469.憎しみは雪のように
かつて、その名を聞けば泣く赤ん坊すら恐怖で声を潜め、不渡りを出した悪徳商人は泡を吹いて卒倒したという――。商業ギルドの頂点に君臨し、裏社会からも一目置かれていた伝説の男、バルドル。
しかし、運命の悪戯か、あるいは不条理な時代の波に流されたか。現在の彼は、紆余曲折を経て『グルメ・ギルド』のマスターという、どこか美味な響きのする肩書に収まっていた。
そんな彼がこの日、どこにいたかといえば――地下街の一角、格式高いギルド本部ではない。埃っぽい製材所の片隅を借り、額に汗を浮かべながら、泥臭い作業に没頭していたのである。
「チッ……なぜこの私が、こんな真似を……」
カン、カン、カンと、静かな製材所に小気味よい金属音が響き渡る。
バルドルが握りしめているのは、かつて何千、何万もの契約書にサインしてきたペンではなく、一本の無骨な金槌だった。彼がプライドを一時棚に上げ、慣れない大工仕事にまで駆り出されている理由。それは、目の前で形になりつつある、真新しい『屋台』の製作のためであった。
このロートシュタイン領には、領主が推進する特有の『独立支援制度』というものが存在する。
今作っている屋台は、困窮から逃れ、隣の共和国から命からがら流れてきた若い夫婦に貸し出される予定のものだ。彼らはこの領地で、小さな飴細工の店を開く夢を抱いている。
本来であれば、こんな作業は専門の職人に丸投げすれば済む話だった。
しかし、現在のロートシュタイン領は、未曾有の『建設バブル』の真っただ中にある。
押し寄せる貴族たちの豪華絢爛な別邸の建設ラッシュに加え、領内に新設されるという巨大な学校の校舎建築。
腕の良い大工から見習いに至るまで、全人員がそちらの本事業にかかりっきりであり、一介の飴細工屋の屋台にかまっている余裕など一秒すらなかったのだ。
結果、「は? え? え? お、俺に、やれと?」と、バルドルが自ら腕を捲る羽目になったというわけである。
「よし……こんなもんか。ふん、我ながら結構な出来映えではないか」
金槌を置き、仕上がりを確認したバルドルは、満足げに鼻を鳴らした。
目の前にあるのは、無垢材を贅沢に組み上げられた、小さくも堅牢な造りの屋台だ。
職人のような華やかさはないが、実用性と頑丈さだけは保証できる。
この小さな一国一城が、あの明日をも知れぬ身だった若い夫婦の、新たなる生活の砦になる――。普段の冷徹な彼にはおよそ似合わない、どこかロマンチックな感慨が脳裏をよぎり、バルドルは自嘲気味に口元を緩めた。
「……一応、車輪の滑らかさも確認しておくべきか」
そう呟き、バルドルが確認のために腰を落とし、屋台の底部を覗き込もうとした、その刹那だった。
「バルドルさ〜ん」
「ぎゃあああああああああああっっ!?」
隙間、まさに屋台の真下の暗がりから、仰向けになった状態でひょっこりと顔を突き出してきたのは――この領地の最高権力者、ラルフ・ドーソン公爵その人であった。
心臓が口から飛び出るほどの衝撃に、バルドルは文字通り限界まで飛び上がった。
「ん?」
その拍子に、ラルフの視界がスローモーションになる。
バルドルが跳び上がった衝撃で、屋台の縁に置かれていた先ほどの金槌が、重力に従ってスッと落下を開始したのだ。
自由落下の軌道は、仰向けのラルフの顔面へと真っ直ぐに伸びる。
「ひいぃぃぃ?!!!」
――ドスッ!!
鈍い音がして、金槌の頭がラルフの頬をかすめ、わずか数ミリ横の地面へと突き刺さった。ラルフは目を限界まで見開き、冷や汗を流している。
しかし、本当に心臓に悪い思いをしたのは、バルドルの方だった。
「いつからそこにいたっ!? 本当に心臓が止まるかと思ったわ、この阿呆ンダラが!!」
怒髪天を突く勢いでバルドルが激怒する。青ざめた顔を怒気で真っ赤に染めながら、彼は激しく息を荒げた。どうしてこの若き領主という生き物は、こうも毎回、一般的な人類としての登場の仕方ができないのか。その空間歪曲じみた神出鬼没ぶりが、バルドルには到底理解不能だった。
「いやこれっ! 危なかったでしょーーー?! この前公式からイラストが公開されて、『ラルフがイケメン!』って評判の僕の美しき顔に傷がついたらどうする気ですかッ?!」
「……また、相変わらず、何を言っているのか、さっぱり、わからんが?」
ラルフは、コホンっ、と咳払いを一つ。仕切り直す。
「いやー、すんませんすんません。バルドルさんに、ちょっと折り入ってお願いがありましてね……」
ラルフは悪びれる様子もなく起き上がると、パンパンと手際よくローブについたおがくずや砂を払い落とした。
「やらん! 断る! 一切合切、何一つとして引き受けんぞっ!」
間髪入れずに放たれたバルドルの言葉は、まさに「なしの礫」そのもの。鉄壁の拒絶だった。
経験から学んだ絶対の真理がある。このラルフ・ドーソンという男に関わると、例外なくロクなことが起きかねないのだ。
「まあまあ、そう硬いこと言わずに。ほら、これ差し入れです。『キャプテン・ストーン』の試作品の白ワイン。冷えてますよ? どうすか?」
ラルフがローブの袖から、結露した美しいガラスボトルを取り出してみせる。
すると、
「ふんっ!」
先ほどまでの頑なな態度はどこへやら、バルドルはラルフの手からひったくるような手際でボトルを強奪した。そして、躊躇なくキュポンと小気味よい音を立てて栓を引き抜くと、そのままボトルの口を己の唇へと運び、グビグビと豪快にラッパ飲みを始めてしまった。
「あ、あの……。バルドルさん、一応それ、まだお仕事中なんじゃ……」
「ぶへぇぇぇ……ッ! 美味い! ……ふん、仕事中に酒を飲んではならんなどという法律が、このロートシュタインのどこにあるというのだ」
口元を乱暴に袖で拭いながら、バルドルは尊大に言い放った。
前世の近代的な労働基準法や常識が骨の髄まで染み付いているラルフは、「まあ、確かにそこまでの法律は作ってないけどさ……」と苦笑するしかない。
「まあ、それはそれとして、本題なんですけどね。領内の屋台店主たちに、『今度は王都で開催される大規模フェスティバルに出店してみませんか?』っていう打診をして回って欲しいんですよ」
「ふーん……。で?」
「いや、『で?』って」
「それだけか?」
「ええ、それだけです、よ?」
「……普通だな」
「え? 何がですか?」
「いや、驚くほどまっとうで、普通の仕事だなと思ってな。……なーんだ。最初からそう言えばいいものを」
「いや、聞く耳持たずに先にシャッター下ろしたのはそっちでしょうに!?」
またもや国家転覆規模の厄介事か、あるいは理不尽な難題を引き連れてやってきたに違いないと身構えていたバルドルは、拍子抜けしたように肩の力を抜いた。これならグルメ・ギルドの本来の管轄であり、彼の得意分野だ。
「しかしだな。王都での出店となると、屋台店主たちは向こうの商業ギルドが発行する臨時の鑑札を取得せねばならんぞ? あそこの手続きの煩雑さは、思い出すだけでも反吐が出るが」
元ギルドマスターらしい現実的な懸念を口にするバルドルに対し、ラルフは不敵な笑みを浮かべた。
「あ、その件ならもう解決済みです。ヴラドおじに掛け合って、その日だけは特例で鑑札なしでも営業できるように布告を出してもらいましたから」
その言葉を聞いた瞬間、バルドルの顔面が引き攣った。
毎晩のようにラルフが趣味と実益を兼ねて営む『居酒屋領主館』。そこへ、お忍び(にもなっていない頻度)で現れる一国の最高権力者――国王陛下。彼を事もあろうに「ヴラドおじ」などと親戚の近所のおじさん感覚で呼び、都合よく法律や特例を動かせるのは、この広大な王国を探しても目の前の若造くらいのものだろう。相変わらず、権力の私物化の手際が良すぎて恐ろしい。
「……まぁ、それなら文句はない。しかし、もう一つ問題がある。いくら整備された街道があるとはいえ、王都まではかなりの距離だ。屋台をすでに魔導車仕様に大改造している売れっ子の店主たちはいいが、例えば……今私が作ったような、これ」
バルドルは、完成したばかりの簡素な木製屋台へと視線を向けた。
これから商売を始める若い夫婦の将来を思い、最初の負債(融資額)をできる限り小さく抑えてやった。
その配慮の結果が、この人力で引く前提の、魔導要素が一切ない素朴な屋台である。
せっかくの晴れ舞台、あの夫婦にも参加させてやりたいという親心がバルドルの中に芽生えかけたが、現実的な移動手段の壁が立ちはだかる。
「実は、それについても抜かりはありません。というか、まさにそれをテストするために、さっき下に潜んでたんですよ。この屋台の底部に、最新型の魔導原動機をすでに取り付けておきました。ちょっと実験してみましょうか」
「……だから、お前は、下にいたのか……」
バルドルは頭痛をこらえるように額を押さえ、そのあまりの用意周到さに呆れ果てた。
「これが成功すれば、既存のどんなボロ屋台でも、ポン付け一発で魔導原動機付きの自走屋台に量産化が可能になります。しかも、コストは今までの数分の一。見ててください」
ラルフは意気揚々と、誇らしげに胸を張って説明を続けながら、屋台の底部へと再び手を突っ込んだ。
そこには、新たに取付けられたコンパクトな魔導エンジンが懸架されていた。
ラルフが不敵な笑みを浮かべ、スターター・ロープを力強く、ブオン! と引っ張る。
ぽぽぽぽぽぽ……ッ!
製材所に、どことなく可愛らしく、小気味よい駆動音が響き渡り、魔導エンジンが小刻みに振動を始めた。
その成功の音を聞いた瞬間、バルドルは、ある致命的かつ、とんでもない事実に気がついてしまった。
「……おい、それ、『ハンドル』の類が、どこにも見当たらんのだが……?」
「あ……」
ラルフの動きがピタリと止まり、間の抜けた声を漏らした。
その直後。
ドゥブオオオオオオオオオオオオオオオンッッッ!!!
可愛らしい駆動音は一瞬で狂暴な爆音へと変貌し、新型エンジンを搭載された無垢材の屋台は、猛然と前方に突進を開始した。文字通り、脱兎のごとき、いや、弾丸のごとき加速である。
まさかの、ラルフ・ドーソンの度を超えた、まさかまさかの致命的な、"間抜けさ"の結果。
ブレーキもハンドルもない、ただ直進の動力だけを宿した屋台が辿る結末は、あまりにも明白だった。
ドガシャァァァァァァァァァンッッッ!!!
製材所の壁際に、折り重なり立て掛けられていた大量の頑丈な材木。そこへ正面衝突した屋台は、耳を聾する破壊音とともに、一瞬で文字通りの「木っ端微塵」へと破砕された。
共和国の若い夫婦の未来を乗せるはずだった、小さくも堅牢な城。
その短い生涯は、花火のように儚く、そして壮絶なまでの爆散によって幕を閉じたのである。
バルドルは、あまりの光景に思考を停止させていた。
驚愕のあまり見開かれた目はみるみるうちに血走り、限界まで怒気を孕んだ絶叫を、この元凶の男に叩きつけてやろうと振り返った。
しかし。
「…………え?」
そこには、誰もいなかった。
つい先ほどまで、ドヤ顔でスターターロープを握っていたはずのラルフ・ドーソンの姿は、影も形もなく、煙のように忽然と消え去っていた。足の速さも、どうやら世界最高峰である。
静まり返った製材所に、木屑が寂しく舞い落ちる雪のように、バルドルの頭に降り積もる。
「ちょっと待てやァーーー! コラァァァァァァ!!! どこ行きやがった畜生ォォォォォーーー!!!???」
バルドルは、人生で一番の肺活量を使って、ありったけの声で叫んだ。
結論。
やはり、あのラルフ・ドーソンという男に関わると、破滅的なまでにロクなことが起きない。バルドルは血の涙を流さんばかりの怒りの中で、その絶対に動かせない真理を、人生最大級の規模で再確認する羽目になったのだった。




