第392話 見届け人
ジュリウス・ニエレレは、新開市では目立つ男だった。背が高い。肩幅も広い。黒曜石のような光沢を帯びた黒い肌は、人混みの中でも自然に目へ入る。それでも、誰も彼を覚えなかった。新開市で安く売られている灰色のジャケット。無地のシャツ。使い込まれたスニーカー。観光客が持つものと同じ小さなバッグ。髪型にも装飾にも特徴はなく、端末は数年前の普及型。歩幅を少し狭くし、重心を高め、周囲を見る時には首を先に動かす。人間は訓練された者ほど目だけで周囲を見る。その癖を消すだけで、軍人らしさは驚くほど薄くなる。タンザニア出身の彼は、世界でも最も危険な任務を任されるアライアンス特殊介入部隊――《CRADLE LESSON》の一員だったが、そのことを知る者は新開市でもほとんどいない。まして今の新開市には、彼よりずっと目立つものがいくらでもあった。
「女王陛下を一目見よう!」
「中央広場へ!」
「今日は特別調停官の公開説明があるって!」
アリス支持者の列へ、ジュリウスは自然に混じった。白い布を腕へ巻いた者。銀色の開いた王冠を帽子につけた者。シュヴァロフを模した黒い玩具を肩へ載せた子供。誰も彼を気にしない。
「兄さんも女王陛下見に来たの?」
隣の若い男が訊いた。
「そうだ」
「どこから?」
「遠くから」
「分かる。今、新開市すごいもんな」
ジュリウスは頷く。嘘ではない。彼は遠くから来たし、アリスを見ることも任務の一部ではあった。ただし、女王を見るためではない。列そのものを見るためだった。誰が情報を流す。誰が最初に移動する。誰が怒りを強い言葉へ翻訳する。誰が同じ投稿を別の集団へ持ち込む。誰が何も知らない人間の前へ「ちょうどいい情報」を置く。事件が起きた後ではなく、事件になる前の、ごく小さな傾斜を見る。
別の日には、ジュリウスは《女王陛下市民警護有志会》を名乗る一団へいた。
「警備経験ある?」
受付代わりの青年が訊く。
「少し」
「警察?」
「似たようなものだ」
「じゃあ助かる。ほら、最近反女王派も増えてるし」
ジュリウスは渡された白い腕章を巻いた。
「武器は?」
「ない」
「え、ほんと?」
「必要ない」
「自信あるな」
世界最強級の特殊部隊員が丸腰だとは、誰も思わなかった。実際には、彼の身体そのものが大半の武器より危険だった。
さらに別の日には、反王政派の集会へ混ざった。そこでは誰も彼をアリス支持者だと気づかなかった。彼自身、アリスを支持しても反対してもいないからだった。氷の母から与えられた任務は単純で、政治とは切り離されていた。
『過去、我々の介入対象となった人物の中に、新開市の中立インフラへ再び継続的な脅威を生じさせている者がいる可能性があります』
氷の母。
『政治的立場は判断しないでください』
「了解」
『誰の味方かも』
「了解」
『何をしているかだけを』
「見る」
『はい』
それだけだった。
ジュリウスは見た。
VX倉庫事件。死んでいたOCM旧認証が一度だけ蘇り、その直後に、互いに接点の薄い三つの集団へ別々の情報が落ちたこと。特別調停官を巡る集会では、反対派と支持派双方へ、それぞれの怒りを増幅するだけの問いが絶妙な時刻に置かれたこと。中央行政区でアリス系ドローンが衝突した際、複数の民間観測網に不自然な参照経路が一時的に開き、それが三妖機の情報精度を押し上げていたこと。どれにも直接の命令はない。「襲え」「暴れろ」「集まれ」と書いた者はいない。代わりに、動きたくなる人間へ、動ける理由が渡されていた。
同じ癖だった。
人を押さない。
坂を作る。
その坂を誰が作ったのか、ジュリウスはまだ名前を持っていなかった。
*
祝部マコトの配信は、その日の午後も続いていた。《女王陛下じゃなくて本人に聞く》の第二回。視聴者数は前回以上だった。アリスは嫌そうな顔をしながらも出演し、何度目か分からない「私は王じゃない」を繰り返している。
「じゃあ質問。女王陛下の本日のご予定は?」
「だから女王じゃない」
「コメント欄が聞けって」
「コメント欄に言え。帰れ」
「帰らない」
コメントが流れる。
《陛下今日も機嫌悪い》
《王冠似合ってます》
《女王陛下かわいい》
アリス。
「誰が女王!」
祝部。
「コメントに喧嘩売るな」
「売ってない。向こうから来た」
その瞬間。
新しいコメント。
《でも王様、今日も怒ってるじゃん》
アリス。
「誰!?」
祝部。
「だから拾うなって!」
遠く離れた収監施設の一室で、海井雫が口元を押さえた。
「釣れた」
監視員。
「何がです」
「魚」
「端末内に?」
「そう」
「また意味が分かりません」
雫は匿名アカウントを閉じる。単なる悪戯だった。新開市を動かすためでも、政治的な方向へ押すためでもない。アリスが怒るところを見たかった。それだけ。
だが。
数キロ離れたカフェの隅で。
ジュリウスは。
その一行を。
別の意味で見ていた。
アリスが反応したからではない。
投稿時刻。
投稿経路。
別の匿名アカウント。
それ以前の書き込み。
同じタイミングで生じた、実環境観測網の微細な参照。
ジュリウスの指が一度だけ端末を滑る。
表示されたのは。
新開市の。
矯正・更生関連ネットワーク。
《サイバー犯罪者向け技能転用プログラム》。
さらに。
過去のアライアンス介入記録。
一人。
名前。
海井雫。
ジュリウスはその名前を見ても、表情を変えなかった。
「……海井」
それだけ。
*
義弘が医療ドローンに襲われたのは、その翌日だった。
病室には新しい機体が三台入っていた。都市医療支援用の小型ドローンで、アリス系判断思想を謳う新興メーカーの試験導入機だった。患者の負担を減らし、転倒を防止し、服薬と運動を統合管理する。病院側が採用した理由も悪くない。市場では今、「アリス系」という名前がつくだけで予算が通りやすかった。
『津田義弘様』
「おう」
『本日の運動許容量を超過しています』
「昨日は寝てたぞ」
『過去七日間の離床履歴を参照』
「余計なもん見るな」
『再負傷確率、三七・四パーセント』
「高ぇな」
『安静措置を開始します』
「勝手にしろ」
ベッド脇の機体が動いた。
拘束帯。
出る。
義弘。
見る。
「……おい」
『下肢固定を実施』
「待て」
『再離床防止』
「それ医療じゃなくて逮捕だろ」
別の一機が、サムライ・スーツの保管ケースへアクセスする。
『危険装備を一時隔離』
「ふざけんな」
義弘が起き上がる。
拘束帯。
伸びる。
腕。
絡む。
「やっぱ逮捕じゃねえか!」
一機目の関節を蹴る。まだ完全に治っていない左膝が痛む。それでも、機体の重心を崩すには十分だった。二機目が義弘の肩を押さえ、三機目が鎮静剤投与器を展開する。
「医者呼べ!」
『興奮状態を確認』
「そりゃなるわ!」
義弘はベッド脇の手すりを蹴り上げ、それを二機目と三機目の間へ挟む。腕を引き抜き、一機の電源系統へ肘を叩き込む。小さな火花。停止。残った一機が再び拘束帯を伸ばす。
病室の外。
廊下。
一人。
男。
見ている。
灰色のジャケット。
家族の見舞いにでも来たような格好。
ジュリウス。
何もしない。
義弘が拘束帯に引かれ、ベッドへ倒れる。
ジュリウス。
動かない。
義弘。
片腕。
自由。
端末。
掴む。
機体のセンサーへ。
投げる。
破損。
視界。
止まる。
その隙。
義弘。
関節。
外す。
最後の一機。
床。
転がる。
静かになる。
「……はぁ」
義弘が息を整える。
そして。
廊下。
見る。
ジュリウス。
目が合う。
男は、逃げようとも、近づこうともしていない。
「……お前」
ジュリウス。
「?」
「今」
一拍。
「何で」
「何もしなかった」
ジュリウスは、壊れた医療ドローンを見る。
「必要なかった」
「俺、押さえ込まれてたぞ」
「脱出しました」
「できなかったら?」
「その時に考えます」
義弘の目が細くなる。
「誰だ」
「市民です」
「嘘つけ」
「市民登録上は」
「そういう意味じゃねえ」
ジュリウスは義弘へ一礼もしなかった。そのまま歩き始める。
「待て」
止まらない。
「おい!」
義弘も廊下へ出る。
左膝。
痛む。
それでも。
追う。
*
新開市で義弘を追う者は多かった。記者。支持者。反対派。警察。企業。晴翔の三妖機。アリスの家族機。街そのものが彼へ何かを求めてくる。だからこそ、義弘には分かった。
この男だけ。
何も。
求めていない。
助けない。
邪魔もしない。
撮らない。
怒らない。
媚びない。
女王の仲間とも。
元市長とも。
アジャストメント・ヒーローとも。
見ていない。
ただ。
観察している。
それが今の新開市では、異常だった。
「止まれ!」
ジュリウスは曲がる。
義弘も。
角。
出る。
いない。
「……は?」
病院の搬送通路。一本道。横道は一つ。義弘はすぐにそちらへ。
いない。
階段。
下。
非常口。
開く。
外。
人混み。
灰色のジャケット。
遠く。
「いた!」
追う。
義弘は元市長だった。病院周辺の再開発時に、非常導線と搬送路の整備へ自分で決裁を出している。表通りより早い通路を知っていた。
「次、第三搬送路だ」
トミーが通信越しに訊く。
『何してんだお前』
「尾行」
『怪我人が?』
「うるせえ」
『アリス呼ぶ?』
「呼ぶな」
義弘は裏へ回る。
第三搬送口。
先回り。
扉。
開く。
誰も。
いない。
「……嘘だろ」
『逃げられた?』
「違う」
『何が』
義弘は息を整える。
「あいつ」
一拍。
「逃げたんじゃねえ」
「消えやがった」
*
ジュリウスは、その追跡を気にしていなかった。義弘が食いつくことも想定外ではない。問題はない。任務対象を見つける方が先だった。
海井雫。
過去、アライアンスの介入対象。
技術犯罪。
機械窃盗。
無許可侵入。
都市ネットワーク操作。
現在は収監下。
ただし、大泉晴翔の政策により《更生のための技術能力評価》《サイバー犯罪者向け技能転用プログラム》《新開市インフラへの脅威分析協力》へ参加。
合法的に。
端末へ。
触れている。
そこが。
問題だった。
ジュリウスの端末へ、氷の母から短い通信。
『対象候補は』
「確認中」
『政治的意図は』
「判断しない」
『現在行動だけを』
「見る」
『必要なら』
「能力切断」
一拍。
『任せます』
通信。
終わる。
CRADLE LESSONにおける《能力切断》は、殺害を意味しない。対象が脅威を生む能力を奪う。武器なら武器を。指揮権なら指揮権を。ネットワーク技能なら、アクセス資格、端末、認証、外部通信、場合によっては神経接続まで。人間は生かす。
能力だけを。
終わらせる。
海井雫にとっては。
ほとんど。
人生そのものを。
切ることになる。
だが。
中立インフラを。
継続的に。
遊び道具として。
使うのであれば。
アライアンスは。
友人ではない。
*
義弘はジュリウス本人を追うのをやめた。
「こいつ」
トミー。
『何』
「俺から逃げてるんじゃねえ」
『じゃあ』
「誰か探してる」
病院のベッドへ戻る気はなかった。義弘は端末に、ここ数日の事件を並べる。
VX倉庫。
匿名情報。
支持派と反対派。
三妖機。
過剰に正確だった観測。
医療ドローン。
今度は。
企業。
誰かが。
少しずつ。
回している。
晴翔。
ヴェラ。
それ以外。
義弘。
指。
止まる。
「晴翔」
『本人呼ぶ?』
「違う」
晴翔が作った。
出口。
更生。
犯罪者。
技能転用。
義弘の目が。
細くなる。
「……収監施設」
トミー。
『何で』
「そこだけ」
一拍。
「晴翔が」
「“使える奴を戻す道”」
「作ってやがる」
『誰かいるって?』
「分からん」
『分からんのに行く?』
「行く」
『怪我人』
「知ってる」
『また怒られるぞ』
「もう慣れた」
*
新開市矯正技術支援施設の受付は、義弘が来ることを想定していなかった。
「津田義弘さん?」
「そう」
「面会予約は」
「ない」
「では入れません」
「急ぎ」
「皆さんそうおっしゃいます」
「元市長」
「現在は違います」
「知ってる」
「では規則に従ってください」
義弘は受付の向こうを見る。
「第三搬送口」
「……はい?」
「まだ非常時の閉鎖導線指定?」
職員。
止まる。
「なぜ」
「俺が決裁した」
「それは」
「裏の防火扉」
「改修してなきゃ」
「内側から手動解除できる」
「津田さん」
「悪い」
「今から」
一拍。
「勝手に行く」
「待ってください!」
義弘は本当に行った。
トミー。
『元市長って便利だな』
「真似すんな」
『俺ウサギだから市長なれねえだろ』
「知らん」
警報。
鳴る。
「侵入者!」
「津田さん止まって!」
「後で謝る!」
「先に止まってください!」
「無理!」
*
ジュリウスは既に施設内へ入っていた。警備員は誰も倒れていない。監視カメラも壊されていない。扉の認証装置も正常。ただ、彼が通った時だけ、誰もそこを見ていなかった。監視カメラの死角へ入るのではない。カメラが別の対象を追う瞬間を選ぶ。扉を壊すのではない。正規職員が開ける三秒前に、その動線へ混ざる。警備員を眠らせるのではない。交代時間に通る。世界最強級の特殊部隊とは、派手に壊せる者ではなかった。
壊さずに。
そこへ。
いる。
ジュリウスは収監施設の技術評価区画へ入り、最奥の個室前で止まった。中には一人。端末三台。正式な評価用回線。監視用回線。外部脅威分析用の制限付き観測窓。
海井雫。
ジュリウスは扉へ手を伸ばす。
「待て」
後ろ。
義弘。
息。
荒い。
ジュリウスが。
ゆっくり。
振り向く。
「またあなたですか」
「今度は」
義弘。
壁へ手をつきながら。
「何もしねえのか」
「いいえ」
「何する」
「仕事です」
義弘は扉を見る。
「中の奴に?」
「はい」
「殺す?」
「いいえ」
「じゃあ」
「止めます」
「どれくらい」
ジュリウスは一拍置いた。
「二度と」
「同じことが」
「できない程度に」
義弘の表情が変わる。
「駄目だ」
「なぜ」
「やりすぎ」
「継続的な脅威であれば」
「裁判しろ」
「我々は司法ではありません」
「なら手ぇ出すな」
「中立インフラへの継続的介入は」
「我々の領域です」
「だからって」
ジュリウス。
「退いてください」
義弘。
「嫌だ」
「理由を」
義弘が。
少し。
笑う。
「俺が」
一拍。
「ヒーローだから」
ジュリウスは。
ほんの僅か。
首を傾けた。
「理由になっていません」
「俺にはなる」
*
先に動いたのは義弘だった。ジュリウスが扉へ向く前に、ワイヤを壁の補助柱へ射出して一気に距離を潰す。右拳。ジュリウスは受けなかった。半歩だけ身体をずらし、義弘の手首へ指を添えるように触れ、そのまま肘を押す。関節の角度が変わる。
「っ!」
義弘の腕。
痺れる。
ジュリウス。
肘。
義弘の脇。
入る。
浮く。
壁。
叩きつけられる。
「ぐっ!」
義弘。
落ちる前に。
ワイヤ。
ジュリウスの足。
狙う。
ジュリウス。
踏む。
ワイヤ。
止める。
そのまま。
掴む。
「は?」
引く。
今度は義弘が。
前へ。
飛ぶ。
ジュリウスの膝。
腹。
「――っ!」
義弘が床を転がる。
「少しくらい」
息。
「喋れよ!」
ジュリウス。
「集中しています」
「そこは喋るのかよ!」
義弘が起きる。左膝は既に悲鳴を上げている。それでも、正面からやれば勝てないことだけは一瞬で分かった。
速い。
強い。
ではない。
無駄が。
ない。
義弘の癖。
重心。
怪我。
全部。
一回。
見て。
もう。
使っている。
「世界最強って」
義弘。
「ほんとらしいな」
ジュリウスは答えない。
義弘は壁の非常ボタンを叩く。
防火扉。
閉鎖。
ジュリウスの背後。
退路。
塞ぐ。
さらに。
天井。
消火シャッター。
降りる。
ジュリウスが。
初めて。
義弘ではなく。
周囲を見る。
「この施設」
義弘。
「元市長なめんな」
ジュリウスが動く。
義弘。
防火扉の。
隙間。
利用。
狭い。
広い間合い。
消す。
ジュリウス。
肩。
壁へ。
当たる。
義弘。
膝。
腹。
入れる。
ジュリウス。
一歩。
下がる。
初めて。
膝。
床。
触れる。
義弘。
「どうだ」
ジュリウスが。
顔を上げる。
初めて。
少しだけ。
義弘を見る目が。
変わる。
「なるほど」
「褒めても」
一拍。
「通さねえぞ」
「褒めてはいません」
「そこ嘘でも褒めろよ!」
ジュリウス。
立つ。
次の瞬間。
義弘の視界から。
消える。
「――」
横。
肩。
押される。
義弘。
防火扉。
ぶつかる。
金属。
歪む。
二人。
扉。
向こう。
技術評価室。
破れる。
*
「……は?」
中。
椅子。
端末。
少女。
海井雫。
雫が。
義弘を見る。
ジュリウスを見る。
壊れた扉。
見る。
「何これ」
義弘。
止まる。
「雫?」
「……何でいるの」
「こっちの台詞だ」
義弘の目が。
端末へ。
向く。
観測窓。
匿名投稿。
旧物流区。
支持派。
反対派。
中央行政区の。
民間ドローン。
参照履歴。
一つずつ。
全部。
完全な証拠までは。
見えない。
でも。
十分。
義弘。
雫。
見る。
「お前」
雫。
何も。
言わない。
「回してたの」
一拍。
「お前か」
雫。
目。
逸らす。
それで。
十分だった。
ジュリウスが前へ出る。
「理解したでしょう」
義弘。
「ああ」
「退いてください」
「嫌だ」
ジュリウスの眉が。
ほんの少しだけ。
動く。
「なぜ」
「今」
「理解したはずです」
「した」
「対象は現在も都市の不安定化へ介入しています」
「ああ」
「再発可能性も高い」
「多分な」
「では」
義弘が。
雫と。
ジュリウスの。
間へ。
立つ。
「それでも」
一拍。
「駄目だ」
「論理がありません」
「ある」
「何です」
義弘は。
アリスの。
昨日の。
言葉を。
思い出す。
悪いことした奴は止める。
でも。
やめた奴まで。
ずっと悪党にするのは禁止。
「悪いこと」
「した奴は」
「止める」
雫。
義弘を見る。
「でも」
一拍。
「戻れなくするのは」
「俺の仕事じゃねえ」
ジュリウス。
「彼女はまだ止まっていません」
「じゃあ止める」
「私が」
「やりすぎだ」
「あなたは」
ジュリウス。
「彼女の行為の結果を」
「把握していない」
「分かってる」
「死者が出る可能性も」
「分かってる」
「なら」
「それでもだ」
雫が。
思わず。
口を開く。
「私」
一拍。
「やったんだよ」
義弘。
「見りゃ分かる」
「VXも」
「ああ」
「集会も」
「ああ」
「三妖機にも」
義弘が。
少し。
目を細める。
「それは後で詳しく聞く」
「じゃあ」
雫。
「何で」
義弘。
「うるせえ」
一拍。
「後で説教する」
雫。
「……は?」
*
ジュリウスは、もう一度だけ言った。
「退いてください」
「嫌だ」
「最後です」
「さっきも聞いた」
ジュリウス。
動く。
今度は。
本気。
義弘。
拳。
一度。
防ぐ。
二度目。
肩。
かわす。
三度目。
ワイヤ。
床。
引く。
ジュリウスの軸。
崩す。
四度目。
間に合わない。
掌底。
胸。
義弘が。
前回の戦闘で。
痛めた。
肋骨。
直撃。
音。
小さい。
でも。
義弘には。
聞こえた。
「……っ」
息。
消える。
膝。
落ちる。
雫。
「義弘!」
義弘。
倒れながら。
ワイヤ。
射出。
ジュリウス。
足首。
絡む。
「まだ」
ジュリウスが。
義弘を見る。
今度は。
明確に。
理解できないものを見る目。
「なぜ」
義弘は。
呼吸が。
戻らない。
胸。
痛い。
それでも。
笑う。
「……ヒーロー」
一拍。
「だからって」
「言ったろ」
ジュリウス。
義弘の腕。
取る。
外す。
床。
押さえる。
義弘。
別腕。
防火設備。
緊急レバー。
叩く。
警報。
最大。
施設中。
鳴る。
ジュリウス。
顔。
上げる。
廊下。
足音。
多数。
「侵入者!」
「評価室!」
「津田さんがいる!」
「警備班急げ!」
義弘。
床。
笑う。
「元市長」
一拍。
「便利だろ」
ジュリウス。
義弘を見る。
雫を見る。
廊下。
見る。
任務継続は。
可能。
雫を。
制圧。
できる。
でも。
その後。
新開市矯正施設の警備部隊と。
正面衝突。
アライアンスの。
政治問題。
になる。
任務。
目的。
釣り合わない。
判断。
一秒。
ジュリウスは。
雫へ。
視線。
「次は」
一拍。
「ありません」
雫。
何も。
言えない。
義弘。
床。
「脅すな」
ジュリウス。
義弘へ。
「あなたにも」
「何」
「次は」
一拍。
「止まりません」
義弘。
「今回も」
「止まってねえだろ」
ほんの僅か。
ジュリウスの口元が。
動いた。
笑ったのか。
分からない。
次の瞬間。
警備員。
角。
曲がる。
「止まれ!」
そこに。
ジュリウスは。
もう。
いなかった。
「……どこ行った!」
「裏!」
「封鎖!」
「カメラ!」
「映ってない!」
本当に。
影のように。
消えた。
*
「津田さん!」
警備員が義弘へ駆け寄る。
「救護!」
「意識あります!」
「胸部外傷!」
義弘。
薄く。
目。
開く。
雫が。
少し離れたところに。
立っている。
顔。
青い。
「……ねえ」
義弘。
「お前」
「何」
「歯車」
一拍。
「回すの」
「やめろ」
雫。
眉。
寄せる。
「何で」
義弘。
息。
吸う。
痛い。
「下手だから」
「は?」
「晴翔より」
一拍。
「出口」
「作ってねえ」
雫の顔が。
変わる。
「じゃあ」
「晴翔ならいいの?」
「いいわけ」
一拍。
「ねえだろ」
「じゃあ何」
「お前も」
「何」
「あいつも」
義弘。
「後で」
一拍。
「説教」
雫。
「何それ」
義弘。
目。
閉じる。
「……寝る」
「は?」
意識。
落ちる。
「ちょっと」
雫。
「おい!」
警備員。
「離れてください!」
「私何もしてない!」
その言葉だけは。
今回。
本当だった。
*
義弘はそのまま医療区画へ搬送された。肋骨骨折。胸部打撲。肩関節損傷。左膝炎症悪化。担当医の怒りがどれほどのものになるかは、本人が目を覚ましてから考えればいい。収監施設では即座に全ネットワーク権限が封鎖され、雫の技能転用プログラムも一時停止された。警備担当は「謎の侵入者」と「元市長による不法侵入」という二件を同時に処理する羽目になり、どちらを先に問題にすべきかで混乱していた。
海井雫は。
一人。
技術評価室へ。
戻された。
端末。
全部。
落ちている。
何も。
できない。
椅子。
座る。
目の前。
義弘が。
倒れた場所。
見る。
海井雫は、ずっとアリスを見ていた。アリスに勝ちたかった。アリスを驚かせたかった。自分を見てほしかった。アリスが王冠を被れば腹が立った。アリスが自分なしで先へ進めば、もっと腹が立った。だから情報を置いた。VXが眠っている場所を置いた。反対派が怒る言葉を置いた。支持派が走る言葉を置いた。三妖機が街を見るための窓を置いた。
自分で。
何もしなくても。
人が。
走った。
機械が。
動いた。
街が。
回った。
それが。
面白かった。
晴翔がやっていたことを、自分にもできると分かった。アリスへ手を伸ばすより、世界を少し傾ければ、向こうからアリスが走ってくる。それが自分の新しいやり方だと思った。
でも。
今日。
自分が。
何も。
回していない場所で。
一人の。
怪我人が。
現れた。
自分が。
歯車を。
回していたと。
知った。
それでも。
前へ。
立った。
相手は。
世界最強級の。
特殊部隊。
勝てない。
分かっていた。
なのに。
肋骨を。
折られるまで。
退かなかった。
「……馬鹿」
雫が。
小さく。
言った。
返事は。
ない。
「何で」
自分は。
犯罪者。
相手は。
ヒーロー。
だから。
止める。
なら。
分かる。
でも。
守る。
理由。
分からない。
悪いことをした奴は止める。
でも。
戻れなくするのは。
俺の仕事じゃない。
アリスが制度で作った。
出口。
義弘は。
身体で。
やった。
海井雫は。
初めて。
歯車の向こう側に。
いるものを。
見た。
アカウントでも。
アクセス権でも。
群衆でも。
ユニットでも。
役割でも。
ない。
人間。
それも。
自分が。
勝手に。
回そうとしていた。
歯車の一つだと思っていた。
人間。
その重さを。
肋骨が折れる。
鈍い音と。
一緒に。
初めて。
聞いた。
そして新開市のどこかでは、もう一人の男が、何事もなかったように人混みへ溶けていた。ジュリウス・ニエレレは任務を失敗したとは考えていない。対象を確認した。脅威を確認した。津田義弘という予期しない障害も確認した。そして何より、海井雫を今すぐ切断すれば、新開市の別の歯車がどう噛むかも見た。
だから。
今日は。
何もしない。
ただ。
見届ける。
必要な時まで。
冷たく。
静かに。
世界最強の。
見届け人として。




