第340話 白い手袋の論理
CRADLE LESSONの案内は、相変わらず案内らしくなかった。
見えない。
だが、そこにいる。
歩く速度のわずかな調整、扉が開くタイミング、曲がるべき角で空気が少しだけ薄くなる感じ――そういう、人間の身体の外側にだけ触れるような導き方で、アリスたちはアライアンス施設の奥へ通されていった。
アリスは足の固定具をまだ外していない。
歩けないわけではないが、まともに歩くたびに痛みが足から腰へ響く。
それでも自分の足で来ると決めたのは、病室で寝かされているまま話を受けるのがどうしても嫌だったからだ。
白い廊下。
角の少ない壁。
見える場所には一切置かれていない端末。
静かで、清潔で、そして何よりも、“ここでは余計なものは何も持ち込ませない”という意志が隅々まで徹底している。
アリスの隣を、SABLEが歩いていた。
少し後ろにトミー。
さらにアザド。
この顔ぶれが一緒に歩く光景そのものが、新開市という街の歪さをよく表している気がして、アリスは少しだけ嫌な笑いを飲み込んだ。
「前より、だいぶ歓迎されてないな」
トミーがぼそっと言う。
アリスは答えなかった。
だが同じことは思っていた。
以前、氷の母とお茶をした時は、もっと穏やかだった。
あれはあれで底知れない怖さがあったが、少なくとも“会話の余地”のある静けさだった。
今の施設には、余地ではなく決定が満ちている。
話を聞く前から、もう何かが決まっている空気だ。
やがて案内は一つの扉の前で止まった。
止まった、としか分からない。
見えない誰かがそこで立ち止まったことが、空気の緊張だけで分かる。
次の瞬間、扉が静かに開いた。
*
部屋は広く、そして静かだった。
静か、というより、音が沈められている。
言葉を大きくしただけで、その場の品位を汚しそうな種類の静けさだ。
そこでまず目に入ったのは、義弘だった。
彼はすでに部屋の中にいて、アリスたちが入ってきた瞬間、短く振り向いた。
その顔に、アリスは一目で疲れを見た。
身体の疲れだけではない。
説得して、噛み合わず、それでも引かずに食い下がった人間の顔だ。
いつもの義弘は、よくも悪くも他人へ疲れを見せない。
その義弘が、ここまで明確に消耗して見えるということは、ここで交わされていた話が相当に厳しかったということだ。
「起きたか」
義弘が言う。
短い。
だがその短さの中に、少しだけ安堵があった。
「起こされた、の方が近い」
アリスが返す。
義弘は口元をわずかに動かしたが、笑いにはならなかった。
その向こう側に、氷の母がいた。
以前に会った時と同じ、整った装い。
同じく上品で、同じく乱れがなく、同じく“微笑んでいるように見える顔”。
なのに、空気はまるで違う。
穏やかさがないわけではない。
だがその穏やかさが、相手を受け入れるためのものではなく、すでに結論を持った者の余裕として置かれている。
冷厳。
その言葉がいちばん近かった。
彼女の背後には、見えないままのCRADLE LESSONがいる。
見えないのに、分かる。
立っている位置。
重さ。
不可視の気配が部屋の輪郭の一部になっている。
アリスは、そこで変に取り繕うのをやめた。
「お茶は出ないんだ」
言うと、トミーが鼻を鳴らし、アザドはさすがに少しだけ目を細めた。
氷の母は、ほんのわずかに目元を和らげた。
「今は、そのような場ではありませんから」
やはり声は柔らかい。
柔らかいのに、その一言で前回との断絶がはっきりする。
アリスたちは勧められた位置へ座った。
義弘はすでに席についている。
SABLEはアリスの少し斜め後ろ。
トミーは最初から行儀よくする気がない顔で、しかしこの場の重さは分かっているらしく、珍しく黙ったまま耳だけはよく動かしている。
アザドは一歩引いた位置で座り、その表情をいつも以上に薄くしていた。
先に口を開いたのは義弘だった。
「話は、まだ変わっていない」
疲れはある。
だが声音は折れていない。
「新開市のことは、新開市で決めさせてほしい」
氷の母は、それを遮らない。
最後まで聞いてから、静かに頷いた。
「あなた方が今までしてきた努力は承知しています」
その言葉に、アリスは少しだけ眉を寄せた。
こういう入り方をしてくる時が一番厄介だ。
最初に否定しない。
むしろ認める。
認めた上で取り上げる。
「津田義弘さん。刀禰ミコト市長。真鍋さん。療養施設を支える方々。ワンダーランド。その他、名もなき新開市民たちも含めて――あなた方は、自分たちの街を、自分たちなりに守ろうとしてきた」
そこには事実も含まれている。
だから余計に反発しづらい。
「その努力は評価します」
そして、来る。
「ですが」
案の定だった。
「新開市のインフラ・システムは、この都市だけのものではありません」
部屋の空気が、一段冷える。
「世界を支えているエネルギー供給網の一つであり、その安定はこの街の自治や感情よりも広い責任の上にあります」
アリスは、その言葉を聞きながら、歯の裏側で舌を押した。
正しい。
正しいから嫌なのだ。
「それが危機に瀕しないよう管理するのが、“我々”の義務です」
氷の母の言葉は、どこまでも丁寧だった。
怒鳴らない。
恫喝もしない。
ただ、揺るがない義務として語る。
義弘が言う。
「新開市は、その責任を理解している」
「理解はしているでしょう」
氷の母は即座に返す。
「ですが、今回理解だけでは足りないことが示されました」
巨大デモ。
武装市民。
リヴァイアサン。
市民の大量死寸前。
その全部が、その一言に圧縮されていた。
アリスが、そこで口を開いた。
「それで」
短く、だがかなり刺すような声だった。
「代表を奪うの」
氷の母は、少しだけアリスへ視線を向ける。
「奪う、という理解は好みません」
「じゃあ何」
「引き継ぐのです」
あまりにも、言葉がきれいだった。
「今回の日本国との交渉については、“我々”が引き継ぎます」
義弘の顔が、そこでわずかに硬くなる。
何度も聞いた答えなのだろう。
それでも目の前で改めて言われると、やはり腹に落ちるものではない。
「日本国と、どう交渉する気だ」
義弘が問う。
氷の母は淡々と答える。
「日本国が新開市のインフラ・システムを脅かさない限り、その進出そのものは認めます」
アリスの眉が上がる。
トミーも、さすがに「おいおい」と言いたげな顔をした。
「“我々”の保証の下に、刀禰ミコト市長とも取次ぎを行います」
つまり、日本国はアライアンスの管理下でなら新開市へ入れる。
市長との会談も、アライアンスを通せば成立する。
それは表向きには安定化策だが、実態としては新開市の自治の上にアライアンスが覆いかぶさる形だった。
「それだと」
義弘が言う。
「日本国に反発している新開市民が、さらに暴発する」
「暴発させません」
氷の母は、ほとんど間を置かずに答えた。
「今回の交渉に限り、“我々”の名のもとにデモや妨害は容認できません」
その言葉には、冷たさがあった。
穏やかな口調のまま、政治参加そのものを一時停止すると宣言している。
義弘の目が細くなる。
「高速機動隊で市民を弾圧するつもりか」
氷の母は、その表現には乗らない。
「インフラ・システムを脅かすものは、“我々”は何者も許容しません」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
弾圧とは言わない。
暴力とも言わない。
許容しない。
その曖昧な言い回しの中に、必要なものが全部入っている。
アリスは、そこで問いを変えた。
「新開市が、アライアンスに敵対したら?」
部屋が静かになる。
SABLEも、トミーも、アザドも、その問いの重さを理解していた。
氷の母は、やはり声を荒げない。
「“我々”は中立です」
彼女は言う。
「何者にも敵対しません」
そこで一拍置く。
その一拍の間に、背後の空気がわずかに動いた。
CRADLE LESSON。
見えないのに、はっきり分かる。
不可視の人間たちが、ほんのわずかに身じろぎしただけで、部屋の緊張は刃物みたいに張り詰める。
「ですが」
氷の母の声は変わらない。
「万が一、“我々”の存立理由であるインフラ・システムに挑戦しようというのであれば」
その先を、彼女は長く説明しなかった。
説明は不要なのだろう。
不可視の気配が、言葉の代わりに告げていた。
“人間を守るのは人間だけ”。
揺り篭の日の教訓。
それを最悪の形で具現化したのが、CRADLE LESSONだ。
アライアンスが本気で“人間による判決”を下す時、あれが動く。
SABLE は背筋を伸ばしたまま微動だにしない。
トミーは耳をわずかに伏せた。
アザドでさえ、表情を崩さない代わりに、その目の奥が一段暗くなった。
アリスは、白いシーツの上で指先を握った。
足の痛みはまだある。
でも今はそれより、目の前の論理の方が痛かった。
この人は、完全に間違っているわけではない。
そこが最悪だ。
新開市は実際に暴発した。
怪物も出た。
多くの人が危険に晒された。
あれを見てなお、“任せてください”とだけ言っても、説得力が足りない。
だからこそ奪われる。
話は、そこで完全に平行線になった。
義弘は自治を信じてほしいと言う。
氷の母は、信じる信じないではなく責任の問題だと返す。
アリスは、新開市の代表をアライアンスが名乗るのは違うと言う。
氷の母は、違うかどうかではなく必要かどうかだと返す。
そのやり取りが何巡かしたあと、氷の母はついに小さく息をついた。
「本日はここまでにしましょう」
口調は最後まで上品だった。
「これ以上、同じ言葉を重ねても進展はないでしょう」
彼女はアリスへ視線を向ける。
「あなたは現在、アライアンス施設に入院しています。ですが、私の権限でいつでも退院は可能です」
その言い方も、やはり厄介だった。
“自由にしていい”と言いながら、自由にしているのは結局そちらだと分かる言い回しだ。
「どうされますか」
問いはアリスへ向けられている。
だが同時に、義弘たち全員へ向けられてもいた。
義弘は少しだけアリスの方を見る。
言葉にしなくても、だいたい何を考えているかは分かった。
ここでこの場で、アリスの退院だ、拘束だ、自治だと全部を一気に争っても仕方がない。
足はまだ治っていない。
アライアンスは本気だ。
いったん表向き従って、外で次の手を打つしかない。
アリスも、それは分かっていた。
腹は立つ。
嫌だ。
ここに従う形を取るのは屈辱に近い。
それでも、今この場で折れた足を引きずって意地だけを通しても、新開市の方が先に置いていかれる。
「……しばらくは、入院する」
アリスが言う。
口の中に苦いものが広がるような言い方だった。
「足が治るまでは」
氷の母は、それに対して勝ち誇るような顔はしなかった。
ただ静かに頷くだけだ。
その無表情さが、逆に余計に腹立たしい。
「賢明です」
それだけ言って、彼女は会話を終えた。
*
部屋を出たあと、アリスは廊下の白さに少しだけ目を細めた。
話の後味が悪すぎて、空気まで薄く感じる。
義弘がすぐ隣へ来る。
「悪い」
最初にそう言った。
アリスは首を振る。
「義弘のせいじゃない」
「それでもだ」
彼は短く息を吐く。
本当に疲れている。
街の火消しをして、その上で氷の母とやり合って、さらに今も全部を抱えている顔だった。
トミーが言う。
「ま、正面から殴って通る相手じゃねぇな」
「殴る前提で言うな」
アリスが返すと、トミーは肩をすくめた。
「心情の話だよ」
SABLE は、少しだけ考えるような顔をしていた。
氷の母の言葉、CRADLE LESSONの身じろぎ、アライアンスの本気、その全部を静かに飲み込んでいる。
「どうするの」
SABLE が聞く。
アリスは、そこで一度だけ立ち止まった。
どうするか。
その答えは、もう氷の母の部屋を出る前から決まり始めていた。
新開市民の暴走は、義弘たちに任せるしかない。
怪物が出た後の火消しも、アライアンスの圧への対処も、今の自分の足では直接は無理だ。
では自分の役割は何か。
新開市民の意思を、一丸にすることだ。
ばらばらに叫んでいる自治。
アリスを担ぐ声と、アリスに頼るなという声。
企業を入れろという声と、企業を排除しろという声。
日本国を拒む声と、利用したい声。
その全部を、最低限“新開市として何を言うか”へまとめる。
氷の母が奪おうとしているのは、まさにその“自分たちで代表を選ぶ権利”なのだから。
「代表候補たちと」
アリスが言う。
「物申したい新開市民に、連絡を取る」
義弘が眉を上げる。
「ここからか?」
「ここから」
アリスは、さっきまでの疲れた顔のまま、それでも少しだけ目つきを変えた。
「新開市の意思がばらばらなままだと、氷の母の理屈が通る」
それは認めたくない事実だが、事実だった。
「だから、束ねる」
トミーが耳をぴくりと動かす。
「誰使う」
アリスは、そこで露骨に嫌そうな顔をした。
その顔の意味を理解したのか、SABLE の目が少しだけ細くなる。
義弘も「まさか」と言いたげな顔をする。
「……祝部マコト」
言った本人がいちばん嫌そうだった。
トミーが吹き出す。
「うわ、嫌そう」
「嫌だよ」
アリスは即答した。
「でも、いま新開市で広く声を拾って広く流せる導線を持ってるの、あいつだ」
軽薄だ。
信用しきれない。
配信映えを優先する。
でも、街中へ最速で声を走らせる力を持っている。
それが今は必要だった。
「祝部経由で、集める」
アリスはもう一度言う。
「代表候補も、市民団体も、文句あるやつも全部」
SABLE が、その言葉に小さく頷いた。
「いいと思う」
義弘は、少し考えてから言う。
「……危ない橋だぞ」
「知ってる」
「祝部は信用するな」
「分かってる」
そのやり取りが、少しだけいつもの調子に近かった。
だが今は、いつもと違う。
背後にはアライアンスの白い壁があり、見えないCRADLE LESSONがいて、高速機動隊は新開市へ展開している。
その中でアリスは、折れた足のまま、自分の次の役割を選び直したのだ。
戦うことではない。
まずは、ばらばらの声を集めること。
新開市がまだ自分で何かを決められるのだと、形にすること。
アリスはそこで、廊下の壁際に備え付けられていた最低限の連絡用端末へ視線を向けた。
あからさまに制限された回線。
自由には使わせないという顔をしている。
だが、祝部一人へ連絡を入れるくらいなら、たぶん足りる。
「まず、あいつに話をつける」
そう言って、アリスはゆっくり息を吐いた。
怪物を止めた次は、街の意思をまとめる。
新開市という街は、休ませる気が本当にない。
それでも、やるしかなかった。




