではなく、複数の機関と市民記録が別々に残していく。
アリスは。
最後。
少しだけ。
カメラ。
前。
立った。
「今日」
「助けた人」
一拍。
「ありがと」
祝部が横で小さく笑う。
「誰に?」
アリス。
「知らない」
「名前は」
「全部覚えなくていい」
「じゃあ」
アリス。
「やったこと」
一拍。
「見てる」
祝部。
「それでいい?」
「うん」
「女王陛下からのお褒めの」
「切るよ」
「はい」
配信。
終わる。
*
晴翔は、その短い映像を見ていた。
「アリス本人の注目を」
側近。
「分散させましたね」
「ええ」
「効果は」
「出るでしょう」
「先生の歯車」
「止まります?」
晴翔は少し考える。
「いくつかは」
「いくつか?」
「人間が欲しいのは」
一拍。
「女王の視線だけではありませんから」
側近。
「じゃあ次は」
晴翔。
「さて」
「何をするんです」
晴翔は。
微笑む。
「何もしません」
「またですか」
「今」
一拍。
「とても」
「面白いところなので」
*
その夜。海井雫は、収監施設の小さな部屋で一人、限定端末に向かっていた。彼女が提案した「騒乱時の公開指標抑制」は、まだ試験段階にすら入っていない。採用されるかも分からない。それでも、雫はログを一つずつ読み、配信者がどこで興奮し、どこで数字を見て行動を変え、どの瞬間に「アリスが来る」と確信するかを調べ続けた。
誰も。
見ていない。
アリスも。
知らない。
義弘も。
知らない。
祝部の。
配信にも。
映らない。
再生数。
ゼロ。
称賛。
ゼロ。
王冠の。
寵愛。
ゼロ。
以前の雫なら。
そんな仕事に。
意味など。
感じなかった。
アリスに勝ちたい。
アリスに驚いてほしい。
アリスに見てほしい。
そのために。
街へ。
火を。
つけた。
今。
初めて。
アリスに。
見つからないように。
火を。
消している。
雫は、端末の数字を見ながら小さく舌打ちした。
「……ほんと」
「つまんない」
誰も。
答えない。
それでも。
指。
止めない。
つまらないまま。
続ける。
それが。
多分。
今まで。
自分が。
一番。
できなかったことだった。
女王は。
見ない。
だからこそ。
初めて。
誰にも。
見られない場所で。
一人の少女が。
正しい方へ。
歯車を。
回し始めていた。




