第337話 怪物の席
最初に、それが“出てきた”と分かったのは音だった。
巨大デモの叫びは、すでに街の音として馴染み始めていた。
自治。
代表。
日本国は出ていけ。
アリスを前へ。
アリスをこれ以上使うな。
互いに食い違う声が、しかしどれも本気の熱を持って高架とビルの壁へぶつかり、跳ね返り、混ざり合っている。
その上でなお、別の低音が聞こえた。
地面の底を擦るような、重く、嫌な振動。
大型車両のエンジンとも違う。
建設重機の稼働音に近いが、それよりもっと不規則で、もっと“生き物じみた”躊躇いがある。
まるで巨大な何かが、まだ完全に目を覚ましていないまま、無理やり立ち上がろうとしているような音だった。
義弘は列の横腹を見ながら、その音に最初に顔を上げた一人だった。
「……何だ」
呟いた次の瞬間、視界の先、使われなくなった搬送路脇の倉庫外壁が内側から押し膨らんだ。
古びたシャッターがねじれ、鉄骨の接合部が悲鳴を上げ、次いでそれが一気に破断する。
壁を突き破って現れたものを見て、巨大デモの一角が息を呑んだ。
リヴァイアサン。
三機の大型ドローンを無理やり一つの異形へ束ねたような、巨大な塊。
左右非対称の肩。
本来なら別個の機体であるはずの装甲が、不格好に継ぎ合わされて胸部を構成している。
前脚とも後脚ともつかない支持構造が地面を踏みしめ、その一歩だけでアスファルトが沈み、ひびが走る。
頭部に当たる箇所は、企業群が“怪獣らしさ”を演出するために付けたとしか思えない冗談のようなシルエットをしていたが、その悪趣味さがむしろ恐怖を増していた。
未完成だ。
装甲の隙間から中身の導管が見える。
接続部にはむき出しの補助配線が残り、左側面の外装は固定が甘いのか、動くたびに不気味に揺れる。
だが、そんなことは些細だった。
大きい。
それだけで、十分に人を黙らせる。
巨大デモの列が、一瞬だけ止まった。
野次馬も、配信者も、支援団体の護衛用ドローンも、全部がその異形へ意識を奪われる。
ワンダーランドの一部は歓声に近いものを漏らしかけ、治安機関は逆に息を詰め、日本国のサムライ・ヒーローたちは一斉に視線の角度を変えた。
そして、その静止の中心へ、雫の声が落ちた。
『止まりなさい』
拡声器。
回線。
おそらく乗っ取られた複数の街頭端末。
どこからともなく声が重なって響く。
『これ以上進めば危険です。列を止めてください』
声は若い。
だが整えてある。
激情ではなく、“いまこの場を管理する者”の調子へ無理やり寄せている。
『私がこの場を収めます』
巨大な怪物の前で、その声だけが妙に澄んでいた。
それは、ほんの一瞬だけ、本当に通じた。
列の前方が止まりかける。
押し合っていた人波が、怪物の出現に圧されるように一歩下がる。
「何だあれ」「止まれって?」「誰だ?」というざわめきが走り、暴走寸前だった熱が、一拍だけ別の方向へ凍る。
雫が欲しかったのは、まさにこの瞬間だった。
アリスではもう守れない。
義弘でも、真鍋でも、市民団体でも抑えきれない。
その場へ、自分が怪物ごと秩序を持って現れ、列を従わせる。
“新しいゴースト”として。
“止める側”として。
だがリヴァイアサンは、雫の思惑にちょうどいいだけ従ってはくれなかった。
巨体が一歩踏み出す。
その一歩で止まるはずだった。
威圧のための一歩。
前へ出すぎた列へ境界を示す一歩。
なのにリヴァイアサンは、そこで微妙に重心を外した。
右脚側の補助ユニットが、想定とは違う角度で地を掻く。
未固定の側面装甲が揺れ、その振動が内部の接続系へ悪いノイズを送ったのか、センサー群が一瞬だけ明滅する。
雫の声が僅かに変わる。
『……そこで止まりなさい』
今度は、さっきより少し速い。
焦りの色がほんの少しだけ混じる。
リヴァイアサンは止まらない。
進む。
止めるために前へ出たのか、押し潰すために前へ出たのか判別できない、鈍くて重い動きで。
義弘は、その一拍の異常で全部を理解した。
「雫の制御が甘い」
いや、甘いどころではない。
そもそもこの怪物は、制御しきれる前提で組まれていない。
企業群のマッチポンプ用。
見せ物。
“最後に派手に出てきて派手に倒される怪獣”。
そんな設計思想のものが、今、実戦の市街地へ、しかも巨大デモの至近に出てきてしまった。
「怪物災害だ」
義弘が低く言う。
政治でも、交渉でもない。
もう怪物災害だ。
その認識を最初に共有したのは KUSANAGI だった。
「手を貸す」
白い装甲が地を蹴る。
義弘も、それに応じて前へ出た。
二人は、ほとんど言葉を交わさずに噛み合った。
義弘が真正面から行く。
怪物の視線と重心を引き受ける側。
KUSANAGI は半歩外から入り、義弘が避けきれない危険部位と、群衆へ飛ぶ副次被害を切る側。
リヴァイアサンの前脚に相当する支持構造が振り下ろされる。
義弘は刃を合わせるのではなく、踏み込みの角度を変えて、その衝突の向きを横へ流した。
コンクリート片が飛ぶ。
その飛散を、KUSANAGI が最小の抜刀で断ち、後方の人波へ届く軌道を潰す。
続けざま、リヴァイアサンの胸部側面から露出した補助アームが唸りを上げる。
義弘がその死角へ潜り込み、接続部を狙って一閃を入れる。
金属音。
火花。
しかし接続部は完全には割れない。
硬い。
未完成なら脆いはずという予想を、平然と裏切る。
「……っ」
義弘の口元が僅かに硬くなる。
そこへ KUSANAGI がもう一手。
下から跳ね上がるように切り上げ、左脚側の駆動導管を狙う。
角度は完璧だった。
だがリヴァイアサンは、その程度で止まらない。
びくともしないわけではない。
わずかに進路がズレる。
だがそれだけだ。
次の瞬間には、その巨体がまるでそこに二人などいなかったかのように、別方向へふらりと向きを変える。
ふらりと。
それが一番嫌だった。
理知的な攻撃ではない。
だから余計に読みにくい。
しかも進路の先には、人がいる。
看板がある。
高架の柱がある。
何にぶつかってもまずい。
KAGUTSUCHI 率いる日本国のサムライ・ヒーローたちも、そこへ遅れて噛んだ。
白い装甲群が、いっせいに巨体へ打撃と牽制を浴びせる。
連携は洗練されている。
通常の大型ドローン相手なら、それだけでかなりの拘束力になる。
だがリヴァイアサンは違った。
未完成。
不安定。
雫の制御も怪しい。
それでもなお、十二分に強い。
装甲が歪む気配はない。
関節を狙われても止まらない。
強いて言えば、わずかに歩幅が変わるだけ。
ほんの半歩だけ向きがズレる程度だ。
それが逆に最悪だった。
制御された兵器なら、攻撃の意味が読める。
だがこれは、止まらないうえに、どこへ行くかが曖昧だ。
ふらふらと新開市の街路を削り、外壁を擦り、高架下の危険な密度へ寄ろうとする。
真鍋はその時点で、戦闘指揮より避難指揮へ完全に頭を切り替えていた。
「撃破より避難導線維持!」
回線へ怒鳴る。
治安機関がその声で一気に流れを変える。
「高架下を空けろ! 止めるな、流せ! 救護通路を死守!」
舞原も、ワンダーランド側の連中へ声を飛ばす。
「見てるな! 逃がせ! 今は自治でも反自治でもない、人を潰すな!」
SABLE は、最前の群衆へ向けて冷たいほど実務的な言葉を叩き込んだ。
「押さない」
「走らない」
「前だけ見て流れる」
「振り返らない」
その声は不思議と通る。
歌う時とも煽る時とも違う、ただ人を生かすためだけの声だった。
配信者たちは一瞬“怪物映え”に食いつきかけたが、祝部マコトですら、いまはもう自分の画角より足元の人波を気にせざるを得ない。
鉄川ジンのような武装自警寄りの男たちも、対立より先に人をどかす側へ回る。
それでも、足りない。
列が大きすぎる。
感情が多すぎる。
怪物も、混線する改造ドローン群も、全部がまだ動いている。
*
病室のアリスは、それを見ていた。
いや、見ているとしか言えない自分に、歯を食いしばっていた。
端末越しの映像。
義弘の呼吸。
KUSANAGI の視界ログの断片。
真鍋の怒鳴り声。
SABLE の避難指示。
舞原の罵声。
全部が断片だ。
それでも、リヴァイアサンが止まっていないことだけは分かる。
「……足りない」
アリスが呟く。
その声に、トミーがすぐ反応した。
「何が」
「全部」
シュヴァロフたちはもう呼んでいる。
だが病室の端末からでは、精密な制御が足りない。
距離。
回線。
演算。
それに何より、自分の頭の“つながり方”が足りない。
昔なら、もっと深く入れた。
もっと速く掴めた。
今はそこまで届かない。
アリスはベッドの縁を強く握った。
右足の痛みがまだ鋭い。
それでもさっきの“現場へ行く”衝動とは、もう少し違う方向で焦りが燃えていた。
「病院の端末……」
その一言で、SABLE が顔を上げる。
「何」
「監視系と医療系、ここの回線まだ分かれてる」
アリスの頭が、急速に別の方向へ回り始める。
病室のモニタ。
医療端末。
院内通信。
監視カメラ網。
全部ふつうは絶対に混ぜない。
混ぜるべきではない。
だが一時的に束ねれば、自分の端末の演算と通信を外付けで底上げできる。
仮設の外部脳。
「やめろ」
義弘が、今回は回線越しにではなく病室へ向けて本気の声を出した。
気づいたのだ。
アリスがまた別の危ない方向へ踏み出したことに。
「それは本当に危ない」
トミーも珍しく冗談を挟まない。
「医療設備まで巻き込んだら洒落にならねぇ」
SABLE も、すぐに首を振る。
「それをやったら戻れなくなるかもしれない」
“戻れない”。
その言葉の意味は一つではない。
病院機器を壊すかもしれない。
アリス自身の神経に負荷がかかるかもしれない。
そして何より、アライアンスが封じた“都市危機要因”の線を、自分でまたこじ開けることになるかもしれない。
だがアリスは止まらない。
「行かない形でやるって言った」
低い声だった。
「シュヴァロフだけでも掴む。止めるんじゃない。噛みつかせるだけでいい」
それはもう、自分にも言い聞かせている言葉だった。
自分が現場へ行くわけではない。
あくまで端末を強化するだけ。
シュヴァロフを一時的に制御下へ戻すだけ。
だが、その“だけ”がどれほど危険かは、本人が一番よく分かっている。
アリスは病院の端末へ手を伸ばした。
医療モニタの下層設定。
監視系回線。
院内通信補助。
普段なら触ることすら許されない階層へ、無理やり指を差し込む。
その瞬間、端末画面が一度黒くなり、次いで複数のウィンドウが開いた。
院内の別系統が検知され、束ねられ始める。
アリスの視界が少し揺れる。
神経の奥へ嫌な熱が走る。
「アリス」
SABLE が名前を呼ぶ。
止めるためではなく、もう最後の確認に近い声だった。
「警告が来る」
「知ってる」
アリスは手を止めない。
来た。
端末の全画面を、アライアンス由来の無機質な警告表示が覆う。
音声も割り込む。
冷たく、平板で、容赦がない。
『接続を中止せよ』
その一行だけで、室内の空気がさらに冷える。
『都市危機要因の再発兆候を検知』
『その行為は保護条件に抵触する』
『これ以上の能力使用は許容できない』
アライアンスは見ていた。
当然だ。
アリスが“ゴースト”へ戻りかける、その線自体を監視している。
アリスの手が、一瞬だけ止まる。
前に受け入れた条件。
NECROテックの能力封印。
新開市へ戻る代わりに、自分は“ゴースト”であることをやめる。
アライアンスと敵対する意味。
それを全部、アリスは知っている。
だから、その警告は本当に重かった。
だが外では、リヴァイアサンがまだ街を踏み荒らしている。
義弘とKUSANAGIが噛みついても、止まらない。
真鍋たちは人を逃がすので限界。
SABLE の声も、いまは怪物そのものには届かない。
アリスは、警告画面を見たまま、静かに言った。
「警告は後で聞く」
誰に聞かせるでもなく。
たぶん、自分自身に。
そのまま接続を続行した。
医療モニタのランプが不安定に明滅する。
監視系の回線が束ねられ、院内通信補助がアリスの端末へ負荷ごと流れ込む。
視界の端が白く焼ける。
頭の奥に、久しぶりの“広がる感覚”が走る。
都市全体ではない。
昔のような万能の視界でもない。
だが、それでも――一本、線が伸びる。
遠く。
デモの横腹。
裂けかけた救護通路の先。
街路灯の影をかすめるように、黒い機体が振り向く。
シュヴァロフ。
アリスの喉が、わずかに震えた。
「シュヴァロフ」
呼ぶ。
今度は、はっきりと届いた感触があった。
「聞こえるなら、来て」
黒い機体のセンサーが一点だけ光る。
深い黒のまま、しかし確かに反応した。
「人を踏ませるな」
その命令は、以前ほど完璧な支配ではない。
無理やり掴んだ、か細い制御線だ。
それでも、つながった。
病室の中で、アリスの瞳に一瞬だけ、久しぶりの“ゴースト”の光が戻る。
その光を、SABLE も、義弘も、トミーも見た。
そして端末の向こう、街のどこかで、シュヴァロフが静かに一歩を踏み出した。




