第339話 白い部屋の外で
目を覚ました時、アリスはまず、自分がどこにいるのかより先に、何がないのかを探した。
白い。
部屋が、やけに白かった。
壁も、天井も、ベッドの縁も、窓の薄い枠も、全部が穏やかな白に染まっている。
病院らしいといえば病院らしい。
だが新開市で見慣れた雑な療養施設の白ではない。
汚れを消したい白ではなく、最初から“余計なものを置かないため”の白だ。
静かでもあった。
機械音がしない。
モニタの電子音もない。
壁の向こうに人の気配はあるのに、その気配すら、意識して削り取られているみたいに薄い。
アリスは、半身を起こそうとしてすぐに顔をしかめた。
右足の奥が、ずきりと脈打つ。
折れた場所がまだはっきりそこにある。
それでも彼女は、痛みより先に視線を動かした。
ベッド脇。
何もない。
窓の下。
何もない。
点滴スタンドのようなものも、簡易端末も、医療用の補助パネルも、監視モニタもない。
壁際の収納はあるが、開口部に見えるところには接続端子一つ出ていない。
自分が使えそうな電子機器が、まるで最初から存在しないように消されている。
「……最悪」
目覚めて最初の言葉がそれだった。
拘束具はない。
鍵のかかった鎖も、ベッドへ身体を固定する帯もない。
なのに、この部屋には別種の拘束が満ちている。
接続のない空間。
何かへ潜れない空間。
アリスにとって、それは手枷足枷よりよほど直接的な“閉じ込め”だった。
そこで、静かに病室の扉が開いた。
音がほとんどしない。
まるで向こう側の空気だけが一度薄く裂けて、その裂け目を通って扉が開いたような、奇妙に滑らかな動きだった。
誰かがいる。
見えない。
だがいる。
立っている位置の空気の密度だけが違う。
その“不可視の誰か”に案内されるようにして、三つの人影が部屋へ入ってきた。
SABLE。
トミー。
そして、アザド。
アリスは一瞬だけ目を細めた。
どういう取り合わせだ、それは、と言いたかったが、その前にトミーが鼻を鳴らした。
「起きたか、やんちゃ娘」
「誰が」
アリスは反射で返す。
声が出る。
喉は大丈夫らしい。
頭の奥にはまだ鈍い違和感が残っているが、前みたいな激しいノイズはひとまず引いている。
SABLE が、ベッドの近くまで来た。
表情はいつもと大きくは変わらない。
だが、近くで見ると少しだけ言葉を選んでいる顔だった。
「ここは、アライアンスの療養施設」
アリスはすぐに聞き返す。
「拘束?」
「違う」
SABLE は首を振った。
「拘束じゃない」
「そう見えないけど」
アリスはわざと壁の何もなさを見回す。
「端末一個ない部屋に放り込んでおいて?」
「……暴走したNECROテックの修理」
SABLE は、少しだけ言い直すみたいにして続けた。
「CRADLE LESSON が、入院させた」
その言い方が、絶妙に嫌だった。
逮捕でもない。
監禁でもない。
入院。
療養。
保護。
そういう名前で、自由を剥ぎ取ってくるのがアライアンスだ。
アリスは眉を寄せる。
「勝手に?」
「勝手に」
トミーが代わりに答える。
しかも妙にあっさりと。
「お前のNECROテック、だいぶ無茶したらしいぞ。病院の端末まで束ねてシュヴァロフ掴みにいったんだからな。あれでそのまま焼き切れてても文句言えねぇ」
「……焼き切れてない」
「焼き切れなかっただけだ」
トミーは言い方が容赦ない。
だが、そこに変な甘やかしがない分だけ、アリスにはまだ聞きやすかった。
アザドは、少し離れた位置でそれを聞いていた。
彼は相変わらず、整った身なりで、顔色一つ変えずに立っている。
だが今日ばかりは、その無表情の薄皮の下に深刻さが見えた。
アリスは、まずそこを飛ばして聞いた。
「デモは」
短く。
だが一番最初に聞くべきことだった。
トミーが答える。
「デモとリヴァイアサンの混乱は、アライアンスが収束させた」
その言葉の中に、良かったな、も、すごかったぞ、もない。
ただ事実だけが置かれる。
アリスは一拍だけ黙った。
リヴァイアサン。
シュヴァロフ越しに見た巨体の崩壊。
その後の記憶は白く飛んでいる。
「じゃあ」
アリスは、次の問いをほとんど反射で口にした。
「日本国と新開市の仲介に、アライアンスが乗り出してくれるのか」
その発想は、理屈だけなら自然だった。
怪物災害を収めた。
街の暴走を止めた。
なら中立の顔として前へ出て、交渉の場くらい整えてくれるのではないか。
だがアザドは、その問いに対してすぐに頷かなかった。
むしろ、少しだけ深く息を吸った。
深刻な話を始める前の、あの短い沈黙だ。
「そのことだが」
彼は言う。
「アライアンスは、君たちが選定する代表を無視して、自分たちが新開市の代表として日本国と交渉すると宣言した」
病室の白が、一瞬だけ冷たさを増したように感じた。
アリスは、言葉の意味を一つずつ噛みしめるしかなかった。
無視。
自分たちが。
新開市の代表として。
「……は?」
出た声は、怒りというより理解拒否に近かった。
「待って」
アリスは上体を少し起こす。
足の痛みが走るが、それどころではない。
「代表公募も、市民代表も、企業群も、全部飛ばして?」
「飛ばした」
トミーが言う。
妙に乾いた声音だった。
「“氷の母”が、母親みたいに怒ってる」
その雑な表現が、妙に正確だった。
氷の母。
アライアンスの中枢。
“我々”の一部であり、微笑のまま許さない側の意志。
彼女から見れば、今回の巨大デモも、武装市民の氾濫も、リヴァイアサンの出現も、全部が「好きにやらせた結果」だろう。
街に自分たちで代表を選ばせる。
自治を尊重する。
そうやって猶予を与えた結果、市民は危機に晒され、怪物まで出た。
ならもう任せられない。
そう判断するのは、理屈としては通ってしまう。
SABLE が静かに続ける。
「義弘が、まだ説得してる」
アリスが顔を上げる。
「何を」
「新開市の自治を、まだ信じてほしいって」
短く。
だがその一言の中に、義弘がどれだけ食い下がっているかが分かった。
「でも」
SABLE は少しだけ間を置く。
「高速機動隊が、新開市全体に展開してる」
つまりアライアンスは、もう言葉だけで済ませるつもりがない。
街全体を“保護”の名で管理下へ置く準備をしている。
見張る。
塞ぐ。
列を壊す。
必要なら判決を下す。
そのための高速機動隊だ。
アリスは、ベッドの白いシーツを握った。
強く握るほど、そこには何も返ってこない。
冷たくて、平らで、病室らしい感触しかない。
「本気ってことか」
「本気」
SABLE は頷いた。
アザドが、ここで口を開いた。
「オールドユニオンとしても、アライアンスが前面に出てくることは懸念している」
その声音には、単なる建前ではない焦りがあった。
当然だろう。
オールドユニオンは新開市へ、アリスを大使に立て、NECROテック医療法人とも線をつなぎ、時間をかけて食い込んできた。
その全部を、アライアンスが“もうお前たちには任せられない”の一言で上から回収しにくる。
面白いはずがない。
「オールドユニオンでも、アライアンスには自重を求めている」
「自重」
アリスが、疲れたように繰り返す。
相手がアライアンスでなければ、少し笑っていたかもしれない。
自重。
あの連中が一度“判決”へ入った後で、自重する可能性がどれほどあるのか。
トミーも同じことを思ったのだろう。
鼻を鳴らすだけで、何も言わなかった。
アザドは、それでも言葉を続ける。
「だが、外からの牽制だけでは足りないかもしれない」
そこで初めて、彼はアリスを正面から見た。
「君の側からも、氷の母を宥められないか」
アリスは、その言葉にしばらく反応できなかった。
また、それか。
と胸の奥で何かが沈む。
怪物災害のあと。
病室。
電子機器のない白い部屋。
アライアンスに半ば“保護”されている立場。
足も折れている。
それでも結局、またアリスへ回ってくる。
宥めろ。
仲介しろ。
前へ出ろ。
お前ならできるだろう。
その期待の重さに、アリスは一瞬、心底うんざりした顔をした。
SABLE がそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
トミーは、たぶん口を開けば何かきついことを言うと思ったのか、珍しく黙っていた。
「……私が?」
アリスがようやく言う。
喉が少し乾いていた。
「そうだ」
アザドは答える。
迷いはない。
「君はアライアンスにとって危険で、同時に、まだ切り捨てきれない存在でもある」
「ひどい言い方だな」
トミーが小さく言う。
「事実だ」
アザドは平然としている。
「そして君は、オールドユニオンの大使でもある。アライアンスが新開市の代表を代行すると言い出した以上、君が何も言わなければ、君たちが守ろうとしてきた“新開市が自分で代表を選ぶ権利”そのものが消える」
その言葉は、冷たく正しかった。
アリスは、視線を落とした。
白いシーツ。
固定された足。
何も置かれていないベッド脇。
自分が動けない場所で、自分が守ろうとしたものだけが勝手に奪われていく感覚。
悔しい、という感情がまずある。
その次に来るのは、疲労だった。
もう嫌だ、と言いたくなるくらいの疲労。
だが、それでも。
義弘が説得している。
高速機動隊が街へ出ている。
オールドユニオンも焦っている。
そして氷の母は、本気で怒っている。
この盤面で、もしアリスが何も言わなければ、アライアンスはそのまま“新開市の代表”を名乗るだろう。
中立の顔。
保護の顔。
だがそれは、自治の剥奪でもある。
アリスはゆっくりと息を吐いた。
痛みはまだある。
頭の奥も、完全に澄んではいない。
それでも、考えることはやめられない。
「……氷の母、今ここにいるのか」
問いは短かった。
だがそれだけで、部屋の空気が少し変わる。
SABLE が、ほんの少しだけ目を見開いた。
トミーは目を細める。
アザドは何も言わないまま、しかしその沈黙そのものが答えに近かった。
見えない位置で、病室の空気がわずかに揺れる。
不可視の案内役。
CRADLE LESSON の気配。
アライアンスは、最初からアリスの返答を待っているのかもしれない。
アリスは、それを感じ取りながら、もう一度深く息を吸った。
白い病室の外で、街はまだ決着していない。
怪物は砕かれた。
だが、その後に来る“静かな支配”の方が、たぶんずっと長く、ずっと厄介だ。
だからアリスは、ベッドの上でゆっくりと顔を上げた。
嫌だ。
面倒だ。
やりたくない。
その全部を抱えたままで、それでも前へ出るしかないと分かってしまう、その瞬間の顔で。




