第336話 空席の怪物
新開市の巨大デモは、もう「デモ」と呼ぶのが不正確なところまで来ていた。
最初にワンダーランドが主導した列には、まだ主張の芯があった。
日本国は新開市に過度な干渉をするな。
代表公募の場を外から歪めるな。
新開市の自治を尊重しろ。
それは少なくとも、ひとつの政治的な要求ではあった。
だが、新開市という街は、要求が要求のまままっすぐ進むようには出来ていない。
途中で必ず別の怒りが混ざる。
別の正しさが乗る。
別の“ついでに言いたかったこと”が列の中ほどで勝手に膨らむ。
そして、列は太くなるほど主導者のものではなくなっていく。
昼を過ぎる頃には、中心部を埋める人波は、もはやワンダーランドのものでも、どこか特定の市民団体のものでもなかった。
「新開市に真の自治を!」
と前方で誰かが叫ぶ。
するとその少し後ろでは、
「日本国は出ていけ!」
と声が上がる。
さらに別の一角からは、
「日本国以外の外国も出ていけ!」
という、今度はワンダーランドやオールドユニオンの線とも食い違う声が飛ぶ。
それでも列は壊れない。
壊れないどころか、むしろその矛盾ごと巨大化していく。
「日本国は新開市の代表を尊重しろ!」
「企業の横やりを許すな!」
「アリスを代表に!」
「もうアリス一人に背負わせるな!」
互いに噛み合わない。
けれどその場その場の熱としては、どれも本物だ。
そういう本物の欠片が無数にぶつかり合って、それでも一つの列として進んでしまう。
それが新開市の怖さだった。
しかも今回は、列の周囲に武装の気配まである。
支援団体が持ち込んだ護衛用ドローン。
“自衛”の名目で改造された民生機。
高所撮影と称して飛んでいる配信者の小型機。
そのどれもが、少し押されれば人を傷つけ、少し誤動作すれば列を裂き、少し煽られれば一気に将棋倒しを起こせる密度で、街路の上と脇を埋めていた。
真鍋は、最初にその危険を「政治」ではなく「災害」として認識した。
「このままだと暴動以前に事故が起きます」
治安機関の回線へ向かって、彼女は短く言う。
声は冷静だったが、指の動きは早い。
「高架下、南西交差点、旧搬送路合流点。全部、人の密度が危険域です。列を削れ、止めるな、流せ。救護通路を先に確保」
治安機関の人員が動く。
だがそれでも足りない。
人の数だけでなく、感情の数が多すぎるのだ。
義弘もまた、別の形で同じ結論へ達していた。
「もう会談の前段階じゃない」
彼は端末越しに、舞原、企業群の窓口、代表候補支援団体、知った顔を持つ雑多な市民団体へ、片っ端から回線を飛ばしていく。
「いま起きてるのは都市災害だ。武装を前へ出すな。改造ドローンを列の頭へ上げるな。護衛のつもりでも押し返したら終わる」
舞原にはさらに強く言った。
「ワンダーランドの名前で始まったなら、せめてワンダーランド側から“押すな、止まるな、武装を下げろ”を叫べ」
企業群の窓口にはもっと露骨だ。
「ここで市民デモが暴動化したら、お前らの代表席も吹き飛ぶぞ」
それは脅しではなかった。
ただの現実だった。
だが、現実を言われて動く連中ばかりでもない。
街の熱はもう、個々の理屈より速く動き始めていた。
*
KUSANAGI は、その熱の中を歩いていた。
日本国の許可なく独自判断で現場へ出てきた白いサムライ・ヒーローは、いまや「日本国の顔」としてではなく、巨大な列の密度と危険を読む観測者に近かった。
KAGUTSUCHI たちの一部も別導線から展開している。
だが KUSANAGI は、群衆の中へより深く入り、義弘や真鍋が何を見て、どう止めようとしているのかを見ていた。
危険箇所へ先回りする。
詰まった流れにわざと隙間をつくる。
武装した支援団体が前へ出そうとしたら、言葉より先に立ち位置で圧をかける。
刀を抜くまでもなく、白い装甲の存在だけで一拍遅れさせる。
KUSANAGI は、義弘のやり方が少しずつ分かり始めていた。
切る前に止める。
勝つより先に、場の壊れ方を読む。
それでも止まらない時に初めて抜く。
だが今日の列は、それでもなお大きすぎる。
前方で一つのスローガンが立てば、後方で別のスローガンがそれを上書きする。
ある支援団体が下がれば、別の群衆が空いた空間へ入り込む。
ドローンを下げろと叫んでも、別方向から配信機が飛んでくる。
列のどこかを冷やしても、別の箇所で熱が湧く。
「……多い」
KUSANAGI は低く呟く。
人の数ではない。
思惑の数だ。
少し離れた位置で義弘も同じような顔をしていた。
視線が交わる。
短い。
だが、それだけで互いに理解した。
これはもう、誰か一人の顔や剣で押し返せる段階ではない。
それでも、誰かが“顔”にならなければ、列はどこまでも怪物化する。
*
その頃、病室のアリスはベッドの上から街を見ていた。
正確には、街そのものではない。
義弘や真鍋、SABLE、時には舞原を通じて飛び込んでくる断片的な映像と音声の束だ。
交差点。
高架下。
列の先頭。
群衆の横腹。
救護通路。
配信者の上げる画角の悪い映像。
それらがばらばらに届く。
かつてなら、それでも足りた。
“ゴースト”だった頃のアリスは、その断片から都市全体の流れを復元し、必要な線へ即座に割り込めた。
今もその癖は残っている。
「南西、流せ」
アリスが短く言う。
義弘が別回線で応じる。
『やってる』
「旧搬送路、詰まる」
『真鍋が回してる』
「高架下、配信ドローン多い。落とせないなら高く上げろ」
SABLE が別回線から返る。
『言ってる。聞くひとは聞く』
その指示はまだ鋭い。
街の危険箇所も、列の詰まり方も、アリスはちゃんと見えている。
だが見えていることと、届くことは違う。
今のアリスには都市システムへ潜る力がない。
雫のような外部支援を受けたハッカーと正面から殴り合える装備もない。
来るのは断片。
できるのは助言。
昔のように“そこに直接手を入れて止める”ことは、もうできない。
列の映像が、また一つ乱れる。
叫び。
配信者の過剰な声。
その背後で、改造ドローンの光が見える。
「違う、そこじゃなくて……」
アリスが歯を食いしばる。
右足に走る痛みが、苛立ちに合わせて脈打つ。
端末越しに指示しても、局所的には効く。
だが全体は止まらない。
それどころか、別の場所でもっと嫌な流れが育つ。
今の自分には、それを切れない。
その現実が、じわじわと胸の奥にたまっていく。
「……もう無理だ」
誰に向けるでもなく言った。
トミーが病室の隅から顔を上げる。
「何が」
「声だけじゃ足りない」
その瞬間にはもう、アリスの頭の中では決まっていた。
シュヴァロフ。
ブージャム。
ほかの自分のドローンたち。
まだ全部が全部、遠くへ消えたわけではない。
呼べば来る。
少なくとも列の危険箇所を切り、救護通路をつくり、押し合う人波を裂くことくらいはできる。
アリスは端末を握った。
「来て」
短く、低く言う。
自分のドローンへ向けた、昔と変わらない調子だった。
「列を切って。人を潰すな。通路を作る」
回線は通る。
遅延はある。
でも届く。
それだけでは終わらなかった。
アリスはベッドの柵を掴み、自分でも驚くほど自然に身体を起こしていた。
固定された右足は重く、鈍く、存在そのものが痛い。
それでも、左足と腕を使えば立てる。
壁に手をつけば一歩は出られる。
通路を切りに行くのは自分のドローンでも、そこへ指示を飛ばすなら、やはり現場の方がいい。
「行くしかない」
自分に言い聞かせるように呟く。
床へ左足を下ろす。
固定された右足をかばいながら、ベッド脇の支柱に手を伸ばす。
そこへ、義弘が回線越しでなく、病室の扉を開けて入ってきた。
いつ戻ったのかも分からない。
たぶん、アリスの声の調子で察したのだろう。
「行くな」
第一声がそれだった。
アリスは、振り向きもせずに返す。
「止まらないなら、行くしかない」
「今のお前が行ったら終わる」
「終わらない。シュヴァロフが通路を切れる。私が現場で見れば――」
「済んでない」
義弘の声が強くなる。
足の話だとすぐに分かった。
「足一本で済んでるならまだ動ける」
アリスは言い返す。
半分は本気だ。
半分は意地だ。
どちらにしろ、止まれない時の顔をしていた。
そこへトミーが割って入る。
「英雄ごっこも大概にしろ」
ウサギの小さな身体に似合わない、容赦のない声だった。
「今のお前は、走る前に痛みで気絶しかねねぇ」
「しない」
「する」
即答だった。
「ドローン呼ぶのと、お前が突っ込むのは別だ。混ぜるな」
トミーの言っていることは正しい。
だから余計にアリスは腹が立つ。
「混ざってない!」
「混ざってる」
今度は SABLE だった。
いつの間にかベッドの反対側へ回ってきている。
声は静かだ。
でも、一番譲らない声でもある。
「行かせない」
「SABLE」
「今のアリスが前に出るのは、守ることじゃない」
SABLE はアリスの目を見る。
怒っていない。
泣いてもいない。
ただ、明確に拒絶している。
「自分を捨てるだけ」
その言葉が、アリスの胸を鋭く打った。
「捨ててない……!」
「捨ててる」
「捨ててない!」
声が上ずる。
痛みと悔しさと、何より自分が本当は分かっているからだ。
いまの自分が現場へ出れば、もう“オールドユニオンの大使”でも、“仲介役”でもない。
また全部が“アリスの戦闘”へ戻ってしまう。
しかも身体は万全どころか、まともに立つことすら怪しい。
それでも行きたいと思ってしまうのは、まだ自分がやれば止められるかもしれないという執念からだ。
その執念を、義弘も、トミーも、SABLE も、全部見抜いている。
「離せ」
アリスが言う。
義弘は前へ出て、その肩を掴んだ。
「嫌だ」
「義弘」
「嫌だ」
「っ……!」
アリスは本気で振りほどこうとする。
だが左足だけでは踏ん張れない。
バランスを崩しかけ、そこでまた右足が少し動いて、視界が白くなるほどの痛みが走った。
「……っ、ぁ……!」
そのまま崩れ落ちそうになるところを、SABLE が支え、義弘が強引にベッドへ戻した。
「やめろ!」
アリスは半ば叫ぶ。
悔しさで喉が震える。
「止まらないんだよ、下で! いま行かないと、また誰か――」
「だから俺たちがいる」
義弘が言い切る。
「お前がいなくても止めるために、俺たちがいる」
トミーが鼻を鳴らす。
「そのためにこっちはわざわざお前の代わりに胃を痛めてんだよ」
SABLE は、アリスの呼びかけに応じ始めているシュヴァロフたちの信号を確認しながら言った。
「ドローンは呼んでいい」
「でも、アリスは行かない」
その線だけは、誰も譲らなかった。
アリスはそこで、とうとう言い返せなくなった。
怒っている。
悔しい。
情けない。
なのに、足の痛みと身体の重さが、その全部へ無慈悲に現実を突きつけてくる。
端末だけを強く握りしめる。
自分はここにいるしかない。
それがどれほど腹立たしくても。
*
雫は、街の熱がもはや自分のものですらなくなっていることを、むしろ歓迎していた。
比嘉には「活動を止める」と答えた。
表向きにはもう手を引いたように見せている。
だが、最初に流した倉庫情報と、武装化の手引きと、代表公募への汚染は、すでに野生の火になって街へ広がっていた。
映えを求めるハッカー。
導線屋崩れ。
配信映像へ自分のドローンを映したがる連中。
彼らはもう雫の命令を待たない。
巨大デモの方へ勝手に合流し、勝手に混乱を増幅させている。
ちょうどいい。
誰かが火をつけた。
でもいま燃えているのは、もう街そのものだ。
そういう状態が一番いい。
誰のせいとも言い切れない。
誰も完全には止められない。
その時に、圧倒的な力だけが“秩序”の顔になれる。
倉庫の奥で、雫はリヴァイアサンの前に立っていた。
三機分の大型ドローンを束ねるための巨大フレーム。
胸部へ相当する主装甲。
左右に伸びる補助ユニット。
脚部の接続部には、まだむき出しの導管と配線が走っている。
企業群がかつて“段階的な脅威演出”のために作った、悪趣味な設計の成れの果て。
だがいま目の前にあるそれは、もう笑えないほど大きい。
雫は一つずつ確認する。
主フレーム、固定。
出力導管、接続。
三系統の制御中継、同期率上昇。
補助脚部、稼働。
センサー群、初期点灯。
外で巨大デモのざわめきが遠く響いている。
だが倉庫の中は静かだった。
静かだからこそ、低く重い起動準備音がよく聞こえる。
「アリスがいない街」
雫は小さく呟く。
「なら、私が守る形で奪えばいい」
それが彼女の本音だった。
ただ壊したいわけではない。
壊れそうな街へ、怪物ごと秩序を持ち込む。
その制御者として現れればいい。
アリスではもう守れない。
私なら守れる。
そう見せつける。
倉庫の床が、わずかに震える。
三機分の系統が一本へ束ねられ始める時の、嫌な低音だった。
雫は目を閉じずに、その通電を見た。
*
異常に最初に気づいたのは、比嘉だった。
雫が止まりすぎている。
表向き従順すぎる。
街の混乱の大きさに比べて、彼女由来の工作ログが急に薄い。
それはつまり、何もしていないのではなく、別のことへ集中しているということだ。
比嘉は、その違和感を無視できなかった。
端末で雫側の線をなぞろうとした時、現場から別の報告が入る。
KAGUTSUCHI も、KUSANAGI も、義弘も、同じものを感じ始めていた。
巨大デモの騒音とは違う、もっと重い振動。
地面の下腹から伝わるような低い機動音。
街のどこかで、列や群衆とは別の“大きいもの”が起き始めている。
真鍋は治安機関へ命じる。
「大規模機動音源の位置、洗って」
義弘は、列の制御を続けながら顔を上げた。
「何か別の線が動いてる」
KUSANAGI は、白い装甲の下でその振動を拾う。
刀の鞘がごくわずかに鳴る。
巨大な質量が、どこかで立ち上がろうとしている時の音だと、本能的に分かった。
病室のアリスも、シュヴァロフたちから返ってくるフィードバックの中に、群衆の熱やドローンの混線とは質の違う、鈍い重さを感じ取った。
「……何かいる」
その一言で、病室の空気が変わる。
義弘が端末の向こうで視線を上げる。
SABLE も、トミーも、同時に黙った。
*
倉庫の奥で、リヴァイアサンの胸部にあたる装甲が、ゆっくりと閉じた。
金属が噛み合う。
ロック音。
次いで、主センサーが一つ、また一つと点灯する。
暗がりの中で、それは眠っていた獣の目が順番に開いていくようだった。
三機分の出力が、一本の系へ束ねられる。
補助脚部が自重に耐える。
巨大なフレームが、初めて“立とうとするもの”の輪郭を持つ。
倉庫の床全体が、低く震えた。
雫はその前に立ち、ゆっくりと息を吐く。
「今度は」
誰に聞かせるでもなく、静かに言う。
「私が止める側に立つ」
外では、新開市そのものが一つの怪物のような列になって街を埋めている。
その陰で、もう一つの怪物が目を覚ます。
アリスがいない空席を、誰が埋めるのか。
その問いに、雫は最悪の答えを持ち出そうとしていた。
リヴァイアサンの内部で、さらに重い起動音が響いた。
それは、街のざわめきすら一瞬だけ遠ざけるような、深く鈍い音だった。




