第389話 王冠の最初の命令
アリスが中央行政区へ向かうと決めた朝、NECROテック患者の療養施設は、普段よりも静かだった。静かなのは人が少ないからではない。むしろ逆で、廊下には医療スタッフも、回復中のNECRO兄弟姉妹も、OCM本流の警備員もいつも通りいる。ただ、その全員が、玄関前へ集められていく機体を気にしていた。グリンフォン。コロボチェニィク。トウィードルダムとディー。黒い巨体を折り畳むように待機するシュヴァロフ。そして、療養施設の外壁沿いで普段なら患者たちを守るように眠っている、元M-22――ブージャムまでが、低い駆動音を響かせて立ち上がっている。アリスは、自分が持てる戦力をほとんど全部、中央行政区へ連れていくつもりだった。
「本当にブージャムまで連れていくのですか」
オスカーが訊いた。
「うん」
「ここが薄くなります」
「お前いる」
「私は大型歩行戦闘車ではありません」
「知ってる」
「義弘さんもここにいます」
「だからお前残る」
「……私だけで?」
「リンもドラウグルもいる。警備もいる」
アリスは短く答えながら、白いフードの紐を引いた。もう車椅子はない。足元に多少の疲労は残るものの、中央行政区までは自分で歩くつもりだった。オスカーは彼女の背後に並ぶ機体を見てから、もう一度アリスを見る。
「外からどう見えるか、分かっていますか」
「分かってる」
「女王が軍勢を率いて行政中枢へ向かうように見えます」
「違う」
「私に言っても仕方ありません」
「死人出るよりマシ」
アリスは即答した。
「今日、あっちに来るの、賛成の奴だけじゃない。反対の奴も来る。両方、絶対揉める」
「だから全機を?」
「止めるのにいる」
「その全機を見て、反対派が余計に警戒する可能性は」
「知ってる」
「支持派が“女王陛下の親衛隊”だと喜ぶ可能性は」
「知ってる!」
少し声が大きくなる。アリスはそれを自分で嫌そうに飲み込み、視線を落とした。
「……見え方より、死人出ない方がいい」
オスカーはしばらく何も言わなかった。それから、いつものように小さく息を吐く。
「分かりました。こちらは私が守ります」
「うん」
「ただし、義弘さんを連れていかないこと」
「連れてかない」
「本人が勝手に行こうとした場合は?」
「押さえて」
「シュヴァロフがいません」
アリスが少し考える。
「サボテン投げて」
「私のサボテンを何だと思っているんですか」
「重石」
「違います」
義弘の病室の方から、遠く声がした。
「全部聞こえてんぞ!」
トミー。
「サボテンで押さえられる予定らしいぞ」
「ふざけんな!」
アリスは少しだけ笑った。その笑みはすぐに消えた。中央行政区で今日やることを思い出したからだった。
*
アリスが中央行政区へ入った時、街は一瞬だけ本当に静かになった。沿道にいた人間が声を失ったのは、アリス本人の姿より、その後ろに続くものを見たからだった。グリンフォンが低空を滑り、コロボチェニィクが三対の装甲腕を畳んで歩き、ダムとディーが左右へ分かれて人の流れを見ている。シュヴァロフは黒い装甲を光の中へ沈ませながら、アリスの少し後ろ。そして最後に、道路幅の大半を使ってブージャムが進む。かつて軍用歩行戦闘車として造られ、今はNECROテック患者の療養施設を守る怪物。それが、女王陛下と呼ばれる少女の後ろを歩いている。
「……出た」
誰かが言った。
「女王陛下だ」
「違う!」
アリスは反射的に怒鳴った。
すぐに別の声。
「ブージャムまでいる!」
「親衛隊だ!」
「違うって言ってる!」
支持派の配信では、《アリス女王陛下、全戦力を率いて中央行政区へ》という字幕が流れ、反対派の配信では、《アリス、重武装ドローンを伴い行政中枢へ強行進入》と表示された。アリスは移動しながら両方を見て、顔を歪める。
「どっちも違う」
トミーが隣を跳ねる。
「見た目だけなら、どっちもそんなに間違ってない」
「黙れ」
「ブージャム連れて“普通の会談です”は無理あるぞ」
「人止めるのにいる」
「人じゃなくて戦車止めるサイズだろ」
「新開市だとそれくらいいる」
「否定しづらいな」
中央行政庁舎前では、既に治安機関が二重三重の導線を組んでいた。建物正面には新開市特別調停官の先行権限付与へ反対する市民が集まり始め、少し離れた広場にはアリス支持派が白い帯と銀色の開いた王冠を掲げている。まだ互いに距離はある。しかし、その間を配信者、記者、観光客、導線屋が縫うように動いている。真鍋がアリスを見つけるなり、顔をしかめた。
「全部連れてきたのか」
「うん」
「見れば分かるが、一応聞いた。何考えてる」
「両方止める」
「両方?」
「私に反対してる奴と」
「うん」
「私を守るって言ってる奴」
真鍋は少し黙った。
「……後者の方が面倒かもしれんな」
「知ってる」
「ブージャムは?」
「壁」
「壁?」
「殴り合いになったら間に置く」
真鍋は巨大なM-22を見た。
「壁っていうか、建物だろ」
「倒れないからいい」
*
会談場所へ入ったアリスを見て、祝部マコトは本当に一瞬言葉を失った。アリス本人はいつもと大きく変わらない。白いフードパーカー。黒いバッグ。赤い瞳。少し不機嫌そうな顔。ただ、彼女は自分の足で歩いている。そして庁舎外には、彼女の家族機が全部揃っている。日本国代表団、オールドユニオン、新開市代表団、海外報道機関。世界中のカメラが向けられる中を、アリスは誰にも押されず、自分で席まで歩いてきた。
三岐透子は立たなかった。刀禰ミコトも表情を変えない。祝部だけが、いつもの軽口を出せなかった。
「……本気なんだな」
アリス。
「うん」
「今日、やるんだな」
「うん」
三岐。
「私は反対です」
「知ってる」
「まだ会議は始まっていません」
「じゃあ始めて」
オールドユニオン側にはアザドがいる。日本国側には比嘉、数名の議員、そして晴翔。晴翔は静かに座り、包帯の残る手首を机の上へ置いていた。アリスは一度だけ彼を睨んだ。晴翔は何もしない。笑いもしない。
それが、余計に気持ち悪かった。
「まず確認します」
三岐の声は冷静だった。
「現時点で《新開市特別調停官》は正式な制度として最終承認されていません。よって、アリス・ヴァーツラフコヴァー氏は特別調停官ではありません」
「うん」
「そして新開市代表団は、権限の先行付与にも合意していません」
「うん」
「なら」
三岐。
「今日、何をしに来たのです」
アリスは少しだけ息を吸った。カメラが向く。世界へ流れている。そのことを意識した顔ではなかった。彼女が見ていたのは机の上の資料と、その向こうにいる新開市の代表たちだった。
「取る」
「何を」
「権限」
室内がざわめいた。
「全部いらない」
アリスは続ける。
「王様の権限とか、いらない」
祝部が苦い顔をする。
「行政もいらない。軍隊もいらない。市長もいらない。議会もいらない」
刀禰。
「市長はいらないと言われると少し複雑ですね」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
「私が欲しいの」
一拍。
「出口」
アザドが腕を組んだまま、僅かに視線を上げる。
「今日から、暴れた集団を全部まとめてすぐ敵にする前に、時間置く。やめたい奴、抜けたい奴、投降する奴は、その間守る。武器捨てた奴を、後から殴るの禁止。警察も、日本も、企業も、武装した奴も、同じ場所で話させる。未登録のデカい機械は、一回止まれって言えるようにする。証拠消すの禁止。あと」
アリスの目が少し鋭くなる。
「組織と、人」
一拍。
「分ける」
三岐。
「意味を具体的に」
「NECROMANCERが悪いことしても」
「そこにいた全員が同じじゃない」
「アリス派が暴れても」
「私の支持者全部が悪党になるわけじゃない」
「日本の奴が何かしても」
「日本人全部敵じゃない」
「企業が何かしても」
「そこで働いてる奴全部敵じゃない」
晴翔が、ほんの少し目を細めた。
「悪いことしたら止める」
アリス。
「でも」
一拍。
「やめた奴まで」
「ずっと悪党にするの」
「今日から禁止」
部屋が静かになった。
*
三岐が最初に口を開いた。
「理念には賛成です」
「なら」
「手続きに反対しています」
アリスの眉が動く。
「あなたはまだ、その権限を持っていない」
「だから取る」
「自分で宣言すれば権限が生まれるわけではありません」
アザドが資料を机へ置いた。
「オールドユニオン側は、暫定特別調停条項の発動に同意する」
三岐の視線が彼へ向く。
「新開市側の最終承認前です」
「非常時の限定条項だ。新開市、日本国、OU間で既に協議した枠内にある」
比嘉が苦い顔で頷く。
「日本国側も、限定された先行権限に限れば承認可能という立場です」
三岐。
「新開市代表団が反対しているのに?」
日本側の年長議員。
「現場安定の必要性は高い」
「それを判断するのは誰です?」
「新開市民の支持も――」
「支持率は法的権限ではありません」
祝部が手を上げた。
「ちょっと待って」
誰も止めない。
祝部はアリスを見る。
「アリス」
「何」
「俺たち、新開市の代表だぞ」
「知ってる」
「俺たちが反対してても」
一拍。
「やるのか」
「うん」
短い。
だからこそ。
祝部の顔が強張った。
「日本国とOUが賛成してるから?」
「違う」
「じゃあ何で」
アリスは、少しだけ視線を下げた。
「今日」
「誰かが悪党になって」
一拍。
「明日まで待ってたら」
「戻れなくなるかもしれないから」
「制度は」
「遅い」
「俺たちは」
祝部。
「追いつこうとしてる」
「知ってる」
「それを飛ばすのか」
「うん」
「それ」
祝部の声が低くなる。
「自治なのか?」
アリスは答えなかった。数秒。世界中のカメラの前で、沈黙した。
「知らない」
三岐が目を細める。
「知らないまま、権限を取る?」
「うん」
「私たちを敵に回しますよ」
「敵にしない」
「政治では、そう見えることがあります」
「反対する人」
アリスは祝部を見る。
「敵じゃない」
「じゃあ何なんだよ」
「反対する人」
祝部が口を閉じた。
「それでも」
アリス。
「やる」
謝罪はなかった。言い訳もなかった。自分が一線を越えていることを分かっている顔だった。
*
日本国側は、驚くほど歓迎した。限定的とはいえ、現場の衝突を一つの窓口へ集約できる。しかもアリスは日本国そのものを拒絶していない。日本国内の世論人気は異様に高く、新開市市民の支持も強い。政治的には、反対する理由より利用したい理由の方が多かった。
「日本国としては」
代表団。
「暫定条項の本日付適用を支持します」
アリスの顔は全く嬉しそうではない。
そして。
晴翔。
「私も」
アリスが即座に睨む。
「大泉晴翔個人として」
「アリス氏への」
一拍。
「限定的先行権限付与を」
「支持します」
「お前黙って」
「賛成しているのですが」
「だから黙って」
「難しいですね」
「何かする気?」
「今は」
一拍。
「ありません」
アリスは晴翔を睨み続けた。何かある。絶対に何かある。そう思う。しかし、晴翔の通信にも、代表団内の動きにも、不自然なものはない。彼は本当に座って、アリスが権限を取るのを支持しているだけだった。
晴翔の側近が横から小さく言う。
「先生、本当に何もしないんですか」
「ええ」
「敵が権限を取るんですよ」
「敵?」
晴翔は僅かに笑う。
「アリスさんは」
「私を敵と固定してくれませんよ」
「そういう話じゃないでしょう」
「それに」
晴翔はアリスの資料を見る。
「彼女が今作ろうとしているのは」
一拍。
「出口です」
「あなたを止めるための」
「そうでしょうね」
「なら」
「制度になれば」
晴翔。
「残ります」
「先生がいなくても?」
「ええ」
側近が嫌そうに晴翔を見る。
「喜ぶことですか」
「分かりません」
「分からないのに賛成する?」
「分からないから」
一拍。
「見ていたいのでしょう」
*
午後一時十二分。暫定条項は、日本国とオールドユニオンの承認、新開市行政側に残されていた非常時調停条項の拡張解釈を足場に、本日限りの先行運用として発効した。新開市代表団の完全な同意はない。三岐は正式に異議を記録し、祝部も「代表団を頭越しにした既成事実化」として反対声明へ署名した。それでも、制度は動き始めた。
アリスはカメラの前に立った。
「私」
一拍。
「アリス・ヴァーツラフコヴァー」
呼吸。
「今日から」
周囲が静まる。
「《新開市特別調停官》」
世界へ。
流れた。
まだ暫定。
限定。
法的には複雑。
政治的には強行。
しかし、そんな注釈より。
一人の少女が。
自分で。
そう名乗った。
その事実の方が。
速かった。
「最初に」
アリス。
「命令する」
反対派も。
支持派も。
報道も。
止まる。
「悪いことした奴は」
「止める」
「でも」
「武器捨てた奴」
「逃げたい奴」
「もうやめるって言った奴」
一拍。
「追いかけて殴るな」
「組織が悪いからって」
「そこにいた全員」
「同じにするな」
「反対してる奴も」
「私の敵じゃない」
「支持してる奴も」
「私の兵隊じゃない」
アリスの目が。
強くなる。
「今日から」
「そうする」
*
収監施設の海井雫がその映像を見ていた。
「……やった」
監視員。
「何がです?」
「ほんとに」
「王様になった」
「特別調停官だそうです」
「同じじゃない」
雫は画面へ顔を近づける。アリス。新開市代表団の異議。日本国の歓迎。オールドユニオンの承認。祝部の硬い表情。
「強引」
小さく笑う。
「アリスのくせに」
指。
動く。
前回。
問いを。
置いただけで。
数千人が。
動いた。
今回は。
もっと。
熱い。
反対派へ。
《正式承認前に自分で特別調停官を名乗った》
《日本国とOUを後ろ盾に、新開市代表団の反対を押し切った》
《今抗議しなければ、次は“特別調停官への反逆”って呼ばれるかもしれない》
《本当に今黙ってていいの?》
送る。
次。
支持派。
《アリスが守ろうとしてるのは、晴翔の歯車で悪党にされた人たち》
《それを止めてる人たちは、誰を守ってる?》
《女王陛下を一人で反対派の前に立たせるの?》
《支持するなら今じゃない?》
雫は送信したあと。
数秒。
眺めた。
「……これくらいなら」
一拍。
「火」
「つくよね」
*
火は、すぐについた。
反対派の集会は、アリスの宣言を「非常事態を口実にした権限の自力取得」と受け取った。中央行政区へ向かう人間が増える。支持派はそれを「女王陛下への圧力」と見て、こちらも会談場所へ向かう。誰も最初から殴り合うつもりではない。ただ、行かなければならないと思った。それだけだった。
「反対派、南から増えます!」
真鍋。
「支持派は?」
「東側広場から中央通りへ!」
「ぶつけるな!」
「導線屋が!」
「またか!」
アリスが庁舎を出る。
「グリンフォン!」
翼。
上空。
「流れ見て!」
コロボチェニィク。
「中央!」
三対の腕を持つ巨体が道路へ入り、簡易柵を組み替える。
「ダム! ディー!」
退避路。
開く。
「ブージャム!」
M-22。
巨大な脚。
道路中央へ。
座るように。
止まる。
反対派。
「軍用機で道を塞ぐ気か!」
アリス。
「違う!」
支持派。
「女王陛下を守れ!」
「守るな!」
支持派。
「え?」
「私守るために」
一拍。
「反対してる奴殴るな!」
反対派。
「専制反対!」
「反対していい!」
「じゃあ通せ!」
「石投げるな!」
「投げてない!」
「後ろの奴持ってる!」
「誰だ!」
アリスは両方へ怒鳴りながら走った。治ったばかりの脚には、既に負担が来ている。それでも止まらない。シュヴァロフがアリスの横へ腕を伸ばす。
「いらない!」
黒い巨体が一歩下がる。
「グリンフォン! 西!」
小型ドローン。
接近。
グリンフォンが割り込み、押し返す。
「壊すな!」
アリスの声。
「両方!」
「殴るな!」
*
同じ頃、療養施設のネットワークへ一本の通信が入った。送信元は複数の中継を経由し、表面上は海外ニュース配信のミラーに見える。内容は偽映像ではなかった。中央行政区。アリス。支持派と反対派の間へ立つ。シュヴァロフ。グリンフォン。ブージャム。押し寄せる人間。飛び交う小型ドローン。
ただし。
全体ではない。
治安機関の封鎖線。
退避路。
まだ十分に機能している各機。
それらは。
映らない。
ヴェラの同行員が訊いた。
「加工は?」
「しない」
「では」
「必要なところだけ」
一拍。
「見せる」
「彼らが動くと?」
ヴェラ。
「知らない」
「本当に?」
「選ぶのは」
画面の。
NECRO兄弟姉妹。
「彼らよ」
*
療養施設。
「アリス!」
最初に声を上げたのはリンだった。
「囲まれてる!」
別の兄弟姉妹。
「何で!」
「行かないと!」
オスカー。
「待ってください」
「何で!」
「中央行政区には治安機関とアリス側の全戦力がいます」
「でも!」
「映像だけで判断しないでください」
「アリス一人で間入ってる!」
「一人ではありません!」
ドラウグルが立つ。
「行く」
「あなたまで」
「家族」
一言。
オスカーが。
言葉を失う。
「治療中の者は残ってください」
「動ける!」
「動けることと、戦闘可能は別です!」
「じゃあ戦闘可能ならいいんだろ!」
「そういう意味では――」
そこまで言って。
オスカーは。
止まった。
ここで。
強制的に。
閉じ込める。
権限は。
ある。
でも。
その瞬間。
彼は。
アリスを助けに行こうとするNECRO兄弟姉妹を。
企業命令で。
拘束する人間に。
なる。
オスカーが最も嫌う。
席。
「……くそ」
リン。
「今何て」
「何でもありません」
「言った」
「戦闘可能者のみ!」
オスカーが声を上げた。
「単独行動禁止! OCM本流の護衛班を必ずつける! 患者区画の警備は最低限残す! 無理をした者は帰還後に私が直接叱ります!」
リン。
「最後いらない!」
「必要です!」
結果。
護衛班。
出る。
戦闘可能な兄弟姉妹。
出る。
療養施設。
警備。
薄くなる。
ヴェラは。
その瞬間を。
待っていた。
*
OCM海外部門のエージェントは、施設そのものを襲撃しなかった。警備が薄くなった搬送区画から入り、旧OCM認証の残滓と、現在の本流側内部アクセスを組み合わせ、資料保管系統へ短時間だけ触れた。目的はNECROテックそのものではない。兄弟姉妹を奪うことでもない。ヴェラが欲しかったのは、海外部門がオスカーたちを攻撃できる理由だった。
レオン・ヴァルケン敗北後。
海外部門の戦術認証鍵。
本流側による緊急接収。
旧海外部門保有の運用データ。
NECRO兄弟姉妹保護を理由とした無断転用。
Ghost Hero再構築時。
共同権利だった戦術ログの秘匿。
どれも。
オスカー側から見れば。
理由がある。
兄弟姉妹を。
守るため。
でも。
海外部門から見れば。
別の言葉が使える。
横領。
権限奪取。
契約違反。
資産不法接収。
『取れました』
ヴェラ。
「十分?」
『奥にまだ』
「十分か聞いてる」
『……はい』
「なら出て」
『しかし』
「欲張らない」
ヴェラの声は冷静だった。
「戦争は」
一拍。
「始める理由だけ」
「あればいい」
*
義弘が異変に気づいたのは、病室が静かになったからだった。
「……おい」
トミー。
「何」
「人」
「減った」
「面会時間じゃね」
「違う」
義弘は端末を見る。いつもなら一定間隔で来るOCM側の警備確認。状態チェック。療養施設の巡回ログ。それが、急に薄くなっている。
「オスカー」
呼び出し。
応答。
遅い。
『何でしょう』
「どこだ」
『療養施設です』
「嘘つけ」
『正確には施設中央監視室です』
「警備どこ行った」
沈黙。
「おい」
『……アリスの援護へ』
「何人」
『必要最低限』
「最低限じゃねえだろ」
義弘がベッドから脚を下ろす。
トミー。
「やめろ」
「静かすぎる」
「だからって」
「誰か」
一拍。
「二カ所」
「同時に」
「回してやがる」
「晴翔?」
「違う」
「何で」
「あいつなら」
義弘は立つ。左膝。痛み。顔が歪む。
「俺が気づく場所まで」
「こんな露骨に」
「空けねえ」
医療スタッフ。
「津田さん!」
「散歩」
「嘘つけ!」
「ちょっと中央区まで」
「散歩じゃない!」
白いサムライ・スーツ。完全修復ではない。胸部には応急装甲。左膝補助は最低限。動ける。戦えるかは別。
トミー。
「死ぬぞ」
「知ってる」
「アリスに怒られる」
「それも知ってる」
「じゃあ何で」
義弘は。
少し。
笑った。
「あいつ今」
一拍。
「王様やるので」
「手いっぱいだろ」
サムライ・スーツ。
起動。
「俺の仕事くらい」
「俺がやる」
*
中央行政区では、人間同士の衝突そのものは、まだ辛うじて抑えられていた。ブージャムが巨大な壁となり、ダムとディーが常に退避路を確保し、コロボチェニィクが押し合うバリケードを腕で持ち上げる。シュヴァロフはアリスの直衛ではなく、転倒者を拾うために何度も群衆の上へ巨大腕を伸ばしていた。反対派も支持派も、互いに怒鳴りながら、それでもアリスの目の前で最初の一発を殴ることだけは躊躇している。
問題は。
ドローンだった。
いまの新開市には、「アリス系」を名乗る機械が多すぎた。大企業製。小規模開発。公共研究機関。クラウドファンディング。個人改造。警備用。救助用。イベント警戒用。支持派が自費で借りたもの。反対派市民団体が安全確保のため持ち込んだもの。
どれも。
程度の差はあっても。
アリスを。
真似ていた。
人間を守る。
殺さない。
危険な行動を止める。
登録だけで敵味方を決めない。
今を。
見る。
ただし。
「何を危険と見るか」
そこが。
違った。
支持派側の小型都市守護機が、反対派の一団がアリスのいる行政庁舎へ接近しているのを検出する。進路遮断。
反対派側の機体は、「武装した大型親衛機が行政中枢を封鎖し、市民の進路を妨害している」と判断。支持派機を押し退ける。
一機。
接触。
支持派機。
押し返す。
二機。
別の反対派機。
介入。
さらに。
企業製の大型都市ガード機。
危険な密集を解除しようと。
前へ。
その巨体を。
別系統のアリス互換機が。
「過剰な実力行使」
と判断。
止める。
「アリス!」
真鍋。
『ドローン同士が噛み始めた!』
「見えてる!」
一機。
転倒。
別。
捕捉。
別。
救助。
その救助行動を。
「味方機の奪取」
と。
別の機体が。
誤認。
数が。
増える。
五。
十。
二十。
行政区上空。
白。
灰。
黒。
銀。
民生。
企業。
公共。
全て。
アリスたちを。
真似た。
子供。
「……何で」
アリスが。
本当に。
呆然と。
言った。
一機の小型機がシュヴァロフへ進路妨害。シュヴァロフは壊さず、腕で横へ退ける。それを別の機体が「大型機による市民側機体への攻撃」と認識する。
さらに。
来る。
「お前ら!」
アリス。
怒鳴る。
「私の真似して!」
小型機。
接近。
グリンフォンが。
間へ。
「私殴りに来るなよ!」
*
その時、中央行政区の外縁へ白いサムライ・スーツが入った。
着地。
左膝。
鈍い。
痛み。
「……っ」
トミー。
「帰る?」
「帰らん」
「今なら間に合う」
「うるせえ」
義弘は顔を上げた。
そして。
しばらく。
何も言わなかった。
反王政派。
戴冠支持派。
治安機関。
企業警備。
NECRO兄弟姉妹が遠くから援護へ入り始めている。
ブージャム。
グリンフォン。
コロボチェニィク。
ダム。
ディー。
シュヴァロフ。
そして。
その全部の間で。
アリスが。
走っている。
さらに。
その周囲。
無数の。
アリス系ドローン。
互いを。
守るため。
互いを。
止めようとしている。
「……何だこれ」
トミー。
「子供の反抗期?」
義弘が。
少し。
黙る。
「……子育て」
一拍。
「失敗してんな」
遠くから。
「お前に言われたくない!」
アリスの声が飛んできた。
義弘。
「聞こえてんのかよ」
「聞こえる!」
「忙しいだろ!」
「うるさい!」
一瞬だけ。
笑い。
しかし。
義弘の顔は。
すぐに。
変わった。
見える。
一機。
支持派のドローンが。
反対派を。
守ろうとしている。
別。
反対派の機体が。
支持者を。
踏ませないため。
大型機を。
押している。
その押された機体が。
人間へ。
倒れる。
グリンフォンが。
助けに。
入る。
そこへ。
別の機体。
今度は。
グリンフォンを。
「危険な大型無人機」
として。
止めようと。
する。
正しい。
全部。
正しい。
だから。
噛み合う。
人が。
死ぬ。
「アリス!」
義弘が。
叫ぶ。
「何!」
「全部!」
一拍。
「止めようとすんな!」
アリスが。
振り返る。
「は!?」
「無理だ!」
「やる!」
「やるな!」
「じゃあどうすんの!」
義弘は。
膝の痛みを。
押して。
一歩。
前へ。
その目は、機体でも、人間でも、支持でも反対でもなく、いま街の中でどの判断とどの判断が噛み合えば死者が出るのかだけを追っていた。
「死ぬ噛み合わせだけ」
一拍。
「外すぞ!」
アリスは、その言葉を聞いたまま、一瞬だけ動きを止めた。彼女が今日手に入れた王冠の最初の権限は、悪党を倒すためのものではなかった。悪党という席から降りる人間の出口を守るためのものだった。その権限を手に入れた同じ日に、彼女自身を真似て作られた無数の機械が、それぞれの正しさで互いを危険と判断し、中央行政区を戦場へ変えようとしている。そして、その混乱の外では、雫が言葉だけで群衆を動かし、ヴェラが真実の一部だけを見せてNECRO兄弟姉妹を動かし、誰にも知られないままOCM海外部門のエージェントが新しい戦争の理由を持ち帰っていた。
王冠を取れば、晴翔の歯車を止められると思っていた。実際、止められるものもあった。今日から、武器を捨てた者を永遠の敵へ固定しないための制度が、一つだけ新開市へ加わった。それは確かにアリスが勝ち取ったものだった。だが、その勝利と同じ速度で、別の場所では別の人間が晴翔の回し方を使い、別の歯車を回している。アリスが王冠を手にしたことで減った火種もあれば、その王冠を巡って増えた火種もある。アリスの家族を学んだ機械は人に優しくなり、その優しさゆえに互いを止めようとしていた。
中央行政区の空で、グリンフォンが一機の小型ドローンをかわし、シュヴァロフが倒れかけた大型機を巨大腕で受け止めた。ブージャムの向こうでは反対派と支持派がまだ怒鳴り合い、双方とも「自分たちは市民を守っている」と信じている。その間へ義弘が入り、傷んだ膝を引きずりながら、ひとつひとつ噛み合わせを見始める。アリスもようやく、全部を止めるのではなく、義弘が指した場所を見る。
「右!」
義弘。
「グリンフォン!」
「そこじゃねえ! その後ろ!」
「分かりにくい!」
「俺も今見つけたんだよ!」
アリスが怒鳴り、グリンフォンが軌道を変える。そのわずかな変更で、倒れかけていた企業製ガード機と反対派側の小型機の接触が外れ、その下にいた人間が走って逃げる。ほんの一つ。ほんの数秒。それでも、人は死ななかった。
義弘が息を吐く。
「それでいい!」
「全然よくない!」
「全部良くするな!」
アリスが睨む。
義弘。
「今日の分だけ!」
一拍。
「死なせるな!」
王冠を被った少女と、壊れかけたサムライ・ヒーロー。その二人の周りで、新開市が自分自身の正しさと衝突し始めていた。




