第386話 ファイブカード
大泉晴翔が古いOCM戦術回線へ最初の接続要求を送ったのは、拉致事件の翌朝だった。右手首にはまだ白い包帯が巻かれ、額の傷には薄い保護材が貼られている。医師からは少なくとも一日は静養するよう言われたが、晴翔は日本国代表団宿舎の仮執務室へ戻り、通常の公務資料より先に、既に失効したはずの暗号鍵を端末へ読み込ませていた。現在のOCM本社を経由しない、かつて海外特務運用群が高危険度対人制圧機と軍用ドローン群を動かすために使用していた系統。新開市から撤退した後は大半が破棄され、一部は企業再編の過程で管理主体さえ曖昧になっている。普通の政治家が接触できる回線ではなかったが、晴翔は普通の経路からその存在を知ったわけではない。潰れた下請け、失効した輸送契約、国外へ移籍した元技術者、廃棄された機材を保管していた倉庫業者。三妖機を用意する過程で掘り返した企業の墓場は、機械だけでなく、そこへ通じる連絡先まで残していた。
接続要求。
応答なし。
二度目。
応答なし。
三度目。
拒否。
側近は晴翔の机の前へ立ち、半ば呆れた顔で端末を見ていた。
「完全に無視されていますね」
「当然でしょう」
「日本国の国会議員が、死んだはずの企業軍事回線から突然連絡してきたんですよ。私でも切ります」
「私でも切りますね」
「だったら何で続けているんです」
「切られなくなるまでです」
「政治家って、皆そんなにしつこいんですか」
「選挙に強い政治家は、大体そうじゃないでしょうか」
晴翔は四度目の接続要求を送る。今度は通信だけではなく、短い資料を添付した。新開市における都市機械登録制度の改定案。REGALIAの《現在行動評価》試験。アライアンスの《VPVD》による中立インフラ運用。KAGEBŌSHIがアリスの家族機から模倣し始めた救助挙動。NECROテックと市民用機械の境界を巡る新しい監査構想。どれも公開情報を中心にまとめたものだが、それらを一枚の地図として重ねれば、今の新開市で何が起きているかが見えてくる。
かつて企業は、強い機械を送り込めば市場を取れると考えた。火力。装甲。機動力。制圧能力。映像映え。それらを競った。しかし今、新開市で基準になろうとしているのは、単純な性能ではない。人命を効率より優先すること。登録情報より現在行動を見ること。味方だから通し、敵だから止めるという粗雑な判定を捨てること。助ける対象かどうかを確認する前に手を伸ばすこと。アリスの家族機が、誰かに教えられたのではなく、家族として繰り返してきた選択が、都市機械の標準思想へ変換されつつある。
OCM海外部門にとって、それは無視できない変化だった。レオン・ヴァルケンの敗北と、それに続く新開市撤退で海外部門は大きな損害を受けた。人員。機体。物流網。現地協力者。何より、「最新鋭の軍用技術を投入すれば都市を主導できる」という前提そのものを傷つけられた。組織は消滅しなかったが、国外へ退き、いくつもの契約と部署へ分割され、再編の名の下で沈黙している。それでも捲土重来の意思まで失ったわけではない。新開市はあまりにも大きな市場であり、あまりにも価値のある実証地だった。そして今、その都市で自分たちの技術思想だけが取り残されようとしている。
五度目の接続要求。
表示が変わった。
拒否ではない。
保留。
側近が身を乗り出す。
「食いつきましたね」
「資料を読んでいるだけかもしれません」
「同じことでは?」
「違いますよ。食いついた魚は、こちらが糸を引いていると知っています。資料を読む人は、まだ自分で選んでいると思っている」
「本当に政治家の比喩ですか、それ」
「釣りはしませんので、よく分かりません」
数分後、暗号通信が開いた。映像はない。音声も加工されている。個人を特定させないための旧軍用仕様だった。
『大泉晴翔議員』
「はい」
『この回線を、どこで知った』
「いくつかの古い契約書と、親切な方々の記憶から」
『回答になっていない』
「なるほど。では、秘密です」
『切るぞ』
「その前に、添付資料を最後までご覧ください」
『見た』
「でしたら話は早い」
『あなたと接触する利益を、当方は認めていない』
「でしょうね」
『新開市でのあなた自身の立場も不安定だ。音声流出。武装勢力との関係疑惑。拉致事件。日本国代表団内でさえ権限を制限されている』
「よく調べていらっしゃる」
『自分の足元も安定していない政治家が、我々へ何を提供できる』
「席です」
通信の向こうが、僅かに沈黙した。
「今の新開市へ、もう一度入るための席を用意できます」
『我々は許可を請う立場ではない』
「以前はそうだったのでしょう」
側近が晴翔を見る。晴翔は声色を変えなかった。
「でも、今は違う。未登録機を入れれば、治安機関だけでなく、市民監査、企業監査、アライアンス中立機、NECRO系観測網、日本国実証機まで反応する。力ずくで入れば、技術を見る前に全員から敵として観測されます」
『脅しか』
「助言です」
『何が目的だ』
「御社が欲しいのは、アリス系技術そのものより先に、それを見る権利ではありませんか」
今度の沈黙は長かった。晴翔は待った。画面の端では、前日の拉致事件に関する報道が音声なしで流れている。アリスが晴翔の前へ立ち、急進派へ「今は人質」と告げた瞬間。世論はその映像によってさらに晴翔を被害者側へ戻し始めていたが、今の晴翔はそちらを見ていなかった。
『何を出す』
「都市安全技術の第三者調査枠。海外企業再参入に関する限定的な実証参加。新開市側監査の下での非武装技術評価。そして、現地での活動基盤」
『見返りは』
「一人、送ってください」
『誰を』
「新開市で活動した経験がある方を」
『名前を言え』
晴翔は、少しだけ笑った。
「ヴェラ・クラウス」
通信が切れた。
側近。
「怒らせました?」
「可能性はあります」
「失敗?」
「いいえ」
「切られましたよ」
「名前を聞いたから切ったんです」
「名前を言えって向こうが言ったでしょう」
「聞きたくない名前だったのでしょうね」
*
OCM海外部門の残存組織は、晴翔の連絡を最初から罠だと考えていた。日本国の政治家が、非合法な旧戦術回線を使って接触してくる。それだけで正常ではない。しかも晴翔は、現在の新開市で急速に政治的立場を回復している一方、三妖機との関係を疑われ、アリス戴冠運動の急進派から「女王陛下の敵」として拉致されたばかりだった。利用価値はある。信用する理由はない。だからこそ、海外部門内部では連絡を無視するべきだという意見が多数を占めた。
しかし、新開市から届く技術報告が、その結論を鈍らせた。海外部門が誇ったWEREWOLFやVX系列は、今なお戦闘性能では優れている。だが、新開市で進んでいるのは単純な兵器競争ではない。機械が誰の命令を聞くかではなく、どの状況で命令を拒否するべきか。登録された味方を守るのではなく、現在助けを必要としている人間をどう見分けるか。支配者の意図を実行するのではなく、都市全体の死者を減らすために何を優先するか。そうした「判断の基準」が、アリス系技術から派生し、都市規格として固まり始めている。
規格から外れれば、どれほど強い機体でも売れない。使われない。都市の中へ立つ権利さえ得られない。海外部門にとって最も恐ろしいのは、敗北ではなく旧式化だった。
「晴翔の提示した枠は狭すぎる」
国外の再編拠点。会議室。
「だが、入口にはなる」
「罠だ」
「当然だ」
「なら断るべきだ」
「断っている間に、アリス系が世界標準になれば?」
誰も答えない。
「派遣するなら、技術者を」
「監査下で何が取れる」
「では工作員」
「新開市を知らない人員はすぐに見つかる」
そこで名前が出た。
ヴェラ・クラウス。
かつて新開市で高危険度対人制圧機《WEREWOLF》を担当した女。複数国軍での運用経験があるという噂。企業の命令へ従うが、命令の意味まで企業と共有するとは限らない。現地判断能力が高く、それゆえに扱いづらい。
「彼女は命令どおりに動かない可能性がある」
「大泉晴翔は、それを承知で指名している」
「だから危険だ」
「だから価値があると思っているのかもしれない」
派遣決定は、晴翔を信用した結果ではなかった。新開市へ戻る道が他に見つからないから。そして、ヴェラなら晴翔に利用されるだけでは終わらないと判断したからだった。
*
翌日、晴翔の端末へ映像通信が入った。背景は暗い。ヴェラ・クラウスは軍用の簡素なシャツ姿で椅子へ座り、画面越しでも相手を値踏みする視線を隠していなかった。明るい髪は後ろへまとめられ、表情には疲労も愛想もない。
「日本の政治家が」
一拍。
「私たちの墓を掘っていると聞いたわ」
「ご迷惑でした?」
「非常に」
「では、切りますか?」
「まだ」
晴翔は僅かに笑った。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。あなたは古い通信規格を無断で使い、廃棄済みの人員記録から私を名指しした」
「ええ」
「気味が悪い男ね」
「最近よく言われます」
「最近だけ?」
「確認したことがありません」
ヴェラは晴翔の包帯へ視線を移した。
「拉致されたそうね」
「はい」
「わざと?」
側近が後ろで僅かに反応した。晴翔は答える前に一呼吸置いた。
「捕まりやすい選択はしました」
「同じことよ」
「側近にも言われました」
「学習しないの?」
「学習した結果、次は少し違うことをしようと思っています」
「それが私?」
「候補の一人です」
「一人」
ヴェラの目が細くなる。
「他にもいるのね」
「います」
「機械?」
「三匹」
「例の違法改造機」
晴翔は答えなかった。ヴェラはその沈黙だけで十分と判断したようだった。
「《NU=E》《ON=MORAKI》《GASYA=DOKURO》。外装と運用映像を見たわ。私たちの古い戦術データが混ざっている」
「一部だけです」
「誰が作った」
「さあ」
「あなた?」
「全部ではありません」
「嫌いな答え方ね」
「それもよく言われます」
ヴェラは椅子へ深く座った。
「私に何をさせたいの?」
「新開市へ来てください」
「任務は」
「ありません」
「護衛?」
「違います」
「情報収集」
「OCM海外部門としては、そうでしょうね」
「あなた個人の目的は」
「新開市へ入る基盤を作ります」
「だから、その見返りに何をする」
晴翔は、少しだけ考えた。嘘を選んでいるようには見えなかった。
「見てください」
「何を」
「今の新開市を」
「観光なら他を当たって」
「アリス系技術。REGALIA。KAGEBŌSHI。NECRO兄弟姉妹。津田義弘。アライアンス。そして」
一拍。
「私」
「自分を並べるのね」
「関係者ですので」
「敵は誰?」
ヴェラの問いは短かった。
「誰を制圧すればいい」
「それは」
晴翔も短く返す。
「あなたに任せます」
ヴェラは、初めて明確に表情を変えた。驚いたというより、相手の異常をもう一段深く測り直した顔だった。
「私が」
「はい」
「誰を敵と判断するかを」
「はい」
「あなたに従わなくても?」
「もちろん」
「あなたを敵と判断しても?」
晴翔は一拍置いた。
「もちろん」
側近が横で晴翔を見たが、口は挟まなかった。ヴェラはしばらく何も言わず、画面の向こうから晴翔の顔を観察していた。
「信用されているとは思わない方がよさそうね」
「全く信用していません」
「正直ね」
「信用できる方なら、別の仕事をお願いしています」
「私が裏切る可能性を買う?」
「ええ」
「悪趣味」
「ご存じでしょうが」
晴翔は静かに答えた。
「私の言う通りに動くものなら、もう三匹います」
ヴェラの口元が、ほんの僅かに上がった。
「いいでしょう」
「来ていただけますか」
「OCM海外部門の目的は、アリス系技術への接触と都市機械規格の分析。あなたが用意する活動基盤は使う。その間、必要だと思えばあなたにも手を貸す」
「ありがとうございます」
「ただし」
ヴェラの目が冷える。
「あなたが私たちの技術を盗み、あの三機へ混ぜた証拠を見つけたら」
「はい」
「最初に敵と判断するのは、あなたよ」
晴翔は。
嬉しそうに。
頷いた。
「期待しています」
「本当に気味が悪いわね」
通信が切れた。
側近が数秒待ってから口を開いた。
「先生」
「はい」
「今の、交渉成功なんですか」
「新開市へ来るそうです」
「到着した瞬間、先生を撃つかもしれないって言ってましたよ」
「それを含めてです」
「何で嬉しそうなんです」
「予想どおりだったので」
「予想できる人はいらないんじゃなかったんですか」
晴翔は少し考えた。
「予想どおり、予想できませんね」
「もう嫌だ、この人」
*
ヴェラ受け入れの表向きの手続きは、晴翔の名前を前面には出さずに進められた。海外企業再参入検討に伴う技術調査員。都市機械安全基準の比較評価。日本国側から新開市へ提示される第三者技術監査候補。肩書はいくらでも作れる。もちろん新開市側は警戒するだろう。オスカーは即座に気づく可能性が高い。真鍋は過去の運用歴を洗う。三岐は法的権限を削る。それでも、一度正式な入口を得れば、以前のような侵入者ではない。晴翔がヴェラへ与えたのは、安全ではなく、入国審査と会議室と宿泊先と、少なくとも最初の一歩で撃たれない権利だった。
その準備を部下へ預けると、晴翔は国内の収監施設へ向かった。拉致事件直後の政治家が、今度は技術犯罪者との面談を希望する。日本国代表団内部でも反対は出たが、表向きの理由は用意されている。サイバー犯罪者の更生政策。高度技術犯罪者の技能を公共防御へ転用する制度。新開市との自治協定に含まれるサイバー防災協力の事前調査。どれも晴翔が以前から進めてきた再統合政策の延長にあり、書類だけを見れば不自然ではなかった。
面談室には透明な仕切りがあった。両側に固定された机。記録カメラ。監視員。雫は以前よりも髪が短く、収監者用の地味な服を着ていた。態度だけは変わっていない。晴翔が入ってくると、椅子に座ったまま睨みつけた。
「……何」
「こんにちは」
「政治家が何しに来たの」
「あなたに仕事を持ってきました」
「帰れ」
「早いですね」
「私を使いたい奴、みんな最初は仕事って言うから」
「勉強になります」
「してないで帰れ」
晴翔は向かいへ座った。包帯の巻かれた手首が机の上へ出る。雫の視線が一度だけそこへ動いた。
「それ」
「拉致されました」
「知ってる」
「ご心配を?」
「してない」
「残念です」
「アリスに助けられたくせに」
「ええ」
「気持ち悪い」
「本日一人目です」
「何が」
「私への感想です」
「まだ午前?」
「もう午後です」
「少ないじゃん」
「面談が少ないので」
雫は露骨に嫌そうな顔をした。
「何しに来たの」
「まず」
晴翔は端末を机へ置く。
「外を見せようと思いまして」
「見てる」
「新開市を?」
画面が開く。
歩くアリス。
白い帯。
銀色の開いた王冠。
街頭行進。
《アリス女王陛下》
雫の目が止まった。
「……何これ」
「女王陛下だそうです」
「ふざけんな」
「本人も、同じようなことを言っています」
「違う」
「何がです?」
雫は画面へ近づいた。自分の足で歩くアリス。壇上へ立つアリス。群衆へ「私が間違えたら止めろ」と言うアリス。シュヴァロフ。グリンフォン。コロボチェニィク。ダムとディー。かつて雫が入りたがった家族は、今や群衆から王室のように見られている。
「勝手に」
一拍。
「そんなとこ行くなよ」
「アリスさんに?」
「……」
「追いつきたい?」
雫が晴翔を睨んだ。
「誰が」
「では、どうして怒っているんです」
「うるさい」
「彼女はもう、あなたが知っていた場所にはいない」
「分かってる」
「特別調停官になれば、もっと遠くへ行く」
「分かってるって言ってんだろ!」
監視員が僅かに動いた。晴翔が手で止める。雫は荒く息をし、もう一度画面を見た。
「私」
一拍。
「まだ」
「あいつに」
「勝ってない」
晴翔は笑わなかった。
「そうですか」
「何その顔」
「続きを待っています」
「ない」
「では、提案を」
晴翔は紙の書類を三枚、透明仕切りの下部にある受け渡し口へ差し込んだ。
《更生のための技術能力評価》
《サイバー犯罪者向け技能転用プログラム》
《新開市インフラへの脅威分析協力》
雫が一枚ずつ見る。
「……何これ」
「あなたの技術能力を、社会復帰へ繋げるための制度です」
「要するに」
一拍。
「ハッキングしろって?」
「違います」
「じゃあ何」
「攻撃手法の分析。脆弱性評価。模擬環境での侵入試験。新開市インフラへ想定される脅威の検証」
「同じじゃん」
「法律上は、かなり違います」
「政治家うざい」
「二人目です」
「何が」
「もういいです」
雫は書類を読み進める。アクセス可能領域。模擬ネットワーク。外部情報取得。リアルタイム防御検証。監視ログ。担当官承認。表向きは厳格に制限されている。だが、雫の目は途中で止まった。
「これ」
「何でしょう」
「穴ある」
「制度上の欠陥ですか?」
「とぼけんな」
雫は指先で条項を叩く。
「脅威分析用に実環境の観測データを取れる。リアルタイム検証の時は外部系統との接続が開く。監視端末はログを取るけど、権限分離が甘い。ここから評価環境へ戻って、別の認証経路へ――」
途中で口を閉じる。
「分かってて作った?」
「私は制度設計の専門家ではありません」
「嘘つけ」
「嘘ではありません」
「全部でもないだろ」
晴翔は答えなかった。
「私に」
雫が声を低くする。
「何させたいの」
晴翔は。
本当に。
少し考えた。
「分かりません」
雫が顔を上げる。
「は?」
「私にも」
「分かりません」
「馬鹿にしてる?」
「いいえ」
「アリスのシステム壊せとか」
「言いません」
「新開市混乱させろとか」
「言いません」
「晴翔に情報流せとか」
「求めません」
「じゃあ何で穴作った」
「穴だと判断したのは、あなたです」
「お前が残させたんだろ」
「証明できます?」
「最悪」
「昨日も言われました」
雫は書類を机へ置く。
「私がアリス壊しても?」
「あなたが選ぶなら」
「新開市止めても?」
「その時は止められるでしょう」
「誰に」
「アリスさん。津田さん。治安機関。企業。あるいは」
一拍。
「私に」
「お前をハッキングしても?」
晴翔は少しだけ眉を上げた。
「それは困りますね」
「駄目?」
「やられたら、その時対処します」
「私が裏切っても?」
「最初から、味方になっていただくつもりはありません」
雫は黙った。
今まで雫へ近づいた人間の目的は、比較的分かりやすかった。力が欲しい。技術が欲しい。従わせたい。監視したい。利用したい。家族に入れてやる代わりに役割を果たせ。認めてやる代わりに命令を聞け。晴翔も雫を利用しようとしている。それは間違いない。ただし、晴翔自身が雫を何に利用するのか決めていない。
「お前」
「はい」
「私に自由に選ばせるつもり?」
「完全な自由ではありません。あなたは収監中です」
「そうじゃなくて」
「ええ」
晴翔は静かに答えた。
「あなたが何を選ぶかを、見たい」
「それだけ?」
「それだけではありません」
「ほら」
「あなたの選択によって、新開市が変わるかもしれない。アリスさんが変わるかもしれない。私が困るかもしれない」
「最後本音?」
「全部本音です」
「理解できない」
「よく言われます」
「気持ち悪い」
「三人目です」
「今日三人しか会ってないだろ」
「よく分かりましたね」
「ほんとムカつく」
晴翔は画面をもう一度アリスへ戻した。群衆の前で立つアリス。晴翔を急進派から守るアリス。女王と呼ばれながら、敵を決めることを拒むアリス。
「あなたが入りたかった家族は」
一拍。
「今」
「王室になりかけています」
「違う」
「でも、そう見られている」
「アリスは欲しがってない」
「権限は欲しがった」
雫の顔が歪む。
「義弘のために」
「そうでしょうね」
「また」
「何がです?」
「また」
雫はアリスを見た。
「誰かのため」
晴翔は、その言葉へ反応したが、掘り下げなかった。今ここで必要なのは、雫を結論へ押すことではない。むしろ押せば価値が落ちる。
「選ぶのは」
晴翔。
「あなたです」
「このプログラムを受けるか」
「受けた後、何をするか」
「どこへ手を伸ばすか」
「全部」
雫。
「捕まってるの忘れるなって?」
「それは忘れない方がいい」
「脅し?」
「忠告です」
雫は書類を見た。外へ出られるわけではない。扉が開くわけでもない。自由になるわけでもない。ただ、自分の手だけが新開市へ届く。アリスへ。シュヴァロフへ。義弘へ。晴翔へ。そして、かつて自分を拒んだ家族と、もう一度同じ盤面へ立てる。
「やる」
晴翔。
「ありがとうございます」
「お前のためじゃない」
「もちろん」
「アリスに」
一拍。
「もう一回」
「会う」
「ええ」
「今度は」
雫の声が少し低くなる。
「あいつの家族に入れてとか」
「言わない」
「では?」
「勝つ」
「何をもって?」
雫は。
少し。
考えた。
「知らない」
晴翔の口元が。
僅かに。
上がる。
「それでいい」
「お前に言われたくない」
*
晴翔が施設を出た数時間後、雫の収監記録には新しい項目が追加された。《高度技術犯罪者向け技能転用プログラム・第一次評価対象》。書類上は正式な更生政策だった。監視官がつき、作業時間は限定され、全入力は記録される。雫へ渡される端末も施設外から隔離された評価環境へ接続される予定になっている。
しかし。
晴翔が回した制度改定案には、外部脅威のリアルタイム再現という名目で、限定的な実環境データ取得が認められていた。認証は複数に分離されている。監視もある。普通の技術者なら外へ手を出せない。
雫なら。
話は別だった。
晴翔は、雫へ鍵を渡してはいない。
ただ。
窓のある部屋へ。
移した。
*
ヴェラの新開市派遣準備も進んでいた。表向きには民間技術調査員。実際には、OCM海外部門がアリス系技術と都市守護規格を観察するための現地要員。その装備として《WEREWOLF》をそのまま公に持ち込むことは許可されていない。機体は分解状態で別経路。本人は先に入る。晴翔が作った活動基盤を使いながら、晴翔の指示に従う義務は持たない。
輸送機内で、ヴェラは新開市の最新映像を見ていた。歩くアリス。負傷した義弘。復帰しつつある晴翔。三妖機。そしてOCM本流でNECRO兄弟姉妹を守るオスカー。
同行員が訊く。
「大泉晴翔は、あなたを信用しているのでしょうか」
「逆よ」
「逆?」
「信用できないから呼ばれたの」
「では、彼に協力を?」
「基盤は使う」
「任務は」
「アリス系技術の確認。新開市規格の取得。OCM海外部門が戻る余地の確保」
「大泉氏個人については?」
ヴェラは三妖機の映像を止めた。
「調べる」
「敵ですか」
「まだ」
「味方?」
「それもまだ」
ヴェラは窓の外を見る。遠く、雲の下に新開市の外縁が見え始めていた。
「誰を敵にするか」
一拍。
「私に任せる、ね」
「信頼では」
「違う」
ヴェラの声は冷たい。
「自分が撃たれる可能性まで」
「楽しんでるのよ」
「異常ですね」
「ええ」
少し間を置き。
「だから」
「見に行く価値がある」
*
新開市では、オスカーが古い通信の再稼働へ気づいていた。現在のOCM本社網とは別の、死んだはずの海外戦術回線。そこへ外部から接続があり、今度は国外から新開市方向へ認証要求が移動している。
「……またですか」
リンが覗き込む。
「何」
「古い海外回線です」
「三妖機?」
「違います」
「じゃあ」
オスカーが識別記録を開く。
古い人員コード。
高危険度対人制圧。
WEREWOLF。
彼の表情が。
少し。
硬くなる。
「今度は」
一拍。
「向こうから」
「誰かが」
「こちらへ来ます」
アリスが歩いて近づく。
「誰」
オスカーは画面を見たまま答えた。
「ヴェラ・クラウス」
「知ってる?」
「ええ」
「どんな奴」
「面倒な人です」
リンが鼻で笑う。
「お前が言うなら相当じゃん」
「失礼ですね」
「晴翔?」
アリス。
オスカーはすぐに答えなかった。
「確証はありません」
「またそれ」
「ですが」
古い海外回線の接続時刻。日本国側の入国手続き。第三者技術監査枠。複数の情報を重ねる。
「大泉氏が」
一拍。
「入口を作った可能性は」
「高いでしょう」
アリスの赤い目が細くなった。
「何で」
「それを調べるためにも」
オスカー。
「まずは」
「会う必要があります」
「敵?」
「まだ分かりません」
アリスは少し考え。
「じゃあ」
一拍。
「来てから見る」
オスカーがアリスを見る。
「義弘さんと」
「同じことを言いますね」
「違う」
「何がです」
「私の言い方」
「そこですか」
*
夜、日本国代表団宿舎の仮執務室で、晴翔は五つの表示を並べていた。
《NU=E》。
《ON=MORAKI》。
《GASYA=DOKURO》。
VERA KLAUS。
海井雫。
三機の状態は安定している。《NU=E》は義弘の偽情報選別傾向を追加学習。《ON=MORAKI》は破損翼の交換を終え、新しい追跡経路を構築中。《GASYA=DOKURO》も補強が進み、次の出動準備へ入っている。
ヴェラは新開市へ向かっている。
雫は収監施設の中で、プログラム開始を待っている。
側近が画面を見る。
「揃いましたね」
「何がです?」
「あなたの切り札です」
「そう見えますか」
「三妖機に、ヴェラ・クラウス、海井雫」
一拍。
「五枚」
晴翔は画面へ目を向ける。
「三枚は」
「私が切れます」
「残り二枚は?」
晴翔は少しだけ笑った。
「勝手に」
「切れるでしょう」
「それ、手札ですか?」
「さあ」
「敵に回るかもしれないんですよ」
「ええ」
「三妖機を壊すかもしれない」
「ええ」
「雫は先生の通信へ侵入するかもしれない」
「困りますね」
「ヴェラは先生を撃つって言ってました」
「証拠が見つかれば、ですね」
「見つかりそうなんですか」
「どうでしょう」
「先生」
側近は疲れた顔で言った。
「切り札って普通、最後に出せば勝てるものじゃないんですか」
「そうかもしれません」
「これは?」
晴翔は五つの表示を眺めた。三妖機には役割がある。嘘の道を作る。逃げ道を狩る。最後に潰す。目的を与えれば、その目的へ向けて動く。義弘が仕事を見抜いて調整しようとしても、学習し、次は別の角度から噛みつく。
だが。
ヴェラと雫には。
役割を与えていない。
晴翔自身を敵にするかもしれない。アリスを助けるかもしれない。義弘へ情報を渡すかもしれない。三妖機を奪うかもしれない。新開市を混乱させるかもしれない。その全てを拒否し、晴翔の予想とは無関係な目的を選ぶ可能性もある。
「もしかすると」
晴翔。
「私の首を」
「切る札かもしれません」
「何で楽しそうなんです」
「だからですよ」
「またですか」
「三匹は」
一拍。
「私の命令を待っています」
晴翔は画面上の三妖機を見る。
「でも」
次。
ヴェラ。
雫。
「二人は」
「待っていない」
「それが強い?」
「ええ」
「義弘さんは」
「相手の仕事を見つける」
「アリスさんは」
「今、何をしているかを見る」
「では」
一拍。
「仕事も決まっていない」
「次に何をするかも」
「本人以外には分からない人間を」
「二人の前へ置いたら」
「どうなるでしょう」
側近。
「先生にも分からない」
「はい」
「危ないですよ」
「ええ」
「また死にかけますよ」
晴翔の包帯を巻かれた手が、僅かに動いた。拉致された時の恐怖はまだ身体へ残っている。狭い地下管理室。改造機の音。崩れる天井。アリスが来なければどうなっていたか分からない。思い出せば、今でも背筋の奥が冷える。
そして。
その冷たさの。
すぐ隣に。
あの。
心地よい痺れが。
まだある。
「そうかもしれませんね」
「怖くないんですか」
「怖いですよ」
「なら」
「でも」
晴翔は五枚を見る。
「怖くなかったら」
一拍。
「切り札にならないでしょう」
*
収監施設では、新しい評価室の準備が終わっていた。雫は監視員に連れられ、固定机の前へ座る。端末。外部接続制限。監視表示。入力記録。全てが見える。
雫は電源を入れる。
ログイン。
模擬環境。
新開市都市ネットワークの再現図。
その向こう側に。
僅かな。
実環境の観測窓。
「……雑」
監視員。
「何がです」
「別に」
雫は指を動かす。
最初の課題は、既知脆弱性の検出。
簡単。
次。
権限分離。
その先。
晴翔が。
意図的に。
残した。
窓。
雫は。
まだ。
触れなかった。
画面の端。
新開市の公開映像。
白いフード。
歩くアリス。
「……待ってろ」
誰にも聞こえないほど小さく言う。
*
同じ頃、ヴェラを乗せた輸送機が新開市外縁の進入空域へ入った。眼下には増築を繰り返した都市、正規区画と違法拡張、企業施設、アライアンスの中立設備、復旧中の高架。かつて見た新開市と同じ輪郭を残しながら、別の生き物のように変わっている。
ヴェラは表示された入域許可を確認した。
大泉晴翔の名はない。
だが。
彼が作った道であることは。
分かっている。
「さて」
ヴェラは静かに呟いた。
「誰を」
「敵にしようかしら」
*
晴翔は、二人が何を言ったか知らない。雫がまだ窓へ触れていないことも、ヴェラが新開市を見下ろしながら最初の敵を選ぼうとしていることも知らない。それでよかった。三妖機は晴翔の命令を待ち、与えられた仕事を完遂するために次の出動へ備えている。ヴェラと雫は、晴翔の命令を待っていない。新開市へ入る道と、外へ触れる窓を与えられただけで、それぞれが自分の理由でアリスへ向かい始めている。
晴翔は五枚を揃えた。
だが。
所有してはいなかった。
最初の三枚は、晴翔が切ることができる。残る二枚は、いつ、どちらへ、何のために切れるのか、本人たちにしか分からない。義弘を傷つけるかもしれない。アリスを守るかもしれない。晴翔の歯車を壊すかもしれない。あるいは、全員がまだ見つけていない別の席を、新開市の中へ作るかもしれなかった。
普通なら。
それを。
手札とは。
呼ばない。
まして。
切り札などとは。
呼ばない。
けれど大泉晴翔にとっては、結果を保証してくれるものより、自分の予測を裏切り、自分自身を傷つける可能性まで持つものの方が、遥かに価値があった。安全なカードは製品にすぎない。正しく切れば正しい結果を出し、失敗しても原因を分析できる。そんなものは河島玄隆に任せればいい。
晴翔が欲しいのは。
自分にも。
次が。
分からないものだった。
三匹は。
命令を。
待っていた。
二人は。
待っていなかった。
だからこそ。
大泉晴翔にとって。
五枚は。
ようやく。
本当の。
切り札になった。




